主こそわが牧者(羊飼い) 詩篇23篇1-6節               主の2009.1.4礼拝



明日からそれぞれの仕事が始まって行き、週の半ばには学校も始まります。2008年政治は乱れ、世界的な規模で経済はガタガタになり、多くの人々が2009年に対する不安を抱きながらの出発となりそうです。日本では年の初めに「年頭の抱負・目標」などを掲げて出発しますが、皆さんそれぞれに祈りの目標があると思います。教会は、元旦礼拝で、クリスチャンとして、2009年の日々を、「喜ぼう!祈ろう!感謝しよう!」(Ⅰテサロニケ5:16-18)という目標をもって前進せよというメッセージを与えられました。きょう1月4日が2009年第一回目の聖日礼拝で、12月27日まで52回の日曜聖日礼拝があります。一回一回の日曜礼拝を共に励まし合い、祈り合いながら、毎週日曜礼拝を捧げ続けて行く一年となりますように心から願っています。また週の半ばの礼拝と言われている水曜祈り会に出席するという霊的目標を掲げて、祈って、祈り会に出席して主の恵みを受けて行くようにということをお勧めします。

本日は詩篇23篇です。「主はわたしの牧者である」という御言葉で始まる詩篇23篇は「旧約聖書の主の祈り」と呼ばれ、主の溢れる恵みがうたわれ、読む者に希望と慰めが与えられる素晴しい詩篇です。熊谷で開拓伝道を始めたクラー宣教師が、子どもが小さい時に口伝えに詩篇23篇を教えていたことを思い出します。皆さんは詩篇23篇を暗誦していますか・・・。何かが起きると、私はすぐに、「わたしの生きている限りは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。(わが世にあらん限りはかならず恩恵と憐憫とわれに添いきたらん、我はとこしえに主の宮に住まん)」(5-6節)という聖句を思い起こし、支えられていることを感謝します。



内容区分

1、主は、私たちの生活を日々守り、導いて下さる。23:1-4

2、主は、私たちを祝福に導き、天国に導いて下さる。23:5-6



資料問題

詩篇23篇で、ダビデは、浮き沈みの多い人生にあって、神に信頼し、平静な心をもって神の愛に中に自らを委ねている。1-4節は、神が人生のまことの牧者であることをうたっている。キリストはヨハネ10:1-21でご自分をまことの牧者として示している。5-6節は神が人生を導き、来るべき永遠の住いを備えておられることを示している。ダビデは人生の覇者であったが、神の前に重大な罪を犯したこともある。また晩年には実の息子アブサロに背かれ、命からがら都から逃げ出すという悲哀をなめている(23篇はその時のことをうたった詩篇と言われている)。この詩篇は、ただ神にすがり、信頼する時に平安があることを教えている。




1、主は、私たちの生活を日々守り、導いて下さる。23:1-4

主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。

主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。

主はわたしの魂を生きかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。

たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがたわたしと共におられるからです

あなたのむちとあなたのつえはわたしを慰めます。(1-4節)


まず、「主はわたしの牧者である」とうたわれています。牧者とは羊飼いのことです。羊は愚かで弱い動物です。もし羊飼いがいなければ、羊は方向音痴なので、自分で草のある所、水のある所に行くことが出来ません。獣に襲われれば抵抗できずに命を失ってしまいます。弱く、自分で草のある所へ行くことが出来ず、喉を潤す水辺にも行けず、獣が来れば食われてしまう羊は、実は私たちを表しています。弱い私たちを助けてくれるのは誰でしょうか。キリストは「私は良い牧者(羊飼い)である」(ヨハネ10:11前半)と言われました。良い牧者の条件は、羊のために命を捨てることができる牧者です(ヨハネ10:11後半)。これは大げさな言葉ではなく、羊はしばしばライオン、狼、強盗などに襲われますが、その度ごとに牧者である羊飼いが命を賭けて羊を守っています。私たちは羊のように迷いやすい者です。例えば、私たちはまことの神を知らずにいた罪人でした。罪のために、人間の手で作った偶像を拝んではならないという神の戒めを破り、偶像を拝んでいました。年末に、新年に備えて、お守り札製作のことがテレビニュースでありました。お寺の一室で、人々が機械的に木の札に判子を押し、袋に入れていましたが、そんな木の木れっ端に人を守る力はありません。また仏像の一年間の埃を払うお身拭いということで、梯子に登って仏像をきれいにしていますが、自分で身動きができない無力なものに人を救う力はありません。偶像礼拝から派生して、占い、運勢、星占いなどのものに迷わされ、多くの人々が滅びの道へ向かっています。キリストは罪によって、迷い、滅びの道へ向かっている私たちをサタンの力から救い出すために十字架の死によってサタンの力を滅ぼし、私たちに罪の赦しを与え、私たちを神の子の一員にして下さったのです。主を牧者(羊飼い)として生きる時に豊かな恵みが与えられます。

