イエス・キリストに聴けー信仰の神髄- マタイ福音書17:1-8       主の2008.9.7礼拝

先日、読売新聞に「日本の知力」というシリーズが連載され、その中で「悩める人 救う語り」という題の下に、キリスト教会における説教、仏教の法話などにおける語ることの意義と、いかにして語り手の内容を相手に伝えるかということについての興味深い大切な記事がありました。その記事には、実際に語っている加藤牧師、小池僧侶などの体験が特集されていました。記事の中で、「現代は『三日でわかる哲学』といった分りやすさを強調するものが多い。これは言葉によって構築された思想を単なる情報としてとらえ、なるべく頭を使わずに消費しようとする姿勢の反映だ。・・・無駄を省くと、人は疲れる。どこへ行くにも最短距離だけで済ませようとすれば、心はギスギスする」と言われていました。それを読みながら、「私は神様の御言葉を語り伝えるという務めに任じられている。この務めをよりよく果たすためには、もっともっと神様の語りかけを聴くことが大切である。御言葉が心に沁みこみ、浸透し、御言葉に頼って生きているという恵みを実感し、体験してこそ、人に御言葉を語り伝える務めを全うすることができる」ということを確認しました。そのために朝ごとに聖書を開き、祈ることを継続して行こうという思いを新たにしました。
本日はマタイ福音書17:1-8です。5節に「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」という神様の御言葉が弟子達に語られています。「これに聞け」とは、「神様の独り子であるイエス・キリストが語ることを聞きなさい」ということであり、「聖書の御言葉を通して主の語りかけを聴く」ということであり、ここに信仰の中心点があります。キリストは「わたしについて来なさい」(マタイ4:19)と言われました。キリストについて行くために、私たちは毎日毎日聖書を読んでキリストの語りかけに耳を傾け、聖霊によって祈り、信仰の道を歩んで行きます。信仰に近道はなく、「三日でわかる信仰の極意」というマニュアルもありません。きょうも、明日も、聖書をとおして主イエス・キリストの御言葉を聴き、それに従って行くことが信仰生活の真の極意です。
今朝も主のメッセージを共に聴き、共に祈って、新しい一週間を出発して参りましょう。

内容区分
1、キリストは、旧約聖書が指し示す十字架の救主である。17:1-4
2、キリストは、私たちに語りかけ、導いて下さる主である。17:5-8
資料問題
1節「高い山」、タボル山、ヘルモン山、ハッチン山などの説があり、確定はできない。2節「イエスの姿が変り」、キリスト再臨の時の姿を思わせる。3節「モーセとエリヤ」、モーセは律法、エリヤは預言者の代表者である。ふたりは主の十字架について語っていた(ルカ9:30-31)。5節「これに聞け」、旧約は過ぎ去り(雲の中に隠れ)、神の右にいますイエス・キリストの御言葉を聴いて行なう新しい時代が来たのである。8節「イエスのほかには、だれも見えなかった」、人は消え去り、組織はなくなり、主イエス・キリストだけが永遠に変らない主である。

1、キリストは、旧約聖書が指し示す十字架の救主である。17:1-4

ところが、目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。(2-3節)

