主はわたしの受けつぐ永遠の宝 詩篇第16篇1-11節        主の2009.1.18礼拝

中東のドバイは、急速な経済成長を遂げ、世界一高いビル、世界一豪華なホテル、椰子の形をした人口の島などがテレビのニュースで報じられ、世界の注目を集めていました。世界一高いビルはドバイの塔(ブルジュドバイ)といわれ、完成すれば818メートルの高さになるはずでした。ところが経済が崩壊し、完成は無理と言われています。ドバイには海外からの出稼ぎ労働者が人口の8割に達していますが、大勢の人々が次々に解雇され、1ヶ月以内にドバイを出て、自分の国に戻って行かねばならなくなっています。昔、人々がシナルの平野に集まり、天にまで達するバベルの塔を築きあげ、神様と同じになろうとしましたが、神様によって人々の言葉が通じないようにされ、工事は中断され、人々は世界各地に散って行ったことが創世記に記されています(創世記11:1―9)。バベルの塔以来、人間はお金の力、権力、政治等に頼って同じ失敗を繰り返しています。

本日は詩篇16篇です。「主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。あなたはわたしの分け前を守られる」(5節)とうたわれています。主は永遠に生きておられる唯一のまことの神様です。神様は、ご自分の像(かたち)に似せて人間を創造され、限りない愛をもって私たちを愛して下さっています。神様が愛である証拠は、罪に堕ちた人間を救うために、最愛の独り子であるイエス・キリストをこの世に遣わし、罪の贖いの供え物として十字架にかけ、私たちを神の子にする道を開いて下さったことです(ロマ5:8)。変転極まりないこの世にあって、神様の愛は永遠に代わりません。神様は私たちの霊を恵み、生活を守り、家族を支えて下さる、愛の主です。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか」(ロマ8:32)という神様の愛を信じ、主こそ私の分け前であるという信仰第一の生活に徹して行くように、祈って、新しい一週間を出発して参りましょう。



内容区分

1、まことの神様を信じる者は、祝福を得る。16:1-6

2、まことの神様を信じる者は、喜びの人生をおくる。16:7-11

資料問題

ダビデの歌という表題がついているが、詩篇の多くはダビデに由来する歌が多く、ダビデの歌という表題がつけられている。ミクタムの歌というのは黄金のような歌という意味である。この詩篇のように、主のみが唯一の宝であるという確信を高らかに歌っているものは他にない。まことに黄金のように価値の高い歌である。4節「血の灌祭」、奉納酒のこと。5節「嗣業」、相続財産の意。紀元前13世紀にエジプトを出たイスラエル民族が、神の約束の地に入った時、その地域を12部族に分割して、それを嗣業といった(ヨシュア11:23,14:1)。祭司となったレビの部族は、主ご自身を嗣業として受け、土地を与えられなかった(ヨシュア13:33)。レビ族は信仰の指導者として生きるべきものであるので、目に見えぬ霊的な祝福を嗣業とした。詩人は、そのような生き方を自らの生き方にしている。8-10節はペンテコステの日にペテロがキリスト復活に関連して引用している(使徒2:25-32)。パウロも取り上げている(使徒13:35-37)。この二つの引用は70人訳によっている。「あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならないであろう」となっている。



1、まことの神を信じる者は、祝福を得る。16:1―6

あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない(2節)、主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。あなたはわたしの分け前を守られる。測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た(5節)。

詩篇16篇は、今から3000年ほど前に神様に捧げられた詩篇です。ダビデは歌っています。「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」(2節)、「わたしは常に主をわたしの前に置く」(8節)、「あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある」(11節)という信仰の恵みを声高らかに讃美しています。表題に「ミクタムの歌」とあります。ミクタムの歌とは黄金のような歌という意味です。ミクタムには黄金の他に、覆うという言葉に関係があり、覆うという事から、罪の償いを意味するとも考えられています。ダビデは、「私にとっては主だけが唯一の宝物のように、かけがえのないお方です。地上の宝は消えて行きます。しかし、神様はきのうも、きょうも、永遠までも変らずに私を愛し、支えて下さる唯一の主です。神様は私の罪を覆い、罪の赦しを与えて下さいました」と主に心から信頼して讃美を捧げました。そのことから、主を自分の宝としているダビデの信仰に基づいて、ミクタムの歌すなわち黄金のような信仰の歌という表題になっています。1-6節の中から教えられることは次の通りです。

