「わたしだ、恐れることはない」 ヨハネ6:15-21         主の2008.11.2礼拝



外国の空港に降り立ち、手続きを済ませてから到着ロビーに出ます。外国ですから日本語の通じない所であり、日本語の表示もありません。さて、どちらへ行けば良いのかと思案している時に、人込みのかなたから「お迎えにきました」という日本語が響いてきて、出迎えの人が笑顔で手を振りながら近づいてくる姿を見て、「ああ良かった」と安心します。空港には色とりどりの服装をした多種多様な民族が、それぞれの国の言葉で話し合い、スピーカーからは飛行機の発着のアナウンスがその国の言葉で絶えず流されています。そうした喧騒の中で、普段聞きなれている日本語で「お迎えにきました」という言葉は、直接に心に届いて、ホッとした思いになります。

本日はヨハネ福音書6:15-21です。20節に、「わたしだ。恐れることはない」というキリストの御言葉があります。日が暮れ、暗くなったガリラヤ湖(南北20キロ、東西9キロ。天候が変り易く、時に突風が周囲の山地から吹き下る)が強い風で荒れ出し、弟子達の乗っている手漕ぎの舟が進まないで立ち往生している時に、キリストが湖の上を歩いて舟に近づき、彼らを励ましている御言葉です。弟子達は、キリストが暗い湖の上を歩いてくるのを見て、最初は「幽霊だ」と言って恐れ惑いましたが(マルコ6:48-52)、「わたしだ、恐れることはない」というキリストの力強い語りかけを聞いて限りない安心を与えられ、キリストを舟に迎え入れて無事に目的地に着くことができました(マルコ6:51参照)。私は、世界の様々な言葉が飛びかう外国の空港で、日本語の呼びかけを聞いて安心しましたが、キリストは波立ち騒ぐ夜のガリラヤ湖で右往左往している弟子達に「わたしだ、恐れることはない」と呼びかけ、彼らに安心を与えています。

今朝、キリストは私たち一人一人に、「わたしだ、恐れることはない」と呼びかけておられます。キリストは心の痛み、病気、経済問題、人間関係のもつれ、家族の救い、先行き不安など私たちが抱える全ての重荷を背負って下さり、軛(くびき)を共にして下さる救主です(マタイ11:28)、キリストに縋り、祈って、神の力をいただいて、希望をもって新しい一週間の旅路へ出発いたしましょう。



内容区分

1、キリストは、祈りによって人生の苦しみを潜り抜けた祈りの主である。6:15

2、キリストは、「わたしだ、恐れることはない」と私たちを励まし、支えて下さる主である。6:16-21

資料問題

15節「ただひとり、また山に退かれた」、人々はパンの給食の奇蹟によって、キリストを来るべき預言者であり、またパンを供給してくれる王として担ぎ上げようとした。しかしキリストの王国はこの世のものではないので(18:36を見よ)、キリストは群集を離れ、ひとり静かに祈っておられる。19節「四、五丁」、5,6キロ。原文では25ないし30スタディオンで、1スタディオンは185メートル。「彼らは恐れた」、暗い湖面を歩いているキリストの姿を見て、弟子達は幽霊だと思って恐れた(マルコ6:46-52を見よ)。「わたしだ(わたしである)」、エゴー、エイミという言葉。新約ではイエス・キリストを「主」と呼ぶ。主はギリシャ語でキュリオス。旧約聖書のギリシャ語訳はまことの神ヤハゥエをキュリオスと訳している。ヤハウェは出エジプト3:14「わたしは有って有る者」、「わたしは有る」と名乗る真の神である。教会は、キリストを主・キュリオスと告白する。ここではキリストが自ら「わたしである、エゴーエイミ」と宣言され、ご自分が神であることを鮮明にされておられる。21節「イエスを舟に迎えようとした」、キリストを舟に迎えたのである(マルコ6:51)。「行こうとしていた地に着いた」、詩篇107篇30節の成就。



1、キリストは、祈りによって人生の苦しみを潜り抜けた祈りの主である。6:15

イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた(15節)

