愛による伝道―キリストから委ねられた務め コリント第一9:1-18       主の2009.2.8



私が10代の頃、アメリカよりボップ・ピアス牧師が来日し、東京・神宮の都体育館で「東京福音クルセード」という伝道集会が開かれ、何千という人々が集まりました。その後、アメリよりビリー・グラハム牧師の伝道チームが何回来日し、1994年の時は、日本の多くの協力を得て武道館、後楽園球場を会場にして10日間伝道集会を開催し、十万人を越える人々が参加し、大会は成功であったと報じられました。現在でも、外国から多くの伝道者が日本にやって来て様々な集会を催しています。私も多くの大会に参加し、いろいろなことを学ぶことが出来たことを感謝しています。

しかし、私たち夫婦は、大規模伝道とは異なる聖書の示す伝道に導かれました。それは、自分の方からノンクリスチャンの所へ出かけて行く、キリスト直伝の伝道です。1973年に私たち夫婦は豊留真澄先生に出会って、自分の方からノンクリスチャンの所へ出かけて行き、個人的にキリストを伝えるという聖書に基づく個人伝道に目が開かれました。それ以来、キリストの恵みに感謝し、一人一人の魂を重んじつつ「キリストを喜び、キリストを伝える個人伝道」によって、今日まで進んで参りました。キリストを伝えることがクリスチャンの使命です。使徒パウロは、「聖書の最も大事な中心点は、イエス・キリストの十字架と復活である」(Ⅰコリント15:1-11)ということを旗印にして、聖霊に導かれてキリストを伝える伝道を展開し、世界各地にキリストの教会が誕生して行きました。

本日はコリント第一9:1-18です。16節で、パウロは「わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇りにはならない。わたしは、そうせずにはおれないからである」と言い、17節後半では「それ(福音伝道)はわたしに委ねられた務めなのである」と述べています。彼はこの言葉の通りにキリストを伝道し続けました。キリストは天からこの世界に出かけて来られて、人間として33年半の人生を過ごし、十字架と復活によって私たちに救いの道を開いて下さった救主です。ペテロは、「このイエス・キリスト以外に救いはない」ということを宣言しています(使徒4:12参照)。パウロは「わたしはキリストを伝えずにはおれない」という言葉の如くに、昼も夜も、平穏無事な時も、獄中に閉じ込められている時も、時が良くても悪くても(Ⅱテモテ4:2)キリストを伝えています。多くの方々が、家族の救いのために、友の救いのために祈っています。パウロの伝道の姿に倣い、家族に、友に救いが成就することを信じて、祈りを深めて参りましょう。



内容区分

1、権威を振り回さずに、一生懸命にキリストの救いを伝えている。9:1-14

2、愛をもって、与える喜びをもってキリストの恵みを伝えている。9:15-18

資料問題

1節「主イエスを見たではないか」、パウロはダマスコ途上において生ける主に出会っているが、これは彼の使徒職に反対する者の口を封じる彼の稀有な実際の体験である。「主にあるわたしの働きの実」、コリントの人々が救われたのは、パウロが使徒であることの印である。9節は申命記25:4の引用。18節「福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し」、キリストの十字架の福音による救いを受けた。ただで受けたのだからただで与える。自分の持つ特権を乱用せず、パウロは全てを投げ打って献身している。




1、権威を振り回さずに、一生懸命にキリストの救いを伝えている。9:1-14

わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは主にあるわたしの働きの実ではないか(1節)。

8章で「知識を誇ってはならない、愛は人の徳を高める」(8:1)という教えがありました。コリント教会の中に、自分達は知識があり、特別な恵みを与えられているので、偶像にささげられた肉を食べても、何をしても自由だと考えて行動する人々がいて、それが多くの人の躓きになっていました。躓きを与えている人々に対し、パウロは「自分も使徒として多くの権利を受けている。それらを使ってもよいのだが、ほかの人を躓かせないために、自分の権利を利用しない」と述べています。

