慰めと希望の主イエス・キリスト ロマ8:35-39           主の2009.3.8.礼拝



大学に「キリスト者学生会・略称KGK」というクリスチャン学生の集まりがあり、Kという学生がやって来ました。経済専攻で、頭がよく、真面目な人でしたが、表情が暗く、腹の底から笑うということがない人でした。彼は、弟が自殺したという重荷を持っていて、それが自分の心に暗い大きな影を落としていることを話してくれました。その頃の私はまだ信仰のことを充分に説明する力はありませんでしたが、しかし何とかしてKに明るくなってもらいたいと思って、「キリストを信じると、人生が変るよ」ということを話し、彼も聖書を読み始め、一緒に祈り、彼は少しずつ明るさを取り戻して行きました。その後、彼が転居したりなどで、連絡がとれなくなりましたが、きっとキリストにつながり、どこかの教会に行っていることを信じています。私は伝道者になってからキリスト直伝の個人伝道を学び、それを生涯の伝道方策にして今も牧会伝道を続けています。私が聖書から教えられたことは、先ずキリストを伝えるということが最も重要であるということです。私がKに「キリストを信じるように」にと伝えたことは、正しかったということを感謝しています。

本日はロマ8:35-39です。37節に「わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」という勝利の言葉があります。「これらすべて」とは「患難、苦悩、迫害、飢え、裸、危難、剣」(35節)等の人生の苦難を指しています。キリストは人の子として33年半の人生の中で、あらゆる苦難を体験され、苦難の原因は人間が神様に背いている罪にあり、「罪の支払う報酬は死」(ロマ6:23)であることをご存知でした。そこで、罪のない清いキリストが、私たちの罪の赦しを祈り願って、私たちの受けるべき罪の身代りになって十字架に命を捧げ、罪の赦しの道を開かれたのです。

今、皆さんを悩ませ、苦しませているものがあるでしょうか・・・。キリストは私たちの悩み、苦しみの原因である罪を十字架によって赦して下さった愛の主です。私たちを愛し、守り、導き、私たちを棄てて孤児としない、常に共にいて下さる、活きている救主です。私たちの生活を支え、家族を守って下さる助け主です。私の友人Kは、死んで終わりではない永遠の命に至るキリストの救いを求め始め、人生に光を見出して明るくなりました。キリストの所へ行きましょう。キリストに縋りましょう。35節、39節には、キリストの愛から私たちを引き離すものは何もないという神様の約束があります。慰めと希望の主イエス・キリストは私たち一人一人の救主です。



内容区分

1、私たちはキリストによって愛されている。8:35-36

2、私たちはキリストによって守られている。8:37-39

資料問題

ロマ書は使徒パウロによって紀元58年ごろ記された書簡。パウロはロマを経てイスパニヤ伝道に行く志を実現するためにロマ教会訪問を願っていた。ロマ教会は、パウロが書簡を記した頃にはユダヤ人、異邦人の混合の教会として活動していた。パウロにとってロマ教会は未知の教会であるので、自己紹介と共に福音の根本すなわち信仰のみによって義とされるという救いの根幹を熱い思いを込めて順序正しく述べている。35節「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか」、だれがとあるのは、患難、迫害などの陰に必ず人間的要素が働いているからである。36節は詩篇44:22よりの引用(70人訳)。37節「勝ち得て余りがある」、キリストの愛と力は無限である。39節「わたしたちを引き離すことはできない」、キリストの絶対的な愛の守りがある。




1、私たちはキリストによって愛されている。8:35-36

だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。(35節)

35節の前、31-34節にキリストの恵みが記されていて、これらを心に留めておけば大丈夫なのですが、35節前半に、「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか」という問いかけがあります。これは、とても大事な質問です。三つのことを考えてみます。

第一に、パウロは「何が」とは言わずに、「だれが」と言っています。

サタンは救われたクリスチャンに対し、患難、迫害などを通して信仰に揺さぶりをかけ、信仰を無くさせようとして働き、教会から引き離そうとします。そうしたサタンの陰険な働きの陰に人間的要素があります。例えばつまらないことで、人と人の間に争いを起こさせ、人を審く心を与え、キリストの愛を疑わせます。私事ですが、私の育った教会はおばさんが活躍している教会でした。時々お互いの間にトラブルがありました。「言った」「言わない」とか「謝ってくれない」とか「あんなこと言う人の顔も見たくないから教会へ行かない」とかいうことが多かったように思いますが、その鬱憤をそれぞれのおばさん達が年若い私に言うのです。いろいろなことを散々聞かされ、私は人間関係のあり方を学ばされましたが、聞いたことはすべて自分の心にしまい込んで誰にも話しませんでした。私が素晴しいと思ったことは、いろいろなことを言い、「もうあの人だけは赦せない」と息巻いていたおばさん達が、いつの間にかお互いに歩み寄って「この間は御免ね」と挨拶を交わし、今まで以上に心を一つにして教会生活を共に続けている姿でした。そのことを通して教えられたことは「怒ることがあっても罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならい。また悪魔に機会を与えてはならない」(エペソ4:26-27)ということです。