ヨハネ6章のはじめに、キリストが五つのパンと二匹の魚を男性だけで5000人の人々に分け与えた奇蹟を行っています。人々は豊かな食事を与えて下さったキリストを預言者として崇め、またキリストを自分たちにパンを供給してくれる王にしようと企てました。しかしキリストは群集を離れ、ひとり静かに祈るために山に退かれています(マルコ6:4参照)。キリストは、群集が自分を王にしようと願っているのは、パンを与えられたからであって、キリストが語る神の言葉に感動したからではないことを知っていました。パンの奇蹟の後に、弟子達に舟で湖の向こう側に行くように指示し、ご自分は祈るために山に登って行かれ、神様の御心を求めて祈っているのが15節です。キリストの姿を通して、三つのことを教えられます。

第一に、キリストが、この世の王となることを拒んでいるのは、私たちと同じ苦しみや涙を体験されるためです。

キリストは「わたしは人からの誉れを受けることをしない」(5:14)と言われ、神の独り子であるのに、敢えて人の苦しみ、痛みを体験する人生を歩んで下さいました。キリストは馬小屋に生まれるという貧しさの極致から地上生涯を歩み始めました(ルカ2:6)。30歳まで大工をしながら、額に汗して働き、地上における母マリヤと多くの弟妹たちを養う生活の厳しさを体験されています(マルコ6:3)。30歳から救主として伝道の生活に入りましたが(ルカ3:23)、時には空腹を抱えて井戸の傍に座り込み(ヨハネ4:6)、夜になっても安心して枕を置いて寝る場所のないホームレスの苦しみを身をもって味わっています(マタイ8:20)。病気に苦しむ人々の病気をご自分の身に引き受けて、癒しています(マタイ8:16-17)。兄弟を亡くして墓の前で泣くマリヤを見て、キリストも涙を流されました(ヨハネ11:35)。疲れをも厭わず、一晩かけて湖の向こう岸に渡り、レギオンの悪霊に取り付かれ、墓場で寝起きしている惨めな男性から悪霊を追い出し、人生の再出発を与えています(マルコ4:35-5:20)。3年半も手塩にかけて愛し、訓練した弟子のユダに裏切られ、十字架にかかる直前には弟子は逃げ去ってしまうという人間関係の破れを体験しています(マルコ14:10-11、50)。そして人間の苦しみの根源は罪にあり、血を流すことなしには罪の赦しはありえないという神の定めに従って(へブル9:27後半)、キリストは私たちの罪の身代りとして、そのきよい命を十字架の上に捧げて下さいました(Ⅰペテロ2:24)。キリストは、自分を王にしようとする群集を振り切り、人の苦しみを味わい、人に仕え、そして十字架に命を捧げるためにこの世に来られたことを思いつつ、ひとり山に退いて祈っています。

第二に、キリストは、何をするにも先ず祈りをなさっています。 

本日の聖書個所直前で、キリストは5000人にパンを分け与えるために感謝の祈りを捧げています(6:11。マタイ14:19天を仰いで祝福し)。キリストは朝早くから祈って、一日の活動を始めています(マルコ1:35)。12弟子を選ぶために徹夜の祈りを捧げています(ルカ6:12)。弟子達が伝道から帰って来た時に、聖霊によって喜びに溢れて祈っています(ルカ10:21)。ゲッセマネの園で血の汗を流して祈り、十字架へ向かう決断をしています(ルカ23:44)。十字架の上で、自分を十字架につけた人々の赦しを祈っています(ルカ23:34前半)。甦って天に帰られたキリストは、今、天の父である神様の右の座にいて、私たちのために執り成しの祈りを捧げています(ロマ8:34)。

