神はわれらの避け所である 詩篇46:1-11             主の2008.10.5礼拝



冬になると消防車が、「空気が乾燥しています、火災に気をつけましょう」というアナウンスをしながら、火の用心を呼びかけて町々を巡回しています。私が小学性の頃、東京では冬になると、近所の小父さんに連れられて、子供たちが火の用心を呼びかけて町内を巡り歩いたことを思い出します。10人ぐらいのグループで、6年生がカチカチと拍子木を打ち鳴らし、みんなで大声を張り上げて「火の用心、マッチ一本火事の元、火事だ電話だ119」と家々に呼びかけながら廻って歩きます。まだテレビもない時代ですから、皆でワイワイ言いながら、「火の用心」を叫んで歩くのは一種の娯楽のようなものでした。みんなで声を揃えて叫んだ「火の用心、マッチ一本火事の元、火事だ電話だ119」という言葉が不思議に心の中に記憶されています。

本日は詩篇46篇です。「神はわれらの避け所」(1節)「ヤコブの神はわれらの避け所」(7,11節)と3回「避け所」という言葉が出てきます。これは、何か起きたら先ず神様の御許に行き、助けを求めなさいという勧めの御言葉です。「火事だ、電話だ119」の言葉に従って、火災の時に消防署へ連絡をすれば、直ちに消防車が出動し、火災を消し止めてもらうことができます。クリスチャンは困難、迫害、病気に直面する時に、「神はわれらの避け所である」ことを確信し、まず主に祈り求めることが最も重要なことです。「火事だ、電話だ119」の代わりに、「問題、病気、迫害だ。すぐに祈ろう、主の御名で。勝利と癒しがやってくる」ということを信じて祈れば、聖書朗読のピリピ書4:6-7の約束の通りに、キリストは人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安と知恵と力とをもって私たちを助け、支えて下さいます。

ご一緒に、詩篇46篇を通して主のメッセージを聴き、それを自分の身に当てはめ、祈って主に従う新しい決断をささげ、新しい一週間の旅路へ出発して参りましょう。



内容区分

1、クリスチャンは、まず主の御名を呼び求める者である。46:1-3

2、クリスチャンは、神の命に満たされ、平安を与えられている者である。46:4-7

3、クリスチャンは、ただ主に信頼し、主を崇める者である。46:8-11

資料問題

この詩はユダの王ヒゼキヤの時、アッスリヤの王セナケリブが攻め寄せてきて国が危うくなった時に、王であるヒゼキヤは預言者イザヤに祈ってもらい自分も祈った(列下18-19章)。祈りは聴かれ、神の奇蹟により大勝利が与えられた(列下19:35、イザヤ37:36)。この詩篇はそのことを歌ったものであると言われている。内容は三段に別れ、各段ともセラで終わり、二段と三段とは同じ言葉で結ばれている(7,11節)。セラとは暫く休むことを表す音楽用の言葉。表題にコラの子たちとある。彼らは父とその仲間達がすべての罪ゆえに、生きたまま地中に呑み込まれた時(民数記16:32-33)、コラの子たちの命は助けられた。彼らは神の憐れみによって救われ、救われた命を神の栄光を歌うために捧げている。ルッターはこの詩篇をもとに「み神は城なり」(聖歌202、旧聖歌233)を作詞作曲した。1節「避け所」、避難所のこと。「力」、要塞のこと。4節「一つの川」、ヒゼキヤ時代に掘られた、閉鎖されたトンネルを掘り進んだところ、水がちょろちょろ流れ出し、エルサレムのシロアムの池に注いだ。教会は神の都であり、聖霊が降り、教会の民を潤し、癒す。10節「静まって、わたしこそ神であることを知れ」、敵は無駄な抵抗をやめよ。クリスチャンは主が神であることを知れ、信ぜよ。




