道・真理・命であるイエス・キリスト ヨハネ14:1-7           主の2008.8.17礼拝



自動車運転の際に、最近はカーナビというものがあって、目的地へ行くように誘導してくれます。カーナビのない時代は、目的地までの道順を地図で確かめ、道路標識を目印にしながら車を走らせて行くというのが普通でした。35年以上前でしたが、奈良まで車で行くことになりました。まず厚木から東名高速を使って岡崎に行く、岡崎から通行料金のかからない自動車ルートを教えてもらい、夜に出発し、途中で仮眠をし、翌日早朝に目的地に到着しました。初めての道でしたが、書いてもらった地図が正確で、主要な曲がり道の所にある目印、店などが細かく記されていて、それによって迷わずに目的地に進むことができました。

本日はヨハネ14:1-7です。6節に、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父の御許に行くことはできない」というキリストの御言葉があります。私は知らない土地をドライブする時に、正確な地図によって迷わずに目的地に行くことができました。私たちに生きる力を与え、天国に至る正しい道を示すお方はキリストです。何故なら、キリストはご自分が、人間の罪の身代りになって救いの道を開くために、神様からこの世に遣わされたことを知っていました。キリストは33年半の地上生涯の終わりに、私たちの罪のために十字架で命を捧げて下さいました。しかし、キリストは十字架の死の三日後に甦って、今もそして永遠に生きておられる救主です。キリストを信じれば罪の赦しと共に永遠の命が与えられます。人生の道を正しく示して下さるキリストに従って行けば、罪の赦しを受け、天国に行く永遠の命の恵みが無条件で与えられます。クリスチャンの方々はキリストによって救いを受け、迷いのない祝福の人生を歩んでいることを感謝しましょう。

本日はRさんの洗礼式があります。「キリストを信じ、私は生まれ変わりました。キリストによって永遠の天国に入る日まで、教会につながり、全力を尽くしてキリストに従って参ります」という信仰の告白をし、新しい人生に出発する陸川さんのために祝福を祈って下さい。まだキリストを信じていない方々はキリストを信じ、洗礼を受けるという決断をされるようにお勧めをします。



内容区分

1、心を騒がせるな。神を信じ、キリストを信じなさい。14:1-4

2、キリストは、道であり、真理であり、命である。14:5-7

資料問題

1節「信じる」、本節の中に2回出る「信じる」というのはキリストの弟子達への命令の言葉である。キリストは十字架に向かって行くが、弟子達は神とキリストに信頼して、心を乱さず、別離に耐えなければならない。3節「また来て、あなたがたをわたしのところに迎えよう」、各信徒の死(Ⅱコリン5:6,8,10)を指す。またキリストの再臨(Ⅰテサロニケ4:14-17、Ⅰコリント4:5、Ⅰヨハネ2:28)を指す。6節「わたしは道であり、真理であり、命である」、キリストは『言(ことば)は肉体となって人の内に住まわれた』(ヨハネ1:14)お方である。キリストは人類を神に導く道である。キリストは真理を説き、真の命を与える救主である。7節「今は父を知っており、すでに父を見たのである」、キリストを見る者は既に父なる神を見た者である。9節を見よ。



1、心を騒がせるな。神を信じ、キリストを信じなさい。14:1-3

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたし(イエス・キリスト)を信じなさい」。(1節)

キリストは私たちに、「心を騒がせるな」と呼びかけています。皆さんの心は平安でしょうか、心配や思い煩いによって心が騒いでいないでしょうか。多くの人々は平安を得るために占いに行きます。神社仏閣にお参りに行きます。ある方は心臓が痛くなり、占い師に見てもらったところ、「三代前のご先祖が地上に未練を残して世を去って行き、それがあなたの心臓を苦しめている。そのためにお祓いをしましょう、ついてはこれだけ寄進してほしい」と祈祷料を請求されたということです。世の中の宗教はご利益を受けるために「はじめに金ありき」から出発します。キリストは違います、「心配するな。心を騒がせるな。わたしがあなた方の重荷を負ってあげよう。重荷をわたしにまかせなさい。あなたがたをやすませてあげよう」という「はじめに愛ありき」から出発します。

キリストは、私たちの心配事、重荷、病気、トラブルなどについて分析し、原因を探り、あれこれ詮索しません。「心配するな、心を騒がせるな」と言われると同時に、まず私たちに救いの手を差し伸べます。目の前に溺れている人が助けを求めてアップアップしています。その時に「ここは遊泳禁止です」と注意しても、「もう少し泳げるようになってから泳ぐべきでした」と言っても、溺れている人の助けにはなりません。飛び込んで救う、或いは浮き輪を投げて溺れている人を救うことが先決です。キリストはすぐに助けて下さる救主です。すぐ助けて下さるキリストはどんなお方でしょうか。

