信仰の核心―罪のゆるしのために命を捧げる主イエス・キリストーマルコ10:35-45 
主の2008.9.28礼拝

17世紀―18世紀にかけて製作されたストラディバリウスというバイオリンがあります。バイオリン奏者にとっては世界最高の憧れのバイオリンであり、これを手に入れて演奏すれば、この名機を使いこなすことのできるバイオリン奏者の第一人者であるという評価を得ることができます。日本のある有名なバイオリニストは家一軒を売り払って、このバイオリンを手に入れ演奏に用いています。この音楽家に限らず、私たち人間は、自分でこれぞと思う物に価値を見出すと、それを手に入れるためにあらゆる努力を惜しまないという傾向があります。

本日はマルコ福音書10:35-45です。45節に、「人の子(イエス・キリストの地上の名称)は多くの人のあがないとして、自分の命を与える」というキリストの言葉が記されています。「あがない」とあるのは、「あがないのお金(あがないの代価―新改訳、身代金―新共同訳)」という意味です。キリストは、私たち人間が罪に苦しみ、最後には罪のために死んで、永遠に滅んで行かねばならないことを知っていました。そこで、「わたしは人の罪の身代りに自分の命を与える。戦争で負けた捕虜や奴隷のために『あがない金、身代金』というものを支払うと、彼らは解放された。わたしは人間を罪の滅びから救い出すために、自分の命を人間の罪の身代わりに十字架にささげて『あがない金』として差し出し、神様にお詫びする」と言われたのです。ストラディバリウスというバイオリンを手に入れるために、家一軒に相当するお金が支払われました。そのバイオリンが多くの人によって価値があると思われていたからです。キリストは神様に背き、罪人である人間に対し、「あなた方は罪を犯している。滅んで行くのは自業自得である。あなた方は罪人で、救いを受ける価値のない者である」と言って人間を冷たく突き放すことをしませんでした。キリストは、罪人であり、価値がゼロである私たち一人一人に対し、「多くの人々はあなた方を救われる価値のない罪人であると見ている。だが、あなた方は我が目に尊く、重んぜられるもの(高価で尊い)である」(イザヤ43:4)という愛をもって、罪のない、きよいご自分の命を『あがない金』として捧げられたのですが、それが十字架です。誰でもキリストの十字架を信じれば、罪を赦され、神の子になれる道が開かれたのです。マルコ10:45は、キリストがこの世に来られた目的を言い表している大切な聖句です。ぜひ暗誦して下さい。

今朝も主のメッセージを聴き、祈って、新しい一週間の旅路へ出発して行きましょう。



内容区分

1、キリストは、私たちに高ぶらず、争わず、仕え合って行くように教えている。10:35-44

2、キリストは、私たちのために命をささげ、救いを与えて下さった主である。10:35

資料問題

38節「わたしが飲む杯」、杯を飲むとは運命、苦しみを共にすること。14:36、イザヤ51:17,22。「わたしが受けるバプテスマ」、水の中に沈められることを意味する語で(ルカ12:30)、転じて苦しみの中に沈められるの意。

39節「彼らは、できますと答えた」、これを受けてキリストはふたりが苦しむことを預言された。ヤコブは12使徒の最初の殉教者(使徒12:2)、ヨハネは多くの迫害と苦しみとを受けた(パトモスへの島流し、黙示録1:9)。45節「あがない」、原語でリュツロン。あがないの代価、あがない金のこと。この語の背後にある主要な観念は「買戻して釈放する」ことである。ここでは比喩的に用いられ、強力に贖罪の行為を表現している。




1、キリストは、私たちに高ぶらず、争わず、仕え合って行くように教えている。10:35-44

十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで憤慨しだした(41節)。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない」(43後半―44節)

この個所は、キリストがエルサレムに入り、十字架にかかる直前の出来事です。その大事な時に、ヤコブとヨハネが、自分たちをキリストの左右に坐る高い地位につけてほしいと願いにきます(マタイ20:20では彼らの母親も同道)。それを聞いた他の弟子達が「あの二人は我々を出し抜いた」と言って怒り出し、仲間割れしそうになった時に、キリストは彼らを諌め、ご自分がこの世に来られた目的を正しく教えて下さったのです。この個所から教えられることがあります

第一に、神様の前に全ては知られているという事実です。

35節にゼベダイの子ヤコブとヨハネが主の御許に来たということが記されています。二人の名前と共に、41節では10人の者という他の弟子のことも記されています。私は、この記事を読みながら、私たちのする全てのことは神様に覚えられているということを改めて教えられました。ヤコブとヨハネはこっそりとキリストの御許に来たつもりでしたが、神様はちゃんと知っておられて、ふたりの名前とお願いの内容まで記されています。彼らは自分たちの行動を隠したつもりでしたが、他の弟子達の知るところとなり、内輪もめが始まっています。この個所から、私たちのことは神様と人の前に明らかであること、また今は隠れていることであっても全ては明るみになるという峻厳な事実を知ることができます。

