教会の主であるイエス・キリスト 黙示録1:9-20               主の2009.1.25礼拝



私が小学校生の時、クラスにM.Kという女の子がいましたが、「あの子の家は教会だ」と友達が教えてくれました。その家は私の家から学校へ行く道から、少し入り込んだ所にあり、普通の家を少し改造して教会にしていました(後に会堂を建て幼稚園も始めた)。私の両親はその教会のすぐ傍に住んでいたことがあり、「牧師さんがお祈りしている姿が見えた」と言っていました。それが教会を知った最初です。中学はカトリック系のミッションスクールで、日曜日は大きな会堂で荘厳な雰囲気の中で、外国人の司祭によってラテン語でミサが行なわれ、会堂2階で歌う聖歌隊の澄みきった合唱が印象に残っています。高校生になってプロテスタント教会に導かれましたが、そこは古い医院跡を会堂にしていて、カトリックに比べると貧弱な会堂でしたが、皆が手を叩いて讃美し、熱心に祈り、一人一人の心が燃えているという感じで、そこが私の救いの教会になりました。

きょうは黙示録1:9-20です。12節、「ふりむくと、七つの金の燭台が目についた」とありますが、「燭台は教会」(20節)です。13節に「燭台の間に、足まで垂れた上着を着、胸に金の帯を締めている人の子のような者がいた」とありますが、人の子とはキリストのことです。「燭台の間に」というのは燭台の中央を表していて、教会の中心にイエス・キリストがおられるという意味です。民家を改造した所、大きな伽藍(がらん)のような所、古ぼけた建物など集まる所はいろいろですが、キリストを信じる者が集まる所が教会であり、教会の主はイエス・キリストです。2009年も「キリストを喜び、キリストを伝える教会」に連なる者として、教会の頭(かしら)であり、主であるキリストに固く結びついて信仰生活に励み、救主イエス・キリストを家族、友人、知人に伝えて行くように祈って参りましょう。



内容区分

1、イエス・キリストは、私たちと常に共にいて下さる主である。1:9-11

2、イエス・キリストは、教会の真ん中におられる主である。1:12-20

料問題

黙示録は使徒ヨハネによって紀元96年ごろ記された、世の終わりに関する預言の書。「黙示」とは「覆いを取り除く」「明らかにする」のギリシャ語から派生した名詞で、「秘められた真理の表明」という意味である。9節「イエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている」、キリスト者は洗礼によってキリストに結びついているので、キリストの苦難にもあずかる (ロマ8:17、ピリピ3:10-11)。苦難は御国に入る大事な条件(マタイ5:10―12、使徒14:22)。御国は主の支配する国。忍耐は黙示録に7回出てくる(2:19、3:10など)。忍耐は信仰の迫害に耐えるために必要である。「パトモス島」、現在のパティノでエーゲ海の南にある長さ16キロ、幅8キロの岩だらけの島。当時は政治犯をここに幽閉した。採石場があり、流刑者は採石場で重労働を課せられた。現在もヨハネが幻を見たという洞穴がある。10節「主の日」、使徒20:7.Ⅰコリント16:2では「週のはじめ」としている。キリストの復活を記念する日で、主の日と呼ばれるようになった。11節「七つの教会」、全世界の教会を表す。七は完全を意味する数。過去、現在、未来に存在する神を指す三と自然界(地水火風)を指す四を加えると七という完全数になる。13節「燭台の間」、燭台の中央のこと。燭台は教会を指す。キリストは常に七つの教会(全世界の教会を表す)の中におられて、慰め、戒め、教えるお方である(2:2-3:22)。「人の子」、メシア的称号。キリストはご自分を人の子と呼んだ(マタイ16:13-15、マルコ9:8-9)。




1、イエス・キリストは、私たちと常に共にいて下さる主である。1:9-11

わたしは、主の日に御霊に感じた。そし、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするの聞いた。(10節)