1、主により頼む者は幸いであるということです。1-2節

2節で「あなたのほかにわたしの幸はない」と歌われています。その前に、「あなたはわたしの主」という、主に対する個人的信頼の言葉があります。神様は、私たち一人一人の名前を呼んで(イザヤ43:1)、「あなたはわたしを信じるか、愛するか」と問われます。4日(日)に3名の青年が新成人の祝福の祈りを受けました。3名とも両親がクリスチャンです。親がクリスチャンなので、3名とも自動的にクリスチャンになったのかといえば、全く違います、3名がそれぞれに個人的に神様と向き合い、イエス・キリストを自分の救主として心に迎え入れる信仰の決断をしました。次に、神様と人の前に信仰を公にするために洗礼を受け、クリスチャンとして正式な出発の時をもちました。主により頼んで行く人生は幸な人生です。この中にも小学、中学、高校の時から信仰をもってキリストに従い、教会生活をしている方々がいます。私は高校の時に洗礼を受けました。進学の時、献身して神学校に入る時、結婚の時などあらゆる人生の節目にキリストの導きがあったことを思い起すことが出来て、ダビデのように「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」と歌うことができることを感謝します。年若い皆さんに告げます、「キリストにつながり、教会につながり続けることが祝福の基礎になります」。私が意識的に礼拝を休んだのは、信仰初期に3回ぐらいあったと思います。休んだことによって得たものは虚しいという気持です。あんな気持をニ度と味わいたくないと思って、教会につながり続けて、毎週心を恵まれていることを感謝しています。

2、主により頼む者にはへりくだりが与えられます。3節

ダビデは謙遜に、自分以外の多くの人々に敬意を表し、「すべてわたしの喜ぶすぐれた人々である」と言っています。キリストのことを考えますと、キリストは人を受け入れるお方であるということです。宇宙の王であり、神の独り子という比類のないお方でありながら、栄光の全てを捨てて人の子としての生涯を送られ、人の僕になっています。例えば、キリストは、人々が嫌う取税人ザアカイの家に進んで泊まりに行っています。それを見たパリサイ派の人々は「キリストは罪人の家に入って客となった」と非難しています。人を断罪し、悪口をいうことは神様を信じない人のすることです。しかし、それでは人は救いに至ることはできません。キリストはザアカイの友になり、彼を回心に導いています(ルカ19:1-10)。ザアカイが心を開いたのは、キリストが先に彼に対して「あなたの家に泊まりに行く」と言われ、実際に彼の家に行かれたからです。キリストは罪人の私たちが謝ってくれば、罪の赦しを与えようとは言いませんでした。「わたしはあなた方を愛している」ということを、先に示されたのがキリストです。進んで十字架を負われ、ゴルゴタの丘で人の罪の身代りとして、裸にされ、両手両足に釘を打ち込まれ、朝の9時から午後3時まで苦しむという愛を示して下さいました。私たちはキリストによって、無条件で赦され、愛されています。ピリピ2:3-5の御言葉を心に刻んで下さい。