第二に、人は自分の言動について問われることになるという事実です。

ヤコブとヨハネは「キリストと同じ杯、同じバプテスマを受けることができます」と答えています。キリストの言われる「杯を飲む」とは「運命、苦難を共にする」という意味です。「バプテスマ(洗礼)を受ける」とは、「自分の身を水の中に沈めるように、苦しみの中に沈められる」という意味です。ヤコブもヨハネも、「主よ、あなた様が受ける苦難を私たちも共に受けます」と答えたことになります。キリストの昇天後、聖霊が降ってエルサレム教会が誕生します。教会はどんどん成長して行きますが、紀元44年ごろ、ヤコブはヘロデ王によって迫害され、剣で切り殺され、12弟子の中で最初の殉教者になります(使徒12:2)。ヨハネは12使徒の中で一番長生きをしますが、多くの苦難を受け、晩年にはパトモス島に流され、強制労働をさせられるという迫害を受けています(黙示録1:9)。人の言動は神様が覚えていて、ちゃんと帳尻が合うようになるのです。聖書朗読で詩篇19篇のダビデの歌が朗読されました。最後のところで、ダビデは「わが岩、わが贖い主なる主よ、どうか、わたしの口の言葉と心の思いがあなたの前に喜ばれますように」と祈っています(19:14)。私たちもダビデの祈りのように、聖霊に導かれて心をキリストに向け、キリストの御心に従う信仰を言い表し、人を高める言葉を語るように謙りを与えて下さい、と祈って下さい。

第三に、キリストは真の偉さについて教えています。

キリストの価値基準はこの世のものと全く反対です。キリストは偉ぶっていません。キリストは会堂司ヤイロが、「娘のために祈って下さい」とお願いに来た時に、すぐに彼と一緒に家に向かい、死んだ娘を甦らせ、愛を表しています(5:21-24,35-43)。

キリストは神の独り子であるのに、人を見下さず、愛と助けの手を差し伸べています。汚れた12弟子の足を洗い、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもそうするように、わたしは手本を示したのだ」と言われました(ヨハネ13:1)。このキリストの模範に倣い、あるキリスト教主義の学校では、部活動の準備や後片づけは全部上級生が率先して行なっています。その結果、皆が伸び伸びと部活動に打ち込み、良い成績を上げているということです。

キリストは、人から嫌われ、仲間はずれにされていたザアカイの家に泊まりました。ザアカイはキリストが自分の家に泊まって下さった愛に心を打たれ、回心して財産を人々に与えると宣言しています(ルカ19:1-10)。ある宗教では、教祖は常に人より高い所にいて、信者はその姿を遠くに見るだけです。願い事は取次ぎの者にお願いして教祖に届けてもらいます。キリストは直接にザアカイに接し、彼に愛を示しました。昨日は上野公園ホームレス伝道の日で、300名の方々が上野公園の地べたを礼拝堂にして礼拝を捧げました。金山さん(ムラサキスポーツ社長・教会長老)が祈る前に、「皆さん、自分の左右の方々と握手しましょう」と勧めました。皆モジモジしていましたので、私は身近にいる人々に手を伸ばして握手をしましたが、どの手も黒ずんで、深い皺に刻まれていました。手を握ることによって、路上生活者の苦しみを少しでも共有できたことを感謝しています。

キリストは、「仕える人になりなさい。人のしもべとなりなさい」と命じておられます。今年もクリスマスがやってきます。皆がしもべになって多くの新しい方々を迎え入れ、この世に来られたキリストの愛を表すために、祈って、率先して奉仕に加わり、キリストに仕えて行くようにして下さい。

2、キリストは、私たちのために命をささげ、救いを与えて下さった主である。10:45       

人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。 (45節

キリストは、人間の罪の身代りになって十字架にかかり、罪の赦しと永遠の命をもたらすために、この世に来られたまことの救主です。キリストは一人で十字架に死ぬことによって、多くの人を罪から救い出すと言われていますが、多くの人とは全ての人を指しています。多くの人の中に私たちも含まれていたので、私たちは救われてクリスチャンになっています。救われるためにキリストのあがないがありました。あがないというのは贖い金のことです。日本人が外国でテロ組織や犯罪グループに誘拐されると、釈放を願うならお金を出せと要求されます。人質を解放してもらうために支払うお金が贖い金と言われ、身代金とも言います。キリストは、今から約2000年前に、エルサレム・ゴルゴタの丘で十字架にかかり、ご自分の命を、人を罪から救う贖い金として差し出して下さいました。神様は、キリストが罪の身代りの贖い金として命を捧げて下さったあがないの故に、私たちが罪を悔改めて十字架を信じるなら、私たちを無条件で赦し、新しい生まれ変わりを与え、神の子として天国に通じる信仰の道を歩むように祝福して下さいます。

