すべてを神の栄光のために コリント第一10:14-11:1     主の2009.3.1礼拝



家内と伝道旅行でロンドンに行き、昼にハンバーガーショップで多くの人々が行き来する街の様子を見ながら、ハンバーガーを食べていました。すると、突然ひとりの白人男性が、素っ裸のまま、破壊(DESTROY)と書いたプラカードをもって群集の中に飛び込んできました。警察官が駆けつけて来て、興奮して叫びながら、すばしこく逃げまわる男を取り押さえ、連行して行きました。その男性は「自分は自由である。だから好きな格好をする。服を着ているのは誰かが決めたことだ。私は不自由な体制を破壊する」ということを自ら裸になって自己主張したのでしょう。しかし、それは自己中心の考え方で、周りの人々のことを全く考えていない独りよがりの考えに基づいた身勝手な行動であり、公の秩序を乱すので、警察に連行されたのです。

本日はコリント第一10:14-11:Ⅰです。31節に「だから、飲むにも食べるにも、何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」との勧めがあります。私たちクリスチャンは、キリストの十字架によって罪から解放され、この世の伝統や習慣から自由にされ、全ての迷信から解放され、「すべてのことは許されている」(23節)という自由を与えられています。しかし、私たちは与えられた自由を「ほかの人の益を求める」(24節)ために用いて行かねばなりません。最終的には全ての点において神の栄光が表されて行くように祈り、考え、行動して行くのがクリスチャンです。ロンドンの男性は裸になって群集の間を走り回り、自分は自由であることを主張しようとしたのですが、自分の姿を見て皆が不快になるという他の人々への配慮を忘れているので、それはただ人騒がせな出来事として終ってしまいました。

私たちはキリストの弟子です。「キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった」(ロマ15:3)ということを思い起し、主であるキリストに倣って、与えられている救いの自由を、自分を喜ばせるために使うのではなく、飲むにも食べるにも、その他すべての事をするにも、一人でも多くの人が救われるために、そして神の栄光が表されて行くように祈って行きましょう。



内容区分

1、私たちは主にのみ仕える者である。10:14-22

2、私たちはキリストにならう者である。10:23-11:1

資料問題

19-21節、偶像には力がない。しかし偶像を通して悪霊が働くことを忘れてはならない。クリスチャンは偶像礼拝を断固として退け、偶像から遠ざかり、悪霊の関与を避ける。23節「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない」、クリスチャンは与えられた自由を自分の利益のために使わない。キリストでさえも神の大能、大権を封印なされ、僕(奴隷)のようになって、十字架にかかり罪の赦しの道を開かれた。私たちも主に倣って生きる。だからパウロは23節以下において、肉を食べることも、自分の良心、自分自身のためではなく、他人のため、他人の益のため、他人の良心のためであると言っている。31節「すべて神の栄光のために」、キリストによる神の救いの恵みが全ての人に及んで行くことによって神の栄光は表される。11:1「キリストにならう」、これがパウロの行動原理であり、私たちクリスチャンの生き方の根本原理である。



1、私たちは主にのみ仕える者である。10:14-22

それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。(14節)

私たちクリスチャンはキリストの十字架によって救われて神の子になり、教会という神の家族の一員にさせていただいています。私たちはキリストを心にお迎えし、全ての偶像を棄てて、キリストに永続的につながり、教会生活を継続し、父なる神を見上げながら、天国に向かっています。しかし、私たちは天国に行くまでは、この世に生きています。この世は、いまだに様々な偶像に満ちあふれています。10:1-11には偶像に迷ったために、イスラエル民族の中で滅びを招いた人々の事が記されていました。日本でも世界でも大勢の人々が偶像礼拝の環境の中で暮しています。山本憲治牧師夫妻が伝道牧会している諏訪では、今年は諏訪神社の「御柱祭」の年で、諏訪地方全体が神社の祭に関わる一年になります。熊谷では夏に京都・八坂神社に由来する「うちわ祭」があります。コリントの町では異教の神殿が13もあって、日常的に偶像礼拝が行われていました。

そうした偶像礼拝の現実を受けて、14節は、「それだから、愛する者たちよ」との呼びかけて始まっています。パウロが使徒であることに難癖をつけている人々、分裂分派を企む者、自分は優れた者であると高ぶり、他人を馬鹿呼ばわりする人々が-コリント教会にはいました。そうした人々も含めて、パウロは「コリント教会の愛する者たちよ」と呼びかけ、声を大にして「偶像礼拝を避けなさい」と訴えています。ここにキリストの愛を受けているパウロの愛の心を知る事ができます。

「避けなさい」とは「逃げなさい」という命令です。これは、「偶像からできるだけ遠くまで逃げよ」という命令です。偶像に関係しないで、どこまでも遠く離れなさい、ということです。荻野伝道師が旧約聖書申命記5章を朗読しました。十戒の教えがあり、その第二番目に「偶像礼拝をしてはならない」との命令がありました。偶像礼拝の罪は子孫に悪い影響を及ぼすが、まことの神様を礼拝する者には、祝福が千代にも及ぶ、いついつまでも祝福されるということが宣言されています(申命記5:9-10)。まことの神様を礼拝することは、祝福が子々孫々に及ぶという恵みの約束です。

