救い主来たりたもうーキリストを迎えた人々(Ⅱ) マタイ2:1-12  

主の2008.12.7アドベント第二礼拝


キリストが命の光であることを表すロウソクが2本灯り、アドベント第二週に入りました。先週のアドベント第一週の日曜日午後、滑川の教会墓地「やすらぎの里」で、召天者記念礼拝を行いました。墓誌に記された名前を見ながら、天に行かれた方々を偲び、家族のことを思い、十字架と復活によって、私たちに罪の赦しと永遠の命を与えて下さったイエス・キリストの愛に感謝の祈りを捧げました。その後に、田島さんが勤務している埼玉県立「嵐山郷」に行きました。心身に重い障害をもち、一人では歩く事も食べる事もできない方々が、寝ながら、車イスに坐りながら、職員に抱きかかえられながら、クリスマス讃美を中心とする教会さんびを聴いて下さいました。福音書を読むと、キリストの周りには、体の不自由な人々、病気で苦しんでいる人々、社会から疎外されている人々などが大勢集まってきています。彼らは、「あなたは愛されるために生まれた、あなたの生涯は神の愛で満ちている」という主の慰めの御言葉によって、生きる希望の力を受けています。愛の与え主である、イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない(ヘブル13:8)生きている主であることを信じ(ヘブル13:8)、参加者一同が讃美を通してキリストの愛を入所者と職員さんにお届けできたことを感謝します。直接、「嵐山郷」に行かれた方々に感謝し、背後で祈って下さった皆様に感謝します。

12月に入り、クリスマスが間近です。天の栄光の位を投げ棄てて人間となり、私たちに十字架の救いを与えるために来られたイエス・キリストに感謝しながら、クリスマスに備えて参りましょう。

本日はマタイ2:1-12です。ユダヤから何千キロも離れた東の国から博士達が、輝く星に導かれて旅をし、キリストを礼拝しに来た事が記されています。この場面は、ラクダに乗ってヒゲを生やした博士たちの絵で多くの人々に知られています。クリスマスを前にして、「救い主来たりたもうーキリストを迎えた東の博士たち」の場面を通して、主のメッセージに耳を傾け、祈って、2008年クリスマスに備えて参りましょう。



内容区分

1、キリストは、求めるすべての人に現れて下さる救主である。2:1-9

2、キリストは、信じる者の礼拝を受け入れ、祝福して下さる。2:10-12

資料問題

1節「ヘロデ王」、ヘロデ大王(在位37-4BC )。「ベツレヘム、エルサレム南方10キロにある村でパンの家という意味。ダビデの故郷である(サム上16:1,17:12,20:6)。「博士マーゴイ(単数形はマーゴス)」、マギと呼ばれ、占い、占星術、医術を行なっていた。しかし、本来のマギは高潔な真理を探究する善良は聖い人であった。2節「東の方でその星を見た」、民数記24:17に「ヤコブから一つの星が出(高貴の人の生まれを象徴する)、イスラエルから一本の杖が(王位の象徴)起り」とある。6節はミカ5:2からの引用で、最後はサム下5:2に合わせている。11節「黄金」は王への贈り物、「乳香」は祭司への贈り物、「没薬」は死者への贈り物である。




1、キリストは、求めるすべての人に現れて下さる救主である。2:1-9

イエスがヘロデ王の世に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたはどこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。(1-2節)

今から200年ほど前、イエス・キリストがユダヤのベツレヘムに誕生した時、東の博士達がキリストを尋ねてエルサレムに到着しました。(ルカ福音書では、生まれた直後に、羊飼いが飼馬オケの中に布にくるまって寝かされていたキリストを礼拝しに駆けつけています。ルカ2:8-20)。突然に現れた来訪者にヘロデ王やエルサレムの人々が不安を感じ、大騒ぎをしていますが、律法学者はミカ書から、救主誕生の地がエルサレム南方10キロのベツレヘムであることを示し、博士達は星に導かれて救主を礼拝するために出かけて行きました。

*東の博士達の来訪から次の恵みを知ることができます。

第一に、神様は、求めるすべての人に分け隔てなくキリストの救いを与えて下さいます。

このマタイ福音書は直接にはユダヤ人に向けて書かれたもので、ユダヤ人が持っていた旧約聖書からの引用が多数記されています。例えばマタイ1:1―17には旧約聖書に登場する人物の系図が記されています。ユダヤ人は「自分達は神に選ばれた者であり、救主はユダヤ人の中から生まれる」と信じていました。事実、キリストは救主の系図であるアブラハム・ダビデの家系の中に誕生しています。ところが羊飼い達を除いて、誰も救主イエス・キリストの誕生に気づかず、遠く何千キロも離れた地にいた博士達が不思議に輝く星を発見し、エルサレムにやって来たのです。歴史を振り返ってみると、キリスト降誕560年ほど前にユダヤの国はバビロンによって滅ばされ、多くの民が捕虜としてバビロン(今のイラン・イラクあたり)に強制移住させられ、70年間暮したことがあります。その時に旧約聖書が現地の人に伝えられ、「ヤコブから一つの星が出(高貴な人が生まれるとの意)、イスラエルから一本の杖(王位という意)が起る」(民数記24:17)という星に関する事柄が博士達に受け継がれ、それが彼らのエルサレム訪問につながったと考えられます。キリストは求めるすべての者に救いを与えて下さる救主です。お寺に生まれ、経文を聞いて育ち、結婚した女性がいました。夫は腕のいい職人でしたが、気が向いた時だけ仕事をするので子どもを抱えて経済的に苦しく、夫を怨んでいました。ふとした時にクリスチャンに出会い、恥も外聞も忘れて教会に飛び込み、キリストの救いを受けました。生活はあまり変りませんでしたが、夫を怨む気持が消え、イエス様に縋って生きて行く力が与えられ、子どもを育て上げ、夫を天に送ることができました。人種、男女、宗教、学歴、家柄、貧富に関わりなく、求めるすべての人にキリストの救いは与えられます。