パウロは、9章のこの部分で自分が使徒であることを述べています。彼の言葉に耳を傾け、合わせて私たちの信仰に益となることを教えられたいと思います。

第一に、パウロは主イエス・キリストを見ています。

パウロはキリストの使徒です。使徒の重要な資格は、復活の主にお会いしたという体験です(使徒1:22,2:32,3:15,4:33)。パウロの信仰は「私は復活の主イエス・キリストにお会いした」という実際の体験に裏打ちされています(使徒26:1-29)。彼は人生の最晩年で自らの信仰を振り返って、「わたしは自分の信じてきたかた(キリスト)を知っている」(Ⅱテモテ1:12)と力強く告白しています。彼は「自分の信じてきたことを知っている」、「自分の信仰の理念を持っている」、「私の信仰告白について論じよう」とは言っていません。彼は、「主イエス・キリストは生きている主である。私は主を知っている。主は私の心におられる」という信仰に立っています。キリストを知るということは、キリストと心と心とのつながりを保ち、キリストの体である教会にしっかり結びつき、信仰生活を一生に渡って続けることです。

キリストが地上にいたのは33年半と復活後の40日間です。使徒は主と寝食を共にし、復活の主にお会いした特別な恵みを与えられた人々です。使徒と比べれば、私たちは肉眼で主を見ていませんし、パウロのように復活の主に出会って、そのの御言葉を聴いていません。でも私たちはキリストを目の前に見ているかのように、身近に感じています。それは、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、言葉につくせない、輝きに満ちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なる魂の救いを得ているからである」(Ⅰペテロ1:8-9)という祝福を得ているからです。

生きておられるキリストと心と心のつながりをもつこと、それが真のキリスト信仰です。またキリストの御言葉に従うことが真のキリスト信仰であることをしっかり心に刻んで下さい。キリストは言われます、「わたしについて来なさい」(マタイ4:19)と。クリスチャンとはキリストの招きに応じて、キリストに従う生活をする者のことです。私が教会に行き始めた高校生の頃、おばさん達が「イエス様は生きているからね。ずっとずっと何があってもイエス様について行くんだよ。礼拝を休んじゃだめだからね」と繰り返し励ましてくれましたが、それが私の信仰の原点になっています。時々おばさん達は聖歌の献身の歌をうたい、「あんたはこの聖歌のように全てを献げてイエス様に献身しなさい」と命令のように言われたことを思い出しますが、それが献身のきっかけになったことを感謝しています。

第二に、パウロの働きは実を結んでいます。

2節で、パウロは「あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職の印なのでである」と言っています。古代において印は重要なものでした。例えば、穀物を船荷で送る時に、袋や箱に封印をして中身が間違いなく入っていますという事を示し、その印を見て相手は信用して荷物を受け取りました。パウロは言います、「私はキリストの使徒である。その印としてあなた方は救われ、コリント教会が存在している。これは私が使徒として働きの実である」ということを明らかにしています。

パウロがキリストを伝えたことによって救われる者が起こされて行きました。それはパウロがキリストを知り、その救いを喜び、キリストの救いを伝えていたからです。私たちがキリストを信じているとするならば、周りの方々にキリストを伝えることが大切です。それが、私たちがキリストを信じていることの印になります。私たち夫婦の毎月の祈りは、「主よ、この2月の間に救われる人を起こして下さい。そのために私たちを用いて下さい。また教会の一人一人を用いて下さい」という祈りです。

第三に、パウロは一生懸命に伝道しています。

彼は、伝道者は「主は福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである」(14節)という原則に立つことを教え、それを根拠づける御言葉を5節以下に述べています。しかし、彼はコリントでは様々な権利を使わないで伝道をしました。ひとりの信徒もいない所で伝道するので、彼は天幕作りをしながら生活費を得て安息日ごとに伝道し、シラスとテモテがきてからは、フルタイムで伝道に専念しています(使徒18章、経済的な支援がもたらされたのであろう)。またピリピの教会はパウロのことをずっと支援しています。パウロは受けるべき所からは支援を受けていますが、とにかく彼は一生懸命に伝道しています。

