救主来たりたもうーきょう我らはキリストを迎える ヨハネ1:9-13 主の2008.12.21クリスマス礼拝
ロウソク4本が灯り、2008年クリスマスの週になりました。小学生時代に、各学年が交代で劇、音楽などを発表する学芸会がありました。テレビも何もない娯楽の乏しい時代でしたので、全学年が講堂に鮨詰めになりながら、楽しい一日を過ごしたことを思い出します。小学五年の学芸会の時に、六年生の劇があり、その内容は全く覚えていませんが、劇で歌われた「諸人こぞりて迎えまつれ」という讃美歌をその場で覚えてしまいました。2番は「鋼鉄(くろがね)の扉 打ち砕きて 捕虜(とりこ)を放てる、主はきませり(3回繰り返す)」という歌詞でしたが、「鋼鉄(くろがね)の扉って一体なんだろう」と思っていました(讃美歌112では「悪魔の獄(ひとや)を打ちくだきて」)。のちに、鋼鉄(くろがね)とは鉄を意味し、黒い重い鉄の扉の中に、人間は罪の奴隷としてサタンの捕虜であったが、キリストがサタンを打ち破り、鉄の扉を開き、人間を罪より解放して下さった、ということを知りました。この讃美から、クリスマスはキリストが誕生し、33年半の人生を歩まれ、十字架にかかって私たちの罪の身代りになり、救いの道を開いて下さったことをお祝いする日であるということが分かります。
本日の聖書はヨハネ1:19-21です。この個所には、「キリストはすべての人を照らすまことの光である。ところが多くの人々はキリストに気づかず、気づいても信じようとしない。しかし、キリストを信じた者は生まれ変わって神の子になる特別な恵みを与えられている」ということが告げられています。きょうはクリスマス礼拝です。子どもさんびの中に、ユースバンドの演奏の中に、聖歌隊のさんびの中に、皆さん一人一人が主イエス・キリストの愛と恵みを実感された事と思います。
ここにいる全ての方々が救主イエス・キリストを心の中にお迎えし、真のクリスマスを喜び祝う者であることを信じ、主に感謝を捧げます。ではご一緒に主のメッセージを聴いて参りましょう
内容区分
1、人生には二つの道がある。一つはキリストを信じない、滅びへ至る道である。1:9-11
2、人生には二つの道がある。一つはキリストを信じ、永遠の命へ至る道である。1:12―13
資料問題
9節「まことの光」、まことの(アレーシノス)は不完全な実現に対する完全な実現を意味する。すなわちキリスト以前のすべての光は光の実体ではなくその輝きであり、またその断片に過ぎなかった。光の本体はキリストである。11節「自分のところ」、イスラエルを指す。「受け入れなかった」、受ける(パララムバノー)は公に家に迎え入れること。12節「受け入れる」、ラムバノーで、個人的に迎える事。11節ではイスラエルが国民としてキリストを迎えるべき事を示し、ここでは個人個人が信仰に入るべきことを述べている。「その名」、名は本質を示すもので、彼の名を信じるとは彼自身を信じる事である。「力」、許可、権能、能力。13節「血脈(ちすじ)によらず、肉の欲によらず、また人の欲にもよらず」、人間の血統関係によっても、また肉即ち堕落している状態で願っても、また人間の意志によって決意しても、神の子は生まれない。私たちはキリストを信じ受け入れて神の子になることが出来たが、それは以上のような方法ではなく、ただ神の意志により、神の愛の結果、霊的に生まれたのである(3:6)。
1、人生には二つの道がある。一つはキリストを信じない、滅びへ至る道である。1:9-11
すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受け入れなかった。(9-11節)
クリスマスというと、私たちは光、輝きなどを連想します。例えば先週のルカ2章では、羊飼い達が夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた時に、主の栄光が彼らをめぐり照らしています。12月になると、街路樹が点滅ライトで飾られ、多くの家が競争しているかのようにクリスマスの電飾を輝かせています。12節で、「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた」と言われています。この光とはイエス・キリストのことです。光が暗闇を照らして全てを明るくするように、救主イエス・キリストは私たちの心を照らす命の光です。現在、多くの人間は命の光をもっていないので、生きる希望と正しい人生を歩めないで迷っています。命の光の源は神様ですが、人間は神様から離れてしまっているので、命の光を失っているのです。実は、最初の人間は命の光をもっていて、エデンの園で暮していました。命の光に照らされて、命の与え主である神様に従い、人間は満ちたりた恵みの日々を送っていました。ところが、忍び込んできたサタンの誘惑に乗り、また自分自身の欲望を抑えきれずに神様に反抗し、神様に背いて罪を犯し、人間は罪人になってしまいました。
