なんとかして幾人かを救うため コリント第一9:19-27          主の2.009.2.15礼拝



私が教会へ行き始めた頃、電柱に「賀川豊彦聖書講演あり」という張り紙を見たことがあります。賀川豊彦(1888-1960)は非常に幅広い活動をした牧師で、ノーベル平和賞候補にも推薦されたことがあります。彼は徳島に生まれ、5歳で両親を亡くし、親戚に引き取られましたが、父親の愛人の子どもということで苦労をして育ちます。15歳の時に徳島教会でアメリカ人マヤス宣教師から英語を学び、それがきっかけになって、キリストを信じて洗礼を受けます。17歳で東京・明治学院神学部に入学し、19歳で神戸神学校に転学しますが、結核にかかり病気と戦います。22歳の時に、神戸スラム街の二畳一間の長屋に住み込んでスラム街伝道を始めます。20代半ばでアメリカ・プリンストン神学校に留学しますが、帰国後はスラム街伝道をはじめ、社会的な働きとして生活協同組合を設立し、労働運動、農民運動などをし、晩年には世界連邦運動を行なっています。スラム街伝道の体験から書かれた「死線を越えて」という自伝的小説は名著となっています。彼は多方面にわたり活動しましたが、賀川豊彦の真価は、全国の教会を巡回しながらキリストの贖罪愛(十字架の救い)を宣べ伝え、「神の国運動」を推進したというところにあります。

本日はコリント第一9:19-27です。22-23節に「なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんなこともでする」という使徒パウロの決意が強く表されています。その決意を貫徹するために、27節では「じぶんのからだを打ち叩いて服従させるのである」と言っています。賀川豊彦は、社会から見放され、悲惨な日々をおくっている人々と暮らしを共にしながら、キリストの愛を伝え、「なんとかして幾人かを救うためである」ということを実践しました。使徒パウロは、「福音のために、わたしはどんなことでもする」と言いました。私たちはキリストの素晴しい愛を受けています。キリストの素晴しい愛を独り占めにしないで、家族に、友人に、周りの人々にキリストの愛を分ち与えて行くために、「福音のために、私はどんなことでもしますから、私を家族の救いのために、友人の救いのために用いて下さい」と祈りましょう。パウロは「もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである」(9:16)と言っています。「キリストを喜び、キリストを伝える」ために、メッセージを通して主の恵みを受け、祈って、新しい一週間の旅路へ踏み出して参りましょう。



内容区分

1、キリストの愛を知った者は、なんとかして幾人かを救うために祈り、伝道する。9:19-23

2、キリストの愛を知った者は、自分のからだを打ちたたいて服従させ、主に従う。9:24-27

資料問題

20節はユダヤ人(律法の下にある者もユダヤ人)。21節「律法のない者」、異邦人のこと。22節「弱い人」、信仰の弱いクリスチャンのこと。24節「競技場で走る」、コリント地峡イストモスで3年に一度競技が開かれ、賞は野生のセロリかパセリ、パウロの時代には松で作った冠。「賞を得る者はひとりだけである」、スタートしたら自動的にゴールインできるわけではないことをわきまえて一生懸命に走り続けること。25節「節制をする」、セルフコントロールの力を持つ。27節「自分のからだを打ちたたいて服従させる」、自分のからだを自分の目標どおりに使いこなすこと。「失格者になるかも知れない」、一は自分の救いについては心配ないが福音宣教の成果が失われる(3:15)という仕事上の失敗のことをさす。二は救いからの失格をさす。第二をさすと解するほうが正しい。




1、キリストの愛を知った者は、なんとかして幾人かを救うために祈り、伝道する。9:19-23

すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。(22-23節)

19-23節までに、「私はキリストにあって自由な者であるが、出来るだけ多くの人が罪を悔改め、キリストを信じて救われることを願って、福音のためならどんなことでもする」というパウロの並々ならぬ決意が示されています。