第三に、私たちはキリストに倣(なら)う者になることを決意すべきです。

私は牧師として、日曜の朝・夜の礼拝で、水曜の朝・夜の祈り会で、火曜―土曜の早天祈祷会で、繰り返し繰り返し聖書を通してキリストの恵みを説教という形で伝えています。皆さんはキリストのことは何回も何回も聴いているはずです。教会において、キリストのことが語られることによって、語る私自身も、聴いている皆さんも、「私はキリストによって救われている。もっともっと救いを与えて下さったキリストの恵みを知り、知るだけではなく、キリストに全面的に従い、キリストに似る者となるようにさせて下さい」ということを決意することが求められています。私事ですが、私について事実無根のことを言い触らされたことがあります。弁明したい気持、その人の所に行きデマをまきちらなさいように求めることなどが頭をよぎりました。その時、「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。罵られても罵り返さず苦しめられても、脅かすことをせず、正しいさばきをする方に、一切をゆだねておられた」(Ⅰペテロ2:22-23)という御言葉が心に浮かんできました。また私たちの霊的親であるクラー宣教師夫妻が教えてくれた言葉も思い出されました。「主に祈りなさい。とにかく祈りなさい。人に言わないで、主に祈りなさい」と。私は主に祈って、沈黙することを決断しました。その時に、「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル13:5後半)という御言葉が与えられ、心が平安になりました。その結果、生きておられ、すべてを見ておられる主に委ねたことによって、主がすべてを恵みに導いて下さいました。

皆さんの問題は何でしょうか・・・・祈りましょう。キリストは言われました・・・・「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)・・・・今週も祈りましょう。



2、キリストは、「わたしだ、恐れることはない」と私たちを励まし、支えて下さる救主である。6:16-21

イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」。そこで彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた。(20-21節)

弟子達は、夕方にガリラヤ湖の向こう岸に行こうとして舟に乗っています。手で漕ぐ小さな舟ですが、ペテロをはじめ漁師出身の人がいるので、舟は順調に進んで行くはずでした。しかし、ガリラヤ湖は周りの山から突然に風が吹き降ろしてきて、荒れやすい所です。この時も突風が吹き降ろして来て、手漕ぎの舟は進むことができず、岸辺から4,5キロの所で立ち往生していました。すると、何かが湖面を滑るようにして舟に迫ってきています。それはイエス・キリストが揺れ動く湖面の上を踏みしめるようにして歩いている姿であり、それを見た弟子達は恐れ惑っています。その時に「わたしだ、恐れることはない」というキリストの呼びかける声を聴いて、弟子達の心に安心と共に喜びが湧きあがってきました。彼らはすぐにキリストを舟に迎え入れ(21節は舟に迎えたの意)、舟は無事に目的地に着くことができたのです。この記事の中からキリストの恵みを知ることができます。

第一に、キリストの助けは人知を越えた助けであるということです。

もうすっかり暗くなり、波立ち騒ぐ湖面で舟は進まず、頼りにしている先生のキリストは一緒にいません。無線電話も携帯電話もない、明かりもない中で、暗闇に包まれ、ゴーゴーと吹き荒れる風の音と共に波が高くなり、舟が沈みそうになっています。不安に駆られ、困り果てている弟子達の姿が目に浮かびます。その時に、キリストが水の上を歩いて弟子達を助けに来たのです。これは人知を越えたキリストの不思議な助けです。

ある女性が、聖書を読み、キリストを信じ、3ヶ月後に神学校へ入りました。ところが、その神学校で、「祈りは静かに祈りなさい」と指導され、声を出して祈ると変人扱いを受けました。自由に祈れず、魂が枯れ果ててしまい、神学校をやめて郷里に帰ることにしました。帰郷の途中で入院中の姉を見舞った。すると不思議なことに、姉はキリストを知っていて、ふたりでキリストにすがって祈り、魂の渇きがいやされ、心は平安に満ち溢れました。そして聖霊を与えられて自由に祈りをするようになり、それから喜びの日々を送り続けています。自由に祈る事を止められ、信仰を失いかけていた時に、病院で重症の姉がキリストに捕らえられるという、人知を越えたキリストの愛の導きによって、信仰の恵みを得たのです。

第二に、キリストは「わたしだ、恐れることはない」と呼びかけて下さる、生きている救主です。

暗闇の中で、「わたしである」というキリストの声を聞いて、弟子達の不安は一瞬にして吹き飛んだと思います。家族に電話をかけている人は自分のことを「私よ、私」と言っています。私というだけで家族には通じます。この場面でも、キリストが「わたしである」と言われたことによって、弟子達は安心を得ることができました。しかし、ここでキリストが言われた「わたしである」という言葉は、私たちが電話で「私よ、私です」という意味以上に深い意味が込められています。この「わたしである」という言葉は、「主である」という意味なのです。私たちは「主よ」と言って祈りますが、それは「神様」と呼ぶのと同じ意味です。