第二に、キリストの愛を信じることです。

キリストの愛は十字架に表されました。使徒ヨハネは、「主は、わたしたちのために命を捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」(Ⅰヨハネ3:16前半)と述べています。私事ですが、以前に私の弟が肝臓の病気になり、兄弟の血液を調べて、適合する人の骨髄を移植することによって治癒の可能性があるということで、私も都内の病院に行って検査を受けました。弟ということで、すぐ病院に行ったのですが、その時に自分は知らない人のために、こんなに積極的になれるどうかを考えさせられ、上記の御言葉が心に浮かんだことを思い出します(弟は残念ながら兄弟5人適合者がいませんでした)。

キリストは、正しい人のために、あるいは情け深い人のために命を捧げたのではなく、私たちがまだ罪人であった時に、十字架に命を捧げて私たちに対する愛を示されたのです(ロマ5:6-8)。

キリストは私たち罪人のために死んで下さった唯一の救主です。今から10年以上も前に、オーム真理教が、弁護士一家を殺し、長野県松本、東京でサリンを撒いて大勢の人々を殺傷し、また信徒を殺したということで麻原教祖をはじめ、大勢の関係者が逮捕されました。警察が調べた時に、麻原教祖は自分だけは助かろうと思って、天井裏に隠し部屋を作り潜伏している所を逮捕されたのですが、それだけでも麻原教祖が偽り者であることが分かります。キリストはまったく逆です、キリストは、私たち罪人のために進んで十字架にかかって死んで、罪の赦しの道を開かれたお方です。今から50年以上の昔、青森と北海道の間は青函連絡船が運航していました。台風の中で連絡船洞爺丸が転覆して1172名の人々が死亡という痛ましい出来事がありました。その時に乗り合わせていたアメリカ人宣教師リーパーさんは自分の救命胴衣を人に与えて、自分は犠牲になって行きました。本当にキリストの愛に満たされていたので、とっさの時にこうした行動が取れたのだと思いますが、そういう捨て身の愛を実践する力を与えて下さいと、私は祈り求めます。

そこで、キリストの愛を受け、愛されていることを感謝し、先ず人々のために祈りましょう。祈りには時間が必要です。自分のやりたいことを後回しにして、祈りを必要とする方々のために時間を取って祈りましょう。例えば病気の方々のために、仕事を求めている方々のために、家族の救いを求めている方々のために、さらには自分にとって赦せないと思う人のためにも祈りましょう。愛は多くの罪をおおいます(Ⅰペテロ3:8)。どんなに霊的に優れていたとしても、山を移すほどの強い信仰があったとしても、犠牲的な行動をしたとしても、愛がなければ一切は無益です(Ⅰコリント13:1-3)。祈りを通して愛の実践をして行きましょう。

第三に、患難、苦悩、迫害、飢え、裸、危難、剣などを恐れなくなります。

実際問題として私たちは恐れに囲まれています。牧師である私の所には、様々な祈りの要請が寄せられます。時には大きな問題があったり、緊急な解決を求められたりすることがあります。そんな私に対し、主は「恐れてはならない」と言われ、エレミヤ29:11をもって導いて下さいます。「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」。どんなことがあっても、キリストによって勝ち得て余りがあるという無限の祝福が約束されていることを信じ、主に祈って行きましょう。



2、私たちはキリストによって守られている。8:37―39

しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちはこれらすべてのことにおいて勝ち得て余りがある(37節)、・・・わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、」わたしたちを引き離すことはできないのである(39節)。

現代は不安の時代です。例えば世界の各地で戦争が行なわれています。経済は世界的に不況の時代になっていて、多くの人々が職を失い、生活に窮し始めています。多くのクリスチャンがインド、中国などで迫害を受けています。35節にある患難、苦悩、飢え、裸ということがそのまま当てはまるような時代になっています。

私たちの身近なことを考えてみましょう。日本は世界一の長寿国になりましたが、病気という不安があります。多くの方々は年金に入っていますが、経済破綻の恐れがあります。私たちは健康や生活が守られて行くように求めています。ところが、健康、経済などが守られたとしても、それだけでは満足できないのが人間です。人間は目に見えるものの他に目に見えないものを求めています。例えば家族の愛や優しさです。家族でなくてもよい、周りの人々の愛や優しさが必要です。いろいろと物質的に求めることがあり、また心の願いがあります。それに対する答が37節にある「しかし」という言葉です。「しかし」と御言葉は告げます。キリストを信じる者には助けが与えられる、勝ち得て余りがあるような祝福を受け継いで行くという信仰が表されています。それは私たちを愛して下さっているキリストの守りがあるからです。

