ナルドの香油 ヨハネ福音書12:1-8          主の2008.11.9.礼拝



本日は、礼拝のはじめに「こども祝福式」を行なうことが出来て幸いでした。赤ちゃんから小学生まで20人の子ども達がいます。少子高齢化の時代で、20人の子どもがいることは主の祝福であり、明日の教会にとっての希望です。子どもたちの名前を覚えて下さい。一人一人がキリストを信じる光の子どもとして、心も体も真っ直ぐに、健やかに成長して行くようにお祈りして下さい。

今年もクリスマスの季節が近づいて来ました。もうクリスマスプレゼントの用意を始めている人もいると思います。神様は、最愛の独り子イエス・キリストを地上に遣わし、キリストの十字架を通して、私たち人間の救いの道を開いて下さいました。クリスマスは、神様が私たちの救いのために、神の独り子イエス・キリストをプレゼントして下さった恵みの日です。神様の愛に感謝しつつ、私たちはクリスマスプレゼントを通して、多くの方々に愛を表し、感謝の気持を伝えます。

本日はヨハネ福音書12:1-8です。ベタ二アのマリヤは、高価で純粋なナルドの香油300グラム、値段は300デナリ(当時の労働者一年分の賃金)をキリストの足に塗り、キリストへの愛と感謝を表しています(3節)。惜しげもなくキリストに注がれた香油の香りが部屋いっぱいに広がりました。するとユダが「これはムダなことだ」と批判しています。ところが、キリストはマリヤの献げた香油を心から喜び、「彼女はムダなことをしたのではなく、これから十字架にかかるわたしのために葬りの備えをし、わたしへの愛を現してくれたのだ」と言っています。愛は損得を越え、愛する人に自分の最も大事にしているものを惜しみなくプレゼントします。ユダは損得から物事を考える人であり、マリヤは愛から物事を考え、キリストに喜ばれることはなんであろうかと考え、それを実践した人であることを知ることができます。

今朝、ナルドの香油の物語から、主のメッセージを聴き、主の御心を教えていただき、主に従う決断をし、祈って、新しい一週間の旅路へ出発して参りましょう。



内容区分

1、まことの愛は、キリストにひたすら尽くし、献げることを喜ぶ。12:1-3、7-8

2、偽りの愛は、キリストを除外し、打算的であり、献げることを嫌う。12:4-6

3、愛をもって主に奉仕を献げ、愛をもって人々に仕えて行こう。Ⅰペテロ4:7-10

資料問題

この記事はマタイ2:6-13、マルコ14:3-9に並行し、ルカ7:36-50は異なる記事である。1節「過越の祭の6日前」、ニサンの月の10日(日曜日)であった。3節「ナルドの香油」、インドのヒマラヤ原産植物甘松香の根から取った高価な香油。雅歌1:12、4:14にも出てくる。「一斤」、約300グラム。5節「300デナリ」、1デナリは当時の労働者一日分の賃金。300デナリは一年分の賃金に相当する。4節「ユダが言った」、他の弟子も言っている、マタイ26:8、マルコ14:4を見よ。7節「葬りの日のために」、マリヤはキリストの死の近いのを直感的に知ったのである。




1、まことの愛は、キリストにひたすら尽くし、献げることを喜ぶ。12:1-3、7-8

その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤をもってきて、イエスの足に塗り、自分の髪の毛でそれを拭いた。すると香油のかおりが家にいっぱいになった(3節)。イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから」(7節)

