主を待ち望みつつ生きる―真の信仰の心構え― マタイ25:1-13 主の2008.9.14礼拝
携帯電話のない昔のことですが、ある時に東京駅で待ち合わせをしたのですが、約束の時間を過ぎても相手が現れません。手帳を開いて待ち合わせ場所と時間を再確認し、じっと待つこと一時間、やむなく帰ることにしました。戻ってから電話を入れると、「私も一時間待っていた」と言うのです。それで互いにお詫びをして、また次の機会に会いましょうということで、一件落着しました。その時に学んだことは、待つには愛と忍耐がいるという貴重なレッスンでした。
本日の聖書はマタイ25:1-13です。花婿をまつ10人の乙女の話です。10人の乙女は花嫁のお世話をする係りの者で、花婿を迎え、結婚式場に連れて行く役目がありました。5人の乙女は花婿を迎える役目を果たし、一緒に結婚式場に入り、喜びの席に連なることができました。5人の乙女は残念にも役割を果たせず、結婚式場から閉め出されてしまいました。私は東京駅で待っていたのですが、手違いで相手に会うことができませんでしたが、しかし、日を改めて相手と会うことができました。きょうの聖書では、天国に入って行くのに、機会を逃してはならないということが言われています。いつ主が来られても、「私はここにおります」という備えをもって、主をお迎えできるようにすることが大事であることが強調されています。イエス・キリストは「しかり、わたしはすぐに来る」(黙示録22:20)と言われ、間もなく天国から私たちを迎えに来られます。その日は間近に迫っています。思慮深い、賢い乙女のように、いつ主が来られても慌てることなく、喜びをもって主の前に立つことができるように「信仰を新たにさせて下さい」と祈りましょう。
内容区分
1、信仰生活は、主を待ち望む日々の連続である。25:1-12
2、信仰生活は、信仰の目を覚まして生きる日々の連続である。25:13
資料問題
この話の背景は以下のとおりである。結婚式は夜に行なわれる。夕方、花婿と付添い人達は、花嫁を花婿の父の家に連れて帰るために、盛大な行列をつくって花嫁の家におもむく。花嫁の付添い人である乙女達は、明かりを用意し、予備の油も備えて待つ、それはしばしば夕方を過ぎて夜に入ってから花婿が来るからである。寝込んでいた乙女達は起こされて、明かりに火を灯す。明かりは夜の道を照らし、また花婿の家についてから、夜中に踊りの時があるので、油は余分に必要だったのである。ところが愚かな乙女達は油の用意を忘れていたのである。慌てて油を買いに行ったが、すでに式ははじまり、門は閉ざされていて誰も入ることができないのである。13節は徹夜をせよという意味ではない。思慮深い乙女も、思慮の浅い乙女も、花婿の到着が遅れ、全員眠ってしまったが、そのこと自体は咎められていない。長きにわたって待たされて突然キリストが来臨された時、すぐ主について行けるように、いつでも準備しておきなさいという意味である。
1、信仰生活は、主を待ち望む日々の連続である。25:1-12
そこで天国は、十人のおとめがそれぞれ明かりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く(愚かで)、五人は思慮深い(賢い)者であった。思慮の浅い者達は、明かりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちの明かりと一緒に、入れ物の中に油を用意していた。(1-4節)
本日のマタイ25章に入る前に、24章を少し見ておきます。24章は小黙示録と言われ、キリストが預言された世の終わりについての詳しい前兆が記録されています。世の終わりの前兆、印は何でしょうか・・・・偽キリストの出現(文鮮明はキリストと名乗っているなど)、戦争、民族紛争、国と国との戦い(世界的規模で紛争が拡大しています)、飢饉(地球の三分の一の人々が飢えに苦しんでいます)、地震(日本でも世界でも地震が頻発しています)、クリスチャンへの迫害(北京オリンピック前に取り壊される家の教会、逮捕されるクリスチャンのテレビニュースがありました)、偽預言者による混乱(日本では占い、オーラの泉など)、不法がはびこり(汚染米の不正販売など)、人の愛が冷える、主の福音が全世界に伝えられる、そしで最後が来ると預言されています・・・・(マタイ24:1-14)。キリストは、盗人が突然に、思いがけない時にやって来るように、主の再臨も突然に起ることであるので、いつ主が来られてもよいように、備えして待っていなさいとの教えを残しています。
マタイ24章で預言されている世の終わりの話を受けて、本日のマタイ25章の天国の話につながって行くので、25章1節は「そこで」という言葉で始まっています。ところで、キリストの時代は花婿が花嫁を迎えに行き、自分の家に連れて帰ってから結婚式が行なわれました。迎えに行くのは夕方であり、時には夜になることもありました。結婚式が終ると、夜中に踊りの時がありますので、昔は電気がありませんから、明かりを各自が用意し、特に付き添いの者は油を充分に用意して踊りなどに備えておくことが普通でした。思慮の浅い、愚かな5人の乙女は、その肝心な油を忘れるという致命的なミスのために結婚の祝いの場から閉め出されてしまったのです。この個所から学ぶべきことがあります。
