「不信仰なわたしを、お助けください」マルコ91429 2008年10月19日 荻野伝道師


最近教えられていること。私が御言葉を語る相手は、ただ一人。…ここで「私の妻相手に語る」というノロケが入ると期待されたかも知れないが、残念、ハズレ。私は御言葉を自分自身に語る。

 「人に」御言葉を語ろうとすると、たとえそのつもりがなくても、結局「私が人を教える」という形になってしまう。それがキリスト教の真理の伝達だろうか、違うのではないかと、私の中でもいつも割り切れない思いがあった。

 「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。」(マタイ7:34)

 私のすることは何か。兄弟である皆さんの目にあるちりを取らせてください、ということだろうか。そうではあるまい。しかし私が「皆さんに」御言葉を語ろうとする限り、私が皆さんの目からちりを取ろうとする、偽善的要素が残り続けるのではないか。

「偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」(マタイ7:5)

 私のなすべきことは、自分の目から梁を取りのけること。それが、私が講壇でするべきことではないだろうか。ここで興味深いことにキリストは、兄弟の目からちりを取りのけるのが誰か、あいまいなままにしている。原語では、兄弟の目からちりを取りのけたのが誰であるか、主語を使わない不定詞という文法を使っているからだ。

 私が皆さんの目から、ちりを取りのける方法、それは唯一、私が自分の目の梁を取りのけることによってではないだろうか。そうするならば、私ではない誰かが、皆さん自身の目から、ちりを取ってくださる。私ではない誰か…それは言わずとももうお分かりだろう。皆さんの目からちりを取りのけるのは、私の役目ではない。皆さんの目からちりを取るのは、神ご自身である。

 私はそう信じて今朝、この講壇に立っている。私がここですることはただ一つ。私自身の目から梁を取りのけること、別の言い方でいえば、私自身が悔い改めること、それだけである。そうするならば、私ではなく、神の聖霊ご自身が働いて、皆さんの目からちりを取ってくださるであろうことを信じている。

 

 今日の聖句は、そんな課題を担っている私にとってぴったりの聖句である。しばらく、私がこの御言葉によって教えられたことを、皆さんとお分ちしたい。この私の受けた取り扱いをお話しすることによって、聖霊が働きかけ、皆さんの心にメッセージが語られるようにと願う。

  さて今日の聖書箇所で、特に私の心を捕らえたのは、この父親の心の変遷である。

父親の心の変遷

1.子の助けを願う段階

霊がたびたび、彼の子を殺そうとしたので、この霊を追い出して下さるように願った(18、22a節)

2.子と彼の助けを願う段階

「わたしどもをあわれんでお助けください」(22節b)

3.自分自身の助けを願う段階

「不信仰なわたしを、お助けください」(24節)

 実際のところ、今日の聖書箇所を一読してある人の心に残ったのは、「信仰がなくては神に喜ばれることはできない」というメッセージではないだろうか。19,23,24節と、信仰を持つことが必要である、と説かれている。
 ところで実はこの同じお話は、マタイ17:14とルカ9:37-43aにも記されている。マタイ、ルカはおそらくマルコを参考にしながら、自身の福音書を書いたといわれている。そしてマタイ、ルカは、ある人たちの第一印象と同じく、「信仰が大事」というメッセージをこの個所から受け取っている。そこでそのメッセージを主に生かし、それ以外は省いて、やや短くしてこの話を納めている。
 だがマルコが聖書に含まれたことによって、この父親の心の変化という、他の福音書記者が取り上げなかった、大事なメッセージが残されていることを、神に感謝したい。そして今日は、マルコ特有のメッセージとして、父親の心の変遷を取り上げたい。
 ごらんの通り、この父親は当初、息子を助けて欲しくて、キリストの元にきた。ところが次の段階では、「私たちを」と、自分を含んで、息子ともども助けてください、と言っている。最終的には何と、ただ自分のことのみを問題にし、私をお助け下さい、と叫ぶに至る。
 父親の心に沿いつつ、私自身の共感、同じように感じる気持ちをお分ちしたいと思う。

1.他の人の助けを願う段階
 霊がたびたび、彼の子を殺そうとしたので、この霊を追い出して下さるように願った(18、22a節)