この場面はキリストの地上生涯が終る頃、すなわち十字架の死が迫って来ている時です。キリストは、過越の祭の6日前、現在の3月10日(日)ごろにあたりますが、ベタニヤの村に行き、マルタ、マリヤ、ラザロの家で多くの人と夕食を共にしておられます。マルタが夕食の給仕をしていますが、彼女は、以前に「自分ばっかりが働いている」とキリストに文句を言ったことがあります(ルカ10:38-42)。しかし、彼女は自己中心の心をキリストによって打ち砕かれ、今では喜んで、心を込めて夕食の備えをし、給仕する事によってキリストへの愛を表しています。そこへマリヤがナルドの香油一斤(300グラム)をもって来て主の足に塗り、自分の髪の毛でそれを拭(ぬぐ)い、芳香が家中に満ちあふれるという出来事が起こりました。当時の人々は横向きに寝そべるような形で足を投げ出し、左手で体を支え、右手で食べ物をつまんで食べていたので、マリヤはキリストの足に香油を注ぐ事が出来たのです。ナルドはインド原産の植物で、その根より取った油がナルドの香油で大変高価でした。300デナリは労働者の一年分の賃金に相当します。マリヤはキリストの死が目前に迫っていることを感じ、自分の持っている最も大事なものを献げ、キリストへの愛を表したのです。

*マリヤを通して三つのことを学ぶことが出来ます。

第一に、愛は計算をしないということです。

マリヤは自分の持っている最も尊いものを、全部キリストのためにつかっています。計算を抜きにした、ただひたすらキリストを思う愛をもってナルドの香油を献げています。何かよく分らないが、キリストの前途に危険が待ち受けている。もしかしたら、先生は命を捨てるようなことになるのかも知れない、ということを感じて愛を込めて香油を献げたのです。キリストは「マリヤのしたことは、わたしの葬りのためにしたことである」と言われて喜んでいます。愛はこまごまとしたことを計算し、それに見合うものを求めるようなことをしません。

第二に、愛は謙虚です。

人の頭に油を注ぐことは、注ぐ人にとっても栄誉のしるしです。マリヤはキリストの頭に香油を注いだのではなく、キリストの足に注いでいます。「私はイエス様の頭に油を注ぐ資格などない小さな者です。私はイエス様の僕です。ですから、せめてイエス様の足に香油を注いで、私の愛と感謝を表したいのです」という謙虚な気持を込めて香油を惜しみなく献げています。

第三に、愛は人目をはばからないということです。

マリヤはキリストの足に香油を注ぎ、それを自分の髪の毛で拭(ぬぐ)っています。この地方で女性が公の場に出る時は髪をくくっていました。髪をくくらないで公の場に出るのは、不道徳な女のしるしとされていました。マリヤはキリストの死を直感していたので、葬りの備えのために、とにかくナルドの香油を注がなければならないと示されて、髪の毛のことなど忘れてしまって、なりふりかまわず人前に出てキリストへの愛を表し、その愛の香りが家中に満ち溢れています。

新聞に小学生の女の子の投書が出ていました。「電車で坐っていたら、お年寄りが乗ってきた。席を譲ろうかなと思ったがなかなか立てなかった。思い切って立ったら、他の人に坐られてしまった。そしたらお年寄りの人が降りる時に『ありがとう』と言ってくれた。今度からは進んで席を譲ろうと思った」。分っていても、人目を気にして、人に愛を表すことは結構できないものです。その子は次の機会から出来るようになるでしょう。ひるがえって、私たちが自らをクリスチャンですと表すのはどうでしょうか。キリストへの愛をもって、人目をはばからずに、いつでも堂々と、「私はクリスチャンです」ということを言い表して行くことが大切です。

