喜ぼう!祈ろう!感謝しよう! Ⅰテサロニケ5:16-18    主の2009.1.1(木)元旦(初詣)礼拝



教会の一年はアドベントから始まっていますが、日本では12月31日大晦日を経て元旦を迎えると新年になり、全てが新たになるという習わしが続いています。正月になると、日本では年賀の挨拶をし、年賀状のやり取りします。年賀状に「新春を喜ぶ」と書きますが、明治以前の旧暦(太陰暦)といわれる暦では、元旦はもう一ヶ月ぐらい後になっていますので、梅の蕾がほころび、春の到来を感じ頃が正月でしたので、「新春、初春」などの挨拶文を記したのです。日本では新年になると、神社仏閣に初詣としてお参りに行き、一年の目標を神仏に祈願します。不思議なことに初詣には行きますが、それ以後は殆んどお参りに行きませんので、多くの日本人は初詣のみの信心であると言うことができます。私たちクリスチャンは、物言わぬ偶像ではなく、呼べば答えて下さる真の神様に讃美と祈りを捧げます。神様は愛です。私たちの救いのために独り子であるイエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。キリストは私たちの罪の身代りになって十字架の上で一度は死にましたが、しかし三日後に甦って、永遠に生きておられる救主です。クリスチャンはキリストの甦りを記念し、喜び、日曜日毎に教会に集い、礼拝を捧げます。礼拝に集うと、キリストの命が心に満ち溢れ、聖霊によって祈りを与えられ、感謝と喜びの日々を送る力が与えられます。本日は年の初めの元旦・初詣礼拝です。4日から2009年53回の日曜礼拝がスタートします。

本日はテサロニケ第一5:16-18です。この御言葉の勧めに従い、喜びと祈りと感謝に溢れる

日々をおくり、キリストの恵みを自分の身をもって表す者となって行くように、共に祈って、新しい年2009年へと出発して参りましょう。



内容区分

1、クリスチャンは喜びの民である。5:16

2、クリスチャンは祈りの民である。5:17

3、クリスチャンは感謝の民である。5:18

資料問題

テサロニケ書はパウロ書簡中、最も初期に記されたもの(紀元50年ごろコリントにて)。16節「喜べ」、ピリピ4:4参照。クリスチャンは患難にも、不幸にも喜ぶことができる特権を与えられている。何故なら神の愛と恵みは無限であるので、どんな悲嘆にも打ち勝つことができる信仰の力を得ているからである。17節「祈れ」、エペソ6:1、コロサイ4:2、ロマ12:12。祈りは霊の呼吸である。18節「感謝せよ」、クリスチャンはすべてのこと(喜び、悲しみにおいても全てにおいて)を感謝する。何故ならば神は愛であり、万事を相働かせて益となしたもうからである。



1、クリスチャンは喜びの民である。5:16

いつも喜んでいなさい。(16節)

イエス・キリストの十字架の受難と死、三日後の復活から、約20年たった紀元50年頃、使徒パウロはマケドニヤにあるテサロニケのクリスチャン達に、「テサロニケ第一・第二の手紙」を書き送りました。パウロがダマスコへの途上で救われてから約15年たった50歳の頃で、第二回目の世界伝道の途上で、コリントの町で記されたものです。新約聖書の中にパウロの手紙が13通ありますが、それらの手紙の特徴は、パウロ自身が石で打ち殺されそうになるという命に関わる多くの迫害を受けつつ、しかし、彼は何があってもひるまずに伝道の戦いを続けています。彼は信仰と伝道の現場で諸教会宛に手紙を記し、クリスチャン達を教え、励ましています。テサロニケの手紙で、パウロは自分がテサロニケで受けた迫害を思い起しつつ、テサロニケのクリスチャン達に主の再臨が近いことを述べながら、信仰の道を歩むように勧めています。

パウロは聖霊に導かれ、「いつも喜べ」との勧めをしています。今、この中に喜んでいる人がいます。また喜べない状況の中にいる人もいると思いますが、「喜べ」と御言葉は告げています。

こんな笑い話が話があります。京都の町でおばあちゃんが「きょうは天気だ。悲しい」と言って泣く。雨が降ると「きょうは雨だ」と空を見上げて泣く。よくよく聞いてみると、「上の娘は傘屋に嫁いで行きました。天気だと傘が売れないだろうと思って悲しくなります。下の娘は履物屋に嫁ぎました。雨が降ると履物が売れないと思うと悲しくなります」と。「じゃー、おばあさん。考えを逆にしましょう。天気になったら、履物が売れて下の娘さんが喜んでいる。雨になったら、傘が売れて上の娘さんが喜びますよ」。それを聞いてから、おばあさんの涙が消え、毎日ニコニコ顔で暮したということです。確かに考え方のポイントを変えれば、喜べるようになるかも知れません。しかし、どんなにポイントを変えても喜べないことがあまりにも多すぎるというのが現実です。きょうの聖句は、「喜んでいなさい」というだけではなく、「いつも喜んでいなさい」と命じています。「いつも」とは、良い時も悪い時も、元気の時も病気の時も、あらゆる場面の中でという意味です。