第二に、キリストの救いは砕けた、素直な心の持ち主に与えられます。

博士達はプライドを棄てて、「ユダヤ人の王として生まれ、世界の救主になるお方はどこに生まれたのでしょうか」と尋ねています。博士というのは星を研究する人、哲学、薬学、自然科学に秀でている人、星占い師などの説がありますが、本来は高潔な真理を探究する善良な聖(きよ)い人のことをさしています。博士達は人から相談を受け、人から頭をさげられる立場にいます。しかし、博士達の目的は自分のほうから頭を下げて、謙って救主を礼拝したいというところにありました。ヘロデ王は王としてのプライドと権勢欲のために救主の誕生を否定し、抹殺しようと企んでいます。学者達は聖書を知っているのは自分達だけであると高ぶり、聖書を研究のために読むだけで、救主誕生の事柄について無関心です。ダビデは、「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる」(詩篇34:18、聖書朗読の個所))と主に祈っています。クリスマスを前にして、心の中心にキリストを迎えて、まことのクリスマスに向かって行きましょう。キリストはユダヤ・ベツレヘムの馬小屋に生まれて下さいました。今年で2008回のクリスマスをお祝いすることになりますが、キリストを自分の心に迎えていなければ、何十回クリスマスを迎えても、まことのクリスマスを祝うことにはなりません。キリストは、今あなたの心の真中におられると思いますが、キリストを心の中心において2008年のクリスマスを霊とまこととをもってお祝いするために、祈って備えて参りましょう。

第三に、キリストを求め、前進することが大切です。

博士達は、旧約聖書に基づく学者達の答を得て、ベツレヘムに向かって出発しています。信仰は後ろのものを忘れて、前のものに向かって進んで行くことです。今年もクリスマスをお祝いしますが、新しい大勢の方々が共にイエス・キリストの降誕をお祝いすることを信じて、日々に祈りが積まれ、諸準備がなされています。博士達を星が導いたように、主は私たちを導き、用いて下さいます。クリスマスに集うすべての人々の心にキリストの救いの恵みが豊かに与えられるように祈って行きましょう。主の素晴しい栄光を見る2008年のクリスマスになることを信じて前進いたしましょう。

2、キリストは、信じる者の礼拝を受け入れ、祝福して下さる。2:10-12

そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬などの贈り物をささげた。(11節)

博士達ははやる心を抑えながら、エルサレムの南方10キロにあるベツレヘムを目指しています。彼らは神の御言葉に従って進んでいますが、その御言葉が確かであることを示すように、彼らが東で見た、あの輝く星が頭上にきらめいているのが見え、彼らは遂にキリストの許に導かれ、ひれ伏してキリストに礼拝を捧げています。

*東の博士のキリスト礼拝から次のことを教えられます。

第一に、キリストを礼拝する喜びを教えられます。

10節にはキリストに出会う前に、博士達の心は非常な喜びにあふれています。今朝、礼拝を捧げるために集っていますが、皆さんは家を出る時から、「きょうは礼拝の日だ。皆と一緒にイエス・キリストに讃美をささげよう。祈りを通して主の愛に満たされ、新しい力を与えられることを感謝しよう。神の御言葉によって心を養われ、今週も御言葉によって日々を導かれて行く恵みを受けよう。主にある兄弟姉妹と会えることを感謝し、今週も愛し合い、祈り合い、赦し合い、助け合って行こう」という思いをもって、祈って礼拝に来られたことと思います。実際には、喜べないような問題や病気もあります。牧師も、何故か土曜日に、けっこう大きな問題や相談事が突発的に入ってくることがよくあります。心を恵まれて、体調を整えてと思っていますが、ペースを乱されます。しかし、「憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8:10)との御言葉によって、聖霊によって気持を切り替え、日曜日を迎えるように祈り、本日も講壇に立っていることを感謝します。

パウロは迫害によってロマの地下牢に閉じ込められ、トイレに行く時も自分の手と番兵の手とを縄で繋がれているという不自由な監禁生活を送っていました。その獄中から、彼は「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」(ピリピ4:4)という希望に満ちた呼びかけをして、クリスチャン達を励ましています。