愛は計算せず、愛は謙虚であり、愛は人目をはばかりません。マザー・テレサのことは多くの方々が知っていると思います。彼女は、インド・カルカッタの路上で死にかかっている人を施設に運び込み、体を綺麗に洗いきよめ、人間らしく死んで行くように最後を看取ってあげるという奉仕から出発し、ハンセン病患者の施設もつくりました。病気が移ると周りの人々に反対され、死に行く人のために尽くしても一銭にもならない、何の報いも期待できない働きと言われたこともあります。ところが、キリストの愛に動かされて、世界中から多くの方々が献身してマザー・テレサの働きに加わり、彼女が天に召された後も活動は継続されています。身近なところでは上野公園ホームレス伝道があります。比留間夫妻は文字通りすべてを投げ打ってホームレス伝道に献身しています。ホームレスの人々に伝道し、食べさせ、仕事を世話しても、何の報いもありません。持ち出し一方の伝道です。ふつうの人の伝道をして教会を形成して行くほうが先決であるという人々もいます。しかし、政治が切り捨てて救済をしないホームレスの人々のために、上野ホームレス伝道が10年も続いていることは主の恵みであり、熊谷の教会が9年、月一回ですが、人目をはばからずホームレス伝道のお手伝いを継続させてもらっていることを感謝します。今年はあと2回の奉仕です。おにぎりをたくさん握って献げて下さい。

きょうの礼拝の事を考えても、教会掃除、週報準備印刷、お花が活けられ、子ども祝福式のプレゼント購入、包装があり、音楽奉仕、音響、プロジェクター担当、車で送り迎え奉仕、手話通訳、英語通訳、駐車場の奉仕などなど数多くの事柄があります。一人一人がキリストへの愛をもって奉仕にあたっていることを感謝します。私たちもそれぞれの方々に対し感謝の思いを表し、主の祝福を祈って行きましょう。



2、偽りの愛は、キリストを除外し、打算的であり、献げることを嫌う。12:4-6

弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、「なぜ、この香油を300デナリに売って、貧しい人たちに施さなかったのか」。彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。(4-6節)

*ユダのことを三つの面から見ておきます。

第一に、ユダは、キリストから信頼されていました。

キリストは、ユダが背く事を知っておられました(6:70-71)。それでも彼を信頼し、会計係りに任じています。キリストはユダの心の中に悪い思いがあるのを知っていましたが、彼を信頼し、彼に大切な会計を任せることによって、彼の心に触れようと努めたのです。キリストは、「ユダよ。あなたはわたしを裏切ろうとする悪い思いを持っている。だが、わたしはあなたを信頼する。わたしはあなたを必要としているから」と呼びかけ続けていました。その呼びかけを退けて、ユダはキリストを裏切る方向へ突っ走って行ってしまいます。キリストのユダに対する態度から、間違った道に進む者に対して、最悪を予想して接するのではなく、最後の最後まで最善を期待して接することが重要であるということを教えられます。

第二に、ユダを通して、誘惑の恐ろしさを知ります。

サタンは私たちの弱点を通して誘惑の手を伸ばしてきますが、その逆に私たちの得意分野を通しても働きかけてきます。ユダは頭がよく、会計係りをするほど数字に強かったと思います。金を扱うのに適した人がいると、お金を世の中で最も大切なものと考える誘惑が襲ってきます。人の上に立ちたいと考えている人は、地位を求め、自分の名誉が高められることしか考えないようになって行きます。映画、テレビドラマで出演者の名前が出ますが、その名前の順序をどのようにするかがドラマを制作する以上に難しいということです。ユダにはお金を管理する能力があり、それがお金を愛するようになり、お金が欲しいという欲望がふくらんで、お金をごまかして自分のものにするようになりました。そして、遂にはお金ほしさに、キリストを裏切る大きな罪を犯してしまいます。



*ここで、お金についての聖句を読んでおきます。



わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば足れりとすべきである。富む事を願い求める者は、誘惑と、罠とに陥り、また人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲張って金銭を追い求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。(Ⅰテモテ6:7-10)



先日アメリカの教会の働きがニュースでありました。アメリカはカード社会で現金を持たずにカードで買物をするので、いつの間にか収入以上の買物をし、借金漬けになって破産状態の人々が数多くいます。そこで教会では、神様に先ず十分の一献金を献げ、借金をしない生活をするためにカードの使用を控えることなどを教えて多くの人々が恵みを受けていることを報じていました。今、世界的に経済が危機状態です。神様が信じる者を守り、働く力を与えて下さいます。私たちは与えられたお金を先ず神様に献金し、そして欲張らない生活をして行くことが大切です。

