主の弟子への招きー主はこれぞと思う人たちを呼び寄せるー マルコ3:13-19 主の2008.9.21礼拝
先日、二つのことを思い出しました。一つは小学校低学年の頃、学校の帰り道に、たまたま父親が自転車で通りかかり、「乗りなさい」と言って荷台の所に私を乗せ、家まで連れて帰ってくれたことです。もう一つは、それから20年後ぐらい後ですが、私は神学校を卒業し、アパートを借り、伝道者生活第一歩を踏み出しました。その時に、父親が背広を作って熊谷まで持参してくれ(父は洋服仕立て業)、六畳一間の部屋を見回し、それからクラー宣教師ご夫妻の所に挨拶に行ってくれたことです。人が聞けば他愛のない事ですが、振り返ってみると、父親は仕事に追われて、七人いる子供たちと接することが殆んどなかったように思います。やがて、子供たちはそれぞれ自立の道へと歩みだして行きましたので、ますます接触の機会がないままでした。父親と接する機会のない状況の中で、私は子供時代に自転車に乗せてもらいながら父親と共にいる時間が与えられたこと、伝道者への道を歩み出した時に、六畳間で「お前も大変な道へと進むんだ」と言う父親の言葉を聞きながら共に時を過ごしたこと、この二つが良い思い出として心に刻まれていたのです。
本日はマルコ福音書3;13-19です。キリストが12弟子を選ばれた目的の一つは、「彼らを自分のそばに置くため」(14節)でした。キリストは弟子達に御言葉を教え、伝道に派遣する前に、彼らとの親しい交わりを大切にしています。後にキリストと親しく接した弟子達によって、またキリストと接した多くの人々の証言を整理して、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書が記されました。四つの福音書を通して、私たちはキリストについて知ることができます。私は自分の父親について、小さい時に私を自転車に乗せてくれたこと、開拓伝道に踏み出す私に背広を作って届けてくれたこと、この二つを語ることによって、父親の一部を伝えましたが、それはあくまでも私の体験にとどまるものです。しかし、キリストの場合は、私たちが心を開いてキリストを求めるならば、求める全ての人が、キリストを生きているお方として個人的に親しく体験することができます。何故なら、キリストは一度は私たちの罪の身代りになって十字架で死んだのですが、死を打ち破って甦り、今も生きている永遠の救主だからです。私たちはキリストとの親しい交わりに導かれています。
きょうも聖書を通して、キリストの素晴しい恵みを知り、父なる神を見上げ、聖霊によって祈り、新しい一週間の旅路へと出発いたしましょう。
内容区分
1、キリストの弟子は、みこころにかなった者たちとしてキリストに呼び寄せられ者である。3:13-14前半
2、キリストの弟子は、二つの使命を与えられ、キリストに従って行く者である。3:14後半―19
資料問題
13節「みこころにかなう者」、塚本訳は、「自分でこれぞと思う人たち」。14節「お立てになったエポイエーセン」、一般の民を祭司に任命するへブル語アーサーの70人聖書訳で、意味は任命する(to do appoint)である(列上12:31、13:33、使徒2:36、へブル3:2参照)。14節後半―15節は文語訳が原文の構造にそって訳されている。「彼らをみそばに置き、教えを宣べさせ、悪鬼を追い出す権威を用いさする為に、遣わさんとてなり」(文語訳)。新共同訳、新改訳もよい。原文で12使徒の選任の目的は二つある。第一は「みそばに置くため」、第二は「彼らを派遣するため」であり、宣教と悪霊を追い出す権威は派遣の目的内容を示す。15節「悪霊を追い出す」、神の霊(聖霊)以外のもろもろの霊に迷わされている人の心の目を開くことである。Ⅰヨハネ4:1-3を見よ。
1、キリストの弟子は、みこころにかなった者としてキリストに呼び寄せられた者である。3:13-14前半
さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこで12人をお立てになった(13-14節前半)
ここに多勢の方々が礼拝を捧げていますが、クリスチャンになった動機はそれぞれに違います。自分で求めてキリストを信じた者、親がクリスチャンであったので信仰をもった者、自分の罪の悩みを通して救いを得た者、結婚相手がクリスチャンであったので信仰をもった者など、クリスチャンになった動機は100人いれば100通りの理由があります。大事なことはキリストを信じる信仰を一生にわたって保ち続け、天国の門を潜り、キリストにお会いし、永遠に天国で暮らすことです。
