知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高めるー思いやりの心 コリント第一8:1-13  主の2009.2.1礼拝



日本には八百万の神々がいると称されています。散歩しながら家々を見て行くと、ある家の庭には祠(ほこら)があり、ある家には小さな鳥居が立っています。道端に小さな地蔵などが祭られている所もあります。タイに行き、小さな店がひしめき合っている商店街に行きましたが、多くの店の奥に呪文のようなお札が貼ってありました。また町中いたるところに仏像があり、近代的なホテルの正面にも仏像が飾られていました。日本は八百万の神々のほかに、家に仏壇があり、お守り、お札の類があります。「きょうの運勢」という暦があって、きょうは良い日、明日は良くない日と記してあり、店を開くにも、旅行をするにも、その暦に従って行動している人がいます。私たちはキリストの十字架によって心が生まれ変わり、偶像より解放されて自由の身になっていることを感謝します。

本日はコリント第一8:1-13です。ここには偶像へ備えた肉を食べてよいのかということが論じられています。この手紙の宛先コリントには偶像が多くありました。偶像に肉が供えられますが、供えられた肉の大部分は取り下げられて、そのまま市場に出回って行きました。これは当時の人々にとっては大きな問題で、「クリスチャンは偶像にささげられた肉を食べても構わないのか」という事で論議がありました。現代は、食肉は食肉メーカーによって加工されているので、肉を食べるのに問題はありません。しかし、私たちは偶像にあふれた社会に暮しているので、例えば偶像に関連した葬式の焼香、大安、仏滅などへの対処などの宗教問題があります。使徒パウロは、コリント教会の人々に、偶像に備えた肉に関連して、クリスチャンは偶像から自由になっていることを感謝し、偶像への対処の仕方について8-10章において分り易く教えています。今朝は8章より主のメッセージを聴き、祈って、新しい一週間へと出発いたしましょう。



内容区分

1、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。8:1-8

2、自由を誇って、人をつまずかせてはならない。8:9-13

資料問題

1節「偶像への供え物」、偶像に捧げた動物の犠牲の肉。肉を神殿にささげ、その一部は祭司に帰し、他の一部は市民に返された。肉を持ち帰った者は神殿にささげた肉で祝宴を開き親戚や知人に振舞った。貧しい市民は肉の一部を市場に売り、祭司も肉を市場に出した。市場では偶像にささげられた肉が売られ、クリスチャンの中には肉の饗宴に招かれる者がいた、また市場で肉を買う事があった。クリスチャンとして饗宴出席の可否、偶像に供えられた肉を買うことの可否について、パウロは福音の根本精神に立って解決を示している。4-6節は創造主である神への明確な信仰が述べられている。7節「この知識をすべての人が持っているのではない」、ユダヤ教、イスラム教は、唯一の主イエス・キリスト(6節)を否定している。9節「しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい」、自由の原意は力、権威。キリストの救いに与った者は、この世の束縛から自由になる。例えば仏滅、友引などから自由になる。キリストがクリスチャンに大いなる力と権威とを賜るからである。




1、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。8:1-8

偶像への供え物について答えると、「わたしたちはみな知識をもっている」ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める(1節)。

8章は、「偶像への供え物について答える・・」という言葉で始まっています。コリント教会の人々は、町の人々が崇めているものは偶像であること、自分たちは教会に属するクリスチャンであり、唯一の神様を信じ、また唯一の主イエス・キリストを信じる信仰に立っていました。しかし、コリントという異教の町で暮らす者として、偶像への供え物についての質問は、次のようなことを知りたかったからです。

第一に、クリスチャンになったからといって、ノンクリスチャンである家族、親族、隣人との対人関係を棄てることはできません。また、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ22:39)というキリストの教えに従って、人間関係を大切にしながら伝道して行く使命もあります。日々ノンクリスチャンに囲まれながら生活して行く中にあって、供え物の肉に関連して、クリスチャンとしての態度をどのように表すべきかということが問われています。