キリストは神の御子であったのに、神の子の栄光を捨てて、人間として地上に来られたお方です。馬小屋に生まれ、若い時代は大工として家族の生活を支え、汗水流して働くことの尊さを体験しておられます。30歳にして、救主としての活動をはじめ、病気に苦しむ人に触れ、ご自分の身に病気を引き受け、癒しを行なわれました。ご自分の身に病気を引き受けたことによって、病気の苦しみや痛みをを体験して下さいました。野宿しながら伝道し、空腹の辛さを体験しています。兄弟を亡くして墓の前で泣くマリヤの悲しみを見て、涙を流して深い同情を寄せています。身持ちが悪いために仲間はずれにされている女の人に声をかけ、彼女に救いを与えています。弟子に裏切られ、人間関係の苦さを味わっています。キリストは、人間の苦しみの根本は、人間が真の神様から離れているからである。神様から離れていることが罪であり、罪をもったままでいれば、人間は苦しみ、死んで神様に審かれ、永遠の滅びに至ることを知っていました。そこで33歳半の時に、罪のない、きよいご自分の身を十字架に罪の身代りとして捧げたのです。しかし、死んで終わりではなく、死から甦って、罪の赦しを受けた者に、永遠の命を与えて下さる救主として、今もそして永遠に生きておられるのがイエス・キリストです(へブル13:8)。

キリストは言われます、「心を騒がせるな。神は愛である。神の愛を表すために地上に来たわたしがいる。安心してわたしの所に来なさい」と。2-3節には「わたしの救いはこの世を越えて、永遠の天国につながっている。わたしは十字架に上り、甦った後に天国に行く。それはあなたがたの住む場所を備えるためである。場所の用意が出来たならば、あなたがたを迎えに来る」と約束されています。

今朝の礼拝にOさんご一家が出席されています。6年前に、ずっと上り坂を上って来たOさんが、まさかという人生最大の試練にまき込まれ、身動きがつかなくなってしまいました。その時に、「心を騒がせるな。わたしの許にその重荷全部をもって来なさい。わたしがあなたに平安を与え、試練を乗り越える力をあげよう。神を信じ、わたしを信じなさい」というキリストの招きの声を聞き、ひれ伏して罪を悔改め、真心からキリストを信じ、受け入れ、クリスチャンとして新しい人生を歩み始めました。明るく、面倒見のよかったOさんにキリストの愛が注がれ、キリストを信じる前の54年の人生より、もっともっと深みのある愛と祝福に\満ちた5年間のクリスチャン人生を送って、8月10日「またきて、あなたがたをわたしの所に迎えよう」というキリストの召しを受けて天国に帰って行きました。Oさんが初めて教会に来た日は2002年4月10日(水)祈り会の前でした。いろいろなお話を聞き、祈りました。そのまま祈り会に出席し、4月13日(土)にキリストを信じる信仰を告白し、翌日4月14日(日)から礼拝に出席しています。2003年4月20日(日)イースターの日に洗礼を受けました。Oさんは殆んど礼拝を休まず、祈り会にも出席し、体が相当弱っていたにも関わらず、入院直前の7月13日(日)夕べの礼拝に出席しています。召されたのが8月10日(日)礼拝の日です。教会初出席が祈り会、イースターの日に洗礼を受け、礼拝の日に天に帰って行かれました。それは祈りの中に教会生活の第一歩を始め、キリストの甦りをお祝いするイースターに洗礼を受け、皆さんが祈り、讃美する主の日、聖日に天国に帰って行かれたという信仰の足跡を示しています。これはOさんが神様に愛されていた印であり、そのクリスチャン生活が信仰から信仰の歩みであったことを物語っています。前夜式、告別式に教会の皆さんが多勢参列し、祈って下さったことを感謝します。その時に讃美しました『カルバリ山の十字架』を皆さんで歌いましょう。



2、キリストは、道であり、真理であり、命である。14:5-6

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(6節)

この14:6の御言葉は暗誦すべき御言葉です。この御言葉を心に刻んで下さい。

*キリストは、「わたしは道である」と言われました。

道というと、クリスチャンであった新渡戸稲造の「武士道」という本を思い出します。現在北京オリンピックが開かれていますが、柔道という競技があります。柔道に限らず、日本ではスポーツを通して心の向上を図るという考えがあり、スポーツ魂とか野球道などと言いますし、茶道、華道と何にでも道をつけています。

聖書は人が歩むべき道、神に従う道について語っています。その幾つかをあげてみます。

神様はモーセに告げています。「あなたは左にも右にも曲がってはならない、あなたは、あなたの神、主があなたに命じた道に歩まなければならない」(申命記5:32-33)

モーセは人々に警告しています、「わたしは知っている。わたしが死んだ後、あなたがたは必ず悪い事をして、わたしが命じた道を離れる」(申命記31:29)

イザヤは、「あなたがたはそのうしろで『これは道だ、これに歩め』という言葉を耳に聞く」(イザヤ30:21)と言っています。

詩篇の記者は祈っています、「おお主よ、我に汝の道を示したまえ」(詩篇27:11)

