全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ マルコ16:14-20 主の2008.8.31礼拝

先週は千葉で三日間にわたり関東北東教区教職修養会があり、私たち夫婦、荻野伝道師夫婦、深谷・井桁師夫婦で参加し、学び、祈り、交わりの中に、参加者一同キリストへの献身の思いを新たにする尊い時を与えられ、幸いでした。私は一昨日金曜日、神学校後期開始にあたり、聖別会で「献身の王道」と題してキリストに従う喜びを伝え、神学生と共に祈り、そこでも献身の思いを深めることが出来て感謝でした。本日は8月最後の主の日、聖日です。今月も個人伝道を通してキリストを信じる人が与えられたことを感謝します。教会学校サマースクールが開かれ、洗礼式が行われたことを感謝します。10日は熊谷、軽井沢で礼拝が行われ、祝福されたことを感謝します。大谷滋さんを天に送りましたが、ご家族のために皆さんが祈りをもって支えて下さっていることを感謝します。本日は主の十字架を信じ、記念して聖餐式が行われることを感謝します。ホームページを通して教会の存在が知られていることを感謝します。すべてが主の恵みであることを感謝します。
ここで、改めて主にある皆様のお祈りに感謝します。私たちも皆様のために祈り続けて行きます。合わせて深谷福音キリスト教会(井桁久志・聖美夫妻)、松江ゴスペルチャーチ(生武嗣幸・由香夫妻)、すわシオンキリスト教会(山本憲治・敦子夫妻)、徳島神召キリスト教会(井桁正巳・幸枝夫妻)、ホームレス伝道・トポス教会(比留間行雄・アケミ夫妻)のためにお祈り下さい。
本日はマルコ16:14-20です。15節に「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」というキリストの宣教命令があります。キリストの願いは、福音の中心主題である十字架と復活の知らせを聴いて、すべての人が悔い改めて救われることです。そのために、「先に救われたあなた方が伝道しなさい、キリストを伝えなさい」と命じられています。キリストの宣教命令を受けて、20節「弟子達は出て行って、至る所で福音を宣べ伝えて」行きました。弟子達が伝道をして行く時に、「主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった」という恵みが表されています。では、今朝もメッセージを聴き、主に従う決断をもって祈りましょう。

内容区分
1、キリストは、教会に伝道の使命と主の力を与えて下さる。16:14-18
2、キリストは、信じる者と共にいて確かな恵みのしるしを表して下さる。16:19-20
資料問題
マルコ16:9-20は最古の写本にないので、聖書本文から除外する人もいる。しかし、この箇所の史実性がないというのではなく、すでに存在していた確実な資料を75年ごろ付加したといわれている。12節はルカ24:13-31エマオ途上のキリスト顕現のこと。15節はマタイ28:19を見よ。17節「悪霊」、悪霊はサタンの手先として人を悪に誘い、心のバランスを崩す働きをする(マルコ5:1-20レギオンの実例)、「新しい言葉」、異言。または救われて人を高める愛の言葉を語ること。「蛇をつかむ」、蛇はサタンの別名であるのでサタンに打ち勝つこと。19節はロマ8:34を見よ。

1、キリストは、教会に伝道の使命と主の力を与えて下さる。16:14-18

「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」。・・・「彼らは(信じる者)はわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、蛇(へび)をつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。(15節,17節-18節)

