「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」 ルカ22:31-34
  主の2008.10.26礼拝

知り合いの牧師がアメリカに行き、一軒の家を訪問しました。その家の主人が、「私はここで日々祈っている」と小さな部屋を牧師に見せてくれました。部屋の壁に日本地図があり、牧師の教会のある町が赤く囲ってあり、そこに何と自分たち一家の写真が貼ってありました。牧師は「海を越えたアメリカで自分たちは祈られているのだ」ということを知って、感謝で涙が溢れてきました。祈っているアメリカ人は日本に行ったことはありませんが、日本伝道に派遣された宣教師から「日本のために祈って下さい」という祈りの要請を受けて、日本地図とそこに貼られた牧師一家の写真を見ながら日々に祈り、尊い献金を送ってくれていたのです。

本日の聖書個所はルカ22:31-34です。キリストは弟子のシモン・ペテロに対し、「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」(32節)と告げています。このやりとりのすぐ後で、ペテロは十字架にかかる直前のキリストとの関係を三度問われ、三度とも「私は無関係です」と言って、先生であるキリストを裏切ってしまいます。しかし、復活されたキリストによって、裏切りを赦され(ヨハネ21:15-22)、聖霊の力を受けて、ペテロは初代教会を導く使徒になって行きます。彼は「ペテロの手紙第一・第二」を記し、その手紙の中で、迫害下にあるクリスチャンに対し、キリストの救いの恵みと共に、どんな困難があっても信仰を貫いて行こうという励ましのメッセージを伝えています。アメリカの一信徒が日本の牧師のために祈り続け、祈られた牧師は伝道者としての使命を忠実に果たして行きました。ペテロのために祈られたキリストは、今は天国で父なる神様の右に座して、私たちのために執り成しの祈りを捧げておられ(ロマ8:34)、私たちの信仰が支えられていることを感謝します。

今朝も主のメッセージを聴き、祈って、新しい一週間の旅路へと出発いたしましょう。



内容区分

1、キリストは、弱い者を個人的に守って下さる助け主である。22:31-32前半、33-34-

2、キリストは、私たち一人一人のために祈っておられる愛の主である。22:32後半

資料問題

本日の個所は過越の祭の時、キリストが十二弟子と過越の食事をされている場面で言われた言葉である。食事の途中でユダはキリストを敵に渡すために退席している(ヨハネ13:26―30)。31節「シモン、シモン」、ペテロの本名であり、キリストは彼の名を2回呼んで、大事なことを伝えようとしている。「麦のようにふるい(篩)にかける」、麦とから(殻)を振り分けること。弟子達が受ける試みがひどいことをさしている。キリストの受難は、サタンの第一の攻撃(4:13)の続きであり、最後のものである。サタンがヨブを試みること(ヨブ1:1-12)を神様は聞き入れたように、弟子達をも(31節「あなたがた」とある)誘惑することが許された。34節「ペテロよ」、ペテロは岩の意である。キリストがシモンをペテロと呼ぶのは、ルカではここだけである。




1、キリストは、弱い者を個人的に守って下さる助け主である。22:31-32前半、33-34

「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」(31-32節前半)。「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(34節)。

この場面は、キリストが十字架にかかる前の晩の出来事です(キリストの十字架は金曜日なので木曜日の晩)。ユダヤでは過越(すぎこし)の祭の時であり(現代の2-3月)、定められた食事の儀式に従って家族が夕食を食べるという決まりになっていました。キリストは弟子達と共にエルサレム市内の家の二階座敷で、過越の食事を守りました。その様子が22:14以下に記されています。その食事の時に、キリストは十字架を記念する聖餐の式を定め、それは現代に受け継がれ、私たちも「キリストの十字架は私のためでした」ということを確認し、記念し、思い起すために聖餐の式を守っています。この大事な食事の途中で、裏切り者ユダはキリストを敵に渡すために出て行き(ヨハネ13:30)、残った弟子達は、「自分たちの中で誰が一番偉いのか」ということで争い合っています。キリストは弟子達を諌め、「本当に偉い人とは人に仕える者である」と教え、「あなた方はわたしと試錬を共にしたので、やがて神の国に入り、永遠の命の祝福に与るであろう」と教えています(22:14-30)。そして、シモン・ペテロにキリストが個人的に語りかけている本日の場面につながっています。この場面から、まずキリストが弱い者を個人的に守って下さる助け主であることを知って行きましょう。

第一に、キリストは私たちに個人的に語りかけて下さる主です。

キリストはペテロに個人的に語りかけています。「シモン、シモン」(31節)とペテロの本名を2回も呼んだということは、「これから大事なことをあなたに知らせる。心の耳を開いてよく聴きなさい」というキリストの愛の気持が込められています。名前を呼ぶということは、その人の人格を重んじ、大切にしている印です。もし、私たちが「そこのおっさん、おばさん」と呼ばれたとしたら、「私にはちゃんとした名前があります」と言い返すでしょう。・・・・この後で献児式(幼児祝福式)を行ないますが、子どもの名前は兄になる5歳の慧が「丈夫の丈(じょう)で、丈くんです」と皆さんに紹介していますが、両親、慧、親族、そして周りの人々に「丈くん、丈くん」と毎日名前を呼ばれながら満1ヶ月を迎え、もう自分は丈であるということが分かっていると思います・・・・。