キリストは12弟子達の中から、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて高い山に登って行かれました。この山がどこか特定は出来ませんが、もしヘルモン山であるとすれば、高さが3000メートルあります。その高い山の上で、キリストの姿が突然に光り輝く姿に変ったことが記されています。キリストが光り輝く姿に変わったのは、山に登って祈っている間の出来事でした(ルカ9:29祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた)。キリストの姿が変わると同時に、モーセとエリヤが現れ、キリストと語り合っていますが、その話の内容はキリストの十字架のことでした(ルカ9:30イエスがエルサレムで遂げようとする最期のことについて話していた)。
キリスト以前は旧約時代と呼ばれ、キリスト以後は新約時代と呼ばれています。モーセは旧約聖書の律法を代表する人物で、彼を通して与えられた10の戒めは「モーセの十戒」として、私たちにとってなじみ深いものです(出エジプト20:3-17)。エリヤは旧約聖書の預言者を代表する人物です。キリストがやって来るまで、人間はモーセの律法を守ることによって救われるという事を信じていました。そこで10の戒めを中心にして、神の戒めを守ることに人間は全力を尽くしました。しかし、モーセの十戒のうち九つを守ったとしても、残りの一つを破れば全体を守らなかったことになります(ヤコブ2:10-11参照)。モーセの律法が与えられてから、約1500年間にわたって人間は律法を守る努力を重ねましたが、律法全体を落ち度なく、完全に守れる人は誰もいませんでした。悲しいことに人間は律法を守らず、律法と反対のことをするようになって行きました。例えば、モーセの十戒の初めにある「偶像をつくり、拝んではならない」という戒めを破り、バールの神々など様々な偶像をつくり、それを拝むという大きな罪を犯し続けていました。そこで預言者が立ち上がり、「偶像を捨てて、まことの神に立ち返るように」と繰り返し呼びかけています。ところが、人間は神様の愛の呼びかけを聞きながら、罪のために心が頑(かたく)なになり、ますます神に背き、死んで地獄に行く滅びの道を歩み続ける惨めな者になっていたのです。
人間は、律法を守らず、また預言者を通して語られる神様の御言葉に従わず、罪に捕らわれ、罪に縛られ、滅びの道を進んでいる状態でした。しかし「神は愛です」(Ⅰヨハネ5:8)。神様は、罪のない、神の独り子イエス・キリストが人間の罪の身代りになって十字架に命を捧げることによって、救いの道を開くことを決意されたのです。そのことを、旧約を代表するモーセとエリヤが語り合っていたのです。やがてキリストは十字架にかかり、誰でもキリストを信じれば罪が赦され、新しく生まれ変わり永遠の命を受けて、地獄ではなく、天国に行く者になるという祝福をいただいています。
旧約を代表するモーセとエリヤはキリストの十字架を指し示し、キリストの十字架によって誰でも救われることができる時代がくることを語り合っていたのです。
私の信仰は単純平明です・・・イエス・キリストが私の罪を赦し、永遠の命を与えるために十字架で死んで下さったことを信じます。私はなぜ自分が罪人であるのかをよく知りませんが、自分が確かに罪人であることを知ったのです。キリストの十字架の死がどのようにして私の罪を救うのかを知りませんが、しかしキリストの十字架が私の罪を赦す唯一の力であることを体験しました。十字架を信じて私は罪を赦され、罪から解放された者であることを心から感謝しています。私の信仰は聖書を通して示された、キリストの十字架に基づく罪の赦しを得たという事実に基づく信仰です・・・。
宗教改革者マルティン・ルッター(1483-1546)は若い時に落雷の怖さに、「神様、助けて下さい。助けてくれたら修道士になります」ということをきっかけにしてカトリックの修道士になります。彼は司祭になり、また学校でも教える人として頭角を表して行きます。しかし、彼の心の中に罪の意識があり、罪があれば神に罰せられる。何とかして罪を赦され、心の自由を得たいと思い、学問に打ち込み、言い伝えによればロマの教会の石段を膝で登るという苦行をして救いを求めますが、平安が与えられません。ある時、「義人は信仰によって生きる」(ロマ1:17)という御言葉によって、罪を悔い改め、キリストの十字架のあがないを信じれば、誰でも救われるという福音の真理によって、遂に救われます。彼が体験した救いの恵みを全ての人が得るようにという願いから、16世紀に宗教改革という流れが起きて、プロテスタント教会が生まれました。私たちも、聖書が指し示すキリストを信じれば救われるという恵みを受ける者になっていることを感謝します。

2、キリストは、私たちに語りかけ、導いて下さる主である。17:5-8

「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」(5節)。彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった(8節)。

三人の弟子達は、輝く雲におおわれ、彼らの耳に神様の御声が響いてきました。神様がおられるということを知り(臨在)、彼らは恐れて地面に顔を伏せています。するとキリストがそばに来られ、彼らを起こし、「起きなさい、恐れることはない」と声をかけています。弟子達は我に返りますが、モーセもエリヤも消えて、ただイエス・キリストのみがおられるのを見いだします。
この個所から三つのことを知りたいと思います。

第一に、神様の前に静まるということです。

ペテロはモーセ、エリヤ、キリストの姿を見て、「三つの小屋を建てましょう」という提案をしています。彼は常に何かをして動くという行動的な人物です。しかし、何かをする前に、気高い神様の栄光の前に静まり、神様の恵みを思い巡らして感謝し、神様の偉大な御名を讃美する時をもつこと、すなわち礼拝の大切さを教えられます。詩篇の記者は「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)と言っています。聖書朗読でエリヤのことを知りました。彼は主なる神様は、岩を砕くような強い風の中に現れると期待しましたが、しかし主は風の中におられませんでした。地面を激しく揺する地震が起りましたが、地震の中に主はおられませんでした。今度は火が燃えている、ところがすべてを焼き尽く火の中にも主はおられませんでした。主はどこにいるのか・・・すると静かな細い声が聞こえ、「エリヤよ」と呼びかける主の御声が彼に聞こえてきました。その御声は、想像するに、霊妙な笛の音(ね)のようにエリヤの心に静かに響いてきたと思われます。イエス・キリストは朝早くに、また周囲に雑音のない静かな場所でお祈りをしておられました。私たちも一日に一度は静まり、聖書を開き、神の御言葉である聖書を通して、神様の語りかけを聴いて行きましょう。

第二に、「キリストに聴け」ということです。

神様は、弟子達に「キリストに聴け」と命じています。弟子達は主と三年半にわたり寝食を共にして、キリストの御声を親しく聴いて信仰を養われるという幸いを得ました。キリストが天に帰られた後に、教会が誕生し、キリストの直弟子達が教会を導きました。教会を導く基準は、主の教えを聴いた直弟子達の言葉でした。各地に教会が増え広がり、キリストの語られた御言葉や世界を伝道して歩いたパウロの記した手紙などが集められ、新約27巻としてまとめられました。やがて伝えられてきた旧約聖書39巻に新約聖書27巻が加えられ、合計66巻となり、それが聖書となり、教会を通して現代の私たちに受け継がれています。「キリストに聴け」ということは、現代は聖書を与えられていますので、聖書を読み、神様の語りかけを聴いて行くということを意味しています。
改めて勧めます、毎日聖書を読んで下さい。聖書を読むということは、主の語りかけを聴くということです。聖書を読めば読むほど、心が恵まれます。中国では聖書の数が足りなくて、日本で印刷してどんどん現地へ聖書を運んでいます。私たちは聖書を自由に手に入れることができます。そのことを感謝して、毎日毎日聖書を読み進んで下さい。