第三に、ユダの冷たい心を見ることができます。

彼はすべてをお金に換算しています。ナルドの香油は300デナリはする。それを人々に分け与えれば、キリストの名声は高まり、弟子の自分も有名になると考えたようです。あくまで自分中心に物事を考えています。貧しい人を助けるという立派な考えを自分は持っているという事を示して、自分の不正をウヤムヤにしようとしています。それに対し、キリストは「貧しい人はいつもいる。だから機会を見つけては彼らを助けなければならない。わたしはこれから十字架にかかるのであり、それはただ一回のことである。その機会を逃さないで、マリヤは大切な香油を使い、この家に香油の香りが満ち溢れたように、わたしの十字架のことは、これから世々に渡って伝えられるであろう」ということをお答えになっています。ユダのような冷たい心ではなく、マリヤのようにキリストへの愛を表して行くように祈りたいと思います。



3、愛をもって主に献げ、愛をもって互いに祈り合って行こう。Ⅰペテロ4:7-10

万物の終りが近づいている。だから心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。何よりもまず、互いの愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものだからである。不平を言わずに、互いにもてなし合いなさい。あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの管理人として、それをお互いのために役立てるべきである。(Ⅰペテロ4:7-10)

きょうの聖書個所を通して、マリヤとユダのことを知りました。私たちはキリストを愛し、キリストに仕える者であることを感謝します。最後に、ペテロの第一の手紙4:7-10の御言葉を心に留めて、主に仕えて行く思いを新たにして、主に祈って行きましょう。聖書朗読の詩篇116:6で「わたしが低くされたとき、主はわたしを救われた」とうたわれていました。ユダのような頑なな心にならないように、ベタニヤのマリヤのように素直な心になって、主に仕え、人に仕えてまいりましょう。

クリスマスに向かって祈りと共に準備が進められています。ひとりでも多くの方々に救主イエス・キリストを知らせ、救いに導くために、12月23日(火・祝日)クリスマス祝会が『キリストを喜び、キリストを伝えるまことのクリスマス』となるように、聖霊の助けを求めて祈り続けて下さい。そして全員が「キリストを伝える声かけ隊」として、家族、友人、知人にクリスマスの案内をして下さい。



まとめ

1、12:3、6、まことの愛は、ひたすらキリストに尽くし、献げることを喜びます。まことの愛は計算をせず、謙虚であり、人目をはばからず主への愛を表します。 

2、12:4-6、偽りの愛は、キリストを除外し、献げることを嫌います。ユダはキリストの信頼を踏みにじり、誘惑に負け、冷たい心になって、遂に先生であるキリストを裏切って、破滅に陥って行きました。ユダが陥った金銭の誘惑に負けることがないようにテモテ第一の手紙6:10「金銭を愛することは、すべての悪の根である」という御言葉を忘れないで下さい。

3、Ⅰペテロ4:7-10、マリヤのようにキリストへの愛をもって行きましょう。互いのために祈り合いましょう。互いの愛を熱く保って行きましょう。愛は多くの罪をおおうからです。



祈 り 

 天地の主である神様、キリストの救いに感謝します。ベタニヤのマリヤのようにキリストに対する清い愛をもって、主に仕え、人に仕えて行けるように導いて下さい。人を愛の目をもって見ることができるように、聖霊によってキリストの愛を心に満たして下さい、人のために心を込めて祈る祈りを与えて下さい。救われる人々を起こして下さい。病気の方々に癒しの恵みが速やかに与えられることを信じます。年クリスマスのために、祈りをもって結束し、多くの方々に救主イエス・キリストを伝える真のクリスマスを捧げるように導いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:ヨハネ注解―榊原、黒崎、佐藤順、バークレー、フランシスコ会、LABN、羽鳥。