聖書朗読のイザヤ43:1で「わたしはあなたの名を呼んだ」と言われていましたが、キリストは私たちの名前を呼んで個人的に語りかけて下さいます。キリストの語りかけを聴くために、テレビを消して、携帯を切って、人から離れて、一日にたった15分でいいですから静まり、聖書を読み、祈るならば、主の御声が心に響いてきます。ある方が、自分はあまり役にたたない者であると思ってしまった。そう思ったら心が淋しくなった。サタンはいつも私たちの心に否定的、消極的思いを吹き込み、やる気を無くさせ、信仰の喜びを奪い取ろうとします。その方は、朝早くおきて主イエスキリストに祈った。そうすると、主の命の力が自分の心に満ちてくるのを感じ、消極的、否定的な思いが吹き飛んでしまった。心に平安と喜びとをもって生きて行くならば、神様が喜んで下さる、そして信仰によって生きることの素晴しさを自分の身をもって表すことができると信じることができて、心に平安が戻ってきました。祈りは必ず神様の許に届いて行きます。祈りを通してキリストが個人的にその人に臨んで下さったのです。

第二に、キリストは私たちの弱さを知っておられます。

ペテロは「主よ、私は牢屋にも行きます。先生が死ぬのでしたら私も死にます」と言い切っています。私たちも、自分はけっこう強いし、多少のことがあってもへこたれないと思っています。教会生活も順調だし、けっこう聖書のことも分ってきたという気持があります。ペテロは12使徒の筆頭弟子としての誇りをもち、皆よりも主の御心をよく分っていると自負していました。しかし、キリストに個人的に「シモン、シモン」声をかけられる直前まで、ペテロ自身も「誰が一番偉いか」ということで争い合っていた一人です。ですから彼が弟子の中で優れているとは言えないはずですが、そんな事は忘れて「私こそが弟子の中の弟子である」とペテロは思っていました。ところが、この場面の直後に(22:39-62)、キリストとゲッセマネの園で祈りますが、彼は眠りこけてしまいます。キリストが逮捕された時に、裁判所である大祭司の邸宅まで行きますが、「あなたもキリストの仲間だ」と言われて、キリストの予告どおりに三回も「その人を知らない」と言ってしまい、彼は激しく泣き続けます。34節で「ペテロよ」とありますが、ペテロは岩という意味です。キリストは、31節ではシモンと呼んだのに、ここでわざわざペテロと呼ぶことによって、「あなたは岩といわれているほど、自分のことを強い信仰の持ち主だと思っているかも知れないが、そのあなたが鶏が鳴くまでに三度わたしを裏切る。自分の強さを誇ると失敗する」と彼に教えているように思われます。

使徒パウロは「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(Ⅰコリント10:12)と言っています。パウロは大使徒であり、強い信仰の持ち主であり、第三の天にまで引き上げられた霊的に優れた人であり、彼の記した13通の手紙が新約聖書となっているほどの人物です。パウロを見ていると、信仰の力で何でも出来る偉大な人物のような感じがしますが、ところが彼には幾ら祈っても癒されない持病がありました。必死になって祈る彼に、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」というキリストの御声が響いてきました(Ⅱコリント12:1-10)。彼は主にすべてを任せ、私は信仰が強い、私が祈れば何でも聴かれるという人間的誇りを捨て、ただひたすらキリストに縋って信仰の道を歩んで行きました。そして自分が弱いことを認め、キリストに縋って行くことによって、主の力を受けて祝福の日々を歩むことが出来たのです。信仰生活の秘訣は、自分の弱さを知り、認めることです。その時に、キリストが私の重荷を担って軛(くびき)を共にして下さる主であることを実感することができます。自分の弱さを知り、認める時に、はじめて人の弱さや痛みや苦しみが分ってきて、人に対する愛の祈りが生まれ、思い遣る心が与えられ、人を審(さば)くことがなくなってきます。

第三に、キリストに個人的に縋ることを決意いたしましょう。

今朝、主にご自分のことを祈って下さい。主は、「地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主、その名を主と名のっておられる者がこう仰せられる、わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そして、あなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す」と約束されています(エレミヤ33:2-3)。また、「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」(エレミヤ29:11)という主の語りかけを信じ、主の御名によって祈りましょう。



2、キリストは、私たち一人一人のために祈っておられる愛の主である。22:32

「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それであなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(32節)