キリストは、十字架の後に死を打ち破って復活され、天に帰る前に弟子達に現れ、「全世界に出て行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」という使命を与えています。その時の、弟子達の霊的状況が14節に記されています。何と弟子でありながらキリストの復活を信じていない者がいたとあります。全ての弟子達が堅固な信仰を持っていたのではなく、不信仰な者、見なければ信じないという頑固な者もいたのです。キリストは弟子達の中に不信仰な者がいることを承知しておられました。キリストは人間の側の条件が整ってから伝道をするのではなく、ご自分のペースで事を進めています。キリストはあらゆる人間の不信仰を越えて御業を推し進める力ある主です。キリストの御言葉を聴いて、不信仰な者達は悔い改めて、主に従ったと思います。
15節はキリストの大宣教命令として全てのクリスチャンに与えられています。キリストの十字架と復活とを伝える時に、キリストを信じる者が起こされて行きます。キリストを信じた者は、16節に言われているように洗礼を受けます。よく注意して下さい。洗礼を受けて救われるのではありません。「信じてバプテスマを受ける者は救われる」と言われています。キリストを信じる信仰が先です。信じたから洗礼を受ける、それが神の子になる道です。16節後半には「キリストを信じていないのに、洗礼を受ける不信仰な者は罪に定められる」と警告されています。
17-18節にキリストを信じる者に与えられる5つのしるしが記されています。

第一番目は、「悪霊を追い出す」という恵みです。  

悪の根源はサタンです。サタンは常に神様に敵対し、キリストの恵みを疑わせる悪い働きをします。悪霊はサタンの手先で、悪いことを専門にする霊です。素直にキリストに従えば祝福があるのに、私たちの心の中に信じることはまったく反対のこと、疑うという思いを与え、私たちを悪に誘いこみます。雑誌、テレビ、携帯出会い系サイトを通して不倫などの汚れた思いを与えます。小さな落ち度を拡大してゴシップを通して悪い噂を広げ、争いを起こさせ、愛ではなく憎しみを与えます。悪霊にスキを見せないで、悪霊の侵入を防ぎ、悪霊を追い出すために、キリストの十字架を見上げ、「主イエス・キリストの御名によって命じる。汚れた悪の霊よ、出て行け。キリストの十字架の血潮の力で守って下さい」と祈ることが大事です。

第二番目は、「新しい言葉を語る」という恵みです。  

これは使徒行伝にあるように、聖霊に満たされて異言を語ることであると言われています。また新しい言葉を語るとは、人を慰め、励ます愛の言葉を語ることであると理解できます。使徒パウロは「悪い言葉をいっさい、あなたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは贖いの日のために聖霊の証印を受けたのである」との勧めを語っています(エペソ4:29-30)。「私の語る言葉が人を慰め、励まし、祝福を与えるものでありますように私を導いて下さい」と毎日祈って下さい。そのために朝ごとに、日毎に、聖書を読み、祈って行く生活を継続して行くことが大切です。

第三番目は、「蛇をつかむ」という恵みです。  

先日マンションに50匹以上の毒蛇を飼っていた人が、蛇に咬まれて病院に運ばれたというニュースがありました。蛇に咬まれても大丈夫だった人は使徒パウロです(使徒28:3-6)。聖書では、蛇はサタンを表しています(創世記3:1、黙示録20:2)。蛇使いは蛇の急所をつかんで、蛇をおとなしくさせます。私たちはキリストの御名によってサタンの誘惑を退け、サタンに打ち勝つことができます。それはキリストが十字架の上で、すでにサタンの急所である頭(かしら)を打ち砕いて勝利を得ているからです(へブル2:14-15、Ⅰヨハネ3:8)。

第四番目は、「毒を飲んでも、決して害を受けない」という恵みです。  

サンダーシングはインド古来の宗教を捨てて、生きているキリストを信じ、クリスチャンになりました。彼がクリスチャンになったことが知れ渡ると、親族から「金銀をあげるからキリスト信仰を捨てなさい」と言われますが、「私には金銀よりも素晴しいイエス・キリストの十字架による救いがあります。金銀は消えてなくなりますが、キリストの救いは永遠です」と答えます。彼が信仰に固く立っているので、遂には毒饅頭を食べさせられ、殺されそうになりますが、キリストによって命を守られます。彼はインド全土、世界の屋根といわれるヒマヤラ地方、全世界を巡り、伝道の生涯をおくりました。毒ということですが、私たちは、汚いものが氾濫し、人を悪に誘う様々な悪しき毒に満ちている世の中に生きていますが、キリストを心に宿し、聖霊のきよい力により、罪の毒から守られていることを感謝しましょう。