キリストのあがないの十字架に救いの力があります。昨日上野公園ホームレス伝道に行きましたが、ホームレスの人々は自由勝手気ままに生きて、何か救いに遠いように感じますが、キリストを信じれば誰でも救われるという確信があるので、皆さんの祈りに支えられて、いつも私も全力を込めてメッセージを伝えることができます。比留間牧師夫妻は、熊谷で礼拝・祈り会を忠実に守る信仰生活の後に献身し、神学校で学び、10年にわたってホームレス伝道を継続しています。比留間夫妻を手助けする長いひげを生やしているホームレスのSさんという男性がいました。信仰を告白するということはないのですが、しかし熱心に継続して手伝いにきていました。ところが、その方が病気になり、痩せてしまいましたが、突然ヒゲを剃って集会に来て、皆の前で洗礼を受けたのです。キリストのあがないの福音が彼の心にしっかり入っていたのです。彼は比留間師夫妻の尽力で生活保護を受け、病院に入り、召されて行きましたが、音信不通であった兄弟が遺骨を引き取りに来ました。キリストは万事を益に導いて下さる主である事を感謝します。



私は心から皆さんに伝えます。私たちはキリストの十字架のあがないによって、罪のゆるしを与えられ、新しく生まれ変わり、新しい心を与えられています。私たちは新しい人生を歩んでいます。新しい人生の道は天国に通じています。



キリストの十字架のあがないによって与えられた恵みは数え切れないほど多くあります。今朝は特にゆるしの恵みに焦点を合わせてみます。ゆるしの恵みを箇条書きにしてみます。



*十字架のゆるしの恵みによって与えられるもの



1、キリストの救いが確かになり、聖霊によって神の愛が心に豊かに注がれる。

聖霊によってキリストのあがないの十字架を讃美し、神の愛が心に満ちあふれてくる。

「なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからである」。(ロマ5:5)

2、聖霊によって心に喜びあふれる。

キリストの十字架によるゆるしを喜ぶと、聖霊が心に満たされ、神を讃美する祈りが湧き出てくる。

「そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた『天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます』」。(ルカ10:21)



3、感謝の日々をおくるようになる。

不平不満は消えて行き、主の救いを日毎に感謝し、すべてのことに対して感謝できるようになる。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい、すべてのことにおいて感謝しなさい。これがキリストイエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」。(Ⅰテサロニケ5:16-18)



キリストのあがないによって与られた罪のゆるしによる感謝の日々をおくるために、「主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい」(コロサイ3:13)という勧めに従って行く決断をして下さい。



*私たちがゆるすもの



1、環境をゆるす

生まれ、育ち、家族の状況、問題を受け入れ、ゆるす。

2、人をゆるす

主が私たちをゆるされたようにゆるす。自分を傷つけた相手をゆるす。

3、自分自身をゆるす

環境のせい、人のせいにしないで、自らが悔い改めて行く。自分は主によって愛されていることを感謝する



十字架のあがないを信じる時に、ゆるしの恵みを与えられ、人生が良い方に変わって行きます。ある男性が危篤になったが、母親の祈りで癒された。教会に行った。牧師に、「あなたは罪人です」と言われたが、罪のゆるしの道を教えてもらえなかった。それで12年間も罪に悩まされながら教会に通い」ました。罪の意識を消すためにレジャーに行ったり、隠れて酒を飲んだり、ダンスをしたりしてみたが、平安ゼロの日々の連続であった。体の具合が悪くなり、自殺を考えるまでになった。その時に、違う教会の案内を見た。「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られたものである。古いものは過ぎ去った、見よ、全てが新しくなったのである」(Ⅱコリント5:17)という御言葉が記されていて、それが心に響いてきた。そしてキリストに祈ってみようという思いが与えられ、三日間祈った。すると心が熱くなり、体が元気になってきた。自分はゆるされている。全身に力が満ち、心は喜びであふれ、すべてが感謝になり、讃美が連続して与えられる毎日になった。キリストを心から慕い、それまでは祈りは最高5分しか祈れなかったのが、今ではキリストとの祈りの交わりが最大の楽しみになっていて、感謝、感謝ですと告白しています。



まとめ

1、41節、43後半―44節、キリストは、高ぶらず、争わず、仕え合って行くことを実践されました。キリストに倣って、私たちも仕える者となり、主のしもべとなって行くように、祈りを捧げましょう。

2、45節、キリストは、私たちのために命を与え、救いを与えて下さった主です。キリストの十字架に力があります。十字架のゆるしに感謝し、私たちもゆるしを実践して行きましょう。



祈 り

天地の主である神様、キリストのあがないによって罪をゆるされ、神の子にされていることを感謝します。謙って主のしもべとして仕えて行くように導いて下さい。キリストによるゆるしの恵みに感謝し、ゆるしを実践して行く者にして下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:マルコ注解―豊田栄、フランシスコ会、黒崎、LABN、石原、佐藤陽二。