ここで聖書の読み方について考えておきましょう。
Ⅰ、心を開いて読む
1、「しもべは聞きます。お話しください」(サムエル上3:10)という態度で読む。
2、自分で大事に思う箇所に傍線を引く。(聖書がきれいなうちは心はまだ汚い。傍線でいっぱいになり、聖書がよごれると心がきれいになってくる)
3、謙虚な心に聖霊が働いて、聖書を通して神の語りかけを聴くことができる。「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます」(詩篇119:130)。

Ⅱ、キリスト中心に読む
1、旧約聖書はキリストの到来を預言し、新約聖書はキリストの到来を述べている。
2、「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたし(イエス・キリスト)についてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)
3、「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリスト(救主)であると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命(永遠の命)を得るためである」(ヨハネ20:31)。

Ⅲ.素直さと謙虚さと余裕をもって読む
1、素直:「神は聖書66巻を通して、私に語っている」という思いで読む。
2、謙虚:「神の御言葉に従うことを最優先します」という態度で読む。
3、余裕:「神は最善をして下さる」という神に委ね、信頼する心をもって読む。

第三に、キリストは個人的に語りかけて下さいます。

「キリストに聴け」と言われていますが、それは私たちに個人的に語りかけて下さるということです。聖書は、いつでも他の誰でもなく、聖書を読んでいる私たちひとり一人に語りかけてきます。聖書を読んで恵まれる秘訣は、いつでも自分への語りかけとして読むことです。御言葉を、人を審(さば)くことや、これを教えてあの人を正しくしようという先入観で読んではならないということです。
石井十次という方がいました。彼は岡山で親のない子を養育する孤児院を運営したクリスチャンとして知られています。多いときには1200人の子供をあずかり、子供たちからは「石井のお父さん」と慕われましたが、48歳で天に召されています。映画化され、松平健が主役を演じています。彼は宮崎県に江戸の終わりごろ誕生しました。小さい頃から、親切な子供でした。青年時代に東京に出て、何とかして皆の役に立つ人生を送りたいと思いますが、病気になり九州に帰ります。何か仕事をしたいと思い、畑の開墾などをしますが、うまく行かず、いろいろな仕事をしますが、長続きせず自棄(やけ)になります。仲間と酒を飲んで暴れ、警察に捕まったりしました。「ああ、自分は何のために生まれて来たのか」と焦り、ついに体をこわし、心も病気になってしまいます。医師から「このままでは本当にだめになってしまうよ。何か立ち直るきっかけになるものはないかと思ってね」と一冊の本を渡されました。聖書でした。「聖書ってキリストの本じゃないですか。私はさむらいの子です。こんな本は読めません」と聖書を突き返した。「そう言わずに少しでも読んでごらん。きっと君のためになるよ」。しかし彼はそのまま診察室から出て行ってしまい、家に帰ると、昼間から酒を飲んで寝てしまいました。夕方、目が覚めると、戸口に薬の袋と聖書が置いてありました。「先生、よけいなことを」と薬の袋と聖書を壁に向かって投げつけました。薬がばらばらになり、聖書が開いたまま畳の上に落ちました。「自分は人のために役に立ちたいが、何もできない。もうどうしていいか分らない・・・」。すると風に乗って祭太鼓の音が聞こえてきた。子供のころに祭に行ったことを思い出し、「自分はだめな人間になってしまった・・」。たまらくなった十次は投げつけた聖書を手に取って「本当にこれを読んで変れるものなら・・・」と開いているところを読むと、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」というヨハネ福音書15:16の御言葉が目にとまりました。それを見た十次は心がふるえた。キリストが自分に語りかけて下さったように思えたのです。「こんな役に立たないような自分でも、キリストが選んでいて下さる・・」。不思議に涙がこぼれた。「神様、ぼくは生まれ変りたいです。もう一度やり直して、神様のために生きる人になりたいです」。キリストを信じた十次は何でもキリストに聴き、そして祈りました。孤児院を始める時も、孤児院が立ち行かなくなった時も祈りました。そして信仰の生涯を歩んだのです。

お祈りを捧げます。
天地の主である神様、キリストの十字架によって救われ、信仰の道を歩ませていただいていることを感謝します。信仰の道を前進するために、神様の前に静まる時間を確保し、心を開いて聖書を読み、キリスト中心に聖書を読み、自分に語りかけて下さっているキリストの御声に従って行くように日々を導いて下さい。主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります、アーメン。

参考文献:マタイ注解―バークレー、黒崎、フランシスコ会、内村鑑三、文語略解、LABN、織田、米田、シンプソン。読売新聞2008.7.24号。