第五番目は、「病人に手をおけば、いやされる」という恵みです。  

この御言葉に励まされて、私たちは自分が病気になった時、友が病気になった時に主の癒しを信じて祈ります。病気はつらいもので、痛みや苦しみを伴い、心に不安をもたらします。病気の方々のために、家族のために心を注いで祈って下さい。私がメマイで入院した時に、皆さんが祈って下さっているということを強く感じ、心に平安が与えられて、大丈夫という希望によって支えられました。祈りは神様に届き、病人の心の中に愛が伝わって行きます。

2、キリストは、信じる者と共にいて確かな恵みのしるしを表して下さる。16:19-20

主イエスは語り終わってから、天にあげられ、神の右に坐られた。弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。(19-20節)

キリストは十字架、復活の後に、約40日間地上にいて弟子達に神の国を教え、エルサレムのオリブ山から天国に帰って行かれました(使徒1:9-11)。今は天国で、私たちのために場所を用意しておられます。場所の用意が出来たら、私たちを迎えに来ます((ヨハネ14:2-3)。場所の用意と共に、キリストは私たちのために祈っておられます(ロマ8:34)。キリストは神の右の座にいて、日夜私たちのために、「まどろむこともなく、眠ることもなく」(詩篇121:4)祈っておられます。世の中に宗教といわれるものがたくさんありますが、教祖が信徒のために祈っているという教えは世界のどこを探してもありません。仏像は人間の理想を表した穏やかな表情に刻まれていますが、人間が木から彫刻して作ったものなので、命がないので言葉を発して私たちのために祈るということは出来ません。天理教では教祖のいた部屋に毎日食事を供えていますが、もう死んでしまっているので、食べることはできません。死んだ教祖が私たちのために祈るということはできません。キリストは生きておられます。私たちが呼べば答えて下さいます。キリストは、「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)と言われる主です。主の最善の答があることを信じて祈りましょう。
20節には「福音」、「御言」とあります。神の言葉を伝える時に、恵みが与えられるということが記されています。今、私たちは神の言葉である聖書を与えられています。聖書を読みましょう。聖書を語りましょう。聖書の中心であるキリストを信じ、キリストの救いを喜び感謝し、キリストを伝えましょう。その時に神の御業であるしるしが表され、主が生きていることが明らかになって行きます。
主が御言葉に伴うしるしをもって、どんな恵みのしるしが与えられているでしょうか。

第一番目に、「救いの恵み」というしるしが与えられています。  

イエス・キリストを信じれば誰でも救われます。ではキリストの救いのことはどのようにして分るのでしょうか。それは聖書を通して教えられます。人類にとって最大の恵みの一つは、神の言葉が文字によって書き記され、聖書となってひとり一人に与えられていることです。はじめ聖書は、キリスト以前からキリストの降誕と教会の誕生までの出来事が、1500年間にわたり、別々の場所で40人の記者によって、書き記されたものです。教会が誕生してから、旧約39巻、新約27巻が1冊の聖書という形になりました。1500年間にわたり、別々の場所で、40人の記者が書いたものが一冊にまとめられたのですが、聖書66巻の一つ一つがキリストを指し示しているという驚くべき一致があります。聖書を読む目的は、読む全ての者が、イエス・キリストは神の子であると信じ、そう信じて永遠の命を得るためです(ヨハネ20:31)。
大谷滋さんが、キリストの救いの恵みを受けたのは、試練の中でひたすら聖書を読んだからです。人の力では乗り越えられない、もうダメかと思うような大試練の中で、奥さんが手渡した聖書を、大谷さんは繰り返し繰り返しむさぼるように読みました。神様は愛です。求める者に答えて下さる救いの神です。大谷さんは、神がおくって下さった聖霊に導かれ、キリストを信じ、生まれ変わることが出来たのです。キリストを信じても、大試練の状況はあまり変らないように見えましたが、神様は試練を乗り越え、問題を解決する道をひとつひとつ開いて下さって、見事に問題は解決され、新しい人生の中へ進んで行くことが出来たのです。ヤコブは「御言には、あなたがたのたましいを救う力がある」(ヤコブ1:21)と述べています。使徒パウロは「十字架の言葉は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である」(Ⅰコリント1:18)と宣言しています。私たちも救いをいただいていますが、私たちが救われていることこそ、主の恵みのしるしです。