私たちが、信仰を一生涯持続して、最終的に天国の門を潜ることが最終ゴールです。信仰を保ち続けるために幾つかのことを考えてみます。

第一に、キリストによって選ばれ、信仰を与えられているという恵みを信じることです。

キリストは「あなたの信仰がなくならないように祈っている」と言われていますが、その信仰はキリストが下さったものです。私事になりますが、私は16歳の時にキリストを信じて洗礼を受け、今日まで信仰生活を続けてきました。そんなに信仰が強いわけでもなく、意志が堅固でもなく、もし迫害が起きたら「死んでも従う」ということができるかどうか怪しい者ですが、ともかくも信仰を無くすことなく今日まで歩んでこられたのは主の憐れみによるものであることを感謝しています。高校時代、卒業前後に5名の友達にキリストのことを話し、教会に一緒に行きました。それぞれ頭の良いスポーツの好きな友達でした。一人は明確に拒否しました。二人は暖簾(のれん)に腕押しで反応しませんでした。一人は求めて何回か教会にも出席し、いろいろ話したのですが、卒業を境に音信不通となり、しばらくして自殺という知らせがありショックでした。一人は「信じる」と言ったのですが、転居し、それで教会から離れるようになってしまいました。そして最初の年に大学にも落ちてしまったボンヤリ者の私が何故か信仰に踏み止まるように導かれ、教会生活を続け、神学校に行き、牧師となり、今日に至っています。これはキリストの選びの故であると信じ、次の御言葉を心に刻んでいます。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である」(エペソ2:8)。私は信仰を賜物として与えられていることを感謝します。この与えられた信仰の賜物を無くさないために、私が常に思っていることはキリストの言われた「わたしの愛のうちにいなさい」(ヨハネ15:9後半)という御言葉にしがみつき、教会から離れなかったことです。私が10代の終わりに決意したことは、礼拝と祈り会に休まないで出席するという単純なことです。16歳の時から日曜礼拝だけで多分2700回以上出席していると思います。特に若い方々に勧めることは礼拝を休まない、そして祈り会に出席することが人生に祝福をもたらすという事実です。話は飛びますが、若い皆さんには誰か好きな人が現れることでしょう。その相手はキリストを愛する人であり、集会を重んじ、共に出席する人であることが、幸せな人生を築く絶対条件になります。このことを忘れないで下さい。

第二に、信仰を互いに励まし合って行くことです。

キリストは、「あなたが立ち直った時には、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。ペテロは主を裏切るという手痛い失敗をしましたが、キリストによって信仰の回復を与えられました。彼は後にペテロ第一・第二の手紙を記し、「試練を恐れず、キリストに頼って信仰の道を進もう。キリストはまもなく再臨する」ということを伝え、迫害下のクリスチャンを励ましています。

私たちが教会に集うように召されているのは、互いに励まし合うためです。励まし合う源はキリストの愛です。次の御言葉を自分に当てはめて下さい。「互いに忍びあい、もし互いに責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるしてくださったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に愛を加えなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯である」(コロサイ3:13-14)。

神学生の時に、ある老牧師が自分の神学生時代の事を話してくれました。その牧師が若い神学生時代に仲間の学生達と何か言葉の行き違いがあり、それが争いになり、口もきかなくなってしまい、顔も見たくもない、ゆるせないという気持を抱え、悶々としていた。しかし神学生ですから説教の番が廻ってくる。教会派遣があり、奉仕がある。だが恵まれない心では真実の奉仕ができない。その時に「主もあなたがたをゆるしてくださったのだから・・・」という御言葉が心に飛び込んできて、打ちのめされ、キリストの十字架を見上げてオイオイと泣き崩れ、不信仰を悔改めた。すると清々しい、きよい、キリストの愛が心に流れ込んで来て気持がすっきりとした。すぐさま仲間の学生達に笑顔をもって接し、また力いっぱいに奉仕に励むようになったということを涙まじりに話してくれました。教会はキリストの愛をもって互いに励まし合い、赦し合い、祈り合う場です。

第三に、祈って下さっているキリストを仰ぎ見て信仰生活に励むことを決意いたしましょう。

キリストはきょうも私たちのために祈っておられます。御言葉を読みます。「信仰の導き手であり、その完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(ヘブル12:2)。信仰を与えて下さったキリストに感謝し、また仰を完成して下さるキリストに信頼して、キリストを見上げて、キリストから目を離さないで、互いに愛をもって励まし合って信仰生活を前進して行きましょう。



まとめ

1、31-32節前半、34節、キリストは、弱い者を個人的に守って下さる救主です。個人的に語りかけて下さる主に信頼し、自分が弱い者であることを認め、重荷を共に担って下さる主に縋って信仰生活を前進いたしましょう。

2、32節、信仰を与えて下さった主に感謝し、主に罪を赦されていることを感謝し、互いに祈り合って、励まし合って、キリストを見上げて信仰生活を前進いたしましょう。



祈 り

天の神様、キリストの救いを受けて神の子にされていることを感謝します。私たちの信仰が無くならないように祈っておられるキリストを見上げ、信仰一筋の日々をおくらせて下さい。病気や問題の中にある方々に癒しと勝利への道を開いて下さい。午後の集まり、夕べの礼拝を祝福して下さい。12月23日クリスマス祝会に向かって、全教会員が祈り、奉仕し、多くの方々に声をかけて「キリストを喜び、キリストを伝えるクリスマス祝会」となるように導いて下さい。この後に献児式を行ないますが豊かに祝福して下さい。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:ルカ注解―黒崎、榊原、フランシスコ会、米田、LABN、バークレー、矢内原。