罪の結果は悲惨です。心を照らしていた命の光がなくなり、人間はあらゆる悪いことに身を任せるようになりました。神様に命を与えられたことを忘れた結果、人間同士で争いあい、憎みあい、最後には死んで、滅んで地獄に行く者になってしまいました。しかし、神様は愛です(Ⅰヨハネ4:8)。人間が罪に堕ちたその瞬間に、神様は人間を救う救主を遣わすと約束して下さいました(創世記3:15参照)。神様は、人間の救いのために、先ずアブラハムを選び、その子孫であるイサク、ヤコブを通してユダヤ民族(イスラエル民族)が形成され、彼らに神様の言葉である旧約聖書が与えられました。旧約聖書には天地創造と人間の創造、エデンの園、ノアの洪水、バベルの塔の事が述べられていますが、特にアブラハム以降の旧約時代4000年の歴史が詳しく記され、その中心主題は人間を罪から救う救主イエス・キリストの到来についての預言です。
今から約2008年前のクリスマスの日に、旧約聖書4000年間の時が満ちて、遂に約束の救主イエス・キリストがユダヤのベツレヘムに誕生されました。長い間、人類を代表して救主を待ち望んでいたユダヤ人はこぞってキリストを受け入れ、歓迎したのかといえば、10-11節に、「世は彼(キリスト)を知らずにいた。キリストは自分の民であるユダヤ民族の所に来たのに、彼らは公にキリストを救主として迎え入れることを拒んでしまった」と記されています。光であるキリストが来られたのですから、彼らは素直にキリストを信じれば良かったのですが、信じる事を拒んでいます。その結果、現在もユダヤ人は民族として旧約聖書を持っていますが、新約聖書を持っていないので、新約聖書の告げ示すイエス・キリストのことを知らず、依然として救主到来を待ち望んでいる状態です。
この個所で、私たちは重大な事実に気づきます。キリストを目の前にして、キリストを信じるか、キリストを信じないかという二つの道があり、私たちはどちらかを選ばなければならないという事です。神様は言われます、「キリストを信じない人生には救いがない。あなたはキリストを信じるか」と。こういうふうに言いますと、ある人々は「あなたはキリストを信じるのか」という質問のポイントをずらして、「ではキリストのことを知らないで死んでしまった人はどうなるのか」と言います。ここで忘れてならないことは、神様は私たち一人一人に、聖書を通して個人的に語られているということです。神様は、今この時に私たちに対し、「あの人、この人のことも気になるかも知れないが、わたしは聖書を通してあなた自身に語りかけている。救いの問題は他人の事ではなく、あなた自身の問題である。あなたはまことの光であり、あなたの命を照らすキリストを信じるのか。あの人、この人のことはあなたの問題ではない。あなたは、まことの光であるわたしの独り子であるイエス・キリストを自分の救主として信じるのか」と語りかけているということです。
人生には二つの道があります。キリストを信じるという救いの道、キリストを信じないという滅びの道です。中間の道はありません。きょうはクリスマス礼拝ですが、ここにいる全ての方々がキリストを信じていることを信じ、感謝します。
2、人生には二つの道がある。一つはキリストを信じ、永遠の命へ至る道である。1:12-13
しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は血筋によらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。(12-13節)