第二番目に、「聖霊によって祈り」が与えられ、「私たちの人格が変えられて行きます」。  

私たちは生きている神様に、イエス・キリストの御名によって祈りを捧げるように、聖霊によって祈りの力が与えられます。聖霊に助けていただいて、たくさん祈りましょう。聖霊によって、私たちの心の中に御霊の実が与えられます。御霊の九つの実を覚えていますか-。愛、喜び、平和(平安)、寛容、慈愛(親切)、善意、忠実(誠実)、柔和、自制(節制)です(ガラテヤ5:22-23)。御霊の一番はじめに愛があります。愛とはなんでしょうか。聖書の御言葉によって説明します。「愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで、真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない」(Ⅰコリント13:4-8)。「愛は恨みをいだかない」とあります。これは会計係りが帳簿に数字を記して記録が残るようにするという言葉から出ています。神様は「わたしこそ、わたし自身のためにあなたの咎を消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない」と言われる愛の神様です(イザヤ43:25)。しかし、私たち人間は、いつまでも人のことを帳面に記録して忘れないでいます。聖霊によって愛の実を結び、人のことをあれこれ言い触らし、中傷し、恨みを忘れないでいる愚かさから解放されることこそ、神の御言葉に伴う愛のしるしです。

第三番目に、「喜びで心が満たされます」。

実は、御言葉に伴う主のしるしは、癒し、様々な祝福など沢山の事柄がありますが、時間の関係もあるので、最期に喜びをあげて終わりにして、祈りを捧げ、聖餐式に移って行きます。
皆さんは喜んでいますか。聖書のいう喜びは、苦難の中にあっても、逆境の中にあっても、キリストの十字架を信じ、永遠の命の希望をもって生きる時に、苦難に耐えさせ、逆境に打ち勝つ力を与える心の底から湧き出てくる、聖霊による喜びです。ロマの獄中で、60歳を越えた(昔は短命であったので、今日の70歳位)使徒パウロが、「あなたがたは主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが喜びなさい」と呼びかけているあの喜びです(ピリピ4:4)。アンテオケ教会でキリストを信じる者を、周りの人々が「クリスチャン」と呼ぶようになったことを先週申しあげました。アンテオケの教会の人々が、周囲の人と際立って違っていた点は、彼らは何があっても、常に主を喜んでいたので、それが大きな恵みのしるしのなったと思われます。私たちに十字架の救いを与えて下さったキリストを喜び、キリストを讃美する日々をおくって行きましょう。

まとめ
1、15節、17-18節、キリストは、教会に伝道の使命と、主の名によって悪霊を追い出し、新しい愛の言葉を語り、サタンに対する勝利、罪の毒に汚されないというきよい恵み、主による癒しという恵みを下さいます。
2、19-20節、キリストは、信じる者と共にいて、確かな恵みのしるしを表して下さいます。キリストの救いが表され、聖霊によって祈りが与えられ、何があってもくじけることのないキリストによる喜びが心の中に湧き上がってきます。

祈 り
天地の主である神様、イエス・キリストによって救いをいただき、教会に連なる者になっていることを感謝します。私たちを狙う悪霊に勝利し、キリストの愛に満たされて人を高める愛の言葉を語り、愛をもって人のために祈り、特に人を恨まず、聖霊によってキリストの喜びに満たされて行く者にして下さい。聖餐式を行ないます。「主の十字架は私のためでした」という信仰の告白をもってパンとブドウの杯をいただくように導いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献:マルコ注解―豊田栄、黒崎、佐藤陽二、フランシスコ会、文語略註、LABN、Ryle。