3、主によって祝福の道が開かれます。4-6節

4節に「ほかの神を選ぶ者は悲しみを増す」とあります。続けて、「虚しい神々に血の灌祭といわれる奉納酒を捧げません、偶像の名前を唱えません」という決意が述べられています。あらゆる宗教が神々に酒を供え、偶像礼拝をする人々はその酒を飲みます。昔、イスラエルの人々は金の子牛を作って拝み、「民は座して食い飲みし、立って戯れた」という事件がありました(出エジプト31:6)。まことの神様を信じると、ドンチャン騒ぎをして、性的な罪を犯すという虚しいことから離れるようになります。そして「主はわたしの嗣業(相続財産、また宝)」であると確信し、まことの神様への信仰を第一にするようになります。3300年前、イスラエルの人々がエジプトの奴隷の境遇から救われて、先祖たちの住んでいた今のイスラエルの土地に帰ってきました。指導者ヨシュアはイスラエル12部族のために測りなわで土地を測り、分割して与えましたが、それを嗣業といいます。しかし、レビ族には土地の分配がありませんでした。それは彼らが神様に仕えることを第一にするために、主ご自身が彼らを支えるという霊的祝福を受けるためです。レビ族は土地の分配をうけませんでしたが、彼らの生活は何百年もの間、主によって守られて行きました。ダビデは、「レビ族のように私も主を第一にして行こう」ということを決意しています。



2、まことの神を信じる者は、喜びの人生をおくる。16:7-11

わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない(8節)・・・あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。(11節)

7-11節を通して、喜びの人生をおくる秘訣が歌われています。

1、ダビデは「わたしは常に主をわたしの前に置く」と歌っています。8節

7節で主をほめたたえつつ、8節で「私は常に私の前に主を置きます。私は主に従う人生を歩み始めました」という決意が述べられています。漠然と「わたしは主に従いましょう」というのではなく、「私は気持を神様に向けて、神様を第一にして歩き始めました、今日も神様を第一にして歩んでいます。後ろへは引き下がりません」というハッキリとした意思表示をしている言葉です。

注意して下さい、神様が前にいます。「信仰の導き手であり、その完成者であるイエスを見上げつつ、走ろうではないか」(ヘブル12:2)という勧めの御言葉に従って、私たちは主を見上げて信仰生活を続けて行きます。神様より自分が先に出て、「私が進む、都合が悪くなったら、神様、後ろから助けて下さい」という自分中心の考えはは間違いです。あくまでも主なる神様が私たちを導き、支えて下さいます。主に従って行く時に、揺れ動くことなく、喜びの道を進むことができます。

ここで問題があります。それは、今の私たちの肉眼では主を見ることができないということです。目に見えない主を常にわたしの前に置くためには、どうしたらよいのでしょうか。それは聖書を読むこと、毎日聖書を読むことです。教会に来た時に聖書を開く、あるいは何かあった時に聖書を開くのではなく、毎日聖書を開いて読むことが大切です。聖書を読むと、祈りに導かれます。聖書を読み、祈ることを継続して行けば、目に見えない主の恵みがよく分り、信仰が強められます。

継続ということですが、アメリカ大リーグ・マリナーズのイチロー選手のことが新聞に出ていました。彼は毎年200本以上の安打を打ち、今年は連続9年200本安打の新記録を打ち立てるだろうと期待されています。彼の活躍の源は何かというと、夜のゲームに備えて午後1時45分ごろ球場に入り、トレーニングによって体作りをして、午後4時15分ごろチーム全体の練習に参加し、試合に臨むそうです。ふつうの選手は3時ぐらいに球場入りするが、イチロー選手はいつも一番乗りとのこと。体調が良くても悪くても、打撃が好調の時も不振の時も、何があっても必ず準備をします。イチロー選手の才能も大きいが、徹底した自己管理の積み重ねが大記録につながっているということです(読売1月7日)。私たちは気が向いても向かなくても、恵まれている時も少し落ち目の時も、毎日毎日変らずに聖書を開き、御言葉を読み、祈ることをして行けば、主に助けられて人生は祝福に満ちて行きます。

お尋ねします・・・皆さんの聖書はきれいですか。それとも線を引いたり、書き込みをしたりして汚れていますか。実は聖書が汚れれば汚れるほど、心がきれいになります。この私の聖書はメッセージ準備の時に使いますが、あっちを開き、こっちを開くということをしているので、ボロボロになってきましたが、こうなると愛着が湧いてきます。