私が開拓伝道を始めた時に、自給伝道が大切であると考えました。自給伝道とは、教会の経済の必要が満たされ、他から援助を受けずに、自分の教会の力で自由に伝道できることです。熊谷の最初はサポートされる教会でした。私たちが開拓伝道に出発した時、経済はゼロに等しかったので、宣教師を通して3年間のサポートの申し出がありました。家賃4万円でしたが、一年目4万円、2年目3万円、3年目2万円で、その後は自給しなさいということでした。3年目の終わりに、弓山先生が「君、まだ苦しかろう」と言われ、「今度は教団から毎月1万円サポートをしよう」と言っていただき、それを9ケ月受けました。10ケ月目にサポートゼロにしてもらいましたので、3年9ケ月で自給伝道に踏み切ることが出来たのです。開拓の初めの頃、私にとって経済的に有利なアルバイトの話もありましたが、あまりにも時間を取ら、教会を留守にすることが多くなるので断りました。すると「オルガンを教えて下さい」という生徒が与えられました。今度は「英語を教えて下さい」という生徒が起こされ、家内は外に出かけることなく、教会活動に支障のない時間帯で英語を教えて教会経済を支え、また私たちの家計も支えることができました。この英語教室から、倫夫、靖、久志、中島陽子、豆谷智子ちゃんなどが救われています。主に縋って、一生懸命に伝道して行く時に、主の助けが与えられるということを体験させてもらい、主に感謝しています。

今、経済不況の嵐が吹き荒れています。こういう時にこそ主に縋りましょう。キリストは「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのもの(衣食住)は、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:33)と約束されています。経済のこと、仕事のこと、家族のことなど、「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル13:5後半)と言われる主に一生懸命に縋り、祈って行きましょう。



2、愛をもって、与える喜びをもってキリストの恵みを伝えている。9:15-18

わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇りにはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないならば、わたしはわざわいである。(16節)

パウロは、とにかくキリストを伝えたいという願いをもって、一生懸命に伝道しています。パウロの伝道の動機は何でしょうか・・・。16節で「そうせずにはおれないからである」と言っています。彼は使徒としての権利をあえて使わずに、「私は伝道せずにはおれないから伝道している」という気持を述べています。「伝道をすれば報酬を受けるかも知れないが、それよりも私を救って下さったキリストの愛に感謝して、キリストへの愛の故に伝道せずにはおれないから、私はひたすらにキリストを伝えるのである」と言うのです。この個所から教えられることを取り上げてみましょう。

第一に、キリストは信じる者を守り、養って下さいます。

パウロとがバルナバが世界宣教に乗り出した時に、特別な経済サポートがあったわけではなく、ただ聖霊に導かれて、アンテオケ教会の断食と祈りによって出発しています(使徒13:1-4)。伝道の日々を歩んだパウロは、「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう」(ピリピ4:19)という信仰を述べています。富という言葉ですが、ここからプルトニュームという言葉が出ています。プルトニュームは原子核分裂を起こす物質で原子爆弾に使われ、原子爆弾は普通の爆弾の数百万倍もの威力があります。こうしたことから神様の富は測り知れない豊かなものであるという事が分ります。私事になりますが、私たちが神学校を卒業した時、伝道できるということが喜びでした。開拓伝道という辞令をもらって熊谷に来ました。翌年に結婚、住む所があることが感謝で、牧師謝儀は一銭もないということも気にならずに夫婦で出発しました。神様は救われる者を徐々に加えて下さり、今このような群れが形成されていることを感謝します。振り返って見れば、食べられない日はなく、喜びの日々を歩ませてもらっていることを感謝しています。ピリピ4:19は真実であることを感謝します。

第二に、キリストから伝道の務めを与えられています。

パウロは、「もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである」と言っています。そして、「福音伝道は、わたしにゆだねられた務めである」とも言っています。伝道することは、自分で選んだのではなく、キリストが私に託された務めであるから、伝道するのは当然のことであると言っています。