*キリストの守りを得て行くためにはどうしたら良いのでしょうか・・・。

第一に、まずキリストに頼ることです。

人間は安心を得るためにお金を貯めます。ある人は価値の変らないといわれる金(きん)をもち、不動産をもつ人もいます。また絵画などを貸し金庫にしまっている人もいます。それで本当に安心かと言えば、キリストは、そうした宝は虫が食い、さび付いて行く、また盗人が狙っていると言われました(マタイ6:19-21)。Yさんはキリストを信じて以来、店の経営を祈ってして行くことにしました。その結果、20年間にわたって運転資金を銀行から無条件で借りて経営をすることができました。ある日、もっともっと神様に頼ろうという信仰が与えられ、銀行から資金を借りることをやめたのですが、税金や社会保険などの支払があり、商品の仕入れ資金が必要であるということで、商売が苦しくなってきました。もうキリストに頼って祈るしかなかったのですが、祈っていると不思議に思いがけない所からお客があって、大口の注文があり、必要な金額が入ってくることをしばしば体験しました。今も毎日祈りつつ、感謝しながら日々を生きているということを証ししています。

キリストは生きておられ、私たちの求め、祈り、願いに答えて下さることを、私は信じます。私は日々に、厳しい社会状況の中にあって、それぞれの方々の仕事が継続されて行くように、経営をしている方々の経営が安定して行くように、仕事を求めている方々のために早く良い仕事が与えられるように祈っています。こうした経済的に不安定な時に、もう少し広い会堂をという願いが起っています。私の確信は、「主よ、大いなることと、力と、栄光と、勝利と、威光とはなあなたのものです。天にあるものも、地にあるものも皆あなたのものです。主よ、国もあなたのものです。あなたは万有のかしらとして、あがめられます。富と誉れとはあなたから出ます。あなたは万有をつかさどられます。あなたの手には勢いと力があります。あなたの手はすべてのものを大いならしめ、強くされます」(歴代上29:11-13)というダビデの祈りにあります。最善の時に、主はすべてを備えて下さることを信じて、会堂献金をしています。

第二に、キリストの愛からわたしたちを引き離すことはできないと宣言されています。

39節に、「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」と言われています。この御言葉を考えている時に、次のキリストの御言葉が思いだされました。



イエスは彼に答えて言われた、

「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」。(ヨハネ14:23)。



このキリストの御言葉にクリスチャンの希望があります。もし私たちがキリストを愛するなら、キリストは私たちの創造主である神と共に来て、私たちと一緒に住んで下さると言うのです。私たちは一人ぼっちではないのです。難しい神学、理論は分かりませんが、神とキリストが私たちと一緒に住んで下さるという約束です。神とキリストが共にいて下さることによって、地上の一切の不安、悲しみ、恐れに打ち勝つ力が与えられます。不安の代わりに平安が、悲しみに変えて慰めと喜びが、そして恐れが取り去られて希望に満ちて人生を生きるようになります。

現代は不安の時代であり、多くの人々が何を信じて良いのか分からずに右往左往しています。平安を得る道はただ一つ、私たちのために十字架にかかって、罪の身代りになって死んで下さった愛の救主イエス・キリストを信じることです。そしてキリストを愛し続けることです。その時に父なる神と子なるキリストが私たちの心の内に住んで下さいます。慰めと希望の主イエス・キリストを信じることによって、私たちの内も外も大いなる平安に満ちあふれます。何があっても揺れ動くことなく、平安な顔になります。もうだれも、キリストの愛から私たちを引き離すことが出来ないからです。主は言われます、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」(イザヤ43:1)、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル13:5後半)。

第三に、あなたはキリストを信じていますか。

皆さんはキリストが自分を愛し、守り支えて下さる救主であることを心の底から信じていますか。ここにいる全ての方々がキリストを信じていることを、私は確信します。

皆さんはキリストが自分の人生の主であることを信じていますか。自分にとって良い時も悪いと思える時でも、どんな場合でもキリストを一番にして行くことを決意し、キリストに従って行くように祈って行きましょう。



*讃美を捧げます。聖歌336番(旧347番)「いかに恐るべきことありとも」をうたい、祈ります。



祈 り

天地の主である神様、私たちがまだ罪人であった時に、イエス・キリストの十字架の犠牲によって、私たちの救いの道が開かれていたことを感謝します。私たち全ての者がキリストによって愛されていることを感謝します。キリストの愛を受けていることを感謝して、周りの方々のために祈って行きます。病気の方々のために、信仰の闘いの中にある方々のために主の癒しと助けとを速やかに与えて下さい。私たちの苦手とする人のために、また時には心良く思えないという気持になる相手もいますが、恵み深い御霊の導きによって、全ての人のために祈りを捧げて行くように導いて下さい。私たちの心の中から恐れを取り去って下さい。

先ずキリストに頼ります。私たちをキリストから引き離すものがないことを感謝します。いつもキリストを一番にして、恵みの日々を歩ませて下さい。今月の間に救われる人々を起して下さい。洗礼を決心する人を起して下さい。新しい会堂のために、もっともっと祈りを結集して行くことができますように一致を与えて下さい。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:ロマ書注解―山谷、佐藤、尾山、黒崎、フランシスコ会、木村、文語略解、口語訳略解、福田。