 父親は必死である。わが子がいつ死んでもおかしくないような危険にさらされている。わらをもすがる思いで、イエスの元に愛するわが子を連れてきたことだろう。
 私も御言葉を準備する最初の段階はこの父親のようであった。この教会のある人々は、死にそうなというほどではなくとも、問題に直面している方がいることだろう。私はキリストの福音を伝える伝道者の端くれとして、私もこの父親のような思いで、キリストに向かった。キリストならこれから先のことを思って気持ちが暗くなっているかもしれないあの方を、あるいは抱えている問題の大きさのゆえに、先の見えないトンネルをくぐっているように感じているあの方も助けてくださる。そういう思いで、キリストに希望を託して、御言葉に向かった。
 あるいは、本当に死の危機に瀕している人も、もしかしたらいるかもしれない。精神的に追い込まれて、死の影がちらつく、そのような苦しみの中にいる人がいるかもしれない。なおのこと私としては、愛する兄弟姉妹の皆さんがそのような苦しみから救われるように、と願った。キリストが皆さんをして、死の影の谷を歩むとも災いを恐れず、キリストが共にいてくださるのを実感できるように、皆様が生きている限りは、恵みと慈しみとが、皆さんの後を追いかけてくる、そのような人生を歩むことができるようにと願いつつ、御言葉を準備していた。

2.他の人と自分との助けを願う段階
「わたしどもをあわれんでお助けください」(22節)

 次に父親は、私たちを助けてください、と自分を含めてキリストに助けを求める。死にそうなわが子を救ってほしい、これは父親の切なる願いである。誰もそれを否定しえない。同時に父親はここで、「私たち」と言っているので、自分自身も救ってほしい、と言っている。子供のことでこんな大変な思いをしている私も含め、息子共々救ってください、そのような心の変化がうかがえる。
 私としても、この父親の気持ちは分かる。私も御言葉を準備することを繰り返すうち、この父親のような願いをもつようになった。主よ、この方はすでに長い間苦しんでおられます。一体いつ、この問題から解放されるのでしょうか。主よ、どうか救ってください、お願いします。またあの人は、見た感じ、何か問題があるようには見えないかもしれない。でも実は大きな悩みを抱えておいでです。主よ、どうかあの方の問題を解決してください。そう願わずにおれない。
 同時に、私自身、悩みを持っている。それはメッセージが伝わるように、という願いである。伝道者としての切なる願いは、私が用いられて、皆さんの心が信仰と希望と喜びに満たされることである。だがメッセージを伝える、というのは実に難しい。メッセンジャーとしての力不足をいつも感じる。だから、どうか神が私を助け、何とか、危機の中にいるこの方をも、また悩み苦しんでいるあの方の心をも、キリストご自身が捉えてくださるように、メッセンジャーとしての私自身を助けてください、と願う。私もこの父親と同じように、「私たち」を助けてほしいと願う気持ちへと変化していった。

3.自分自身の助けを願う段階
「不信仰なわたしを、お助けください」(24節)

 ここで父親の言葉は、急転直下、大きな変化を見せる。どのような変化か。あろうことか、彼は死にそうな息子を助けて欲しくてキリストの元にやってきたのに、自分自身の助けを願って叫んでいる。ここには「わたしどもをお助けください」という言葉はもはや使われず、「わたしを、助けてください」となっている。あたかも息子のことを忘れてしまったかのようである。
 この御言葉以上に今の私の心を探る言葉があるだろうか。私は、多少なりとも、皆さんの抱える問題を聴き、そのために祈っている。この講壇から、ぜひ皆さんの抱える問題に対して解決となる御言葉を、語りたいという思いに駆られる。
 だが御言葉を準備する段階でキリストは、私が「不信仰なわたしを、お助けください」と叫ぶようになるまで取り扱い給う。御言葉を人に語るな、ただ自分自身に語れ、と。私が皆さんの問題を忘れたかのように―本当に忘れているわけではなく、忘れたかのように―、ただ私自身の不信仰を問題とするよう、キリストは私を導き給う。
 実は御言葉を準備する段階で一番大事なこと、それはどうやったらより効果的に語れるかとか、どうしたら分かりやすく語れるか、それらに腐心することではない。最も大事なこと、それは私自身が、他の誰よりも助けられなければならない、不信仰な者であることを知ること。キリストに私自身が助けを叫び求めること、これである。このことを、伝道者の業界用語で「御言葉と格闘する」という。

