キリストの愛に迫られ、満たされて コリント第二5:13-15         主の2008.11.23礼拝



本日の原稿はきちんとした文章ではなく、要点を記したメモのような形になっています。


「人間は考える葦である」という言葉で知られているフランス・パスカル(1623-62)の遺書 『1654年11月23日、月曜日、夜10時半から12時半ごろまで。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。哲学者や、学者の神ではない。確実、確実、直感、喜び、平安。イエス・キリストの神、わたしの神、またあなたがたの神。あなたの神はわたしの神です。・・・永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることであります。イエス・キリスト、イエス・キリスト。・・・もうどんなことがあろうとも、彼から離れることがありませんように。・・・イエス・キリスト、そしてわたしの指導者へのまったき服従。地上の試練の一日に対し、永遠の喜び。わたしはあなたの御言葉を忘れません』(メモリアル抜粋)。パルカルは上着のエリにこの遺書を縫い込んでいた。彼が31歳の時のもの。彼は天才的な数学者であったが、キリストを心から愛する者でしった。


コリント第二5:13-15。(お読みします)


この手紙を記したパウロは言う。「わたしは気が狂ったようになっている。それほどまでにキリストの愛が強く強く迫ってきている」。キリストの愛が強く迫ってきて、キリストの愛に取り囲まれているようである。キリストの十字架を信じるだけで救われた。感謝だ、うれしい!感謝が溢れてくる。キリストの愛が迫ってきて気が狂わんばかりにうれしい。わたしはキリストの愛に満たされて、キリストきちがい(JESUS CRAZY)になって、この救いを全ての人々に伝えずにはいられないというパウロの気持ち。クリスマスを間近にしています。私たちのために十字架にかかるために来られた救主イエス・キリストの恵みを讃えつつ、クリスマスに向かって行こう。



①なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。5:14前半



この手紙を記した使徒パウロは、最初はキリストに反対する迫害者であった。彼はユダヤ人で、神によって救われる者はユダヤ人であり、ユダヤ人に旧約聖書が与えられている、そこに記されている律法を守ることによって人は救われるのだと信じていた。ところがユダヤ人イエス・キリストが現れ、救主であると言い、十字架にかかり、人の罪の身代りになった。ユダヤ人も、外国人も、誰でもキリストを信じれば救われる。しかもキリストは復活して生きているという。現実にユダヤ人も、そして外国人もキリストを信じ、クリスチャンになり、教会が盛んになっている。パウロは教会を迫害、クリスチャンを逮捕し、牢に入れた。その彼に復活のキリストが現れ、彼は地面に叩き倒され、遂にキリストを信じた。それほど強くキリストの愛が迫ってきた。キリストは迫害者の彼に救いの手を差し伸べ、彼を生まれ変わらせた。彼は生まれ変わったので洗礼を受け、伝道の働きに入って全世界を駆け巡ってキリストを伝えた。

パウロが受けたキリストの愛は『それでも』という愛。

普通の愛は「もし」という愛。これは条件つきの愛。「もし、あなたが信仰に反対せず、迫害をやめれば救ってあげよう。愛してあげよう」。

普通の愛は「だから」という愛。これは理由つきの愛。「あなたは信仰に熱心である、奉仕もしている。だから救ってあげよう」。

パウロの受けたのは「それでも」の愛・・・あなたはわたしに反対し、クリスチャンを迫害している。愛される条件を満たしていない。あなたはわたしに愛される資格、理由もない愚か者だ。だが、それでもわたしはあなたを愛そう」という条件、資格、理由を問わず、「あなたはわたしにとって尊い存在だから、あなたを救おう」という愛です。十字架の上の強盗(ルカ23:40-43)。もしあなたが真面目になればという人生をやり直す機会もなく、あなたは聖書に従っていたという理由、資格もないのに、それでもわたしがあなたの罪を赦し、神の子にし、天国を連れて行こうといういうのがキリストの愛。パウロは、十字架にかかって、無条件で私たちを赦し、永遠の命を与えて下さったキリストの愛が強く迫ってきていると言っているのです。



②ひとりの人がすべての人のために死んだ・・・5:14後半



キリストが十字架で死んだのはすべての人のためであり、私のためでしたということを感謝する。

キリストの十字架の死はすべての人のため・・・・ずっと以前、刑務所に入って、今仮釈放中という方が夜の礼拝に来ていた。獄中にいる人にもキリストの愛は届く。厳しいイスラムの戒律の中にいる人々の中からクリスチャンになる方々がいる。コーランの国にもキリストの愛は届く(クラー宣教師の娘さん夫婦はインドネシヤで英語教師をしながら伝道している)。昨日は上野ホームレス伝道でしたが、人生の吹き溜まりの中にいるような人々の中からクリスチャンになり、人生をやり直している方々がいる。ホームレスの人々にもキリストの愛は届く。毎日お経をあげていた和尚さんが、どんなにお経をあげても心が暗かった、煩悩が消えなかった。ところが聖書を読み、キリストの十字架を信じたら、煩悩が吹き飛んで、罪の赦しと共に心の中に平安、感謝、喜びが満ち溢れて、お経の代わりに讃美をうたう者に変えられ、牧師になった。お寺にもキリストの愛は届く。みなさん一人一人が、この私を含めて、すべての人のために死んだキリストによって救われているのです。