牧者(羊飼い)である主は私たちを養って下さいます。

牧者は羊に必要な草を与え、水を与え、羊の命を守ります。牧者の務めは、羊に命を得させること、しかも豊かに得させることです(ヨハネ10:10)。人生は荒野のようです。貧しさがある。病気がある。死がある。草も水も乏しい。もし牧者の導きと助けとがないなら、人生はただ虚しいだけです。多くの人が職を失っている大変な時代になっています。一生を保障するかのようにして人々を働かせていた企業が倒産し、先日までは世界一の利益を誇り、繁栄の頂点にあった日本の自動車メーカーが赤字に転落しています。私たちを支えるものは何か・・・私たちは、ただ祈って聖書の御言葉に立って行かねばならないということを教えられます。詩篇37:25を開いて下さい。「わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が、食物を請い歩くのを見たことがない」。キリストを信じる者をキリストは決して見放すことはないと信じます。私たちは、「悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何ももたないようであるが、すべての物を持っている」(Ⅱコリント6:10)という信仰を与えられています。私たちを緑の牧場に導き、憩いの水のほとりに伴われる主を信じる信仰を強めていただくように祈りましょう。伴われるというのは静かに導くという意味です。まことの牧者(羊飼い)は私たちを叱らず、怒鳴らず、私たち羊の群れの先頭に立って行きます。キリストから目を離さないで従って行く時に恵みが与えられます。

主の恵みに関連してですが、年末に深谷、松江、諏訪、トポス、徳島に教会より愛の献金をおくりました。特に、深谷、松江、諏訪の伝道所の自立を願っていますが、主は恵みをもって導いて下さっています。深谷ではクリスマス前に約3000枚のクリスマス案内を配り、3人の新しい方々が導かれ、1人が信仰の決心を与えられています。松江では昨年2名の受洗者が与えられています。諏訪では3名が洗礼準備をしていて、そのうちの1名はゴスペルの働きを通して救われた人です。三つの伝道所とも、特別なサポートはなく、「こんな僅かお金で暮せるのか」という、その僅かな牧師謝儀も滞りがちな中で、アルバイトをしながら、黙々と牧会伝道に励んでいます。毎日の祈りの中に、深谷(井桁久志・聖美夫妻、)松江(生武嗣幸・由香夫妻と二人の子どもたち)、諏訪(山本憲治・敦子夫妻と二人の子どもたち)の牧会伝道の祝福のめに、教会経済祝福のためにお祈り下さい。ホームレス伝道の比留間夫妻の働きのためにもお祈り下さい。徳島で聾者中心の教会を牧会している井桁正巳・幸枝夫妻とお子さんのためにもお祈り下さい。

牧者(羊飼い)である主は私たちを守る主です。

緑の牧場に、憩いの水のほとりに導かれ、私たちは人生を歩む力を回復し、前進して行くことができます。私たちは、魂を生きかえらせもらうためにキリストのもとに行きます。何故なら、キリストが「すべて重荷を負うて、苦労している者はわたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と招いて下さっているからです。キリストのもとに荷をおろして、休みを与えられて、そこから再び私たちは出発します。私たちは弱い羊のような愚かな者ですが、良い牧者であるキリストによって「正しい道に導かれます」(5節)。正しい道とは、主に従う道です。世にある多くのものが私たちを惑わし、私たちを正しい道から迷わせようとします。正しい道はどうやって分かるのでしょうか。

詩篇119:105をご覧下さい。「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」。

詩篇119:163-165もご覧下さい。「わたしは偽りを憎み、忌み嫌います。しかしあなたの掟(おきて)を愛します。わたしは、あなたの正しいおきてのゆえに、一日に七たびあなたをほめたたえます。あなたのおきてを愛する者には大いなる平安があり、何ものも彼らをつまずかすことはできません」。

今年も主に従う正しい道を歩み続けるために、聖書を毎日毎日読んで行くことを年頭の決心として祈って下さい。聖書を読んで主に従って行く時にも、人生には死ぬほどの苦しい場面、死の陰の谷がありますが、その時に、主は言われます、「わたしは決して、あなたを離れずあなたを捨てない」(ヘブル13:5後半)と。聖書の御言葉が私たちを支え、正しい道に導きます。