この言葉を記したパウロはどうだったでしょうか・・・彼は、ユダヤ人から5度、ロマ人から3度の鞭打ちの刑を受けています。石で打たれ、半殺しの目に遭っています。船が難破して海の上を漂い、人に騙されたり、盗まれたり、飢え死にしそうになったり、凍え死ぬような目にも遭い、身ぐるみ剥がれて裸でいたこともあります。それに加えて、諸教会の心配事が山のようにあるという状況でした(Ⅱコリント11:23-29)。そんな中で、彼は「いつも喜ぼう」と叫んでいます。テサロニケに来る前にはピリピの町で伝道中にシラスと共に逮捕され、取り調べもなく、理不尽にも鞭打ちの刑に遭い、背中の皮が破れて血だらけのままで牢屋に放りこまれてしまいました。ところが、二人は夜中に主に讃美を捧げ、主に祈りました。すると大地震が起きて、獄は壊され、驚いた牢屋番がキリストを信じて救われ、家族も信じ、パウロとシラスは釈放されるという驚くべき事がありました(使徒16:16-40)。そうした事を踏まえて、良い時も悪い時も主は共にいて下さる、すべての事を常に益になるようにして下さる、だからいつも喜んで行こう、とパウロは叫んでいます。

イエス・キリストはどうだったでしょうか・・・キリストは罪のないお方でありながら、十字架にかかるという最悪の事態を迎えた時に、神様の助けを信じて一切を任せて、そのきよい命を人間の罪の身代りとして捧げています。キリストは私たちの罪の身代りになって死にましたが、しかし、神様はキリストを死から甦らせるという奇蹟を表し、キリストは永遠の救主として、今も生きておられます。

私たちの現実は、全世界が経済的に破綻寸前にあり、政治は乱れ、喜べないような状況です。もはや人の力では何事もすることが出来ないような所に追い込まれています。人の力の尽きる時は神の力の現れる時であることを信じ、主に縋って行く信仰を強めていただくように祈って行きましょう。どんな時でも神様に信頼し、心の奥深いところで主の最善がなることを信じ、喜びを失うことなく、平安な心をもって、2009年も信仰の日々を進んで参りましょう。



2、クリスチャンは祈りの民である。5:17

絶えず祈りなさい。(17節)

きょう元旦の日に、日本全国の神社で手を合わせ、あるいは拍手(かしわで)をうって、偶像である神々を拝んでいる多くの人々がいます。御神籤を買い、運勢を見ている人々もいます。一方、全国約8000の教会では元旦礼拝を捧げ、万物を創造された創造主である真の神様に祈っているクリスチャン達がいます。数からいえば異教の神々を拝んでいる人々のほうが多いと言えます。昔、預言者エリヤはカルメル山の上で、たった一人でバールの神々を拝む偽預言者と対決し、見事な勝利を得ています(列王記上18章)。彼の勝利は祈りにありました。真の神の名を呼んで祈り、生きておられる神様は彼の祈りに答え、火をもって答えて下さいました。私たちにも祈りが与えられています。私たちはキリストを信じる信仰によって救われましたが、キリストを信じるように導いて下さったのは聖霊です(Ⅰコリント12:3)。キリストを信じて救われた私たちに、さらに聖霊によって、「アバ、父よ」と呼ぶ祈りの力が与えられています。

*「絶えず祈れ」と言われていますが、「絶えず祈れ」とは「祈りをやめないで祈れ、祈りをストップしてはならない」という事です。呼吸を止めれば死んでしまうように、祈りをやめれば霊的に死んで行きます。命の与え主である神様からの命の供給は、祈りを通して与えられます。祈れば祈るほど、聖霊を通して神様の愛が心に注がれます(ロマ5:5)。神様の愛によって心が恵まれ、喜びが溢れてきて、讃美をたくさん歌うようになります。人のために多く祈るようになります。使徒ペテロは、「努めて祈れ」、そして「互いの愛を熱く保て、愛は多くの罪をおおうからである」と言っています(Ⅰペテロ4:7-9)。祈れば祈るほど、祈りが楽しくなり、心が恵まれます。

*「絶えず祈れ」と命じられているのに、もし祈りをしないと信仰的にどうなるのでしょうか。祈りをしないことの明らかなしるしは、祈れなくなるということです。祈りをしないことの罰は祈りの不能という悲惨な結果もたらします。時々、「昔は教会に行きましたよ」という方がいて、聖書の知識が結構あり、教会のことなども知っていたりします。元クリスチャンと、現在教会につながって生きた信仰生活をしている私たちとの決定的な差があります。それは、元クリスチャンと自称している人たちは例外なしに祈れないということです。聖霊が去ってしまって、キリストとの心のつながりがなくなり、「祈りたい」という求めの心がなくなり、祈れないし、祈るという恵みを失っています。