第二に、町の公の行事はだいたい祭という形をとっていて、祭では犠牲の肉がささげられ、祭司が先ず肉をとり、大部分の肉は祭の参加者にお下がりとして与えられました。祭司は食べきれない肉を市場に売り渡しました。参加者へのお下がりの肉は、家に持ち帰って家族、親族、友人と共にお祝いとして食べ、残った肉は市場で売り出されました。町の公の祭の時、多くの肉や皮が売りに出されて町の収入になったのです。クリスチャンにとっては次のことが問題になります

❶町の祭や式にクリスチャンは参加すべきか否か、

❷招待された時、出された肉の中に偶像に供えられた肉が入っているかどうか、

❸店で買う肉や革製品は偶像への供え物が姿を変えたものでないかどうか、ということです。

こういう問題に対して知識を誇る人はこう考えていました。偶像に供えられた肉を食べても全然問題にならない。自分たちのすぐれた知識によれば、異教の神々(偶像)は存在しない、だから偶像にささげられた肉を食べても問題ないとする立場をとりました。パウロも、4-6節で、偶像の存在をきっぱりと否定し、唯一の父なる神と、神に遣わされた唯一の主イエス・キリストのみがおられるという事を明らかにしています。

しかし、パウロは訴えています。教会員の中には、コリントの町に長年暮して偶像を拝んでいた人々がいる。彼らはキリストを信じ、救われてクリスチャンになっている。その人々は、今は偶像は存在しないという信仰に立っているが、実際には長年にわたって偶像を拝んでいたので、その影響が心や生活に残っている。その影響は徐々に無くなって来ているが、偶像に供えられた肉を食べることによって、偶像はいない、だから食べても問題はないというふうには割り切れずに、自分は偶像に加担しているのではないかと思って、良心の痛みを感じて悩んでしまう人々がいる。そういう立場の人々のことを考えて、パウロは言います、「自分は無害であると言って、知識を誇り、強さを自慢するのではなく、人をつまずかせてはならないという愛をもって、偶像に供えられた肉を食べることをしない」と。これは信仰の弱い人々への、パウロの思いやりの心です。

1-8節を通して、何事も知識の立場からのみ物事を判断してはならない。すべては愛の立場から判断されなければならないということを教えられます。「愛は人の徳を高める」とあります。愛の源はイエス・キリストです。キリストの愛はどんな愛でしょうか・・・・。

キリストの愛は、キリストが話された良きサマリヤ人の話の中に教えられています(ルカ10:30-37)。あるユダヤ人がエルサレムからエリコへ下って行く時に、強盗に会い、半殺しにされて道端に放り出されました。ユダヤ人祭司が通りかかりましたが、「あの倒れている人は、ここは危ない所と言われていた情報を無視したからだ」と考えたのでしょうか、あるいは関わり合いになるのを恐れたのでしょうか、無情にも彼を見棄てて道の反対側を通って行ってしまいました。レビ人が来ましたが、「この危険地帯のことはよく知られている。彼の自己責任だ」ということで、やはり彼を見棄てて向こう側を通り過ぎて行っていなくなりました。そこへユダヤ人と仲の良くないサマリヤ人がやって来ました。サマリヤ人は、「あの人は危ない所を不用意に来たからいけない。それに、あの人は我々と仲の良くないユダヤ人だ。もう死にかかっている」という知識よりも、半死半生の彼を見て「気の毒に」という愛の思いが湧きあがり、すぐに近寄って傷の手当てをして包帯を巻いてあげました。そして、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、お金を払って、その人の面倒を見るように頼み、余分な費用は帰りがけに支払うということまで約束しています。

キリストは、サタンによって滅びに向かっている私たちに対し、「律法を守りなさない。正しい生活をしなさい。偶像を棄てて、まことの神を礼拝しなさい」という知識を押し付けていません。「愛は人の徳を高める」・・・キリストは私たちがまだ罪人であった時に、愛の故に十字架によって私たちの罪の身代りになって死んで下さった唯一の救主です。キリストを信じて、私たちは罪を赦され、神の子になるという大きな恵みを与えられています。