1、クリスチャンは、まず主の御名を呼び求める者である。46:1-3

神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである(1節)。

この詩篇に「女の声の調べにあわせて歌わせたコラの子の歌」という表題がついています。ダビデがペリシテ人を打ち破ったとき、乙女達はダビデを称え、踊りながら迎えました(サム上18:6―7)。この詩篇は神様の勝利が主題ですので、私たちも乙女達のような心で神様をほめ称えるべきことを教えられます。歌っているのはたコラの子たちです。彼らの父とその仲間達は指導者モーセに背き、神の審(さば)きを受け、生きたまま地中に呑み込まれて行きましたが、コラの子たちは神様の憐れみによって命を助けられました(民数記16章)。彼らは神様に仕えるレビ族の分かれとして、神様の恵みを讃える聖歌隊として主に仕えて行きます。

1節で「神はわれらの避け所また力である」と歌われています。私たちは問題、困難、病気に遭遇した時に、まずどこに、誰に助けを求めるのでしょうか。私の失敗談です。細かいことは覚えていませんが、小さい時に子供が熱を出したことがあります。「熱が高いようである、うなっている、可哀そうだ」という思いが先にたって、頭の中でどこの医者へ行こうかということを考えてウロウロしている時に、「神様に祈ったのか?」という囁きが聞こえてきたように感じ、「しまった、神様スミマセン!」と言って祈ったことがあります。すると慌てふためく思いから解放され、不思議なことに子供も落ち着いて来ました。「祈りなさい」と教えていながら、とんでもない失敗を体験しましたが、その失敗を通して、まず神様に頼り、祈ることの重要性を教えられ、体験したことを感謝しています。

私たちにとって、まず、最初に頼るべき個人的な神様がおられることは幸いなことです。「われらの・・」とありますが、これは私たち一人一人を個人的に助けて下さる神様、という意味です。悩みの日に、私たちは個人的に最も近寄りやすいお方として神様にすがることができます。神殿合唱隊の楽長アサフ(歴代上6:39)は、「悩みの日にわたしを呼べ。わたしはあなたを助け、あなたはわたしを崇めるであろう」という神様への信頼をうたっています(50:15)。

2-3節には、自然界、私たち人間の生活などあらゆるものが揺れ動き、崩れて行く様子が記されています。自然界の大変動であると共に、この世の制度が壊れて行くことも示しています。この世でアメリカの大きな証券会社、保険会社がつぶれ、世界経済に混乱をもたらしています。世界のあちらこちらで戦争や争いが絶えません。インドでは教会への大規模な迫害が起り、中国では家の教会が中国公安局によって迫害され、クリスチャンが逮捕されています。ものみの塔などの異端がはびこり、人々に不安をもたらしています。様々な不安な要素が満ちている世界の中にあって、「われらは恐れない、われらは恐れない」(2,3節)と2回われらと言われています。これは「神はわれらの避け所、また力である。悩める時のいと近き助けである」(1節)という信仰に基づき、「われらは神様に信頼している、だから何があろうとも恐れないという」神様への信頼の言葉です。

ある看護師の方が、間近に迫る死の影と戦いつつ、淋しさを訴える患者さんを何とか元気づけてあげたいと思っていました。「あなたの心の中に神様はいないのですか」と聞いてみた。すると「います」という答があった。「それはまことの神様ですね。では『私を助けて下さい』と祈りましょう。神様はきっと助けて下さいますよ」。その人は祈り始めた。すると、あんなに淋しがっていたのに、みるみるうちに朗らかになってきた。そして死んでも次の世界があることを確信し、神様が与えて下さる平安を得ることができたのです。

まことに「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」ということは事実であることを知ることができます。地は変り、山々が震え動くようなことがあったとしても、神様は「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(へブル13:5後半)と約束されています。



2、クリスチャンは、神の命に満たされ、平安を与えられている者である。46:4-7

一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なる住いを喜ばせる。神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝早く、これを助けられる(4-5節)

3,7,11節のところに「セラ」とあるのは、暫く休むという意味です。1ー3節で、まず主の御名を呼び求めるという信仰が力強くうたわれ、暫しの休みがあって、次の主題に向かってコラの子達は歌いはじめて行きます。