13節をご覧下さい。「みこころにかなった者たち(お望みになる者たちー新改訳、これと思う人々―新共同訳)を呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た」と言われています。これは、「キリストが自分でこれぞと思う人々を呼び寄せられた」という意味です(塚本虎二訳)。「12人をお立てになった」というのは、キリストの弟子として12人を任命したという意味です。これを私たちに当てはめて考えてみるならば、私たちがクリスチャンであるのは、「あなたがたは、わたしがこれぞと思う人々である。わたしがあなたがたを呼び寄せたのでる」というキリストの愛の選びによることなのです。
キリストは天の栄光の位を捨てて、この地上に来られた救主です。キリストがこの世に来られた目的はたった一つ、神様の御心に反して罪の生活をおくり、死んで、地獄に向かって行く人間を救うためです。そのために人間が受けるべき罪の罰をご自分の身に引き受けて、キリストは十字架に命を捧げて罪の身代りになって救いの道を開いて下さいました。罪を悔い改めてキリストを信じれば、誰でも即座に罪を赦され、永遠の命を受け、神の子になることができます。
「みこころにかなった者たち、即ちこれぞと思う人たちを呼び寄せた」ということを、キリストは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」(ヨハネ15:16)と弟子達に教えています。私たちは自分で必死になって聖書を学び、あるいは難行苦行をし、また何年も教会に通ったから救いを受け、クリスチャンになったという訳ではありません。キリストの選びを受けて、キリストを自分の救主として、個人的に心に迎え入れて、クリスチャンになったのです。
ところで、「これぞと思う人たちを呼び寄せられた」というと、呼ばれない人もいるのであろうかと考える人もいるようですが、それは違います。キリストは全ての人々に愛を注ぎ、聖書を通して全ての人々に対し、「あなたこそ救われてほしい人である。あなたがた全てはわたしがこれぞと思う人である」と言われます。それを証明する御言葉を幾つか紹介します(聖書を開き、傍線を引いて下さい)。
*ヨハネ福音書3:16。「この世」というのは、この世界に住む全ての人々を指しています。
*Ⅰテモテ2:4-6。「すべての人が救われて」、「彼(キリスト)はすべての人のあがないとしてご自身を十字架にささげられた」と明確に言われています。
*Ⅱペテロ3:9。「ひとりも滅びることなく、すべての者が悔い改めに至ることを望む」とハッキリと言われています。
聖書の示す招きの御言葉を読むだけではなくまた、知識として知るだけではなく、御言葉の示す救主であるイエス・キリストを心に信じ、迎え入れる決断をする大切です。
ある男性ですが、家族がクリスチャンになり、教会に行くようになりました。彼は、キリスト教信仰は悪いことでないと理解を示し、自分も必要があれば聖書を読むし、時々は礼拝に出席し、献金は良いことのために使われるので献金もするという、表面的にはクリスチャンのようでした。社会では真面目で仕事もしっかりしていました。しかし、心の中では、自分の力を頼り、神様に頼るのは心の弱い人間であると思っていました。そういう生活がかなり長く続きましたが、順調に行っていた仕事が突然に傾き、どうあがいても解決できず先行きが真っ暗になってしまいました。その時に、はじめて心からキリストの御名によって神様に助けを求めました。その時に心の平安が与えられ、間もなくして洗礼を受け、クリスチャンになりました。そして礼拝、祈り会に励み、恵みの日々を前進し、よき信仰の生涯をおくりました。人の目から見れば、なかなか信じないタイプの人でしたが、キリストはこれぞ救われる人であるという恵みをもって、試練を通して祝福を与えて下さいました。
私たち一人一人がキリストによって選ばれ、救われていることを感謝しましょう。
2、キリストの弟子は、二つの使命を与えられ、キリストに従って行く者である。3:14後半―19節
彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教に遣わし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった(彼らを派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった)。(14後半―15節)