2、主は、私たちを祝福に導き、天国に導いて下さる。23:5-6

あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を儲け、わたしのこうべに油を注がれる。

わたしの杯はあふれます。

わたしの生きている限りは、必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。

わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。(5-6節)


神様を無視した者は、神の祝福の宴会に与ることはできません。主なる神様に従い続ける者に、素晴しい恵みの座が設けられています。地上で栄えている者が、天国で栄えの座に着くことができるかどうかは分かりません。神の祝宴ということで、私の脳裏には、毎月の上野公園ホームレス伝道の場面と、キリストが話された金持ちとラザロの物語がダブって浮かんできます。地上で富み栄え、門前で貧しさを訴えるラザロを無視していた金持ちがこの世を去って、ふと気づいてみると、自分は黄泉(よみ)の火の中で苦しんでいる。苦しい中から目をあげてみると、何と自分の門前にいて、汚いできものを犬になめてもらっていたラザロが、アブラハムの懐(ふところ)と言われるパラダイスにいる。金持ちは叫びますが、時はすでに遅しで、彼はそこから出られないままで、神様の最終審判を受けることになっているという話です(ルカ16:19-31)。金持ちのことを考える時に、「世と世の欲は過ぎ去る。しかし、神の御旨を行なう者は、永遠にながらえる」(Ⅰヨハネ2:17)というのは本当であると思います。上野公園では、礼拝の後に給食をしますが、ホームレスの人々が座って待っている所に、みんなで食事を運びます。家を失い、職を奪われ、家族と別れ、日々地べたで暮している人々は社会から疎外されています。キリストは黙って、見捨てられた者達の所へ足を運び、彼らを癒し、励まし、罪を赦し、人生を再出発して行く力を与えています。昨年、12月27日に上野ホームレス伝道に行き、ホームレスの中で救いを受け、洗礼を受けた方々が5名起こされたという喜びのニュースを聞くことが出来ました。皆さんの継続した祈り、奉仕、おにぎりなどの捧げ物が、ホームレスの人々の中からキリストを信じる者を産み出すために用いられていることを感謝します。

地上の生涯が尽きる時に、私たちは天に召され、主と共に永遠に生きる天国に導かれます。

*この詩篇23篇の教えを一言葉で言えば、神様への信頼ということができます。ダビデは羊飼いから身を起こし、サウル王に見出され、イスラエル2代目の王になった人です、彼は神様を信じていましたが、ある時はサウル王に妬まれて流浪の生活を送っています。王になってから、王の権力を使って、忠実な家来を死地に追いやり、その奥さんを奪うという非道なことをしています。晩年には愛する長男アブサロムのクーデターにより、僅かな家来を連れて泣きながら都を出ています。困難や試練、そして自分の犯した罪の報いを受けるなど波乱に富んだ人生でした。そのダビデを後代の人々は信仰の人であり、名君であると言っています。それは彼がどこまでも主に信頼するという一時を忘れなかったからです。特に罪を犯した時は、心底から悔改めています。そして神への信頼を取り戻しています。

2009年、非常に厳しい年であるように思われますが、私たちには天地万物を創造された神様がついています。神様は独り子であるキリストを通して私たちの罪を赦し、神の子にして下さった愛の神様です。詩篇23篇を暗誦して、日々祈って進んで行きましょう。

次の御言葉も心に留めて、神の最善が成ることを信じて行きましょう。「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ロマ8:28)。

「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」ことを信じ、「主は万事を働かせて益として下さる主である」ことを信じ、祈りましょう。



まとめ

1、23:1-4、主は、私たちの生活を日々守り、導いて下さいます。

2、23:5-6、主は、私たちを祝福に導き、天国に導いて下さいます。



*聖歌628「救い主イエスと共に行く身は」を讃美し、祈ります



祈 り

天地の主である神様、

独り子であるイエス・キリストによって、神の子にされていることを感謝します。

「喜べ、祈れ、感謝しよう!」という御言葉をいただいています。その御言葉にふさわしい日々をおくるように、私たちが霊的に恵まれ、生活の面においても祝福をいただいて守られて行く事を信じます。主よ、特に祈ります。この厳しい中で、仕事を求め、仕事の安定を求めている方々がおられます。その方々に早く仕事を与えて下さい、生活を支えて下さい。また病気の方々に速やかな癒しが与えられることを信じます。今年も多くの方々がキリストを信じるように導いて下さい。その中に私たちの家族を入れて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:詩篇注解―浅野、岸井、ナイト、フランシスコ会、黒崎、内村、矢内原。