14節前半の「キリストの愛が強く迫っている」というのは、単に迫ってきているというのではなく、私たちをキリストに結びつける、しっかり支える、支配するという意味がある。キリストが私たちを責任をもって支配し、支えて下さるという愛をもって迫ってきている。

まことのキリスト信仰とは、「キリストが私のために死んで下さった。そして愛をもって迫り、私を支え、守り、責任をもって導いて下さる。このキリスト一生涯にわたって信じ続けること」です。

まことのキリスト信仰は、キリストに身を献げる。

バルト・・・「信仰に生きるとは、ただ一つ、信仰のABCを実践することである」。信仰のイロハ、基本に忠実、基本を絶え間なく実践することです。

①キリストに身を献げているならば、聖書を読んでキリストの恵みを心に深く留めることです。

②キリストに身を献げているならば、毎朝起きて主の御名によって祈って下さい。

一日に15分の時間をとる。5分聖書を読む、5分その御言葉を自分に当てはめ黙想する。5分を祈る。15分が30分になり、1時間になって行く。

③キリストに身を献げているならば、しっかり礼拝、祈り会に励んで行きましょう。真剣に考えて下さい・・・先週は休んだが、きょうは教会だ。あれ、11時なのにだれも来ていない、牧師もいない。ああ、再臨だ。取り残されたということのないように、きょうという日に互いに励まし合って集会に出席しましょう(へブル3:13,10:24)。

シユバイツアー(1875-1965)、少年時代に両親の礼拝の姿を見て育ち、信仰をもち、一生をアフリカ医療伝道に献げた。私たちの集会に取り組む姿は大切。





③・・・・生きている者がもはや自分のためではなく、自分のために死んで甦って下さった方のために生きるためである。(5:15)



愛は力をもつ。愛する人がいれば綺麗になり、生きる喜びが心より湧いてくる。

仕事、学問、芸術を愛し、いろいろなものを産み出す。パウロはキリストの愛を受けた。彼はユダヤ人以外の人は神の愛の外にいると思っていた。だがキリストはユダヤ人のため、外国人のため、すべての人のために死んで下さったことを知って、彼は変わった。

彼はキリストに倣って生きる者になった。



人種、身分、すべてを越えてキリスにトあって一つである。

キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もなくギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは、皆キリスト・イエスにあって一つだからである。(ガラテヤ3:27-28)

パウロは、ユダヤ人の枠を越えて、世界の人々に福音を伝えて行きました。

キリストにあって赦しを実践する者になる

神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたはあがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。互いに情け深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互いにゆるし合いなさい。(エペソ4:30-32)

*クリスチャン二人の人の実話。Aさんが「Bさんが、自分のことを侮辱した」と怒った。赦せないと言う。あやまれと要求。ところがBさんは、侮辱した覚えがないと言って取り合わなかった。Aさんはますます怒りだし、皆にそのことを言い触らした。ところがBさんが「私があなたのことを侮辱したということ、スミマセン。あやまります」と心からわびた。実際のところはAさんの誤解に基づくものであったのですが、しかしBさんはあやまった。そしてふたりは主にある交わりを続けています。

キリストは罪がないのに十字架にかかり、私たちの身代りになって神様にお詫びをしてくれたのです。キリストが誕生されたクリスマスが近づいてきました。愛と赦しを与えるためにキリストはこの世に来られた救主です。キリストの愛をいただいて、赦すが勝ちです。あやまるのが勝ちです。

ある牧師が言っていました。「ひとりの人が礼拝に出席し、メッセージを聴いて、牧師に挨拶して帰って言った。そしたら、真夜中にメールが入って、きょうの説教はとんでもなかったということを言ってくる、牧師としてはヘコミマス」と。しかし、「いつも覚えていただいてありがとうございます」と返事しますとのことでした。牧師たちは苦労しているようです。私も牧師ですが、私は皆さんに祈られ、支えられている事を感謝します。これからも私のために祈り、励まして下さるようにお願いします。



祈ります。

天地の主である神様、キリストによって救われていることを感謝します。キリストの愛によって罪を赦され、心の傷が癒されたことを感謝します。キリストに自分自身を献げて行きます。聖書に親しみ、祈りをささげ、集会に励んで行きます。キリストにあって互いに受けいれ会い、赦し合って行く者にして下さい。クリスマスに向かっての祈りが積まれ、諸準備が皆の一致協力のもとに進められて行くように導いて下さい。私たちの家族、友人、知人がクリスマスに集えるように声をかけ、共にクリスマスを祝うように導いて下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。