黙示録を記したのは使徒ヨハネです。彼はキリストの12弟子の中で最も若く、キリストに愛された弟子と言われています。十字架の時に、彼だけは逃げずにキリストの最後を見届け、母マリヤを託されています(ヨハネ19:26-27)。キリストが復活され、天に昇られた後に、キリストの代理者として聖霊が来られ、聖霊の力を受けて使徒たちを中心にして伝道が活発になされ、各地に教会が誕生して行きました(使徒行伝を見よ)。ヨハネはキリストのそば近くに仕えた弟子として、キリストの言われたことを正確に記憶していましたが(例:ヨハネ17章大祭司の祈り)、キリストが天に帰られて約60年経った紀元90年頃に「ヨハネ福音書」、続いて「ヨハネの手紙3通」を記しています。彼は人生の最晩年90歳を過ぎて、ロマ皇帝ドミティアヌス(81-96)の迫害によって、岩だらけのパトモス島に島流しにされ、石きり場で石を切り出す強制労働に服しています。ヨハネは迫害下にありましたが、ここで世の終わりについて主からの啓示を受け、紀元96年黙示録を記しました。

*先ず黙示録1:9-11からヨハネを通して三つの恵みを知ることができます。

第一に、ヨハネは信仰を貫いています。

彼は若くしてキリストの召しを受け、12弟子のひとりになり、60年以上も主に従い続けてきました。弟子達の多くが殉教して行く中にあって、彼は守られて長生きをし、教会でキリストの愛を説き続け、そのまま安らかに天にて召されて行くような状況の中にいました。ところが人生の最晩年に迫害によって捕らわれ、岩だらけのパトモス島に送られ、90歳を越えて石を切り出すという重労働に服しています。人生には上り坂があり、下り坂があります。そしてまさかという予期しない困難な問題に巻き込まれることがあります。ヨハネは迫害という困難の中に投げ込まれていますが、「私が迫害を受けているのは『神の言(ことば)とイエスのあかしとのゆえ』(9節)である」と言っています。この言葉の中に、「私に主の救いを伝えるという使命がある、主は生きていて、常に私と共におられる。私は信仰を貫き通す」というヨハネの信仰が伝わってきます。私は教会の牧師として主に仕えていますが、多くの方々が信仰生活を貫き、継続している姿に励まされています。

第二に、ヨハネは「イエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている」と言っています。

苦難は信仰上の戦いによる苦難です。御国は天国のことです。忍耐とは我慢ではなく、キリストを信じて困難に立ち向かう積極的な態度です。

今朝は特に苦難ということを考えてみます。これは信仰のための苦難です。ある所でひとりの男性に会いましたが、奥さんがクリスチャンでした。「家内はクリスチャンになり、私も家内がよく変り、喜んでいます。でも一つだけ困っている。神棚に榊(さかき)をあげない、仏壇にご飯を供えないし、拝まない。葬式では焼香しないで祈っているが親戚が気になり、困る」。そのことで、奥さんはご主人に嫌みを言われ続けた。それは信仰ゆえの苦難です。しばらくしてから、伝え聞いたのですが、ご主人は奥さんに信仰のことで文句を言わなくなったそうです。神棚、仏壇を拝んでも答えがないが、奥さんがまことの神様に祈ることによって、自分も祝福を受けていることが分ったからです。

*皆さんにお伝えしたいことがあります。キリストを信じると、今のご婦人と同じように信仰ゆえの苦難を体験します。私たちはキリストに属するクリスチャンです。例をあげれば、クリスチャンになると偶像を拝まなくなります。この世は、サタンが「この世の君」として力を振るっているので、偶像礼拝をおおっぴらにしています。しかし、私たちはキリストに属する者となった時から偶像礼拝から離れます。ヨハネの時代はロマ皇帝を神として拝むように強制され、拝まなければ迫害され、仕事を奪われるということがありました。ヨハネは、信仰の故にロマ皇帝によって島流しの迫害を受けています。では苦難はいつまで続くのでしょうかか・・・黙示録2:10をご覧下さい。これは復活のキリストの御言葉です。「10日の苦難」とあるのは、苦難はいつまでも続かないという意味です。苦難はやがて終るので、キリストは苦難にあっても「死に至るまで忠実であれ」と私たちを励ましています。

苦難に打ち勝ち、信仰に立って行くために、主に祈りましょう。主は十字架によって救いを与え、甦って生きている救主です。「あなた方は、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)という勝利のキリストが私たちの救主です。