第一に、油は自分で備えるべきであって、人からは借りられないという事です。
思慮の浅い、愚かな乙女は、必要な時に油を他の人から借りようと思ったのですが、借りることが出来ませんでした。少し話が逸れるかも知れませんが、神学校時代、そのクラスは先生の講義を聞き取り、筆記するという内容でした。私は何かがあって、3回ほど講義の部分がノートが抜けていました。それで一人の仲間に頼んでノートを貸してもらったのですが、これが無類の悪筆で判読不能でした。その時に、人から借りられないものがある、学びは自分で講義を受けて、自分でノートをとらねばならないということを体験しました。
ここに出てくる油とは信仰である、信仰によって形成される品性である、信仰による霊の祝福であると理解することができます。私たちは、人の信仰を借りることはできません。あの人は信仰深くてよく祈っているが、信仰を半分わけてもらいたいいと思っても、それは出来ないことです。その人は聖書を読み、祈る生活を続け、日曜礼拝を休まず、水曜日の祈り会にも出席し、その積み重ねが揺るぎない信仰となって、心を恵まれているのです。私たちも日々に聖書を読み、祈ること、日曜礼拝に率先して出席すること、水曜日祈り会に出て祈りの喜びを体験することによって、初めて信仰が自分の身についたもの、生き生きとした堅固な信仰になって行きます。自分で主を求め、主の恵みをいただくことによって、信仰は日々に成長して行くものです。
第二に、最後になって間に合わせることができないものがあります。
試験の時に「一夜漬け」ということで、最後の最後になって勉強することがありますが、殆んど効果がありません。私の経験では、一夜漬けが絶対にできないのは語学です。何十もある単語や動詞の変化を一晩で覚えることは不可能です。ふだんの学びを通して、コツコツと備えることが、試験の場面で力を発揮する源になります。信仰もふだんの備えが肝心です。牧師の打ち明け話をしましょう。牧師が土曜日夜になって、「もうすぐ日曜日だ。さてメッセージをどこからしようか」などと言っていたらどうでしょうか・・・。私は毎日教会の聖書日課を読みます。その他に箴言を読み、また聖書全体を読むようにしています。様々な本を読みますが、その中から教えられたことを書きとめたり、考えます。祈りの中で、教会の方々の名前、顔を心に思い描き、主の祝福を祈ります。すると聖霊が語るべき聖書の御言葉を心に語りかけて下さいます。与えられた御言葉を教会全体に当てはめて祈り、黙想し、また御言葉に基づく実例を探します。そして最終的に、メッセージ全体を初めから終りまで書き記します。そのようにして一つのメッセージが産み出されて行きます。ですからメッセージの準備にはとても時間がかかります。牧師のメッセージ準備のために祈って下さい。伝道師のメッセージ準備のために祈って下さい。また、私の家内は個人的に聖書の御言葉を伝えることをしています。相手のために祈り、相手の話にじっくりと耳を傾けます。そして、今その人が本当に必要としている御言葉は何かを主に教えていただき、その御言葉を的確に語り伝えるようにしています。祈りと忍耐と時間を必要とする家内の働きのために祈って下さい。
第三に、ここではクリスチャンが花嫁ではなく、花婿を出迎えるために花嫁の家で待つ乙女に譬えられています。
聖書は、キリストを花婿と呼ぶ時には、花嫁は教会であると示しています。しかし、ここでは花嫁ではなく、花嫁の付添い人についての教えです。キリストの真意は、クリスチャンである私たち一人一人が主の再臨を待つ教会のために、信仰をもって、主のしもべとなって働く姿勢を教えていると理解できます。私たちは救われ、教会に結びついています。キリストは、私たちが教会に結びつきながら、各自に託された働き、奉仕、役割を、信仰をもって主のしもべとして忠実にして行くことを期待しています。私たちは祈りながら、信仰という油を用意していないという愚かな者にならないで、賢い者になって、自分の分を果たすために信仰を第一にして行くようにというのが主の願いです。先ほど油とは信仰であると申しあげましたが、信仰の油について考えてみましょう。
①信仰の油切れにならないために、一回一回の礼拝をはじめ、諸集会に励む事です。
今週はファミリーの週です。ファミリーの中心はイエス・キリストです、ファミリーでは、みんなで讃
美を歌います。祈りがあります。聖書を共に読んで御言葉の恵みを分かち合います。そしてお互いのために祈り合います。ファミリーを大切にして、何でも祈り合って行くようにして下さい。
②信仰の油切れにならないために、メッセージをしっかり聴いて行きましょう。
