わたしについて来なさいーキリストに従うことが信仰― マタイ4:17-22     主の2008.8.24礼拝



だいぶ前ですが、私たち夫婦はイスラエル旅行に行きました。ガイド(案内人)をしてくれたのはエルサレム大学で学び、日本に戻って中央聖書神学校を卒業して牧師となり、かたわらイスラエル観光公認ガイドの資格を得ている安田先生でした。安田先生は、イスラエルで長く生活をしていたので、イスラエル全体を隅から隅まで知り尽くしていて、短い旅行期間の間に聖書の重要場面に行けるように日程を組んでくれましたので、私たちは聖書の世界をしっかり見て廻ることができました。よいガイドによって、私たちは、迷子になることなく、聖書中の主要な場所を見落とすことなく、また余分なお金を使うことなく、安心して、充実した旅を楽しむことができました。この先生のガイドなら安心してイスラエルを廻ることができるという信頼をもって、私たちはただガイドについて行くことによって、思い出に残る旅をすることができたことを感謝しています。

本日はマタイ4:17-22です。19節に、「わたしについてきなさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」というイエス・キリストの招きの御言葉があります。21節でも、同じ御言葉が語られていることが分ります。キリストの招きを受けて、シモン・ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネがイエス・キリストに従っています。この日を境にして、彼らは一生の間キリストの弟子として、キリストについて行く信仰の歩みを続け、時満ちて天国に凱旋して行きました。私たち夫婦はよいガイドによってイスラエル旅行を安全に楽しむことができました。私たちひとり一人の人生のガイドはイエス・キリストです。キリストについて行けば、生きている限りは必ず恵みと慈しみが伴う、信仰の道を歩み続けることができます。私たちの地上の生涯は80年位で閉じられますが、死んで終りではなく、キリストを信じる者はすべて天国に導かれて行きます(詩篇23:6参照)。

今朝、キリストは私たち一人ひとりに「わたしについてきなさい」と語りかけています。私は、「はい、私はイエス様に従います」と答えます。そして「恵み深い御霊によって、私を常に平らかな、信仰の道を歩むように導いて下さい」(詩篇143:10)と祈ります。皆さんの答はなんでしょうか・・・もちろん全ての方々がイエス・キリストに従う信仰の道を選び取って行く決意をされていると信じます。メッセージを通してキリストの招きの声を聴き、祈って、新しい一週間の旅路へと出発して参りましょう。



内容区分

1、キリストに従う者は、悔い改める者である。4:17

2、キリストに従う者は、先ずキリストについて行く。4:18-20

3、キリストに従う者は、時を延ばさない。4:21-22

資料問題

17節「悔い改めよ、メタノイア」、心の傾向を一転すること。「近づいた」、近づいて其処に来ていること。19節「わたしについてきなさい」、キリストより宗教、哲学を学ぶのではなく、ただ聖書を学ぶのではなく、ひたすらキリストに従うことが弟子になるための唯一の必要な態度である。「人間をとる漁師にしてあげよう」、人をキリストの許に導き、救いを与える働きをするようになる。それはキリストについて行くことによって、キリストが私たちを訓練し、聖霊を賜り、人間をとる漁師として用いて下さるからである。



1、キリストに従う者は、悔い改める者である。4:17

この時からイエスは教えを宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」(17節)。

キリストは年およそ30歳の時から伝道活動を始めました(ルカ3:23)。「なんじら悔い改めよ、天国は近づきたり」(文語訳)・・・これがキリストの伝道第一声でした。当時、イスラエルの国はロマに支配され、政治的自由を奪われていました。人々に慰めと希望を与えるべき立場にいたユダヤ教の指導者は、旧約聖書の律法を行えと教えながら、自分達は律法を行っていませんでした。当時まだ神殿がありましたが、ユダヤ教指導者たちは犠牲の動物を売る所、神殿に献金する特別なお金のために両替所をつくって手数料をとるなど、神殿を商売の家にしていました。社会は経済的に格差があり、多くの人々は苦しい生活を強いられていました。キリストは、イスラエルの政治的自由、宗教家の覚醒、経済的平等などを実現するために、政治運動をしたり、宗教家に抗議したり、経済の安定を求めてストライキなどをしませんでした。キリストの言われたことは「心の向きを神に向けなおして、悔い改めなさい」というメッセージでした。この短いメッセージの中に次のことが含まれています。「人間の本当の幸せは、私たちの創造主であるまことの神様を信じることにある。あなた方は神様に背を向けている、それが罪である。罪がある限り人は争い、妬み合い、憎み合ったまま一生を終り、永遠の滅びに向かって行くしかない。だから、悔い改めなさい。心の向きを神様のほうに向け直して、神様の祝福をいただいて行きなさい」。

悔い改めについて、三つの面から考えてみます。

①大きな悔い改めがあります。

今までの罪を悔い改めて、キリストを自分の救主として、主として信じ、個人的に心にお迎えすることです。罪を悔い改めてキリストを救主、また主として信じた者は洗礼を受けて、キリストの教会につながって信仰生活をして行きます。

