主イエス・キリストを着て、愛に満たされよう ロマ13:8-14       主の2009.1.11礼拝



何の演歌かよく知りませんが、「ボロを着ても心は錦」というのを耳にしたことがあります。人から見れば、ボロのような貧しい衣服を着ているかも知れないが、心は錦のように美しく立派でありたいという心意気を唄ったうたのようです(錦とは高価な絹織物、比喩的に美しく立派なもの)。確かにこの歌詞のように、心の内側がきれいで、恵まれていることは大切なことです。

私たちの心には栄光の主イエス・キリストがおられます。主は心の中から、内側から私たちを助けて下さるので、私たちはどんな状況の中にあっても、心が恵まれています。年頭に「喜べ、祈れ、感謝せよ!」(Ⅰテサロニケ5:16-18)という御言葉をいただきました。これは、「あなたがクリスチャンであるなら、この御言葉どおりに生きなさい」という主からの命令の御言葉です。心の内側が恵まれ、主はいつも良いことをして下さるという主への信頼をもって喜びの日々をおくり、祈りをやめないで祈り続け、すべてのことを感謝して行く積極的な信仰をもって、2009年の日々を歩んで行くことを祈って行きましょう。

本日はロマ13:8-14です。まず「互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない」(8節)ということから始まって、「あなたがたは主イエス・キリストを着なさい」(14節)という勧めがあります。本年、私たちは、喜び、祈り、感謝するクリスチャン生活をおくることを願っていますが、その土台は愛であるということを教える主の御言葉です。主の弟子ヤコブは、「御言葉を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない」(ヤコブ1:22)と言っています。主のメッセージを聴き、それを自分に当てはめ、主に従う決断の祈りをささげ、共に新しい一週間の旅路へと出発いたしましょう。



内容区分

1、クリスチャンは、互に愛し合う者であることを信じ、実践する者である。13:8-10

2、クリスチャンは、やみの業を捨てて、主イエス・キリストを着る者である。13:11-14

資料問題

ロマ書は、使徒パウロがロマ教会に送った手紙である。パウロの宣教以前に、すでに福音はロマに届き教会が誕生していた。パウロはロマを経てイスパニヤ伝道を志していたので、ロマ教会を訪問する前に、16章からなる手紙を書き送ったのである。手紙の冒頭で自己紹介をし、人間の罪の問題、十字架の救いについて、クリスチャン生活の実際について体系的に論じ、最後にロマ教会にいる信仰の友に挨拶を述べている。9節「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」、レビ19:18の引用。キリストの教えでは、隣人とは同胞、他国人、友人、敵を問わず、我々の助けを必要とする全ての者である(ルカ10:23-37を見よ)。11節「わたしたちの救いが・・・近づいている」、キリストの再臨を指す。パウロは、Ⅰテサロニケ4:15-5:8、Ⅰコリント7:26-31ではキリストの再臨をごく間近であると考えていた。Ⅱコリント5:2-10では、パウロは自分が生きている間に再臨はないと感じていたようである。この11節では再臨の近いことに言及し、やみの業を捨て、キリストに満たされて、再臨に対する霊的備えをして行くことを強調している。



1、クリスチャンは、互に愛し合う者であることを信じ、実践する者である。13:8-10

互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。(8節)

ロマ書は使徒パウロが記した16章からなる手紙です。パウロは聖霊に導かれ、「信仰による義人は生きる」(1:17)というテーマの下に、まず信仰について(1章-11章)、次に信仰をもって生きるクリスチャン生活の実際について(12章-15章)、そして16章の挨拶でロマ書を閉じています。

本日の個所はクリスチャン生活の実際についての教えの部分で、「互に愛し合いなさい。すべての戒めは『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』という言葉に帰する」との勧めがなされています。8-10節の間に「愛」という言葉が何回も出てきますが、この個所を繰り返し読んで下さい。この中で気づくことは、「互に愛し合う」「人を愛する」「隣人を愛せよ」「愛は隣り人に害を加えない」と言われていることです。これは、愛は抽象的な理論ではなく、私たちの周りにいる人々を愛するという極めて実践的なものであるということを教えています。

聖書は「神は愛である」(Ⅰヨハネ4:8)と告げています。神様の愛は人間に向けられていますが、私たちは神様の愛を受けるのにふさわしい者だったのでしょうか・・・。また神様の愛はどのようにして表されたのでしょうか・・・。聖書は生まれながらの人間は神様に背き、人を憎み、滅びに向かっている罪人であるとしています。しかし、神様は愛です。神に背いている罪人のために、「わたしはあなたを愛している」というメッセージが伝えられ、そのメッセージが真実であるしるしとして、神の独り子であるイエス・キリストが、2009年前に私たち人間の罪の身代わりになって死ぬためにこの世に遣わされました。キリストは罪のない潔い身を十字架の上に献げて私たちの罪の身代りになり、罪の赦しの道を開いて下さいました。だれでも神の御子イエス・キリストを心に信じて迎え入れるならば、その瞬間に神の子になれます(ヨハネ1:12)。「君は愛されるために生まれた」という讃美のように、私たはただ信じるだけで、無条件で神様の愛を受けて救われています。この愛を受けて神様に従って行くのがクリスチャンです。