皆さんは喜んでいますか。「私は苦しんでいる」という人は、祈りましょう。「私は喜んでいる」という方々はもっともっと主を讃美しましょう。病気の人は主の御名によって、手をおいて祈ってもらいましょう。主が立ち上がる力を下さいます(ヤコブ5:13-15参照)。

第二に、博士達の捧げ物に深い意味があることを教えられます。

博士達は、ひれ伏してキリストに礼拝を捧げています。礼拝は主に捧げるものです。現代ではキリストが日曜日に復活したことを記念して、日曜礼拝が捧げられています(地域の状況によって日曜以外の礼拝も必要です)。現在、この教会では日曜の朝と夜に礼拝があります。そしで水曜日の朝と夜にも週の半ばの礼拝といわれる祈り会があります。火曜日―土曜日には朝6時から早天祈祷会があります。クリスチャンであれば、一週に一度は教会の集まりに出席して、御言葉を聴き、祈り、献金をすることが大切です。2008年も日曜礼拝はあと3回です。23日(火・祝日)のクリスマス祝会を加えると4回です。年末の忙しさの中ですが、互いに祈り合って主を礼拝して参りましょう。

クリスマス讃美では、博士は三人と歌われています。それは黄金、乳香、没薬という三つの献げ物から、いつの間にか三人ということになったようです。博士達が献げた三つの捧げ物は、キリストにふさわしいもので、それぞれに深い意味があります。

黄金は王への捧げ物です。

黄金は、全世界どこへ行っても通用する価値のあるものです。イスラエル旅行に行った時に、ホテルの泊り客であるご婦人が踊りを踊っていましたが、周りに集まってきた人々に、自分の身につけていたネックレスのほかに金を出して売っていました。売れたかどうか見届けませんでしたが、ユダヤの人は価値ある金をもって、万が一の時に備えている事を知りました。キリストは黄金を受けるにふさわしい、私たちの王であり、すべての人の心を支配する王としての力をもっています。しかし、それは王座からではなく、十字架からの支配です。コロサイの手紙ではキリストは全宇宙の創造主であるといわれています(コロサイ1:16-17参照)。ところが、キリストはすべてを棄てて私たちの罪の身代りに十字架につき、救いの道を開かれた救主です。私たちは罪を赦された恵みを感謝し、キリストを自分の心の王座に迎え、王として崇めて行くことが大切です。

乳香は祭司への捧げ物です。

芳しい乳香は、神殿において礼拝と犠牲がささげられる時に用いられたものです。祭司の務めは何でしょうか。それは、人が神の許へ行く道を開くことです。祭司は神と人との間に橋をかける役目をします。「神は唯一であり、神と人との仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。彼はすべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、それは、定められた時になされた証にほかならない」(Ⅰテモテ2:5-6)。この御言葉のように、キリストは、私たちが神様に行く道を開かれた救主です。

没薬は死者への捧げ物です。

没薬は死体に塗るためのものです。キリストは十字架にかかって死ぬためにこの世に来られたお方であることが表されています。キリストは人として生まれ、33年半の人生の最後に十字架に命を捧げて救いの道を開かれた救主です。

黄金は王に、乳香は祭司に、没薬は死に定められた人にということですが、博士達の捧げ物はキリストがまことの王、完全なる祭司、死をもって人々を救う救主になることを表すものでした。

第三に、私たちも、博士達のように真心を込めて主を礼拝し、主に感謝の献げ物をして行こう。

キリストを心から迎えた博士達のように、私たちもキリストを迎える心の備えをして行きましょう。

クリスマスを前にして祈りましょう。先ず心がキリストに向けられ、私たちを救うために来られたキリストをほめ讃へ、キリストを心の真中に迎えることが真のクリスマスです。

キリストの恵みに応えて感謝の献金を献げましょう。

それぞれに託された奉仕を感謝を込めていたしましょう。祈りの一致、奉仕の一致をもって、共に2008年クリスマスを迎えましょう。



まとめ

1、2:1-2、キリストは求めるすべての人に現れて下さる救主です。私たちもキリストの救いの恵みに与っていることを感謝し、クリスマスに向かって行きましょう。

2、2:10、キリストは礼拝を受けるにふさわしい唯一の救主です。黄金の捧げ物を通してキリストが王であること、乳香の捧げ物を通してキリストが私たちを神の御許に連れて行く祭司であること、没薬の捧げ物を通してキリストが十字架によって救いをもたらす救主であることが表されています。

2008年のクリスマス、博士達のように、謙ってキリストを礼拝しましょう。私たちの家族、友達、周りの方々と一緒にクリスマスをお祝いするように祈って行きましょう。



祈 り

天地の主である神様、独り子であるイエス・キリストをクリスマスの日にこの世におくって下さり、私たちの救いの道が開かれたことを感謝します。博士達のように、キリストを礼拝し、心からの献げ物をささげ、クリスマスを喜び祝うことができるように導いて下さい。家族、友人らとクリスマスを共にお祝いできるようにして下さい。問題のある人、仕事を求めている人、病気の人を、主よ、恵みをもって導き、癒しの御業を現して下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:マタイ注解―尾山、フランシスコ会、バークレー、黒崎、LABN、シンプソン、文語略解、口語略解。