4節に、「一つの川がある」と歌われています。川がゆるやかに流れ、川岸の土地に豊かな実りをもたらすように、神様の恵みはクリスチャンに命と癒しをもたらします。黙示録には、「天国には水晶のように輝いているいのちの水の川があり、その両岸にはいのちの木があって、12種の実が毎月実り、その木の葉は諸国民を癒す」ことが記されています(黙示録22:1-2)。神様を信じる者は天国に行ってからではなく、今、「神のいのちの水」を飲むことができる恵みを与えられています。

皆さんの心は「神のいのちの水」で豊かに潤されていますか。皆さんの心は、讃美と喜びに満ち

ていることを感謝しましょう。心を腐らせる不信仰な思いから解き放たれている心であることを感謝しましょう。私たちの中に、心を堕落させる人を審く思いや、悪口、妬みが少しでもあってはならないのです。きよい神様が下さるいのちの水で心を満たしていただき、心をきれいにしていただく恵みを求めて祈りましょう。

いのちの水をいただくためにはどうしたら良いのでしょうか。私たちの主イエス・キリストの御言葉

に注目しましょう・・・・・祭の終わりの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、『だれでも渇く者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』。これはイエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである(ヨハネ7:37―39前半)・・・・・。キリストを信じる者の心は聖霊に満たされます。聖霊に満たされている印はなんでしょうか。それはきよい御霊の実を結ぶことによって証明されます。御霊の実は「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」の九つです(ガラテヤ5:22-23)。

5節前半に、「その流れは神の都を喜ばせる。神がその中におられるので、都はゆるがない」と歌われています。神の都を教会と考えても良いでしょう。教会はキリストを信じる者の群れであり、その中心に神様がいて下さるのです。サタンは必死になって教会を混乱させ、分裂させようと働いています。もし人と比べる気持が出てきたら要注意です。もし「あの人のあの言葉、あの態度が赦せない」という気持が生じてきたら要注意です。教会に完全無欠な人はいません。教会は例えていえば、霊の病院のような所です。心に傷を負い、疲れを感じたりしている人々が集まってくる所です。キリストは言われました、「丈夫な人には医者はいらない、いるのは病人である。わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)。キリストはどんな罪の問題も、トラブルも、実際の病気も解決し、癒して下さる主です。キリストは、人間のもつあらゆる苦しみ、病気の原因である罪を解決するために十字架にかかって、罪の身代りとなり、赦しと癒しの道を開いて下さったまことの救主です。キリストは十字架の死後三日目に復活され、信じる者の永遠の命を与えて下さる、永遠に生きている主であることを表して下さいました。こんな素晴しいお方がいる所が教会ですから、実に様々な症状の方々が集まるのです。良い病院に行くと、多くの患者が詰め掛けています。教会にも様々な人が来ているとするならば、その教会は良い教会といえます。私たちはキリストの恵みによって、教会に加えられています。教会に加えられている私たちがするべきことは、❶キリストにあって愛し合うこと、❷キリストにあって祈り合うこと、❸キリストに合って赦し合うことです。

5節後半に、「神は朝早く、これを助けられる」と歌われています。神様は早起きです。キリストはだれよりも早く起き出て、神様に祈っておられました(マルコ1:35)。私たちは朝寝坊をして、主にお会いするのにグズグズしますが、主は私たちを助けるためにグズグズしません。ところで私たちの教会を支える三つの大切な理念があります。

一つは、伝道方策は個人伝道を推進することです。

二つは、教会形成はファミリーによる集まりを重んじることです。

三つは、信仰生活は朝の祈りに励む、すなわち早天祈祷の実践することです。

キリストは朝の祈りを実践し続けて、十字架の救いの御業を達成なさいました。朝の祈りを重んじるなら、人生は祝福に満ちて行きます。共におられる主なる神様に信頼して、命の水である神の聖霊に満たされ、信仰第一の日々を歩んで行ように祈りましょう。