イエス・キリストは「わたしは道である」と言われましたが、これは何を言わんとしたのでしょうか。ウイリアム・バークレーは次のように説明しています。

・・・・私たちが知らない町へ行って、案内を求めるとしよう。「最初に右へ曲がり、それから左に曲がります。そして広場を横切って教会を通り過ぎて、右側の三番面の路地を入り、左側の四番目の路地があなたの行こうとしている道です」などと説明されても、迷わずに目的地にたどり着けるかどうか、その確率は50%であろう。しかし、もし道を尋ねられた人が、「わたしがご案内しましょう」と語るなら、その場合、案内をしてくれる人は私たちにとって道であり、私たちが道に迷うことはあり得ない。それがイエス・キリストが私たちにして下さったことなのである。キリストは単に私たちに、助言や指示や忠告を与えるのではない。キリストは手ずから私たちを導き、私たちと共に歩み、そして私たちを個人的に日毎に強め、導き、指示される。キリストは道について語りはしない。キリストご自身が道である。(バークレー・ヨハネ(下)P210-211)・・・・

*イエス・キリストは「わたしは真理である」と言われました。

聖書朗読の詩篇86篇11節で、ダビデは「あなたの道をわたしに教えて下さい。わたしはあなたの真理に歩みます」という信仰を告白していました。

真理とは命の源です。真理とはあらゆる良いことの源です。真理とは正しいことの源です。真理とは愛の源です。キリストが言われた真理とは心に関わる事柄で、その人と密接なつながりがあるものです。科学的真理や語学の文法などの真理は、教える者の人格に左右されません。1+1=2です。

キリストが「わたしは真理である」と言っているのは、命、良い事、正しい事、愛という人間の存在に関わる真理のことです。多くの人が真理を語りますが、真理を自分の身をもって表した人はいません。例えば学生に純潔な男女交際のありかたを教えていた教師が、生徒と不倫関係をもっていたことが明るみにされています。政治の格差を解消し、平等にしましょう、と説く政治家や官僚が公金を不正に使用していたことが発覚しています。愛を唱える人が、人を激しく攻撃しています。多くの人が「私は真理を教えた」ということは出来ても、言葉と行いとが一致していません。キリストのように「わたしは真理である」と言える人は誰もいません。

キリストだけが、真理を自分の身をもって実践なされたお方です。例えばキリストは「敵のために祈れ」と教えています。キリストは不当に逮捕され、拷問を受け、40回叩いたら死ぬと言われるムチで39回叩かれ、十字架を担がされ、罵り嘲る群衆の面前で裸にされ、両手両足に釘を打たれて十字架に架けられた時に、苦しみの中で「父よ、彼らを赦したまえ」(ルカ23:34)と自分の敵のために祈りつつ、私たちの罪の身代りになっています。ご自分が教えた事と、それに基づいた行いとが見事に一致しています。このことだけでも、キリストは真理のお方であると言うことができます。

*イエス・キリストは「わたしは命である」と言われました。

キリストを信じると罪が赦され、命の質が変ります。心がきれいになって行き、愛が心に湧きあがってきます。聖霊を与えられ、祈ることができるようになります。人のために涙を流して祈り、重荷を分かち合って行く思い遣りの心が豊かになって行きます。

キリストを信じると、永遠の命が与えられます。私は7人兄弟ですが、数年前に弟二人を、いずれも59歳で亡くしています。この度は、私より若いOさんとの別れがありました。死ぬことだけを考えると心が暗くなります。しかし死は人生の終わりではないのです。キリストは死を打ち破って甦り、永遠の天国があることを証明されました。死んで終わりだとしたら、こんな虚しいことはありません。キリストを信じる者は、一度は肉体の死を体験しますが、霊は永遠に生き続けます。そして世の終わりの日に私たちの肉体は栄光の体に甦り、霊と一つになって、天国で永遠に生きることが約束されています。私たちは天国に行き、愛する者たちと再会することができます。



まとめ

1、14:1-3を読みます。心の騒ぐことが多い中にあって、まことの神様を信じ、神の愛を現すために来られたイエス・キリストを信じて行きましょう。

2、14:6を読みます。道であり、真理であり、命であるイエス・キリストを信じて行きましょう。



祈 り  天の父である神様、神様を現すために人となり、十字架と復活によって救いの道を開かれた救主イエス・キリストの恵みに感謝します。今週もキリストを信じて平安の日々を歩ませて下さい。これから行なわれるRさんの洗礼式を祝福して下さい。一週間前に愛するOさんを天に送られたOさんのご一家の上に、聖霊をよって神の愛が注がれ、主イエス・キリストを信じ、Oさんが歩まれた信仰の足跡に倣って行くことができるように、健康、経済も守られるようにお祈りします。救主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:ヨハネ注解ーバ-クレー、榊原、黒崎、米田、フランシスコ会、LABN,文語略註。