(註:聖書の示す神様はヤハウェと呼ばれる。古くはエホバと言われたが、正しい発音はヤハウェである)

「わたしである」と言うのは「わたしは主である、神様である」ということです。「わたしである」という

言葉の出所は出エジプト3:14にあります。そこには神様(ヤハウェ)は「わたしは、有って有る者」、あるいは「わたしは有る」と言われています。キリストが弟子達に「わたしである」と言われたのは、この出エジプト記の「わたしは有ってある者」と同じ意味なのです。ですから「わたしである」という言葉によって、キリストは「わたしは神である」ということを自ら宣言されたのです。キリストは神ですから、湖の上を歩く事が出来たのです。キリストは神ですから嵐を静めることができました。神であるキリストによって舟は目的地に無事に着いています。「わたしである」というのは、キリストは神であるということの宣言です。

「わたしである」というのはヨハネ福音書に何回も出てくる重要な言葉です。例えば、キリストが逮捕される時に、ローマの兵隊が「ナザレのイエスを捕まえに来た」と叫びます。するとキリストが「わたしである(わたしがそれである)」と答えています。すると捕らえにきた兵隊どもが一斉にバタンと後ろに下がってひっくり返ってしまったと記されています(ヨハネ18:5-7)。「わたしである」と言っただけで人々が打ち倒されたのは、キリストが神様としての力をもつお方であることをハッキリと示しています。

私たちは様々な恐れに満ちた世の中に行きます。政治も経済も混沌としています。そういう大きな問題に加えて、個人的に様々なものに囲まれています。病気のことがあります。家族のことがあります。結婚のことがあります。仕事の問題があります。人間関係のもつれがあります。クリスチャンであるのに、心の中に人を赦せないというな嫌な思いがあります。今朝、今、キリストは「わたしだ、恐れることはない」と呼びかけておられます。キリストに自分を任せて祈るならば、助けが与えられ、心に喜びが満ちてきます。

そこで、第三に、主に祈りましょう。キリストに頼って祈りましょう。

キリストはあなたを愛しておられる主です。十字架の上で全ての罪を赦し、心に喜びを与えて下さった主です。キリストは私たちに聖霊を送り、祈るように導いておられる主です。



まとめ

1、6:15、キリストは、祈りによって人生の苦しみを潜り抜けた祈りの主です。主は苦難の人生を歩まれて、私たちの苦しみを理解される主です。主は先ず祈ってから進んで行かれました。私たちも主イエス・キリストに倣って祈りましょう。祈りを通して助けの道が開かれて行きます。

2、6:20-21、キリストは、「わたしだ、恐れることはない」と私たちを励まし、支えて下さる救主です。主を信じ、主に祈りましょう。必ず助けが与えられ、喜びが心に満ちてきます。



*祈りましょう。聖歌521「主のみ手に頼る日は」を歌い、祈りましょう。「わたしである」という御言葉によって、神であることを宣言され、嵐を静め、弟子達に喜びを与えて下さったキリストに頼る信仰をもって讃美をささげ、祈りましょう。讃美している間に主の恵みを求める方々は前に進み出て恵みの座で祈りましょう。



祈 り

天地の主である神様、神様を現すためにこられたキリストの救いに感謝し、助けのみ手に感謝します。「わたしである」という神様としての愛と力とをもって、私たちの諸問題に答えて下さるイエス・キリストの恵みを信じます。あらゆる求めに人知を越えた不思議な方法で助けて下さることを信じます。病気の方々に速やかな癒しを与えて下さることを信じます。11月の中でキリストを信じる方々を起して下さい。12月のクリスマスに向かって、聖霊による祈りの一致をもって諸準備を積み重ねて行くように導いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献・ヨハネ注解―榊原、黒崎、フランシスコ会、バークレー、LABN、Ryle、文語略解、米田、ホートン