信仰の道を進むー謙遜と忍耐をもって コリント第一10:1-13       主の2009.2.22礼拝



芸術、スポーツなどで優れた成績を残し、ひとかどの成功を成し遂げた人々に共通することは謙遜と忍耐です。例えばスポーツで優れた選手は、コーチから指摘されたことを素直に取り入れ、それが良いとわかれば、コツコツとその方法を継続して実践し、自分の力を最大限に発揮できるように努めます。ある天才的野球選手は、現役時代バットの素振りを毎日300回続けました。試合前に150回振る、試合が終って家に帰ってから150回を振って合計300回、これを何があっても継続し、それが生涯最多安打記録を生み出す土台になったということです。「自分には能力がある」と高ぶり、コーチの指導を退け、練習を怠れば、たちまち体力、技術が落ちて、選手としてプレーすることが出来なくなります。謙ってコーチの指導を受け入れ、基本的練習を地道に忍耐をもって積み重ねて行く時に、それが花開いて良い結果を残すことができるようになるのです。

本日はコリント第一10:1-13です。12節に「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」との勧めがあります。コリント教会に「自分達は特別な知識を持っている。信仰が強い。だから何をしようとも私達は安全である」と高ぶっている人々がいました。彼らは、例えば偶像に供えられた肉を食べても大丈夫だと言って食べ、信仰の初心者を躓かせていました。それに対し「自分の力で立っているという自信過剰は、倒れることになる」と言われています。パウロは10:1-11を通して、「あなた方は自らの力で立っていると思っているのか。イスラエルの歴史の中で、自らの力で立っていると高ぶり、神様に信頼しなかった人々は荒野で滅んでいる」という実例をあげ、どんな時でもへりくだって神様に従い、忍耐をもって進んで行くべきことを教えています。優れたスポーツ選手は自分の才能を過信しないで、コーチの指導を受け、絶えざる練習によって実力を伸ばし、良い結果を残しています。私たちもへりくだって神様の御言葉を聴き、その教えを実践することによって、喜び・祈り・感謝に溢れた信仰生活を持続し、霊的に成長して行くことができます。

本日は教会総会です。2008年の恵みを感謝し、2009年喜びと祈りと感謝にあふれる教会を形成して行くために、ひとりひとりが主に献身して行く教会総会となるように祈って下さい。



内容区分

1、信仰を、一生を通じて持続して行こう。10:1-12

2、信仰を持続するために試練を越える力が与えられる。10:13

資料問題

9章終わりで、パウロは永遠の生命を受け損ない失格者になる可能性について言及し、10章前半で弱い人(8:10)に照応して、強いと自己過信している者に、イスラエルの歴史から失格の実例をあげ警告している。2節「雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた」、キリストにつく洗礼の象徴。3節「霊の食物」、荒野におけるマナ(出16:14-35、詩篇78:24-25、ヨハネ6:31)。4節「霊の飲み物」、岩から出た奇跡的に湧き出た水(出17:5-6、民20:7-11)。パウロはこれを聖餐式(キリストの体と血)の予型と見ている。4節「彼らについてきた岩」、荒野を放浪した40年の間、転々と宿営地を変えたイスラエルの民に後から同行した岩の意で、ユダヤ人の伝説に基づくもので、聖書中にはない。5節「大多数は・・・荒野で滅ぼされた」、カレブとヨシュア以外は荒野で死んだ(民14:30-32)。13節は励ましの御言葉。コリントには偶像、肉欲、患難、分派等の罪の試練誘惑が多かった。しかし、これらは皆、人の耐え得るものであり、神様が守り、逃れの道を備えて下さるのである。



1、信仰を、一生を通じて持続して行こう。10:1-12

しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、私たちも悪をむさぼることのないためなのである。(6-7節)

パウロは、9章終わりで、信仰失格の危険性について述べています。10章に入り、旧約聖書の中から、特に出エジプトをし、荒野を旅していたイスラエルの人々の失敗を引用しつつ、クリスチャン生活をいかに生きるべきかを教えています。