私たちはキリストを信じ、洗礼を受け、キリストの十字架を表す聖餐式に与っています。私たちはキリストのものです(キリスト者、クリスチャンです)。クリスチャンは二度と偶像礼拝をして、偶像と一体になってはいけないのです。コリント教会には、「偶像は存在しないのだから、偶像に供えた物を食べても大丈夫」という高ぶった人々がいました。そこでパウロは20節の教えを言います。「たしかに偶像はいない、しかし偶像を通して働く悪霊は実際にいる。偶像に供えた物を食べれば悪霊が私たちに入り込んでくる。だから偶像礼拝をして、悪霊の仲間になることを望まない」とキッパリと言っています。キリストを信じたら、一つ一つ偶像との関わりを棄てて行くことが大切です。

だいぶ以前に、ある所へ行き、そこの伝道者の方とひとりのご婦人を訪問する機会がありました。ご婦人はキリストを信じたのですが、「祈れない」という悩みを訴えていたからです。ご婦人によれば、聖書を読む、その時に誰かが見ているような気がする。祈ろうとすると、何かが邪魔をするので祈れないという話でした。だんだん話を聴いて行くうちに、「押入れのほうから見られているような気がする」と打ち明けてくれました。そこで押入れを開けてみると、隅のほうに刻んだ小さな像が置いてありました。ご婦人は救われた時に、その像をそこにしまっていたのです。すぐにそれを取り出し、祈って処分しました。その後、ご婦人は祈れるようになりました。こんな小さな、人間の手で刻んだ像には何の力もないと思って押入れにしまい込んだのですが、それを足がかりに悪霊が、聖書を読むのを妨害し、祈りをさせないように働いていたのです。

目に見える偶像礼拝の他に、例えば拝金主義(お金が一番という考え)、科学万能主義(進化論も入ります)、宇宙に命があるという考え方(創造主である神を否定)なども偶像礼拝です。

私たちは偶像との関わりを一つ一つ身辺から取り去って、心もからだも、家の中も、全てをキリストの十字架の血潮で清めていただきましょう。昨日は上野公園ホームレス伝道に行って来ました。上野は徳川幕府以来、多くのお寺があり、不忍池には弁財天の偶像が祭られています。そこで開かれる礼拝で、使徒信条を通して、万物を創造された神、キリストの救い、聖霊の御業が大声で告白されることは主の勝利が始まっていることの印です。ホームレスの人々が救われることを祈り願って、私はメッセージを伝えます。ホームレスの人々の救いと共にキリストの十字架に救いがあり、偶像の社(やしろ)のような上野公園がキリストの十字架の血によって清められるようにとの願いも込めてメッセージを語ります。必ず神の御言葉が実を結び、偶像がなくなることを信じています。

14節の御言葉をもう一度読みます。偶像礼拝を避け、偶像を棄てて、キリストの十字架の救いを日々に讃えて行きましょう、キリストの十字架の血で、心と体が清められ、家庭が清められることを願って、聖歌427番「罪・重荷をのぞくは」を讃美しましょう。

2、私たちはキリストに倣(なら)う者である。10:23-11:1

すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない(23節)。わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい(11:1)。

クリスチャンは、キリストによって罪からの自由を与えられ、偶像やこの世の習慣などから解放されています。だからと言って、クリスチャンはその自由を自分の利益のために使うことはしません。考えて見て下さい。神の子キリストでさえも、神としての力、権威を一切用いることをしないで、人間となり、しかも奴隷のようになって、自ら十字架にかかられて、私たちに罪の赦しを与えて下さいました。私たちはキリストの弟子です。このキリストにならって、私たちも全ての人の僕となって、人に仕える者になって行くのです。

パウロは23節以下において、肉を食べることを、自分の良心や自分自身のためではなく、他人のため、他人の益のためであるとしています。31節では「飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」と言っています。よく「子を見れば親がわかる」、または「親を見れば子がわかる」ということが言われます。それと同じように、私たちクリスチャンを見れば、キリストのことがわかる」ということも言えます。

例えば、クリスチャンは祈ります。それは私たちの救主イエス・キリストが祈りのお方だったからです。「クリスチャンはお祈りしますね。クリスチャンの信じているイエス・キリストに見習っているからですね」というふうに、私たちの祈りの生活を見て、人々は祈りの生活をしたキリストのことを知って行くという面があります。

また、クリスチャンは日曜礼拝を中心にして、集会に励んで出席します。それはキリストが礼拝を最優先する生活をしていたからです。人々は「クリスチャンは何があっても礼拝を捧げるんですね。クリスチャンの信じているイエス・キリストが礼拝を大切にして出席していたからですね」と言うようになり、キリストにならってクリスチャンは礼拝をする者であることを認めて行くようになります。