この個所から教えられる恵みを述べてみます。

第一に、パウロは、キリストは愛の救主であることを心から信じていました。

パウロは、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さったという言葉は確実で、そのまま受け入れるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである」(Ⅰテモテ1:15)と心から告白しています。彼がキリストを認めず、信ぜず、クリスチャンを迫害していた時に、キリストは彼に現れ、一方的な愛をもって彼を救いの中に招き入れて下さいました。キリストの愛に触れて、彼は罪を悔改め、ユダヤ教をやめてクリスチャンになるという大決断をして、洗礼を受け、教会に属し、伝道活動を始めました。世界各地を巡りながら35年を越えて伝道していますが、彼の最大の感謝は自分が救われたということです。「驚くばかりの恵みなりき」の作詞者ジョン・ニュートン牧師は、「あなたがエジプトの地で奴隷であったこと、あなたの主があなたを贖ったことを忘れてはならい」と大きな字で書いて書斎の壁に貼り、それを毎日見て感謝の思いを深めていました。

第二に、パウロは、キリストの愛はすべての人に注がれていることを信じていました。

ユダヤ人(律法の下にある人もユダヤ人である)(20節)は、「私たちは神様の選びの民族である。その証拠として旧約聖書を保持している」と誇っています。しかし、旧約聖書の指し示すイエス・キリストがユダヤ人の中に生まれ、自分たちの国で活動されたのに、ユダヤ人はキリストを拒否し、十字架につけて殺しています。ユダヤ人は民族としては未だにキリストを否定し、救いを得ていません。

律法のない人(21節)はユダヤ人以外の異邦人で、まことの神様を信じていない者です。まことの神様を信じない者の特徴は、心が罪で暗くなり、朽ちる人間や鳥や獣や地上を這いまわるものを形に刻んで偶像礼拝をするということです。罪のために、心は不義と貪欲と悪意にあふれ、地獄の滅びに向かっています(ロマ1:18-32)。

弱い人(22節)とは、まだクリスチャンとしての信仰が弱いために、人の言動に左右されてしまうクリスチャンを指しています。

キリストの救いの愛は全ての人に注がれ、キリストの愛には人を造り変える力があります。ユダヤ教4000年の伝統と習慣の中に暮していたパウロがキリストを信じて救われ、またペテロ、ヨハネなどの多くのユダヤ人が救われています。キリストの十字架の後に復活がありました。それを記念して、ユダヤ教は土曜安息日でしたが、クリスチャンは日曜礼拝に移っています(ユダヤ教は今も土曜安息です)。偶像礼拝をしていた異邦人も、キリストの救いを受けて偶像から離れて、キリスト中心の信仰生活をしています。キリストは信仰の弱いクリスチャンを切り捨てずに、教会生活を通して信仰が成長するように導いておられます。私たちの信仰は教会を通して養われます。教会は赦し合う場、祈り合う場、キリストが私たちを愛された愛に倣って(ヨハネ13:34-35)互に愛し合う場です。キリストは互に愛し合う者がクリスチャンであると言っています。

*ここで思うのですが、弱いクリスチャンとは私自身のことかも知れません。自分を振り返って見る時に、人のことが気になり、人を赦せず、聖書の御言葉になかなか従えない愚かな者であることに気づきます。その私を見捨てずに、キリストは忍耐をもって私を導き、支えて下さっている主であることを感謝します。

第三に、パウロは、キリストの愛をすべての人に示すために自らを献げています。

パウロは、ユダヤ人にはユダヤ人のようになったと言っています。例えばパウロはユダヤ人が重んじる割礼を無用であるとしましたが、ユダヤ人に伝道するために、弟子のテモテ(父ギリシャ人、母ユダヤ人)に割礼を受けさせています(使徒16:1-3)。割礼を受けていると言えばユダヤ人が安心するからです。パウロは、救いの本質に関係のないことについては出来るだけ相手の立場に合わせ、福音が入りやすいように知恵を用いています。ユダヤ人は外国人と付き合わないのですが、パウロは進んで外国人の中へ入って行き、キリストの福音を伝えています。信仰の弱い人が、それは偶像に供えられた肉かも知れないので食べないと言えば、自分も肉を食べないことにすると言っています(8:13)。幾人かを救うために、出来るだけ相手の立場に立って行くというのがパウロの伝道方針です。これはキリストの愛に基づく伝道法です。