*この10:1-12から、三つの恵みを教えていただきましょう。

第一に、私たちは神の選びを受けて救われています。

イスラエル人は、信仰の父と言われるアブラハムの子孫であり、神の選民です。彼らが荒野を進んでいる時、実に多くの不思議なことが起きています。雲の柱が彼らを導き、危険から守り(出エジプト13:21,14:19)、紅海を歩いて渡るという経験をしています(出エジプト14:19-31)。この経験が、彼らを最大の指導者であるモーセと完全に一心同体である、という思いを与えています。それは、ちょうどクリスチャンがキリストにつくバプテスマ(洗礼)を受けたように、彼らはモーセにつくバプテスマを受けたと言い表すことが出来ると言っています。また、彼らは荒野で天からくだるマナを食べ(出エジプト16:11-15)、岩が裂け、そこから流れ出る水を飲んでいます(民数記20:1-11)。天からくだるマナ、岩から迸る水は、命のパンであり、命の水であるキリストを指しています。

私たちは名もない、身分もない、知恵のない愚かな者であり、無きに等しい者でしたが、キリストの選びを受け、救われてクリスチャンになっています(1:26-31)。キリストは私たちを罪から救い出すために、十字架の上に私たちの罪の身代りになって死んで下さった唯一の愛の救主です。キリストの救いの恵みに感謝を捧げ続けて行きましょう。

第二に、私たちは救いを持続して行くために罪から離れて行かねばなりません。

イスラエルが荒野でモーセによって、新約の言葉で言えば洗礼を受け、聖餐のパンに与るという素晴しい祝福を受けていたのに、イスラエル人の多くが神の御心に適わなかったので、荒野で滅んで行ったと言われています(5節)。

キリストを信じ、洗礼を受け、聖餐式に与っていても、もし主から離れ、罪を犯すならば信仰から堕ちるということが警告されています。四つの罪が並べられています。

❶偶像礼拝があります(7節)。

偶像礼拝の中で「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」(出エジプト32:6)とあります。これはイスラエルの人々が荒野で金の子牛を造って拝み、その周りで、酒を飲み、男女が戯れて性的な罪を犯したことを指しています。また、人間が何かに対して時間と思いとエネルギーの全てを捧げるものがあるとするならば、それは偶像礼拝になります。なぜなら、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22:36)というキリストの教えに反するからです。

❷不品行があります(8節)。

不品行というのは結婚以外の性的関係で、ポルノ、不倫、姦淫のことです。不倫がテレビ、小説、アニメなどを通して人々の間に蔓延しています。民数記25:1-9には不品行をした人々が一日に23000人(民数記では24000人)いたということが記されています。不品行の罪がコリント教会に入り込んでいたことへの警告です(5章参照)。

❸主を試みることです(9節)。

イスラエルの民は、荒野の旅で困難を感じ、神とモーセに背き、呟きました。さらに呟きが神様に届くがどうかと試したのです。そのために多くの者が蛇に咬まれて死んでいます(民数記21:4-9)。コリント教会の中には、迫害を恐れて、偶像の宮で食事をしたりする者がいたので、そんなことをして神を試みることをしてはならないことを教えています。

➍つぶやきがあります(10節)。

イスラエルの指導者モーセ、アロンに対して、コラ、ダタン、アビラム等が背き、呟いた時に、滅ぼす役割の「死の使い」と呼ばれる天の使いによって殺されるという事件がありました(民数記16:1-35)。コリント教会の中にいた、使徒パウロや他の指導者に満足しないで、自分たちの要求を通すために呟き、反抗し、教会全体の一致を妨げている者への戒めとして、呟くなということを教えています。