②ふだんの悔い改めがあります。

キリストを信じてクリスチャンになっても、私たちは罪を犯すことがあります。幸いなことに、大きな悔い改めをしてキリストを心に迎えた者は、罪を犯したことにすぐ気づきます。その時に、「主イエス・キリストの十字架の血潮によって、罪を赦して下さい、罪を犯さない力を与えて下さい」と祈ることが大切です。キリストは赦しを与え、平安を下さいます。またクリスチャンになったことによって罪に敏感になります。キリストを信じる前の私たちの心は真っ暗でした。そこにキリストの救いの光が射しこんできて、すべての汚いものが照らし出され、今まで気づかなかった罪が見えてきます。「こんな醜い罪があった。私は救われているのだろうか」と悩んでしまいます。宗教改革者ルッターは、サタンから「お前の心はこんなに醜い」と責めたてられた時に、「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめるのである」(Ⅰヨハネ1:9)と叫んでサタンを撃退しています。私たちのすべての罪はイエス・キリストの十字架によって赦されています。十字架を見上げて行きましょう。

③日毎に悔い改めるのがクリスチャンです。

悔い改めの本来の意味は方向転換です。神に背を向けていた者が、180度向き直って神様を見上げること、これが方向転換です。「きょうも主を見上げて行きます」という祈りをもって一日を出発します。「きょうも世の中で暮らし、いろいろなことがありましたが、心を主に向けて寝ます」と祈って床に着くことが安眠をもたらします。日毎に悔い改めて、心をキリストに向け続けて行くのがクリスチャン生活です。



2、キリストに従って行く者は、先ずキリストについて行く。4:18-19

イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさ。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。すると彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。(19―20節)

私たちはクリスチャンです。クリスチャンとは、「キリストに属する者、キリストを信じる者」という意味です。初代教会時代、アンテオケ教会の信徒が何かあると「イエス・キリスト」というお名前を出して、自分たちの信じているキリストを口で告白し、日曜日には教会で礼拝を捧げるというキリスト第一の生活をしていたので、周りのノンクリスチャンが、「彼らはキリストの者だ。いつも教会に集まっているクリスチャンだ」と言うようになり、クリスチャンがキリスト信者を意味する言葉として使われるようになったのが、キリスト信者すなわちクリスチャンという言葉の由来です(使徒11:26)。このことから、クリスチャンとは、いつでもキリストの救いに感謝し、キリストを喜び、キリストのすばらしさを伝えて行く者であるということが分かります。そこで、私たちの教会は、「キリストを喜び、キリストを伝える教会」であることを内外に表明しています。先日、あるキリスト教新聞を見ました。6ページあり、その紙面の中に、かなり大きなスペースで7つの集会案内の広告がありました。7つとも集会案内の中にキリストのお名前がありませんでした。集会案内がキリスト教の新聞に掲載されている事、集会案内の中に、伝道訓練、福音化聖会、預言などという言葉があり、それらによってキリスト教の集会であるということが分かります。しかしキリストのお名前を見出すことが出来ませんでした。私は、それらの集会宣伝を見ながら、もっともっとキリストを表して行かなければならないということを強く感じました。キリストを信じ、キリストについて行き、キリスト中心となるために三つのことを伝えます。

①何があろうとも先ずイエス・キリストについて行きます。

私たちは、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエス・キリストを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(ヘブル12:2)という勧めに従って信仰の道を歩んでいます。ところがキリストから目を離す誘惑があります。日本はクリスチャン人口が少ないので、多くの牧師・伝道師・信徒がクリスチャンを増やし、教会を大きくしたいと考えています。そのために多勢の人々が集まっている教会の牧師に憧れ、自分も大きな教会を牧会したいという野心をもつようになります。そのために、東に大いに繁栄している教会があれば、それが遠く海外であっても訪れる、西に預言とか癒しをもたらす聖霊の働きがあるという教会があれば、そこに駆けつけます。伝道の進展を願い、何とかして人を救いに導くための突破口を得たいという熱心さは敬服に値します。しかし、きょうの御言葉に注目して下さい。キリストは「わたしについてきなさい」と言われます。大きな働きをし、用いられている指導者に倣うことも大切です。けれども、キリストの命令は「わたしについてきなさい」という一事です。先ずキリストについて行く者に対して、「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」との約束がついています。私たち夫婦は開拓伝道を始めて最初の7年ぐらい、毎日のように集会を開き、人を誘い、懸命に伝道しましたが、殆んど誰も来てくれないという苦しい戦いが続いていました。礼拝に10名の人が来るようにというのが毎日の祈りでした。なかなか人が導かれてこないという中で、もがき苦しんでいた時に、「方法論ではなく、あなたを召して下さったキリストについて行きなさい、キリストに見習いなさい」ということを豊留先生(ネームレス「心と心の伝道」創始者)に教えていただきました。その通りだ。私たち夫婦を召して下さったのはイエス・キリストである。献身の原点に戻って、先ずキリストについて行くことを改めて決心しました。その時に、