スペインのライムンドス・ルルス(1235-1316)は自分がいかにしてキリストの宣教師になったかを語っています。彼は浮ついた、贅沢な生活をしていたのですが、ある日キリストが十字架を負いつつ現れて、「これを負え」と言われたが、彼は拒否しました。彼が教会の静けさの中にいた時、再びキリストが来られて、十字架を負うようにと言われたが、またも拒否しました。三度目にキリストが来られて、今度はルルスの語るところによると、「十字架をとり、わたしの顔をごらんにになって、その十字架を私の手の上に置かれたまま去って行かれた。私としてはそれを取り上げて、背負って行くよりほかないではないか」と。パウロもこう言うでしょう・「私のために十字架にかかって下さったのはイエス・キリストだけである。私は罪人の頭(かしら)であったのに、キリストを信じるだけで生まれ変わるという恵みを与えられた。私としては人々にキリストの救いの恵みを語るよりほかにないではないか」と。キリストの救いを伝えれば、聴いた人は罪の赦しを受け、生まれ変わり、永遠の命を受けることができます。キリストを語らないことは、人々の救いの門を閉じてしまうことになります。私は高校生の頃に、おばさん達から、繰り返しキリストの十字架を教えてもらって救いの確信を強め、洗礼に導かれました。キリストからゆだねられた聖なる務めとして、今週キリストを誰かに伝えることが出来るように祈って備えて行きましょう。

第三に、キリストを伝える時に喜びが与えられます。

これは口でいくら説明しても難しいでしょう、論より証拠、少しでもいいですからキリストの救い、恵みを誰かに伝える伝道をすれば体験できます。あるいは今週はファミリーですが、そこでキリストの恵みを出来るだけいっぱい分かち合ってみて下さい。キリストを伝える時に、キリストの恵みを分かち合う時に、不思議な深い喜びが心にあふれてきます。以前に福島県の教会で、個人伝道研修会を行い、「さあ、きょうは伝道に行きましょう」といいましたら、数名の人が「難しいですよ」、「私には出来ない」と言ったのですが、祈ってお昼から10人が出かけて行きました。3時過ぎに皆がニコニコして喜びにあふれて帰ってきましたが、一番喜んで帰って来たのは「難しい、出来ない」と言っていた人々でした。キリストは「受けるよりは与えるほうが、さいわいである」(使徒20:35)と教えています。キリストを伝えると、清い不思議な喜びが心にあふれてきます。家内の恩師力丸博牧師は「渡辺くん、伝道を道楽にしよう。伝道は楽しいな」とよく話してくれましたが、私もこの喜びを体験したことによって、伝道がやめられなくなりました。伝道が義務ではなく、進んでする自発的なものであることを身を持って味わったからであり、伝道は私の生涯の喜びです。



まとめ

1、9:1-14、パウロは権威を振り回さずに、一生懸命にキリストの救いを伝えています。私たちもキリストの救いに感謝し、一生懸命にキリストを伝えましょう。

2、9:15-18、パウロは愛をもって、与える喜びをもってキリストの恵みを伝えています。「受けるよりは与えるほうが、さいわいです」。キリストを伝えて喜びを満たしていだだきましょう。

*今週、キリスストの恵みを誰かに伝えることができるように祈りましょう。



祈 り 天の神様、独り子イエス・キリストの救いに感謝します。私たちの家族に、友達に、周りの方々にキリストの救いを伝えるために、私たちに祈りと共に伝道する力を与えて下さい。私たちを用いて下さい。それぞれのファミリーの集まりを祝福し、ゴスペルも祝福して下さい。病気の方を癒し、仕事を求める人に仕事を与えて下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献・コリント注解―バークレー、榊原、黒崎、福田、フランシスコ会、米田、文語略解、LABN、佐藤。 「キリスト教人名辞典、日本基督教団」