第三に、へりくだって主にすがり、頼って行きましょう。

パウロは、実際にあったイスラエルの歴史を引用しながら、12節で「立っていると思う者は、」倒れないように気をつけるがよい」と訴えています(12節)。

コリント教会の中に「我々は信仰が強い。何を見ても汚されない、どんな所へ行っても信仰を失わない」という強さを誇る人がいました。パウロは言います、「人間である以上、完全ということはない、イスラエルの人々は神の御業を直接見ながら、不信仰になり、滅んで行った」と。

ある教会で指導的な立場にいたクリスチャンです。彼がテレビを見ていたらポルノ番組のチャンネルをひねってしまった。「私はクリスチャンだし、こんなものを見ても何も汚されない」と思って最後まで見てしまいました。次の晩、眠ろうとしたが、昨晩のチャンネルを思い出して、もう一回ぐらいならいいだろうと思い、また見た。そしてポルノチャンネルの虜になってしまい、中毒のように毎晩見るようになってしまったのです。悩み、苦しみ、彼はそれを信頼できる牧師に告白し、その導きのもとに悔改め、また祈りの期間を過ごし、遂に心からポルノ番組を追い出すことが出来ました。

「信仰が強い、だから自分は倒れない」と言える人は誰もいません。私たちが常に見るべきお方はイエス・キリストです。イエス・キリストを見るためには聖書を読むことです。聖書を読む時に、聖霊が私たちの心の目をキリストに向けさせ、心の耳をキリストの御声を聴くように導いて下さいます。聖書を読むと同時に、イエス・キリストを知るために聖書のメッセージを聴くことが大切です。自分で聖書を読む、そして教会の集会でメッセージを聴くことが信仰の大切な基礎になります。

また、お互いに励まし合って行きましょう。教会の方々の名前をあげ、祈り合って行きましょう。私たち夫婦のためにお祈り下さい。伝道師夫婦のためにお祈り下さい。自分のファミリーの家長さんのため、メンバーのためにお祈り下さい。教会のことを覚えて、お互いに祈りをもって支え合って行きましょう。



2、信仰を持続するために試練を越える力が与えられる。10:13

あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道も備えて下さるのである。(13節)

13節は多くの人々の愛誦聖句です。私の先輩は、中学生の時に信仰をもちました、ところが父親に猛反対され、キリストを信じたことをなじられ、教会に行ったことに対して激しい怒りをぶつけられました。中学生の時ですから、親の強い圧迫を感じて悄然としてしまいました。暗い、重たい気持をもって教会の夜の集会に出席した時に、この御言葉が開かれ、説教がなされました。説教の内容はよく分かりませんでしたが、試練と同時に逃れの道(脱出の道―新改訳、抜け出る道―フランシスコ会訳)があるということが、彼の心に深く響いてきて、恵みの座に走って行き、祈ってもらい、平安を得ることができました。後にお母さんと妹二人が救われ、クリスチャンになりました。この実例のように、13節はとても力ある御言葉です。

*13節から教えられることは次の三つです。

第一に、人生には試練があるということです。

私たちは平穏無事を願います。しかし、現実の人生は思わぬ出来事の連続です。私たちは、時には起きた出来事に対して、「なぜ?」という疑問が湧く時があります。あまりにも重い現実に心が鬱状態になってしまうこともあります。しかし、神様は愛です。試練は私たちを罪に陥れ、失望させるためのものでありません。試練を通り抜けることによって、いっそう強い人間になるように、神様は私たちを導かれるのです。今から3500年ほど前の出来事ですが、旧約聖書にヤコブの11番目の息子ヨセフのことが出ています。彼は父の寵愛を受けていましたが、そのことで10人の異母兄弟に妬まれ、はるか異郷の地エジプトへ奴隷として売り飛ばされてしまいます。言葉も風俗習慣も全く違うエジプトの地で、彼は「神は真実である」ことを信じ、厳しい現実を受け入れ、黙々として働きます。その結果、彼は神様の祝福を受け、エジプトの総理大臣にまで登りつめます。ヨセフは試練を嘆くのではなく、試練の陰にある神様の導きを信じたことによって、逆境に負けずに人生の祝福を得ることが出来たのです(創世記37-45章)。