「愛は隣り人に害を加えることはない」とありますが、関連してルカ6:27-28、37をご覧下さい。そこに、キリストの「敵を愛せよ、人をさばくな、人を罪に定めるな、人を赦せ」との勧めがあります。アメリカでは黒人であるオバマ氏が大統領になるという、新しい歴史の幕開けを迎えています。アメリカの黒人といえば、私は、人種差別撤廃のために戦い、暗殺されたマルティン・ルーサー・キング牧師(1929-68)のことを思い出します。彼は、ただ皮膚の色が違うということで、例えばバスの座席が白人、黒人に分けられ、教育の機会を奪われていることに抗議して戦いました。彼が記した「汝の敵を愛せよ」という著書に、「歴史の中で、アレキサンダー、シーザーなどが力によって帝国をつくりあげた。私も同じです。しかしイエス・キリストは愛に根ざす国をつくり上げた。力によって築かれた国々は滅んで行き、キリストの愛の国は滅びない。多くの人々がイエス・キリストのために喜んで命を捧げ続けているが、私のために死のうとする者はいない」と述べています。彼は力で、あるいは「あなた方が間違っているから」というさばきの心ではなく、キリストが十字架で敵のためにも死んで下さったことを信じ、キリストに自分を捧げて、あの偉大な公民権運動の勝利を勝ち取りました。キング牧師は自分の正当性を主張し、相手が間違っているという態度ではなく、キリストの愛に根ざして、「敵を愛せよ、人をさばくな、人を罪に定めるな、人を赦せ」という心をもって反対する人々に訴え、立派な成果を得ることができたのです。

キリストの愛をいただいて、先ず愛することが先決です。自分の立場にこだわり、面子を重んじ、相手の立場をさばいているところには、愛も赦しもなく、主にあって喜び、祈り、感謝するという事が出来にくくなってしまいます。

ひとりの青年が自分の師と仲違いをしてしまった。師のほうから手紙をもらった。何度もおわびに行こうと思ったが、この場合は師のほうが悪い、というこだわりがあって、自分からお詫びする気持になれないでいた。その内に師が天に召されてしまった。しばらくして、病床にいた師が自分の来るのを毎日まっていたということを聞かされ、臨終の間際にも自分の名前を呼んでいたことを知った。彼は天を仰いで号泣し、自分の傲慢を恥じた。彼は悔改めた。自分の正当性、立場が絶対であることばかりを主張していいた自分のために、キリストが「父よ、彼らを赦したまえ」(ルカ23:34)と十字架の上で祈って下さったことを心から信じた。

主の2009年、喜び、祈り、感謝する生き生きとしたクリスチャンになることを祈り願って、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」という御言葉に従う決断をして、祈りましょう。愛の外に借りをつくってはならないのです。聖霊によって神の愛が注がれて人を愛する心が豊かになるように、赦せないと思う人を赦すように、主が自由と愛の力を与えて下さることを信じて祈りましょう。



2、クリスチャンは、やみの業を捨てて、主イエス・キリストを着る者である。13:11-14

夜はふけ、日が近づいている(12節前半)・・・あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。(13節)

パウロは「あなたがたは時を知っている」と言っていますが、これは世の終わりにあるキリストの再臨の時のことです。キリストは天に帰られる前に、「わたしはあなた方を迎えに来る」という再臨の約束をして下さいました(ヨハネ14:1-3)。

ところで再臨と言いましたが、再臨とは何でしょうか。キリストが最初に来られたのが約2009年前のクリスマスの日です。キリストは地上に約33年半おられ、十字架に命を捧げて、私たちのために救いの道を開いて下さいました。死んで三日後に復活され、地上に約40日間いて弟子達に神の国について教え、紀元33年ごろエルサレムのオリーブ山から天に帰って行かれました。天に帰られたキリストは再びやって来られます。再び来るので再臨と言います。

キリストはいつ再臨するのかということですが、パウロは自分が生きている間に再臨があるということを考えていたようです。しかし、再臨の時は神様が決めることなので、彼はキリストの再臨前に多くの人々が救われることを願って、全力を尽くして伝道に励んでいました。

本当のところ、キリストがいつ再臨されるのかということは、神様以外には誰も分りません。しかしキリストはこう預言されました、「この御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そして、それから最後が来るのである」(マタイ24:14)と。世界には5000ほどの言語があると言われていますが、聖書翻訳数は3000位になっています。山の中、島々、僻地など伝道者が入り込めない所が多くありますが、通信衛星によって全世界に福音が伝えられる時代がやって来ようとしています。このことを考えただけでも、世の終りが来て、キリストの再臨が眼の前に迫って来ていることが分ります。