第三に、ヨハネは「主の日に御霊に感じています」

主の日とは日曜日のことです。キリストは金曜日に十字架にかかられ、日曜日に復活されました。キリスト以前は土曜日が礼拝の日でしたが、キリストの復活を記念して日曜日に礼拝を捧げるようになりました。ヨハネの時代は、まだ日曜日は休みではなかったので、朝早く日の出とともに人々は共に集まり、主を讃美し、祈りをささげ、メッセージを聴き、時には聖餐式を行い、それぞれの仕事に向かって行きました。ヨハネは島流しにあい、強制労働をさせられていますが、日曜日の朝早く、いつものように礼拝を捧げています。その時に聖霊に満たされ、ラッパのような大きな主の声を聴いたのです。私たちの人生には、ヨハネが体験したような迫害による島流しのような辛い時があるかも知れません。人生には思いもかけぬ出来事が起きてきます。ヨハネは大変な中にあって、日曜日の朝に礼拝を捧げ、主の祝福をいただいています。

キリストは、神様を礼拝する日には必ず会堂に行き、礼拝を捧げています。ルカ福音書4:16には「お育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂に入った」と記されています。ここにも赤ちゃんから小さい子どもさんが大勢います。小さい時から教会に来ている子どもは幸いです。親が歌い、祈り、御言葉を聴いている姿を見て子どもは霊的に成長して行きます。信仰は毛穴からと言った人がいますが、まさに今いる子どもたちの全身全霊に信仰が浸透して、それが信仰告白という実りに至って行きます。4日に成人式の祝福を受けた3名は、信仰は毛穴からという恵みを受けて育ってきました。この中には信仰は毛穴からという恵みを受けている人達がいます。小さい時に教会に来ていたが、今、教会から離れている子どももいるかも知れませんが、小さい時に心と体に沁み込んだ信仰の恵みによって、必ず主の御許に戻ってくることを私は信じています。子どもの信仰成長のために祈って下さい。多少泣いても、時には騒いでもみんなで愛をもってお世話しましょう。子ども達は次代の教会を担う神様からの賜物です。

ヨハネは、礼拝で主の語りかけを聴き、祝福を受けました。私たちも共に集まる礼拝を通して、主から必要な導き、力、慰め、希望が与えられます。礼拝を最優先して行くように祈って下さい。



2、イエス・キリストは、教会の真ん中におられる主である。1:12-20

それらの燭台の間に、足まで垂れた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた(13節)、「恐れるな。わたしは初めであり、終わりであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉(よみ)とのかぎをもっている」(17-18節)

ヨハネは自分に呼びかけた声は誰だろうと思って振り向いています。振り向くと金の燭台が見え

ましたが、それは教会を表しています(20節)。さらに見ると燭台の間を人の子のような者がいるのが目に入ってきました。燭台の間とは燭台の真ん中、中央の事です。人の子とはイエス・キリストの事です。ヨハネは、教会の真ん中、教会の中央をイエス・キリストがおられるのを見たのです。

*12-20節から、教会の真ん中におられるキリストの恵みを三つ教えていただきましょう。

第一に、キリストは教会の真ん中におられます。

今、礼拝を捧げているこの真ん中にキリストはおられます。昨日は上野公園ホームレス伝道の日で、寒い中でしたが礼拝を捧げ、給食の時をもちました。少しそれますが、上野公園ホームレス伝道は10年目に入りました。家内と初めて上野に行った時、私がメッセージを始めた時、土砂降りの雨になり、野外ですからホームレスの人々は立ち上がり落ち着かない雰囲気の中で、キリストの救いを伝えました。その後で、頭からつま先まで濡れたまま、スタッフの人々の祈り会に出席し、熊谷に戻ったのは深夜でした。話を戻して、昨日は寒い中でしたが、キリストの御名によって集まっている野外教会の真ん中に主が立っておられるという励ましをいただきながら、荻野伝道師が司会をし、熊谷からの参加者が讃美チームを組んで会衆讃美をリードし、私が「キリスト以外に救いはない」(使徒4:12)というメッセージをいたしました。皆さんのお祈りに感謝します。日本全国に8000ほどの教会がありますが、上野公園ホームレス教会のように野外の集まりの教会、また立派な建物・設備をもった教会まであらゆる教会の真ん中に主がおられます。私たちは教会の真ん中におられるキリストを崇め、キリストの愛に感謝し、キリストの愛をもって互に愛し合って行くことを実践することが大切です。