私たちは聖書を読みますが、何のために読んでいますか。旧約と新約の違いを知るためですか。旧約聖書、新約聖書の歴史を知るためですか。聖書の原語を知って深い意味を得るためですか。私たちが聖書を読む目的はたった一つ、「キリストを知り、キリストを信じて神の子になることです。キリストを信じて喜びに満ち、キリストきちがい(Jesus crazy)になることです」。



2,自由を誇って、人をつまずかせてはならない。8:9-13

しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。(9節)

9節は8章の中心の言葉です。自由(エクスーシア)には、力、権威のほかに合法であること、権利があるという意を含んでいます。つまずき(プロスコムマ)は打つという言葉から出来た名詞で、足を打つとつまずくので「つまずき」を意味しています。「あなたがたの自由が弱い者たちのつまずきにならないように」というのは、知識があると誇っている人々は、偶像はないのだから、何を食べても良い、私たちは間違っていない、合法なことをしているのだ、肉を食べるという権利・自由があると主張する。しかし、その自由が信仰の弱いの人の足を打って倒してしまわないように、というのです。

確かに、キリストの救いに与った者は、この世のあらゆる束縛から自由になります。キリストの救いは迷信、偶像などから私たちを自由にします。偶像を拝む習慣から私たちは解放されています。私たちは素晴らしい自由を与えられていますが、「しかし」とパウロは言うのです。「あなたがたが受けているこの自由を、自分は何をしてもいいんだ、というふうに取り違えてはならない」というのです。自分はすべてのことから自由になっているという知識を振り回して、何を食べてもかまわない、偶像の宮で飲食しても自由だから大丈夫と考えてはならない。まだ信仰が充分に確立されていない信仰の弱い人が、あなたの言動を見てつまずいて信仰を無くしたら大変であると警告しています。

剣道の好きな牧師が言っています、「剣道の道場には神棚がある。私は牧師だ。偶像なるものは存在しないという知識を持っている。神棚は単なる偶像にすぎないから、神棚に向かって礼をしても私の信仰には何ら問題はないとして、道場に行くたびに神棚に向かって礼をしたら、私の子どもはそのうちに、真の神が分からなくなってしまうだろう」と述べていて、絶対に神棚に礼をすることはしないと言っています。

パウロは言います、「あなたの知識によって、信仰の初歩の人、まだ信仰が充分に確立されていない人をつまずかせてはならない。この弱い兄弟のためにもキリストは十字架に死なれたのである。兄弟をつまずかせることは、最終的にはキリストに対して罪を犯すことになるのである」と(12節)。クリスチャンは自由な者です。何を飲もうが食べようが、時には娯楽のために時を過ごしても、それ自体は自分をだめにすることはありません。しかし、牧師が私は信仰が強い、神棚は単なる偶像の飾りだ、頭を下げても信仰に影響がないと言って、礼をすれば、それを見た人は必ずつまずきます。私たちは他の人の信仰に害を与えるようなことはしないように、常に祈って行くことが大切です。パウロは、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、永久に、断じて肉を食べないという覚悟を示しています(13節)。