*ここで、全ての人に対して仕えるために、最も有効な方法をお伝えします。それは耳を傾けて相手の話を聴くということです(傾聴)。相手の立場に立って、徹頭徹尾「聴き役」になることを実践することです。相手を批判せず、審かず、相手の揚げ足を取らず、「ああしろ、こうしろ」と指図せずに、ひたすら聴くことによって、相手の心は開かれます。「福音のために、わたしはどんなことでもする」という思いをもって、今週は相手の話を充分に聴くことを実践して見て下さい。充分に聴く備えは、まず自分が何でもキリストに祈り、全ての重荷をキリストに委ねることが必要です。キリストはどんな訴えも、泣き言も、嬉しいことも、私たちの言い分を全部聴いて下さり、全てを理解して受け入れ、私たちの心に愛を注いで下さいます。



2、キリストの愛を知った者は、自分のからだを打ちたたいて服従させ、主に従う。9:24-27

すなわち、自分の身を打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。(27節)

パウロは、福音のためには、全ての人のために自分を合わせて行くという柔軟な態度を示しましたが、自分の信仰については、信仰の恵みから洩れないように一生懸命に自分をコントロールして行くと言っています。新約の聖書日課はピリピ書ですが、これはパウロの最晩年に記された手紙です。彼は「自分は長年信仰生活をしてきた、後は自動的に天国に行くだけだ」とは言っていません。その逆です、「ただこの一事を努めている。すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与をえよとうと努めている」と言っています。最後まで気を抜かないで、信仰の戦いを最後まで戦い、天国に行く覚悟を表しています(ピリピ3:13-14)。

この個所からの恵みを教えていただきましょう。

第一に、パウロは、信仰は自動的ではないことを教えています。

競技のことが出ていますが、コリント地方では3年に一度、走ること、レスリング、円盤投げ、跳躍の競技などがありました。そこで賞を得た人には、野生のセロリかパセリ、パウロの時代には松で出来た冠を与えて、その栄誉を讃えました。「競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はただひとりだけである。あなたがたも賞を得るように走りなさい」との勧めがあります(24節)。この御言葉が勧めているのは、あなたがたも賞を得るように走りなさい」ということです。「用意ドン」でスタートを切ったら、自動的にゴール・インできるわけではありません。ゴールを目指して走り抜くことが大事であることをわきまえて、最後まで全力を尽くして走り続けなさいという積極的な勧めです。また、なんとかゴールに入れば、それで満足というような消極的な態度ではなくて、一生懸命に走って、神様の栄光を表すようにしよう、ということも教えられています。

第二に、パウロは、朽ちない冠を得るために、何事にも節制をすることを教えています。

競技をする者は目標を目指して走る、拳闘する者は相手をよく見定めてパンチをヒットさせることが大事です。そのために大変な努力をしますが、それが「何ごとにも節制をする」という言葉に表されています。競技に出るためには、前科かあるかないかを調べ、10ヶ月間の準備の後に、1ヶ月合宿して合格した者が、はじめて出場選手の資格を得ることができました。頭に松の冠をかぶらせてもらう栄誉を得るために、出場選手は最大限の努力をします。パウロは、競技選手のことを引き合いに出して、私たちクリスチャンは、朽ちない永遠の命の冠を得るために節制をして信仰生活に真剣に励もうと訴えています。そのために「自分のからだを打ちたたいて服従させるのである」というパウロの決意が述べられています。欲望に負けないで、安易な道を選ぶのではなく、自分のからだを打ちたたくようにして、信仰の目標に向かって前進しようということを強く勧めています。