3、クリスチャンは、ただ主に信頼し、主を崇める者である。46:8-11

「静まって、わたしの神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」(10節)

7節で、セラの休みがあり、8節以下に入って行きます。

8節に、「来て主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行なわれた」と歌われています。この詩篇は、エルサレムの都が外国の軍隊によって滅ばされそうになった時に、神様の助けによって勝利を得たことを歌ったものであると言われています。多くの敵の兵隊が死んでいる様子を見て、滅びの淵より、神様の奇蹟の勝利によって助けられたことを人々は実感することができました。「来て、主のみわざを見よ」と言われていますが、私たち一人一人がキリストの救いに与り、人生を変えられていることを誰に対しても証しすることができます。

最後に10節の「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(やめよ―新改訳、力を捨てよー新共同訳)という御言葉に注目します。現代は静まる時間を持ちにくい環境です。皆さんはテレビもない、携帯もない、何もない、ただ静かな時間の中に一人でじっと時を過ごすことが出きるでしょうか。知り合いの教師が生徒を連れて、三日間を勉学のために山奥の民宿に連れて行きました。テレビなし、携帯圏外、コンビニなしで、渓流のせせらぎと、夜は満天の星空、教師はここでこそ勉学に打ち込めると思ったのですが、生徒は静けさに耐えられなくてイライラしていたそうです。それほど現代人は静かになることに慣れていないのです。意識して静まる時間をもって下さい。キリストは多忙な生活の一日の始めに静まって祈っています。大きな活動をした後に、一人山に退いて祈っています(ヨハネ6:15参照)。キリストは静まる時に神様の力を受けることを身をもって教えておられます。

ある男性が結婚に失敗し、一人暮らしを始めました。自分の人生は淋しい人生だと思いつつ、希望のない日々を送っていました。ある文書を読んだのがきっかけで教会に行ってみました。皆が声をかけてくれて、しかも自分のために祈ってくれのるのが嬉しくて毎週教会に行くようになりました。自分も静まって祈ろうと思い、祈ってみたが何の変化も現れないまま一ヶ月が過ぎて行きました。「今日も変化なしかな」と思って祈りをやめようとした時に、神様の力を感じ、知らないうちに「ありがとう、ありがとう」と叫んでいる自分に気がついたのです。キリストを信じて、静まって祈るようになってから、人嫌いであったのに人に話しかけるようになり、嫌いな仲の悪い人にも声をかけることができるように変えられたのです。結婚に失敗したのですが、神様の恵みによって、教会で結婚相手に巡り合うことができて、家庭を築き、家庭を開放してキリストを伝える集会を開いています。まことに、7,11節にあるように「万軍の主はわれらと共におられる。ヤコブの神はわれらの避け所である」という御言葉は真実です。



まとめ

1、46:1、まず主の御名を呼び求める信仰に固く立って行くように祈りましょう。

2、46:4-5、聖霊によって神の命を与えられ、平安を与えられていることを感謝しましょう。

3、46:10、静まって、神様に信頼する信仰をもち、」神様を崇めて行きましょう。



祈 り

天地の主である神様、世の中は乱れ、政治、経済の秩序は乱れ、生きるのに困難を覚えるような中にいます。しかし、私たちには天地を造られ、私たちを愛して下さる神様がおられます。神様こそ、われらの避け所また悩める時のいと近き助けであることを信じます。神様のきよい聖霊で心を満たして下さい。どんな時でも慌てずに、静まって祈ることができるように、私たちに祈りを与えて下さい。病気の方々に主の癒しが与えられることを信じます。困難の中にある方々を支え、トラブルの中にある方々に平安を与えて下さい。午後からの一つ一つの集まりを祝福し、夜の礼拝にも豊かな恵みを注いで下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献

詩篇注解―米田、浅野、ナイト、フランシスコ会、スポルジョン「ダビデの宝庫」、岸井。

「聖書事典・日キ教団」