❶待っていないで、ノンクリスチャンの所に出かけて行きなさい。

❷イエス・キリストを伝えなさい。

❸キリストを信じるように決断を促しなさい」という聖書の示す伝道の根本原則がはっきりと分かりました。そして、聖霊に導かれて「キリストを喜び、キリストを伝える教会」となって行くという確信を与えられ、教会は前進を続けています。

②先ずイエス・キリストについて行くならば、生きる意味を知ることが出来ます。

私たちは神様に命を与えられて生きています。命ということですが、私たちの命は大きな危険の中にあることをご存知でしょうか・・・。例えば、地球温暖化が進み、自然のリズムが狂い、環境が次々に破壊されています。ある地方では旱魃、違う地方では洪水、別の地方では地震などの被害が相次ぎ、作物が育たず、環境破壊に伴う世界的な食料危機が叫ばれています。世界人口66億のうち8億人の人々が飢えに苦しんでいて、一時間で1500人が餓死していると言われています。人間の罪のために環境が破壊されてしまい、多くの人々が飢えの苦しみの中にあります。

こうした世界の現状の中で、キリストは、空の鳥、野の花を咲かせる神様を第一にして行くなら、生きるのに必要なものを満たすと約束されています(マタイ6:33参照)。それに加えて、「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」(ヨハネ6:27)と言われ、命を養う食物があることを告げています。命とは永遠の命(ゾーエー)のことです。科学ではDNA(遺伝子)が命ではないかと言いますが、しかしDNA(遺伝子)は物質であり、命ではないと考えられています。科学はそれ以上の説明が出来ません。聖書は、人間には神様と繫がっている命がある、それが霊である。ところが人間は罪を犯して神様に背き、霊的に死んで、永遠の命を失っている。その結果、人間の肉体は80年ぐらいで朽ち果てて死に、霊は神様に審かれて永遠の滅びである地獄に投げ込まれてしまいます。そこで罪のないキリストが私たちの罪の身代りになって十字架の上で死んで、「人間の罪を赦して下さい」神様にお詫びをして下さった。私たちが罪を悔い改め、キリストの十字架を信じれば、即座に罪の赦しと永遠の命が与えられます。霊はキリストを信じた瞬間から永遠の命に満たされます。聖霊が与えられて、祈りをするように変えられます。

私たちはキリストを信じて救われました。キリストの救いを受け永遠の命を受け、永遠の天国に行く希望を与えられています。今している仕事、学生は学んでいること全てが天国に繫がっています。そのことが分ると、働く力、学ぶ意欲が湧き上がってきます。

③先ずイエス・キリストについて行くならば、キリストを伝える使命が与えられます。

あるクリスチャンの青年が、人を助けるために大学で心理学を専攻しました。心理学を学んで、人の心の問題を解決するために努めることは大事だ。人の悩みに焦点を合わせ、問題解決のお手伝いはできる、しかし一つが解決すれば、また違う問題が出てくる。人を全体的に救い、人が真に生きる力を与えるためには、キリストの救いが必要であることに気づいた。それから神学校に行き、牧師となり、人の霊・心・体を総合的に救うイエス・キリストを積極的に紹介し、伝道しています。イエス・キリストのみが、人を罪から救い、新しい生まれ変わりと、新しい人生への出発を与えて下さる真の救主です。



3、キリストに従って行く者は、時を延ばさない。4:20-22

彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った(20節)、すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った(22節)

20,22節の「すぐに」という御言葉に注目しましょう。キリストについて行くのは今からです。この瞬間からです。明日からではなく今日からです。すぐにキリストについて行く、キリストに従って行くということを心に刻んで下さい。すぐにということを詳しく述べる時間がありませんが(また機会を見てお話しします)、「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」(Ⅱコリント5:17)ということを忘れないで下さい。

*これから祈ります。病気の方々のために祈りましょう。救いを求めている方々のために祈りましょう。教会が狭くなっています、もっと多くの人々が集える場所が備えられることを信じて祈りましょう。



祈 り

天地の主である神様、独り子であるイエス・キリストの十字架によって救われていることを感謝します。悔い改めを与え、イエス・キリストを信じるように導いて下さった聖霊の導きに感謝します。「わたしについてきなさい」と言われるイエス・キリストに従って行きます。見上げるべきお方はイエス・キリストです。信仰の導き手であり、また信仰の完成者であるイエス・キリストを見上げつつ、キリストから目を離さないように、今週の日々も導いて下さい。病気の方々に主の平安を満たし、力ある癒しの御業を現して下さい。会堂が手狭になっています。これでは新しい方々が坐る場所がありません。主よ、よき場所と建物、駐車場を与えて下さい。私たちを導いて下さる主イエス・キリストの尊い御名によって祈りを神様に捧げます、アーメン。



参考文献:マタイ注解―黒崎、バークレー、フランシスコ会、シンプソン、文語略註、口語新約略解、新共同訳新約略会、LABN、米田。