12節はじめに「しかし」とあります。前節に、せっかくまことの光であるキリストが来られたのに、ユダヤ人は信じなかったということが述べられていました。現代でも多くの人々がキリストを信じないままでいます。ところが、12節で「しかし」という言葉に続いて、キリストを信じ受け入れた者は神の子になれるという祝福が述べられています。「しかし」の後に、人生には二つの道があり、キリストを信じる者には、無条件で神の子になるという救いが与えられることが約束されています。また、キリストを信じれば永遠の命が与えられ、天国に導かれるという祝福が告げられています。
12節を中心にして、キリストを信じる者の祝福について三つのことを述べます。
第一に、キリストを信じ受け入れるということについて、何の制限もないという事です。
多くの宗教といわれるものは救いの条件として、熱心な信心、難行苦行、多くの寄付金、信者獲得のノルマなどの条件を課しています。キリストの救いは、12節に「彼(キリスト)を受け入れた者、その名を信じた者」とだけ言われていて、信じる以外に何の条件もつけていません。例えば年齢、男女、民族、学歴、収入などは一切言っていません。前歴、信仰歴なども問うていません。最も肝心なことは「キリストを信じ受け入れる」という事のみです。「受け入れる」というのは個人的に心に迎えるという意味です。「キリストを私の罪からの救主として、また人生の主として個人的に心にお迎えします」という決意が求められています。13節には血筋、肉の欲、人の欲によっては神の子になることは出来ないと言うことがハッキリと言われています。神によって、聖霊の導きによって、私たちはキリストを信じ受け入れ、神の子になることが出来たのです。キリストを信じ受け入れるということは次の通りの事です。
❶キリストを信じ受け入れるということは、キリストを自分の救主として告白することです。「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ロマ10;:10)。
❷キリストを信じ受け入れるということは、キリストに身を任せるということです。キリストのみを信じて行くために全ての偶像を棄てます。そして、生涯を通してキリストを信じ続けて行きます。そのために次に述べるように教会に加わります。
❸キリストを信じ受け入れるということは、キリストを信じる者の群れである教会に属して行くということです。ペンテコステの日に3000人の人々がキリストを信じましたが、彼らは「人は水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3:5)というキリストの御言葉に従って、神様と人の前に信仰を公にして洗礼を受けて、教会を形成しました(使徒2:41)。キリストを信じた者は洗礼を受け、教会に属して信仰生活をします。教会では聖書の御言葉が語られ、信徒の交わりがあり、十字架を記念して聖餐式が守られ、祈りに打ち込み、キリストを伝道して行きます。
第二に、キリストを信じ受け入れる者は神の子になって生きて行くということです。
キリストを信じて神の子になった者の特徴はなんでしょうか・・・。自由、喜びを得て、怖れから解放されて人生を生きる力が与えられていることです。
現代日本の大きな問題は「引きこもり」の人々が多くいて、それらの人々の平均年齢が30歳を越えているという暗い現実です。ある青年が大学を卒業し、働き始めましたが、人生の生き方に疑問をもち、不眠症になってしまった。その上、頭痛、胸苦しさに襲われ、あらゆる病院を巡ったが、「体には異常ありません。自律神経失調症」と診断された。ところが症状が重くなり、仕事をやめ、人を怖れ、夜も昼も黒いサングラスをかけ、引きこもりになってしまった。友人が来ても怖くて会えないし、死ぬ事を考えて、暗い部屋の中でのた打ち回る日々が続いた。2年ほど経った時に、叔母が教会に行こうと誘ってくれたのです。黒いサングラスをかけて出席してみた。するとなぜか仕事をしてみたいという気持になった。黒いサングラスをしたまま仕事に復帰したが、人がくると逃げ出していた。仕事に戻って1ヶ月目に父親が血液ガンで半年の命と宣告され、母親も脳腫瘍で病床にいるという試練に直面した。「ああー」という思いになってしまった。それから3ヶ月後に一週間の祈り会があり出席した。最後の夜に、体が熱くなり、誰かに抱かれているような気がして、嬉し涙があふれてきた。キリストを信じ受け入れた時に、キリストがその人の固い鋼鉄(くろがね)のような心を打ち砕き、神の子にして下さったのです。それ以来、「サングラスはもういらない」と決意して、サングラスとはサヨナラしました。今は、「私にはあなたしか頼る者はありません」とキリストに祈り、勝利することがその人の喜びとなっているのです。