私たちの生活のどこを覗かれても、キリストの恵みを表して行く者となるように祈って行きましょう。飲むにも、食べるにも、また何事をする時でも・・・と言われています。日曜礼拝に出席して、讃美し、祈り、メッセージを聴いて心が豊かになって家に帰ります。この恵みを日常生活の飲む、食べるという生活の中で表して行くことが大切です。

パウロはさらに11:1で、クリスチャン生活の基本原理についての勧めをしています。

「わたしがキリストにならう者であるように・・・」という教えです。私たちの生活はキリストにならっているでしょうか。

*キリストは聖書の人でした。サタンと対決し、聖書の御言葉で勝利しています(マタイ4:1-11)。

*キリストは祈りの人でした。朝に祈り(マルコ1:35)、弟子を選ぶ時に祈り(ルカ6:12-13)、十字架の前にゲッセマネで祈り(ルカ22:39-44)、十字架の上で人の救いのために祈り(ルカ23:34)、今は天において私たちのために祈り続けておられます(ロマ8:34)。

*キリストは主の日を小さい時から礼拝の日として守り続けています(ルカ4:16)。礼拝、水曜祈り会などの集会に励んで行きましょう。

信仰生活は、難しい理論ではなく、素直にキリストにならって、聖書に書いてあることを実践して行くことです。今、述べた最も基本的な三つのことを一生懸命に継続して実践して行けば、間違いなく信仰が恵まれ、成長して行きます。

自分がキリストに従うことによって恵まれて行く時に、「私はイエス様に一生懸命にならって、従っている。私の真似をしてイエス様に従って行こう。私と一緒にイエス様にみならって行こう」と人に言えるようになります。キリストにならって信仰生活をして行くために幾つかの事柄を真剣に心に留めて、自らの心を点検してみましょう。

キリストにならう幾つかのことをあげてみます。

❶キリストにならうことは何か・・・キリストは神様を一番にして生きていたということです。キリストのように、私たちは生ける神様に心から信頼しているだろうか。神様が全生活を支えて下さることを信じているだろうか。

❷キリストはゲッセマネで、「神様の御心がなりますように。自分の思いを捨てて、わたしは神様に従います」と祈りました。キリストのように自己中心ではなく、私たちの考えが神様中心になっているだろうか。

❸キリストは人に傷つけられ、悪口を言われ、嘘をつかれ、心を傷つけられましたが、父なる神様に全てを委ねていました。悪口に対して罵り返さず、嘘、偽りに対して弁明をせずに正しい審きをする神様に一切を委ねて、心に平安をもっていました。私たちは神様に全てを委ねているだろうか。(Ⅰペテロ2:22-23参照)

➍キリストは神様が赦しの神であることを信じ、全ての憎しみ、敵意、憤り、復讐心を全て十字架に背負って、神の愛と赦しとを表して下さいました。私たちは、人への復讐心、赦さない心、敵意、憤りなどを心に抱え込んでいないだろうか。

❺キリストは神様が愛であることを信じ、愛が全ての咎(とが)を覆うことを信じていました。キリストの祈りは「父よ、彼らを赦したまえ」(ルカ23:34)という愛の祈りに表されています。キリストのように、敵のために、自分に害をなす者のために祈る愛を与えて下さいと祈りましょう。

 

キリストにならう道はただ一つ、キリストの十字架の御許に行くことです。

ご一緒に聖歌396番「十字架のかげに」を讃美して、お祈りをささげましょう。



祈 り

天地の主である神様、イエス・キリストの救いを受け、神の子となり、神の家族である教会の一員にされていることを感謝します。

私たちは全ての偶像を棄てて、イエス・キリストを信じる信仰をもって、信仰の道を歩んで行きます。周りにある偶像の一つ一つを棄て去って行く力と知恵と勇気とを与えて下さい。偶像の中にいる家族を救って下さい。友を救って下さい。偶像礼拝をやめて、まことの救主イエス・キリストを信じれば、祝福が子々孫々に与えられ、恵みは千代に及ぶという約束に感謝します。信仰という素晴しい霊的な宝を家族に残して行くように私たちを用いて下さい。

私たちは、救主イエス・キリストにならって信仰の道を歩んで行きたいと願っています。キリストにならって生きるために、キリストのきれいな愛で心を満たして下さい。私たちはキリストの十字架によって、無条件で罪の赦しをいただきました。キリストが無条件で私たちを愛された愛をいただいて、私たちを互いに愛し合って行く者として導いて下さい。

病気の方々を速やかに癒して下さい。心に平安を満たし、希望を与えて下さい。

仕事を求めている方々に良き仕事を備えて下さることを信じます。信じる者を辱めることのない愛の神様が生活を支えて下さることを信じます。

「キリスト喜び、キリストを伝える教会」として、教会の伝道を祝福し、3月の間に多くの救われる方々を起して下さるように導いて下さい。

会堂のことも主が最も良しとする所を示し、必要なお金を祈って捧げて行く信仰の一致を与えて下さい。

主イエス・キリストのお名前によって、これらの祈りと願いとを神様におささげします、アーメン。





参考文献:コリント注解―榊原、佐藤、福田、山谷、フランシスコ会、文語略解、バークレー、モリス、西川。