つまずかせるということですが、時々教会でつまずいたということを言う人がいます。教会とは何でしょうか。「教会とは御言葉が伝えられ、聖餐式が行われ、信徒が霊的に訓練され、全世界に向かってキリストの福音を宣べ伝えるという使命を委ねられている所」です。これは非常に固い言葉による教会の説明です。一番わかりやすい教会の説明は、「教会とは魂の野戦病院である」という事です。病院は病人の集まる所です。教会は魂に傷を受け、罪に悩み、病気を抱え、人間関係に傷つき、孤独に苦しみ、人を赦せない恨みを抱えている者、先行き不安という希望を失いかけている人々が集まる所です。野戦病院ですから、人生のあらゆる場面で困難に直面している人が飛び込んでくる所です。魂が痛んで、苦しんで、叫んでいる人々の集まりです。私がせっかく良くなりかけたら、あの人が叫ぶので、気持が沈んだ、などと言っているヒマはないのです。互いに痛みを分かち合い、苦しみを分け合い、魂の医者であるキリストにすがる所が教会です。弱さを担い合い、先に少しでも元気になった人は、痛み苦しんでいる人のために祈り、手を差し伸べ、キリストによる助けを求めて行くのです。

つまずかせるということですが、先日、大相撲の現役力士が大麻所持で逮捕されたというニュースが報じられました。大麻、麻薬に走る者はひとり残らずタバコから入るということが言われています。こういう事例もあります、「私の両親はリラックスすると言ってアルコールを飲みます。では、なぜリラックスするために、私は麻薬、マリファナを吸ってはいけないのですか」というふうに反問する若者もいます。親の態度が子どもに悪い影響を及ぼしているのです。きょうの箇所から、私たちはつまずきになることから、自分が離れて、他の人をつまずかせないことが大切であることを教えられます。

ひとりのクリスチャンの証です。建設会社に勤めていて、雨が降ればお天気祭りと言って酒を飲み、雨が降らないと雨乞いをして酒を飲むという日々でした。牧師から洗礼のことを聞かれて、信じる心はあるが、こんな自分では洗礼を受けられないと思っていました。「キリストを信じる心があるなら、神の導きを信じなさい」と励まされ、洗礼を受けました。しかし、誘われればお付き合いとして酒を飲み、翌朝「神様、また飲みました、赦してください」と祈っていました。そんな時、会社の健康診断で、B型肝炎と診断され、医者から酒を止めなさいと言われました。これは神様の導きだと信じ、酒を止めてからもう10年になります。今は健康を回復し、医者は酒を飲んでも良いと言いますが、もう自発的に酒を飲むことは決してありません。障害のある娘を見る責任があるので、自分の健康が大事です。酒を断って、糖尿病もほとんど良くなり、「神は私たちの全てをご存じである」ことを感謝しています。

この人は、自分を駄目にし、他人につまずきを与えることから解放されて、飲まないと言う本当の自由を与えられて、クリスチャン生活を感謝のうちに前進しています。



まとめ

1,8:1、知識は人を誇らせます。愛は他人のことを思いやり、人の徳を高めます。愛の源であるキリストの愛を求めて祈り、愛をもって人に仕えて参りましょう。

2,8:9,自由を誇って、人をつまずかせてはならないのです。自分の信仰を強いと言って人をつまずかせないようにすることが大切です。教会は魂の野戦病院です。互いのことを思いやり、祈り合い、助け合って行くように祈りましょう。つまずきとなるものから離れ、他の人につまずきを与えないように自らの生活をきよいものにして下さい、と主に祈って下さい。



祈 り  

天地の主である神様、私たちのために独り子イエス・キリストによる十字架の救いを与えて下さったことを感謝します。神様、へりくだりを与えて下さい。自分のもっている知識を振り回し、知識を誇って他の人を審(さば)き、つまずかせることのないように、すべての事を愛を基準にして語り、行うことができるように、聖霊によって導いて下さい。教会は大勢の魂の病人が集まる所です。魂の医者であるイエス・キリストによって全ての人の心の傷が癒され、また罪を赦されて新しい人生へ踏み出す力を与えて下さい。病気の方々を速やかに癒し、仕事を求める者に良き仕事を備えて下さい。私の心にキリストの愛が注がれて、積極的に人を愛し、受け入れて行くまことの自由を与えて下さい。私たちを限りなく愛して下さる主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:コリント注解―黒崎、バークレー、佐藤、榊原、LABN,モリス、山谷、竹森、文語略解。 「御翼・佐藤順」