主は、労する者・重荷を負う者を召して下さる マタイ11:28-30      主の2008.12.28礼拝



先日、2008年を漢字一文字で表すと、「変」であると言うことがニュースで報じられていました。「変」ということで、「変化、変心、変態、変質、変造」などの言葉が思い浮かびましたが、皆さんはどんな事を連想しますか・・・。そのうちの一つの変化いうことを信仰的に考えるならば、キリストを信じて、私たちは罪人の立場から、神の子になるという霊的変化を与えられています。私たちが霊的に生まれ変わって(新生born again)神の子になるために、キリストの尊い十字架の恵みが与えられていることを感謝します。2008年は間もなく閉じられて、年が変わって2009年になりますが、一年間の恵みを数えながら、新しい年に向かって進んで行きたいと願っています。

本日はマタイ11:28-30です。キリストは「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(28節)と私たちを招いておられます。全ての重荷を主にお任せして、魂に休み(休息、安らぎ)を与えられて(29節)、新しい年に向かって行きましょう。午後は2008年感謝会をいたします。年の初めから数々の恵みをいただいて今日に至っていますが、恵みを共に分ち合って、主に感謝し、主を讃美し、互い祈り合いましょう。



内容区分

1、キリストは、私たちの人生の重荷を引き受けて下さる主である。11:28

2、キリストは、私たちと共に人生を歩み、導いて下さる主である。11:29-30

資料問題

28-30節はマタイ特有の内容である。28節「すべて重荷を負うて苦労している者」(口語訳、フランシスコ会訳)の他に、文語訳「すべて労する者・重荷を負う者」、新共同訳、新改訳「すべて疲れた者、重荷を負う者」という訳があるが、そちらのほうが分り易い訳である。「重荷」を祭司やパリサイ人らの課した律法的重荷と見る学者が多い。それを受けて「重荷を負わされている者」という訳もある。しかし、それらをも含んで、人生の一般的重荷と解すると理解がしやすい。29節「わたしは柔和で心のへりくだった者」、苦しみの僕を思い起こさせる。イザヤ42:2-3、53:3-7を見よ。「魂に休みが与えられる」、エレミヤ6:16からの引用。




1、キリストは、私たちの人生の重荷を引き受けて下さる主である。11:28

「すべて重荷を負うて苦労している者(凡て労する者・重荷を負う者―文語訳、すべて、疲れた人、重荷を負っている人―新改訳)は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。(28節)

28節はキリストが語られた御言葉で、多くの人々に知られている有名な聖句で、日本の多くの教会の掲示板に記されています。

一人の青年が海に身を投げて自殺しようと思って、日暮れの頃トボトボと港への道を歩いていました。教会の前を通り過ぎた時に、「すべて労する者・重荷を負う者、われにきたれ、われ汝らを休ません」(文語訳)という看板が目に入りましたが、そのまま海岸へ直行し、いざ海に飛び込もうと思った時に、先ほど読んだ教会の看板の御言葉が何故か思い出されました。「待てよ、どうせ死ぬんだから、もう一度あの看板を見ておこう」と教会の前まで戻って行くと、ちょうど夜の集会が始まっていました。「少し覗いてみよう」と中へ入ると、表の看板にあった聖句を中心にしてメッセージが語られ、聴いているうちに青年は自殺を思いとどまり、聖霊によってキリストを信じる決心へと導かれ、救われたのです。もちろん彼は自殺を取りやめ、人生の重荷を全部引き受けて下さるキリストによって新しい人生へと出発することが出来たのです。

徳川家康は「人の一生は重き荷を負うて遠き路を行くが如し」と言っています。天下を取って徳川幕府を開いても、彼の心には絶えざる重荷があり、平安がなかったことを示しています。徳川家康のように、現実の人生行路は険しいということを多くの人々が実感しています。世界的不況の押し寄せる日々の中にあって、「働けど働けど、わが生活(くらし)、楽にならざりき、じっと手を見る」と歌った石川啄木の嘆きは、また私たちの嘆きであることも実感として思うことができます。

さらには、人生の不遇を嘆く人がいます。例えば家族のいない孤児がいる。配偶者に先立たれた人がいる。自分に病気がある。家族に病人がいるなどなどの痛みや苦しみがあるという過酷な現実があります。先日の新聞に、有名会社(日本IBM)の58歳の男性が信じていた会社から突然解雇を言い渡され、「定年まで勤めたいという考え自体が間違いだ」と言われたそうです。それを読みながら、リストラされれば生活の問題があるが、それ以上にこの人は精神的に大いなる侮辱を受けていると思いました。記事には、この人には一千万円の住宅ローン残があり、14歳のひとり娘がいる。会社と交渉しているが、睡眠薬なしでは眠れない日々が続いていると記されていました(12.26読売新聞)。こうした記事を読み、また身近に起きている問題などを考えると、「ああ、今日も自殺しないですんだ」と呟きながら床につく人が何万、何十万人といるにちがいないと思わされます。