ここにあるのは毎週のメッセージを聴きながら、その内容を週報の裏にイラスト入りで記録した、大武優くんによる聖日礼拝説教集です。始まりは2006年9月で、連続して毎週記されています。その週の御言葉を英語によって記し、メッセージのポイントがイラスト入りで詳しく記され、最後に自分が教えられたこと、決断したことなどがちゃんと記されています。これほど熱心にメッセージを聴いて書いていれば油切れはないと思います。
③信仰の油切れにならないために、祈りましょう。
祈りを後回しにすることは油切れの兆候です。祈りを後回しにしていると、やがて祈らない名前だけの死んだクリスチャンになってしまいます。いつでも祈りを最優先しましょう。祈りを通して救いと心の平安、そして永遠の命の祝福を受けます。
あるクリスチャンの証しです。お兄さんが膵臓ガンで倒れ、余命二日と宣告された。そのことをすぐに言えなかったが、痛みのために転げまわっているお兄さんのために祈り、思いきって「お兄さん、祈って行けば人生の最後は最善だ。天に行く準備をしましょう」と伝えると、信仰をもっていた兄は「ありがとう」と言って祈り始めた。キリストの救いの恵みを感謝して祈っていると、お兄さんが不思議な命の力に覆われて、あんなに苦しんでいたのに聖歌を歌いだした。それから4日間、お兄さんは痛み止めをやめた。そして十字架上のキリストが、両手両足に釘を打たれ、頭にいばらの冠をつけられるという苦しみの中で、人々の救いを願って、執り成しの祈りを捧げたように、残して行く家族のために友人のために祝福を祈り続け、天に召されて行ったのです。
祈りを通して人知を越えたキリストの力が表されます。もし、問題があればキリストの御名によって祈りましょう。病気の癒しのために祈りましょう。人間関係でトラブルがあれば祈りましょう。聖霊自らが呻(うめ)いて私たちと祈りを共にして下さいます。祈りましょう。
2、信仰生活は、信仰の目を覚まして生きる日々の連続である。25:13
だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。(13節)
キリストに信頼する者は、主が「再び来る」と言われたことを信じています。八木重吉の詩を週報に記してありますが、私もキリストが再び来ることを心から信じています。時代の印を見るならば、キリストの来るのは間近です。しかし、一人でも滅びる者を少なくし、救われる者を多くしようという、神の愛の故に世の終りが延ばされています(Ⅱペテロ3:8-9)。キリストのやって来ることが遅れたとしても、しかし必ず主はやって来ます。なかなか来ないであろうと油断しているとするならば、それは油を用意していない愚かな乙女のような者です。
キリストは「目を覚ましていなさい」と告げています。キリストが来られる時に、「わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行なったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである」(Ⅱコリント5:10)ということが実現します。キリストの光の前に立つ時、心の奥底まで見透かされてしまいます。私はキリストが再び来る事を信じ、祈ります・・・「主よ、どうかキリストのさばきの座の前に恐れなく立つことができるように、私の心をきよめて下さい。口から出る言葉によって人を汚し、躓かせることがないように、私のくちびるをきよめて下さい。まとわりつく罪をかなぐり捨てて、心の目を覚まして日々キリストに従う義の道を歩ませて下さい」・・・。
サタンは、キリストは来ないと言います。サタンはキリストがこの世界に戻ってくる事を疑わせ、だんだん疑いを大きくし、信仰を失わせようとします。信仰の目をさまして、今週も聖霊によって祈り、キリストに従う道を前進いたしましょう。(13節は後日もう少し掘り下げて話をする予定です)。
まとめ
1、1-4節を読みます。信仰生活は、主を待ち望む日々の連続です。信仰という油を切らさないようにキリストに固く結びついて信仰生活に励んで行きましょう。
2、13節を読みます。信仰生活は、心の目を覚まして生きる日々の連続です。13節の御言葉を暗誦して心にたくわえて下さい。
祈 り
天地の主である神様、キリストの救いを受けている事を感謝します。信仰という油を切らさぬようにするために、集会出席に励んで行きます。メッセージをしっかり聴けるように導き、助けて下さい。「目をさましていなさい」というキリストの御言葉を心に刻んで、今週も主に従う道を歩んで行けるように導いて下さい。
本日は満70歳以上の方々のために敬老祝福式を行います。式に与る一人一人を豊かに祝福して下さい。恵み深い救主イエス・キリストの尊い御名によって祈りと願いを捧げます、アーメン。
参考文献:マタイ註解書
シンプソン、黒崎、米田、バークレー、文語略解、バークレー、LABN、政池、フランシスコ会