 伝道者の間で言われる「御言葉との格闘」とは何か。私は以前は、どうしたらうまく話せるか、とか、聖書の歴史的背景の勉強とかの工夫のことだと思っていた。だがそれは間違っていることに最近気づく。それも大事だが、実はそんなものは格闘ではない。軽い。本当の意味で血みどろの格闘とは、御言葉の迫りを受けて、私自身がその御言葉に服従する、そのプロセスが正に戦いなのである。モンスター・ペアレントというのが世の中では問題となっているようである。私の場合は、モンスター・セルフ、つまり「怪物のような自己」との戦いに、エネルギーと時間を要する。この戦闘には時間がかかる。苦しい葛藤を経なければならない。一筋縄にはいかない。自分自身の心を観察した結果、御言葉との格闘によって、主に3つの不従順が取り扱われなければならないと感じた。

御言葉との格闘によって扱われなければならない3つの不従順

1.無意識の不従順―心が鈍くなっており、御言葉が響いてこない。

2.自己意識の欠如の不従順―御言葉のメッセージを、自分自身へのメッセージととらえられていない。

3.強情の不従順―自分が何をするべきか知りながら、心を頑なにして従おうとしない。

 第一は、心が鈍くなっているから、聖書を読んでもそのメッセージが心に響いてこない、という不従順である。これを「無意識の不従順」と名付けてみた。自分で不従順になろうとしているわけではないが、御言葉が素通りしてしまっているので、結果として御言葉に従えないでいる。聖書の意味は分かっても、ただの読み物になってしまっている。心が耕されていない。それで御言葉が心に触れない。だから聖書の言葉が響いてくるよう、まずは心が耕される必要がある。この時点で中々苦しい戦いが始まっている。

 第二は、自分自身の問題として捉えられていないから、聖書を自分自身に当てはめられないでいるという、不従順である。これを「自己意識の欠如の不従順」と名付けてみた。なるほど、聖書の教えが心に響いてきた。だがまだ聖書の言葉を、「問題を持っているあの人にいいかも」と思ってしまっている。まだこの私自身の不信仰が取り扱われなければならない、という思いに至れていない。あるクリスチャンの言葉を借りれば、自己意識の増すところに、キリスト教の真理が増す、という。たとえある御言葉が心に残っても、それを人に当てはめている間は、やはりこの私が従えてない、ということで、不従順に留まっている。

 第三は、迫りを受けても、心が頑ななため、まだキリストの前に服するに至れていない、という不従順である。これを「強情の不従順」と名付けてみた。この真理を知っていながらそれに従わない不従順を、あるクリスチャンは、悪魔的な不従順と呼んだ。実際、悪霊共は、何が真理であるかを知っている。だが彼らはそれに従わないのだ(ヤコブ2:19-20)。私は自分の心に真理を知りながら、それに従おうとしない強情があることを認めなければならない。私が自分自身を「モンスター・セルフ」と呼ぶ所以である。

 そういうわけで、私にとって本当に御言葉に服するには、実に大変な内面の戦いが必要。主と共に過ごし、心を取り扱われることが必要。実は誰よりもキリストを必要としているのは、他の誰でもなくこの私自身である。そのことを認めて、私が自分を明け渡す決断をする…これらの密度の濃い自分の内なる時間は、格闘とならざるを得ない。このことを「御言葉との格闘」と呼ぶ。

 もう一つ、御言葉との格闘の特徴は、「負けるが勝ち」ということ。私の強情が勝つならば、実は負け。もし私の自我がキリストの前に全面降伏するなら、キリストが勝利を取り、私もその勝利に預かることができる。

 福音書記者マルコによれば、息子は逆説的にも、父親が彼の癒しを願っている間は癒されず、自分自身の悔い改めに至ったとき、救われたことを記録する。

 今日この場所でも、同様のことが起こることを願っている。つまり私の悔い改めにより、この場所でキリストが勝利を取ってくださることを信じている。そしてキリストの勝利は、ここに集うお一人お一人のいやし、解放、助けとなることを信じている。

 私たち一人一人がキリストの前に全面降伏し、悔い改めるようになることを願って、ジャクソンに賛美をしてもらおう。私と共に、「不信仰な私をお助けください。あなたに全面降伏いたします。」そういう祈り心をもって、歌詞に耳を傾けていただければ幸いである。

 聖歌565(541) みなささげまつりわがものはなし