*「絶えず祈れ」という御言葉に従って祈る者は、祈りが聴かれることを信じています。孫の丈が誕生して3ケ月を過ぎました。もちろん自分では身動きできません。言葉はしゃべれず、泣くだけです。お腹がすくと、大声をあげて泣きます。それを聞いてママがお乳を飲ませます。飲むと満足して横になります。しばらくするとまた泣き始めますが、それは「自分は寝ているのに飽きた。抱っこしてちょうだい」という訴えです。抱きあげると、ご機嫌になってじっと抱っこされています。赤ちゃんは自分を養い、守り、支えてくれる者がいることを100%信じて、泣き声で自分の意志を訴えています。キリストは「何事でも、わたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」と約束されました(ヨハネ14:14)。時には、私たちはどう祈ったらよいか分らない時がありますが、その時に聖霊が弱い私たちを助けて下さるのです。どう祈ったらよいか分らない私たちのために、聖霊自らが、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、私たちの祈りを天の神様の御許に届けて下さいます。(ロマ8:26-27)。言葉のしゃべれない丈が泣けば、親がその訴えを受け止め、その願いに答えます。聖霊は、私たちの心の奥底にある全ての思いを知り、神様の前に執り成して下さり、神様の答が私たち与えられるのです。

*「絶えず祈れ」という勧めに従って、祈りましょう。祈りは理論、議論ではなく実践です。祈りを研究しても何の効果もありません。かつてアメリカで「祈りは聞かれるのか」という研究チームが組織され、多くの人々にインタビューして祈りについて研究しました。しかし一人の婦人が言った言葉によってその研究は終わりになりました。ご婦人が言ったことは、「祈りについて研究しているようですが、あなた方は祈ったことがありますか」という単純な質問でした。研究チームの誰一人として祈りをした者はなく、この質問によって研究チームは解散してしまいました。祈りは研究ではなく、聖霊に導かれ、イエス・キリストの御名によって祈ることによって、祈りが聴かれることを知るという実践的なものです。「絶えず祈れ」という御言葉に従って、2009年日々に祈って行きましょう。



3、クリスチャンは感謝の民である。5:18

すべてのことについて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。(18節)

すべてのことについて感謝をしましょう。さきほどは「いつも祈れ」との勧めでしたが、ここでは「すべてのことを感謝せよ」との勧めです。感謝できないようなことがあるかも知れないが、何事も感謝して祈って行こうとの強い勧めです。

28日礼拝後に「2008年感謝会」を行い、55名の方々が出席し、それぞれに感謝を分かち合い恵みを受けました。事柄によっては、例えば愛する者を天に送る、思わぬ病気に見舞われるなど単純に感謝できない体験をされた方々もいます。その中で、主に縋り、ひたすら神様に信頼していることを分かち合っていただき、涙がこぼれました。人生には別離の悲しみがあり、経済情勢に翻弄される場合があり、また家族の病気、人間関係のトラブルなどの諸問題が押し寄せてきます。私は、そうした様々な祈りのリクエストを受け止め、ひたすら主に祈ります。「主よ、あなたは愛です。この問題によって押し潰されることなく、それを撥ね除け、勝利する力を与えて下さい」と祈ります。「主よ、あなたは愛です。十字架の血によって罪の赦しと癒しがあることを信じます」と祈ります。みなさん、すべてのことを感謝して行くために祈り合って行きましょう。

また、私たちは、教会というキリストを信じる群れの中に導かれていることを感謝して、互に祈り合って行きましょう。昨日、2008年最後の早天祈祷会でロマ15章の恵みを分かち合い、祈りました。ロマ15章の始めに「わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。キリストさえご自身を喜ばせることはなさらなかった」(ロマ15:2-3)とありました。さらに「心を一つにし」(ロマ15:6)、「あなたがたも互に受け入れて」(ロマ15:7)とありましたが、これに関連してクリスチャンの三つのポイントを心に留めて下さい。

❶互に祈り合う ❷互に赦し合う ❸互に愛し合うという三点です。

この三点を常に意識して実践し、互いに受け入れ合って行くように祈りましょう。



もう一度、Ⅰテサロニケ5:16-18を読みます。



*お祈りしますが、「喜ぼう!祈ろう!感謝しよう!」ということを実践し、私をキリストの証人として導き、用いて下さいという決断の祈りを捧げましょう。そして、今年中に救われてほしい人の名前をあげてお祈りして下さい。



祈 り

天地の主である神様、2009年元旦初詣礼拝をささげ、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」という御言葉をいただき感謝します。この御言葉に従う日々でありますように、恵み深い御霊によって私たちに信仰の道を歩ませて下さい。今この時に病気の方々に主の癒しを与えて下さい。2009年中に、私たちの家族を救いに導いて下さい。喜びと祈りと感謝とを与えて下さる主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:テサロニケ注解―黒崎、フランシスコ会、米田、LABN、文語訳略解、山谷、田中。