今は世の中全体が大きな試練の中にあるような状況です。多くの方々が困難な状況の中で戦っています。私は「神様は真実なお方である」ことを信じます。真実な神様が、私たちを見捨てず、見放さず、必ず支えて下さることを信じて、皆様の祝福のために祈っています。

第二に、私たちが出会う試練で、世の常でないものはないということです。

「試練と同時にそれに耐えられるように」とあります。「それに耐えられるように」というのは、「人間に応じた」「人間に適した」という意味に解することができます。つまり、今までに会った試練も、これから私たちが会う試練も、すべて「耐えられる」「人間の力に応じた」ものにして下さるという励ましの意です。「神は・・・あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはない」というのは、「神は・・・あなたがたを能力以上に試みることはない」という内容です。人生に試練または誘惑がありますが、神様は私たちが「それに耐えられるように」して下さっているのです。試練を多くの人が乗り越えて行ったように、私たちも世の常でない試練に会うことはなく、必ず試練を乗り越えることができるという励ましです。

ライトフット司祭の馬車がノルウエーの狭い断崖の山道を走って行き、車輪が崖の縁まで僅かしかないような道に差しかかった。友人が「馬車を降りて歩いたほうが安全です」と言った。するとライトフット司祭は「他の馬車もこの道を通ったのだから、このまま進んでくれ」と言ったそうです。道は狭くて困難に見えるが、同じ道を多くの馬車が通り抜けている。とすれば、私の馬車も通り抜けることができるとライトフットは確信できたのです。

第三に、試練には必ず逃れる道が備えられているということです。

逃れる道と言うと、そちらに逃げて行くという消極的な感じですが、これは神の恵みによる積極的な勝利の道という意味です。Bさんのお兄さんが突然に膵臓ガンで倒れ、余命48時間と宣告されました。お兄さんも苦しいが、見送る自分がどう対処していいか分からない、追い詰められた感じでした。その時に、永遠の命という思いが湧きあがり、天国の命を信じて祈りました。すると苦しみが消え、お兄さんは讃美歌をうたい始めたのです。余命48時間二日の診断が、二日が四日に延び、十字架の主を見上げて、残して行く、愛する人々のために祈り続けて召されて行きました。その時に、Bさんは永遠の命を確信し、逃れの道はキリストであることを実感しました。

*皆さんの問題は何でしょうか。試練と同時に、試練に耐える力を下さり、逃れの道、脱出の道を備えて下さる神様見上げて祈りましょう。キリストが言われた、「何事でも、わたしの名によって願うならば、わたしはそれを叶えてあげよう」(ヨハネ14:14)という約束の御言葉を信じて祈りましょう。



まとめ

1、10:6-7、信仰を一生を通じて持続して行きましょう。主の選びによって救われていることを感謝し、罪から離れ、へりくだって主に縋って行きましょう。

2、10:13、信仰を持続するために試練を越える力が与えられます。人生には試練があります。しかし、世の常でない試練はありませんし、試練に耐える力が与えられます。主は試練と同時に逃れの道、脱出の道を備えて下さっています。主に祈りましょう。



祈 り  天地の主である神様、独り子イエス・キリストによる救いに感謝します。神様、へりくだって主に縋り、罪から離れ、救いを喜びながら今週も主に従う道を歩ませて下さい。生きている間は様々な試練に出会いますが、それを乗り越える力、また逃れの道が備えられていることを信じ、一つ一つ主の御名によって祈り、試練を乗り越えさせて下さい。教会総会が聖霊によって導かれ、私たちがキリストへの献身を新たにする恵みの時として下さい。病気の方を速やかに癒し、戦いの中にある方に勝利を与えて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:コリント注解―福田、バークレー、佐藤、榊原、フランシスコ会、黒崎、LAB、山谷、モリス。