ある牧師の語ってくれた実話です。ひとりの青年が教会で面白くないことがあって、教会に躓いた。(躓いたと言う人は、自分も誰かを躓かせているかもしれないという謙虚さが必要です)。青年は教会を離れた。聖書を読んで黙示録1章にきた時に、教会の真ん中にイエス・キリストがおられることを知った。彼は心を砕かれて教会に戻り、今は牧師になっているとのことです(大川従道牧師説教より)。

第二に、キリストの姿と教会の姿についての恵みです。

キリストの姿は13-16節に出ています。私がここを読んで感じることは、キリストの力強さ、清さ、威厳です。私は14節後半「目は燃える炎のようであった」ということが心に迫ってきました。人と話をする時には「目を見なさい」と言われますが、キリストの目は、燃える炎のように全てを見通す目、心の隅々までも見透かす目であると思います。私は日曜日の朝ごとに祈ります、「神様、キリストは燃える炎のような目で私の全てを見ておられます。主よ、私の心の中に汚れや過ちがないかどうかを見て下さい。人を赦さない冷たい心、人を審く高ぶった思いがないかを点検して下さい」。そうした祈りを捧げて、初めて講壇に立つことができます。

教会の事ですが、キリストは私たちの教会を、金の燭台のように見ていて下さるという恵みです。実際の教会は欠けていることがいっぱいあります。しかし、私たちがキリストを愛し、また兄弟姉妹が愛し合って行くなならば、キリストは私たちの群れをこよなく大切な教会として祝福して下さるのです。主のご期待に応えて行くように祈って行きましょう。

第三に、キリストは救いの主、命の主です。

17-18節を読みます。何という力強い御言葉でしょうか。上野公園に毎月第四土曜日に行きますが、働く機会を奪われ、住所不定となって地べたで暮らし、残飯でかろうじて命をつないでいる人たちに伝えるメッセージはなんだろうかと、毎回祈ります。そして、「空の鳥、野の花を養い、装って下さる神様がいる。しかし、人間は罪のために神様が分らず悲惨な生活をしている。罪を赦し、神様の許に立ち帰る道を開くために、キリストは十字架に身代りになった。悔改めてキリストを信じ、生まれ変わろう。キリストは死んだが、復活して生きておられる。キリストが私たちを助け、天国に導いて下さる」というメッセージを語ります。生きておられるキリストがホームレスの方々の心の中に働いて下さって、彼らの心から恐れを除き、魂を救い、人生再生・再出発の恵みを下さっています。比留間師夫妻の伝道活動を通して、それに熊谷の祈りと奉仕が用いられて、多くの方々が、キリストによる人生再生・再出発の恵みに与っています。

*皆さんに恐れはないでしょうか。恐れがなければ感謝です。もし恐れがあれば主に祈りましょう。

仕事のことで恐れがありますか。健康のことで恐れがありますか。人間関係で恐れがありますか。経済のことで恐れがありますか。受験のことで恐れがありますか。結婚のことで恐れがありますか。家族のことで恐れがありますか。結婚のことで恐れがありますか。先行きのことで恐れがありますか。心の中に赦さない思いを持っているという恐れがありますか。家族の救いのことで恐れがありますか。家庭の宗教のことで恐れがありますか。

*キリストは「恐れるな!」と私たちに呼びかけています。キリストは十字架によって救いと癒しを与えて下さり、復活によって永遠の命を下さる救主です。主の助けを求めて祈りましょう。



まとめ

1、10節、キリストは、私たちと共にいて下さる主です。

2、13節,17-18節、キリストは、教会の真ん中に折られ、私たちを助けて下さいます。すべての恐れを主によって解消され、新しい力を受けて行くように祈りましょう。



祈 り

天地の主である神様、キリストの救いに感謝を捧げます。信仰を貫き、苦難を越え、礼拝を通して恵みを受けて行くように導いて下さい。教会の真ん中におられるキリストを見上げ、互に愛し合って教会生活を続けて行きますので助けて下さい。「恐れる」といわれるキリストによって心に平安が豊かにあるように守り、支えて下さい。病気の方々を癒し、課題を抱えている方々に逃れの道を備えて下さい。世々限りなく生きておられるイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:黙示録注解―黒崎、フランシスコ会、LABN、バークレー、矢内原、米田。