人生には多くの労苦があり、そのためにすべての人は疲れています。悲しいことに人は苦しみから逃れるために、時には自分の身を傷つけるように過食したり、拒食症になったり、逆に人を攻撃したり、人の物を奪って一時的な快感を得ようとします。それが嵩じれば戦争になり、ますます人生を暗くして行きます。また多くの人々は、「愛の神がいるなら、人生にどうしてこんな苦しみがあるのか」と叫んでいます。こうした人生の暗い現実に対し、また「愛の神はいるのか」と問いかける人々に対し、キリストは「すべて重荷を負って、疲れて、苦しんでいる者は、わたしの所にきなさい。休ませてあげよう」と呼びかけています。呼びかけて下さるキリストは、神様の独り子であり、栄光の主です。栄光の主でありながら、キリストはすべての栄光をかなぐり捨てて、クリスマスの日に人となって、この世に来られたお方です。

キリストは一体どんなお方でしょうか。キリストの一生は、罪は犯されなかったが、すべてのことについて、私たちと同じような試練に会われた日々の連続でした(へブル4:15)。キリストは馬小屋に生まれ、布に包まれ、飼馬オケの中に寝かされました。年およそ30歳の時から伝道の日々を送りましたが、枕を置いて寝る場所がないと言われるほどの貧しい流浪の日々をおくられ、旅の疲れで井戸端にしゃがみ込み、空腹の辛さを体験されています。隔てのない愛をもって人に接し、病気を癒し、人に仕えているのに、「彼は悪霊によって行動している」という悪意のデマをもって攻撃されています。寄る辺のない寡婦を助け、人が爪弾きし近づかない売春婦や身持ちの悪い女性を更生させ、社会的に地位の低い人々と食事を共にして彼らを慰め、救いに導いているのに、「彼は罪人らと交わりをしているから汚れている」という中傷を受けています。信頼して財布を預けた弟子のユダに裏切られ、敵に渡されて拷問を受けています。このようにキリストはあらゆるこの世の労苦を体験され、苦しみを嘗められたお方です。そして全ての苦しみ、悩みの真の原因は罪にあること、罪は人に死をもたらし、永遠の地獄に追いやるものであることをご存知でした。そこで、キリストは罪のない、きよい身を私たちの罪の身代りに十字架にささげて、神様に罪のお詫びをして救いの道を開かれた救主です(Ⅰペテロ2:24)。私たちはキリストの救いが現された恵みの時代に生かされていることを感謝します。キリストに感謝し、日々キリストにすがって行く思いをもって祈って下さい。そして、周りにいる多くの方々にキリストの救いの招きを伝えて行くように祈りましょう。

キリストは人生のあらゆる労苦・苦しみを体験されたお方です。このイエス・キリストはきのうも、きょうも、永遠に変ることのないまことの救主です(ヘブル13:8)。皆さんの心にある全ての思いをキリストに話し、祈って下さい。聖歌198「イエスは神であるのに」を、祈りをこめて讃美しましょう。

2、キリストは、私たちと共に人生を歩み、導いて下さる主である。11:29-30

「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしの軛(くびき)を負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。(29-30節)

キリストは私たちを招いて、重荷から解放して下さる主です。重荷から私たちを自由にするだけではなく、キリストは「わたしのくびきを負うて、わたしに学べ」と命じておられます。くびきとは、牛と牛の首を一本の棒でつなぐ道具のことです。首と首がつながれているので、二頭の牛は同じ方向に進み、働くことができます。キリストとくびきを共にするとは、私たちがキリストにつながり、キリストと同じ方向に歩んで行くことを示しています。時々キリストを信じると、束縛されて自分の自由がなくなるという人がいます。だから自由に生きたいと言います。しかし、それは間違いです。私たち人間は、いつでも何かとくびきを共にしている存在です。大きく分ければ、この世の生き方にならって、この世とくびきを共にするという道があります。あるいはキリストの救いに感謝して、キリストとくびきを共にして行くという道があります。

この世のくびきは、気苦労であり、悩みであり、疲れであり、重荷です。どんなふうに重荷なのでしょうか。例えば、偶像礼拝という重荷です。間もなく正月ですが、多くの人が神社仏閣に初詣に行きますが、死んだ神々を拝んでも何の平安もありません。無病息災、家内安全、商売繁盛と偶像に祈願しても答えはなく、心に重荷だけが残ります。罪の赦しがないので心に真の平安がありません。自分を助けてくれる存在がないので、先行き不安であり、明日のことが気にかかり、心は晴れません。

キリストのくびきは、自由であり、感謝であり、平安であり、喜びであり、希望です。「自由を得させるために、キリストは私たちを解放して下さったのである」(ガラテヤ5:1)と告げられています。キリストによって罪の赦しによる心の平安があります。キリストは神の国と神の義を第一にして行けば、生活は保障すると約束して下さいました(マタイ6:33)。私が献身する時に、「布教も素晴しい良い事だが、食えるという保障がない」といろいろな方から言われましたが、今日まで食べられない日はなく、祝福をいただいています。キリストは言われます、「わたしはあなた方を棄てて孤児とはしない」(ヨハネ14:18)、また「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)と。