口語訳聖書では、キリストの弟子は、「みそばにいる」、「宣教に遣わされる」、「悪霊を追い出す」という三つの働きがあると言われています。正確には、キリストの弟子は、「みそばにいる」、「キリストに派遣される」という二つの使命のために招かれています。そして二つ目の派遣の内容が「宣教と悪霊を追い出す」ということです。(新共同訳、新改訳の訳がよい)
第一に、キリストの弟子は、「キリストのそばに置くため」(身近に置くー新改訳、自分のそばに置くー新共同訳)に召されています。
キリストは、クリスチャンである私たちと交わりを望んでおられます。今朝、皆さんは何を求めて礼拝にいらっしゃったでしょうか。一週間ぶりに皆と会えるという楽しみをもって礼拝に出席する、あるいは奉仕の務めを全うするため、問題解決、癒しを求めて出席するなど様々な要素があると思います。それらは全部大事な事ですが、しかし全てに優って最も大事な礼拝の目的は、生きておられるキリストを礼拝し、キリストの御言葉によって心を養われ、聖霊によって祈るということです。キリストを見上げる時に、新しい霊的な力が心に注がれてきます。キリストはこの礼拝堂に臨在しておられます。キリストは讃美の中におられ、歌う私たちの心に恵みを満たして下さいます。祈りの中に、ここに主がおられるという聖なる畏れを与えて下さいます。挨拶の中に、愛と赦しと感謝の思いを与えて下さり、心から挨拶を交わすように導いて下さいます。献金の中に、生活の必要のすべてを満たして下さる平安と信頼の心を与えて下さいますい。今は御言葉を聴いていますが、御言葉によって心が養われ、豊かになって行きます。それら全ての中心にキリストがおられます。
キリストのそばにいるとは具体的にどういうことでしょうか・・・
キリストのそばにいるということは、祈りを通してキリストとの充分な交わりをもつということです。
キリストご自身が父なる神様との交わりを大切にしていました。新約聖書日課はマルコ福音書に入っていますが、マルコ福音書の特徴はスピードです。マルコは聖霊に導かれて、キリストのことを少しでも早く読者に伝えたい、特にキリストの十字架の恵みを早く伝えたいという願いを込めて、「すぐにキリストは奇蹟を現された」、「すぐにキリストは伝道した」ということを記しています。そうした多忙な日々の中にあって、キリストは朝早く、夜の開けるよほど前に、起き出て寂しい所へ出て行き、祈って一日を始めています(マルコ1:35)。キリストの活動の源泉は、父なる神様との交わりを通して、聖霊によって満たされて祈っていたからであることを教えられます。私たちも祈りを通してキリストとの交わりを大切に確保して行きましょう。
世界的に用いられている、いやしの賜物をもつカトリックのシスターがいます。それを紹介している司祭が記していました・・・・彼女は今でも世界中で多くの病人をいやしている。彼女の本を読むと、どのようにいやしの賜物をもらい、どのようにそれを生かしているかが書かれている。それはごく少数の人にしか与えられない特別な聖霊の賜物であろう。この本を読んで感動するのはそういう特別な賜物の話ではなく、祈りに打ち込む熱心さである。いやしの奉仕を始めるようになってから、毎日3時間、聖堂で祈るようになったという。祈りの長さよりも、さらに心を打たれるのは、イエス様との親しい交わりである。彼女の祈りの中では、イエス様が生きておられ、彼女と語らい、教え諭し、力を与えている。イエス様との生きた交わりこそが、このシスターの原動力になっているのである・・・・仕事、学びなど現代の私たちは多忙な時間に追われています。忙しさにかまけて、キリストとの日々の交わりの時間、そして礼拝を怠れば、間違いなく霊的に衰弱して行きます。
キリストのそばにいる者には、キリストのきよい愛が心に与えられます。
あるカトリックの司祭が言っています、「世界は神学に飢えていない。キリストに飢えている」と。