第三に、キリストを信じ受け入れる者は永遠の命を得て、成長の人生をおくるという事です。
現在の世界をおおっているものは、不安、不安定、不確かという要素です。特に経済が極端に悪くなり、生活の不安が私たちを襲っています。潰れず、赤字になることはないと言われていた企業が危ないという情報が流れたりして、周りを見れば心配の種ばかりです。これは、この世のものが不動であり、企業は常に儲かるという人間中心の考えがいかに脆いものであるかを示しています。キリストは言われました、「天地は滅びるであろう」(マタイ24:35)と。世界のものは常に有為転変し、絶対に頼りになるものは何一つありません。永遠に不変であるのは、「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル13:8)と言われるキリストのみです。「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(へブル13:5後半)というキリストの約束を信じ、共に祈り合って、支え合って行くことを心に決意して祈って下さい。
先日、ふと教会開拓当初の写真を見ました。私たちが結婚して最初のクリスマスの写真に12名が写っていました。その中で教会員は私たち夫婦と1名で計3名でした。4月に結婚したのですが、毎日家賃の安い家を求めて駆けずり回り、家内は子どもをお腹に宿し、経済は殆んどゼロ状態の中で迎えたクリスマスでした。不思議なことに私たち夫婦と教会員の3名は笑顔でした。私たち夫婦は伝道師2年目で、まだ伝道のイロハもよく分らない駆け出しの伝道者であり、お金はない日々でしたが、キリストが共にいて下さることを強く感じ、遣わされたこの熊谷の地で生涯を賭けて伝道して行こう。生活の問題は主が支えて下さるという信仰に立たせてもらっていました。キリストはたくさんの恵みを与えて下さって、ここまで進んでくることが出来ました。熊谷の群れはさらに飛躍し、新しい会堂が必要です。深谷に教会を産み出したように、さらに新しい群れを産み出して行く使命があることを信じます。23日行田商工センターにおけるクリスマス祝会には200名の席を用意しています。昨日までの申し込みでは、教会外の方々が60名以上参加します。「キリストを喜び、キリストを伝えるクリスマス」となるように祈り、準備を重ねて来ましたが、キリストを求め、信じる者が起こされる2008年クリスマス祝会となるように祈り、共に奉仕をもって主に仕えて参りましょう。
まとめ
1、1:9-11。人生には二つの道がある。一つはキリストを信じない、滅びへ至る道です。私たち
はキリストを信じない者ではなく、キリストを信じる者にさせていただいていることを感謝します。
2、1:12-13。人生には二つの道がある。一つはキリストを信じ、永遠の命へ至る道です。
神様の憐れみによって、キリストを信じない者ではなく、キリストを信じる者になっていることを
感謝します。
*皆さんはキリストを心に信じ受け入れていますか・・・受け入れるというのは、「私の救主として、主として個人的に心に迎え、信じる」ということです。キリストを心の真中にお迎えして、2008年のクリスマスを共にお祝いできることを感謝し、お祈りを捧げます。
祈 り 天の神様、独り子イエス・キリストのご降誕をお祝いできることを感謝します。私たちはキリストを個人的に心に信じ受け入れ、神の子にされていることを感謝します。午後からの親子クリスマスを祝福し、夜の礼拝も祝福して下さい。23日行田商工センターのクリスマス祝会に60名を越える教会外の方々の参加があることを感謝します。聖霊の助けを求めて祈ります、すべての人を照らすイエス・キリストの救いを信じることができるように、行田商工センターをきよい臨在で満たし、すべての方々が神の前に跪き、「イエスキリストは主である」という信仰の告白を捧げることができるように導いて下さい。祈りをもって備えている全ての奉仕者に喜びを満たして下さい。私たちを愛し、救いに入れて下さった救主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります、アーメン。
参考文献:ヨハネ注解―フランシスコ会、黒崎、米田、LABN、文語略解、バークレー、ライル。