2、私たちは天の御国を目指して行きます。10節

キリストを信じる者には永遠の命があります。死んで終わりの人生ではなく、主のおられる天国を目指して私たちは進みます。私が牧師になって、最初の葬式は80歳を越えてから洗礼を受けた富田さんのおばあちゃんでした。しばらく病気でしたが、すっと眠るようにして天に召されて行きました。葬式を司式しながら、今まで遠くに感じていた天国が何か身近に感じられ、はっきりと天国の実在を確信したことを思い出します。大切なことを伝えますが、天国の門まで行くのではなく、天国の門の内側に入って行くことが肝心です。キリストにしっかり結びついて天の御国を目指して進んで参りましょう。

3、満ちあふれる喜びともろもろの楽しみの人生を歩むように導かれます。11節

クリスチャン人生の恵みは、喜びの日々を歩む力を与えられていることです。年頭に「喜べ、祈れ、感謝せよ!」(Ⅰテサロニケ5:16-18)という御言葉をいただきましたが、ここでは喜びと楽しみということが言われています。実際には喜べないこともありますし、楽しめないこともありますが、私は単純に「主にあって喜ぶことができる」と信じています。昨年にある事で打撃を受け、髪の毛も相当抜けたと思いますが、主の十字架によって罪を赦されている、これまで全てのことは相働いて益となるようにされてきたという恵みを数えて、信仰的に回復されていることを感謝しています。

新聞に長寿革命という記事が連載されていました。85歳以上の超高齢者(研究者がつけた呼び名)は、みな口癖のように、「何が不思議って、自分が生きていること」「朝、目が覚める。不思議って思うよのねえ」と言うそうです。高齢者(平均70歳)と若者(平均25歳)各15人に暴力シーンなどの写真を見てもらい、脳の活動を測定し分析した。高齢者は理性をつかさどる脳の前頭前野を活用して嫌な記憶を抑制し「幸せ」の記憶を残す。一方、若者は記憶の中枢の海馬を働かせ、嫌悪感も正確に記憶する(読売1月16日)。その仕組みは、神様が人間のうちに備えて下さった恵みであると思いました。私たちクリスチャンは、神様が備えて下さった体の仕組みを越えて、キリストによる恵みの力を与えられていることに気づきました。その恵みとは、人生において、クリスチャンも裏切られたり、迫害されたりなど嫌なことに出会うが、心の内におられるキリストが、頭脳と心と感情に働いて、嫌な記憶を十字架によってきよめ、心に自由を与え、人を赦し、受け入れて行く力を下さる。だから満ちあふれる喜び、もろもろの楽しみでいっぱいになるという祝福です。



まとめ

1、2節を読みます、「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」。

5節を読みます、「測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た」・・・まことの神様を信じる者は祝福を得るという恵みを与えられます。

2、8節を読みます「わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない」。

11節を読みます、「あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある」・・・まことの神様を信じる者は喜びの人生をおくるという恵みを与えられ、永遠の天国に導かれます。



祈 り

天地の主である神様、神様の独り子であるイエス・キリストの救いを受け、神の子にされていることを感謝します。ダビデのように、あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」と讃美できることを感謝します。常に主を前に置いて、祝福の道を歩んで行くように日々を導き助けて下さい。毎日聖書を読み、祈る生活を継続して行くように、恵み深い聖霊によって信仰の道を歩ませて下さい。病気の方々が速やかに癒されることを信じます。受験の時ですが、受験生一人一人を最善に導いて下さい。午後、クリスマス祝会に出席された方々に案内を送りますが、キリストを求め、救いに与る方々を起して下さい。夕べの礼拝を祝福して下さい。変転極まりない世界の中にあって、キリストによる平安を与えて下さい。イエス・キリストのお名前によって祈ります、アーメン。



参考文献:詩篇注解―浅野、スポルジョン、フランシスコ会、岸井、文語詩篇略解、ナイト。