心をキリストに向けて行く時に、私たちにキリストの愛が注がれ、私たちは変えられて行きます。キリストは愛のお方です。キリストは赦しのお方です。キリストは平和をもたらすお方です。私たちの傾向は、人の不義が目について仕方がない、目につく相手の足りなさを指摘し、改めるように注意してやることが愛であると考えることです。しかし、理論、理屈、正論を掲げ、聖書の御言葉を一部引用して、自分こそ正義であるという神学で人を説得しても、人は反発するだけです。キリストはパリサイ派の学者のように自分の義だけを押し通して、人を審くことはなさいませんでした。キリストはパリサイ派の学者とは逆です。ご自分には罪がないのに十字架につけられ殺される時に、自分を陥れ、死刑に追いやった人々のために祈っています(ルカ23:34)。私の愛唱歌である「この人を見よ」という讃美歌の3節に「すべてのものを与えしすえ、死のほか何も報いられで、十字架の上に上げられつつ、敵を赦しし、この人を見よ」というキリストの愛が歌われています。
世界は、そして私たち一人一人は、キリストの愛に飢えています。あなたはキリストの愛で満たされていますか。もし赦さない心、相手を責める思いがあるとすれば、心の管が詰まっている状態ですから、キリストの愛が心の中に入ってきません。心の管の詰まっている部分を取り除くために、「主の祈り」を思い出して下さい。キリストが教え、実践された、「我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という祈りの言葉を心に唱え、それから、「私はその人を赦します」と声に出して告白して祈って下さい。その時に、詰まっている苦々しい物が取り除かれ、愛が心に注がれます。個人的な事ですが、私は毎朝の早天祈祷会で「私の心にきれいな、混じりけのないキリストの愛を満たして下さい。愛を受けて、恵み深い御霊に導かれて牧会伝道の使命を果たして行くように助けて下さい」と祈ります。キリストを求め、キリストの愛を求めて祈って下さい。
第二に、キリストの弟子は遣わされて行き、キリストを伝え、悪霊を追い出す使命があります。
キリストを伝えなければ、人々は確実に滅びに向かって行きます。キリストを伝道することが人を救いに導く確実な方法です。豊留師がインドに行った時に、ある海岸で「ここに村がありましたが、一晩のうちに滅び去りました。それは台風が来ることを知らなかったからです。村にラジオが一台あれば、台風の警報を聞いて住民は避難することができたのですが、ラジオがなかったために大きな悲劇に襲われたのです」ということを聞いたとのことです。霊的に考えれば、世界の人々は罪の嵐の中で溺れ死にそうになっていますが、私たちが一台のラジオになって、聖書のメッセージである「キリストに救いあり」ということを伝え、キリストの十字架と復活とを知らせれば、人々は救いの方法を知り、救われて行きます。
悪霊を追い出すことですが、神の聖霊以外の悪霊によって多くの人々が惑わされています。例えば占い、手相、人相、風水、占星術、霊媒、テレビに出る占い師のまことしやかなお告げなどがあります。エホバの証人、モルモン教、統一協会などがあります。日本古来のさまざまな諸宗教があります。ここで、悪霊に騙されないように御言葉を読みます。ここは大事ですから、皆さん聖書を開いてしっかり傍線を引いておいて下さい。第一ヨハネ4:1-6です。私が今あげた教えはことごとくキリストを否定します。エホバの証人はキリストを認めるようなふりをしますが、それは人間としてのキリストであって、キリストが十字架にかかって救いを成し遂げ、甦って永遠に生きている救主であることを否定し、信じません。私たちは聖霊に導かれ、「イエス・キリストは主である」と告白して救われ、神の子になっていることを感謝します。(16-19節、使徒の事は今回はふれていません)
お祈りをささげます。
天地の主であり、創造主である神様、
独り子イエス・キリストの十字架と復活により、私たちを罪より救い出していただき感謝をささげます。キリストは、私たちに目を留めて下さり、これぞ神のために仕える者になると見込んで、私たちを救いに導いて下さったことを心より感謝します。多くの人々が救いを求めています。私たちをキリストの救いを必要とする方々の所へ遣わして下さい。
喜んでいる者に、キリストを讃美させて下さい。苦しみを覚えている者にキリストの御名による祈りの力を与え、勝利を与えて下さい。病気の人々が十字架の恵みによって癒され、主によって立ち上がって行く力を与えられるように導いて下さい。午後からのネームレス集会を通して、家族に、知り合いの方々にキリストの救いを伝えるために祈り、訪問し、手紙をおくるように、それぞれの奉仕を導いて下さい。今月も救われる方々が多数起されて行くようにお願いします。多くの人々が集まれるように、広い会堂と駐車場が、この近辺に与えられるようにお願いします。
私たちの救主イエス・キリストの御名を通して、神様にこの祈りをささげます、アーメン。