パウロは11-13節で、「わたしたちの救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている」と述べ、「やみの業を捨てて、光の武具を身につけようではないか」という勧めをしています。そして「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てよう」と訴えています。余談ですが、宴楽とありますが、夏に教職修養会があって宿屋に泊まる時があります。夕食の場所に行くと、宴会風に席が設けられています。宿屋では酒を飲むという前提で席を作っているのですが、牧師の集まりですからノンアルコールです。宿屋のほうでは飲んでからご飯と思っていますが、誰一人飲まないので、ご飯が間に合わないということになり、宿屋の人はご飯を大急ぎで用意するということになります。

やみの業を捨てて、「キリストを着よう」(14節)という勧めがあります。

キリストを着るということは、「今まで自分の身体に着けていた汚いもの、酒、不義、好色、争い、ねたみなどの古い罪の衣を脱ぎ捨ててしまいなさい。それに代えて、自分の上にすっぽりとキリストを着てしまいなさい」ということです。もはや自分のために生きるのではなく、キリストの意のままに生きる者にとなるということを表しています。

「キリストを着る」ということは、神様の側に立つことを表しています。

「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである」(ガラテヤ3:27)。

私たちは、聖霊によってキリストを信じます。キリストを信じた者はバプテスマ(洗礼)を受けて教会に加わります。それによって、私たちの立場は神様と人の前に公になり、私たちはクリスチャンとして生きて行く者になります。クリスチャンとして生きて行くということは、この世に属していながら、しかし神の国の教えに従って生きるということです。私たちは明確に神様の側につくことになります。リンカーン大統領は言っています、「神様が私たちのそばにいるか、いないかが問題ではない。私たちが神様の側にいるかどうかが問題であり、大切なことである」と。

つい先日は正月で、神社仏閣に初詣と称してお参りに行くたくさんの人々がいました。クリスチャンになる前は、私たちも初詣というこの世の流れの中にいましたが、キリストを信じてからは神社へのお参りをやめます。自分の心にキリストを迎えた者は、「神社よ、お寺よ、さようなら」というふうにして偶像から離れ、聖霊によってキリスト中心の信仰になります。それは神様の側に自分が立っているので、死んだ偶像から解放されて、まことの救主イエス・キリストを信じる神の国の側にいることを表しています。

*ここでお勧めしますが、キリストを信じている方々は一日も早く洗礼を受けて、クリスチャン生活を前進して行かれることを年頭の決心としてお祈りして下さい。

「キリストを着ている私たち」は天国へ入って行きます。

キリストが話された天国の例え話の中の一つに礼服のことが出てきます。王子の結婚式に招かれた人が、王の用意してくれた礼服を着ないで式場に入りました。それを見た王が「友よ、備えた服を着ていない者は出て行ってもらいます」と言って、その人を式場から追い出しています(マタイ22:1-14)。私たちは、キリストいう礼服を着て天国へ入れてもらいましょう。

ある説教者が言っていました。天国へ行くと、三つの驚きがあるということです。

一つは、意外な人を見つけます。「あなたが天国に来られたの」という人が来ているそうです。

二つは、いるはずの人がいないということです。あんなに熱心で、奉仕して、私にもいろいろ教えてくれた人がいないのです。

三つは、自分が天国にいるという驚きと喜びです。

私たちがこの世で生きている限りは、失敗や挫折があるでしょう。その時にキリストに縋り直し、キリストを着ている(信じている)ことを感謝して、信仰の道を前進するように祈って行きましょう。





まとめ

1、13:8-10 私たちクリスチヤンは、キリストによって愛されている愛によって互に愛し合い、愛を実践する者です。互に祈り合い、赦し合い、愛し合って行くように祈りましょう。

2、13:11-14 私たちクリスチャンは、やみの業を捨てて、キリストを着ている者です。



祈 り

天地の主である神様、独り子イエス・キリストの救いをいただき、神の子にされていることを感謝します。神様、私たちは愛の足りない者です。聖霊によって神の愛を豊かに満たして下さい。愛をもって人に接して行く者にして下さい。人をさばき、赦さない冷たい心をもつことがないように、私たちを憐れんで下さい。

今週はファミリーの週です。キリストを中心として讃美をささげ、聖書を共に読んで主の恵みを分ち合い、祈りを捧げるように導いて下さい。午後のゴスペルの集まりを祝福して下さい。

今この時に病んでいる方に主が触れて下さって、健康を回復させて下さることを信じます。仕事を求めている方に平安を与え、良い仕事に導いて下さい。

夕べの礼拝を祝福して下さい。

愛を与えて下さる私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:ロマ書注解―福田、木村、黒崎、フランシスコ会、バークレー、尾山、竹森、山谷、岩隈、佐藤。 「汝の敵を愛せよ・キング・新教出版社」