*「何事にも節制をし、自分の身を打ちたたいて服従させるのである」・・・例えば、日曜日の礼拝に遅れるとするならば、測り知れない霊的損失を被っています。礼拝前の讃美の中に主は恵みを注いでいます。オルガン奏楽の時に静かに心を整え、「聖霊よ、我が心を主の愛に満たし、御言葉の恵みによって心が豊かに養われ、一週間の霊的力を満たしたまえ」と主に祈ります。讃美、聖書朗読、礼拝祝福の祈り、プレイズ、献金、説教、祈り、恵みの座の祈り、頌榮、祝祷など礼拝のプログラム全てが有機的につながっています。ですから、日曜朝は寝床を飛び出て礼拝に駆けつけるのがノーマルなクリスチャンです。

*「何事にも節制をし、自分の身を打ちたたいて服従させるのである」・・・キリストは朝に祈っていました。私たちはキリストの弟子です。一年365日早天祈祷を目標にして祈りに励んで行きましょう。

第三に、パウロは、失格者になるかも知れないという警告を発しています。

私の悲しみの一つは「もとクリスチャン」に出会うということです。彼らはキリストの恵みを一度は体験したのに、キリストから離れて希望のない生活をしています。キリストから離れれば、すぐに堕落して行きます。キリストから目を離せば、私たちはすぐに世の中のことに巻き込まれて行きます。キリストの傍近くにいたユダは、お金に目が眩んでキリストを敵に売るという裏切り者になってしまいました。パウロと伝道旅行を共にしたデマスは、この世を愛してパウロを裏切り、信仰を棄てて逃げて行ってしまいました(Ⅱテモテ4:10)。以前テレビで派手な伝道をしていたアメリカのテレビ伝道師が、不倫問題を引き起こして大きな社会問題になったことがありました。

パウロは謙遜です。彼は言います、「どんなに立派なことを教えても、自分がキリストから離れたら信仰の失格者になって、滅んで行くだけである。だから何事にも節制をし、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである」と。

*私は大丈夫だと言い切れる人は誰一人いません。信仰の道を最後まで貫く秘訣はたった一つです。それはキリストが教えて下さったヨハネ福音書15:5-6の御言葉です。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである」。

決意を新たにして、私たちの主であるイエス・キリストに固く結びつき、信仰の勝利と祝福を受けるように祈って行きましょう。



まとめ

1、9:22-23、キリストの愛を知った者は、なんとかして幾人かを救うために、祈り、伝道します。キリストの愛は全ての人に注がれています。キリストの愛を全ての人に伝えるために祈って行きましょう。特に耳を傾けて相手の話を聴きましょう。

2、9:27、キリストの愛を知った者は、自分のからだを打ちたたいて服従させ、主に従います。一生懸命に信仰の道を歩み、何事にも節制をし、自分のからだを打ちたたいて服従させ、信仰の失格者ではなく、キリストに固く結びついて信仰の勝利と祝福を受けるように祈りましょう。



祈 り 天地の主である神様、独り子であるイエス・キリストの十字架によって救われている恵みを感謝します。一人でも多くの方々が救われるために、相手の立場を理解し、特に相手の気持を知るために耳を傾けて、相手の話を聴くことを実践させて下さい。天国を目指して一生懸命に信仰生活を持続し、時には自分の身を打ちたたいてキリストに服従させ、信仰の勝利と祝福を得る者にして下さい。病気の方を速やかに癒し、仕事を求める者に良き仕事を与え、戦いの中にある者に逃れの道を示して下さい。今週もキリストに固く結びついて、恵み深い御霊によって平らかな道を前進して行けるように導いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:コリント注解―黒崎、バークレー、フランシスコ会、佐藤、榊原、山谷、モリス、福田。 「キリスト教の事典・三省堂」