キリストとくびきを共にすることによって魂に休み(安らぎ)が与えられると約束されています。魂の安らぎを求めても得られず、現代はストレスによって多くの人々が心に傷を受けている時代です。また生きていると様々な予期せぬ出来事に見舞われることがあります。しかし、どんな時でもインマヌエルの生きているキリストが私たちの心の中にいて、私たちに御言葉によって語りかけ、聖霊によって祈りを導き、私たちに勝利を与えて下さいます。

全く突然ですが、牧師という務めをどう思いますか・・・。私はあまり意識しませんが、ストレスの溜まる務めであることは間違いがありません。私も時々、今ストレスがあるということを思う時があります。小さな体験ですが、突然に思いがけない問題が生じてきたことがあります。人には言えませんので、主に祈りました。ところが祈っても、考えてもなかなか平安がやってこないのです。朝、聖書を開き、ハバクク3章、ハバククの祈りを読んでいました。ずっと読んで17節にきました。「いちじくの木は花咲かず、ぶどうの木は実らず、オリブの木の産はむなしくなり、田畑は食物を生ぜず、おりには羊が絶え、牛舎には牛がいなくなる」という希望のない内容でした。ところが18節になると、「しかし」という言葉の後にある、「わたしは主によって楽しみ、わが救いの神によって喜ぶ」という御言葉が目に飛び込んできました。さらに18節には、「主な神はわたしの力であって、わたしの足を雌鹿の足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる」という御言葉が続いていました。何故か知りませんが、その時に悩んでストレスの溜まっていた私の魂に休みが与えられ、人知を越えた主による安らぎが心に満ち溢れ、涙がこぼれ落ちてきました。「わたしがあなたの重荷を背負う。あなたはわたしとくびきを共にしていなさい」という主の思いが心に伝わってきて、感謝することが出来ました。問題自体がすべて解決したわけではありませんが、生きている主によって万事は益となるように導かれるという平安が与えられています。

本日は2008年最終の礼拝です。午後からは年末の感謝の集まりをします。全ての重荷を主の御許におろして魂に安らぎを受けて、主の2009年に向かって、祈って、進んで行きましょう。

ここで具体的な教えに耳を傾け、それをご自分に当てはめてみて下さい。



ヤコブの勧めに耳を傾けましょう(ヤコブ5:13-18参照)。

*苦しみという重荷がありますか。苦しんでいる者は主の助けを求めて祈りましょう。

*喜んでいる者は、喜びを与えて下さった主に感謝し、さんびを捧げましょう。

*病気の人は、キリストの十字架の力によって癒されることを信じ、牧師に祈ってもらいましょう。

*罪があれば、主の十字架を見上げて罪を告白し、赦しをいただきましょう。互いに祈り合い、罪から離れ、きよい義の道を進んで行きましょう。

主イエス・キリストの御言葉を心に留め、祈りましょう(ヨハネ13:34-35)。

*キリストの「互に愛し合いなさい」と新しい戒めに従って行けるように祈りましょう。使徒パウロは、「互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない・・・どんな戒めがあっても結局『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』というこの言葉に帰する」(ロマ13:8)と言っています。

*神がキリストにあって私たちを赦して下さったように、他の人を受け入れ、赦し合って行くことを、この場から実践して新しい年に向かいましょう。



まとめ

1、11:28、人生の重荷をすべて引き受けて下さる主の御許に、重荷をおろしましょう。

2、11:29-30、人生を共に歩み、導いて下さる主に感謝し、主を見上げて祈りましょう。

御言葉に素直に耳を傾け、悔改めるべきことはすぐに悔改め、「互に愛し合いなさい」というキリストの御言葉を心に留めて、新しい年に向かって進んで行きましょう。



祈 り

天地の主である神様、キリストの救いによって信仰の道を歩む者になっている者であることを感謝します。人生には様々な重荷があります。最大の重荷である罪を取り去って下さったキリストの救いに感謝します。キリストとくびきを共にして信仰の道を歩み、魂に安らぎを得て行く日々でありますように導いて下さい。心の中を正直に点検して、主に喜ばれないものがあれば悔改めて行きますので、きよめて下さい。キリストを愛し、人を愛して、心に責められることのない者になり、平安を与えられ、感謝と勝利の日々を送り続けるように導いて下さい。きょう、この教会の正式なメンバーになりますNさん御夫妻に聖霊を通して神の愛を豊かに満たし、キリストのからだの一員として教会生活を守り抜く信仰の力を与え、健康を祝福して下さい。午後からの年末感謝会を祝福して下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:マタイ注解書―黒崎、フランシスコ会、政池、バークレー、LABN、文語新約略解、口語新約略解、ライル。