イースター(主の復活祭)に向かってー主のあわれみー ルカ18:31-43   主の2009.3.29礼拝



「持ちつ持たれつ」という言葉があり、すべて人間同士の間では、「お互いさま」というような関係があることを表しています。私たちは自分ひとりでは生きて行けない存在です。誰かに助けられ、守られています。小さい、何もできないような赤ちゃんと母親との関係でも、「お互いさま」ということが言えます。赤ちゃんは泣くだけです。母親はお乳をあげ、おしめを取替え、赤ちゃんの求める所に応じて一方的に尽くすだけの関係のように見えます。しかし母親は赤ちゃんの世話をしながら、純粋な愛情や喜びを受けています。そう考えると、赤ちゃんと母親との間にも、「お互いさま」といえる繋がりがあるということが分かります。

ところで、神様と人間との関係はどうでしょうか。聖書が告げていることは、神様と人間との間にはいかなる意味においても「お互いさま」という関係はない、ということです。人間は神様によって創造された者であり(被造物)、神様の前では何のとりえもない者です。造られた人間が造り主である神様のために何かをしてあげるということは決してありません。人間は神様から恵みを受けるだけですので、「お互いさま」ということはなく、神様にはただ感謝を捧げるのみです。

本日の聖書はルカ18;31-43です。この個所には盲人の乞食が出てきます。盲人だけではなく、キリストの周りには、足の不自由な人、中風の人、悪霊に憑かれた人、罪ある女など惨めな人々が次々に現れてきます。聖書は彼らの姿を通して、人間は神の御前では何のとりえもない者であり、「与える」という立場にはないということを告げています。エリコの盲人は何もできず、「わたしをあわれんで下さい」と叫び続けるだけでしたが、キリストは彼の目を見えるようにし、「あなたの信仰があなたを救った」という御言葉によって、心の生まれ変わりまでも与えています(新生)。素晴しい祝福を受けた「もと盲人」は「神を崇めながらイエスに従って行った」のですが、これはキリストの弟子になったことを表しています。彼はキリストによって新しい人生に入って行きました。

間もなく4月12日はキリストの復活を祝うイースターです。キリストは私たちの罪の身代りになって十字架に命を捧げて下さった救主です。キリストは十字架の三日後に死を打ち滅ぼして復活され、私たちに永遠の命を与えて下さった生命(いのち)の主です。私たちは無力な罪人でしたが、主の一方的な十字架の恵みによって救われ、永遠の命を与えられていることを感謝しましょう。



内容区分

1、キリストはご自分にむかって叫び、求める者の声を聞き逃さない愛の主である。18:35-40前半

2、キリストは癒し、救い、永遠の命を与えて下さる生命(いのち)の主である。18:40後半―43

資料問題

盲人はルカとマルコ(10:46-52)では一人、マタイ(20:29-34)では二人。マルコはテマイの子バルテマイと記している。38節「ダビデの子よ」、メシアの称号。43節「彼は・・神をあがめながらイエスに従った」、世の人より無視され邪魔者扱いされていた盲人をキリストは愛をもって顧みて下さった。彼は主の弟子になって従って行った。「人々はみな神をさんびした」、これは喜びの福音書と言われるルカ福音書の特色である。



1、キリストはご自分に向かって叫び、求める者の声を聞き逃さない愛の主である。18:35-40前半

先頭に立つ人々が彼を叱って黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」(39節)

この場面は、キリストがエルサレムに向かって行く途中に起きた出来事です。18:31-33で、キリストはエルサレムへ行く目的を弟子達に告げています。その目的は二つあります、一つは、罪のないキリストが人間の罪の身代りになって十字架に命を捧げ、罪の赦しの道を開くためです。二つには、キリストは死んで三日後に甦ることによって、死を滅ぼし、キリストを信じる者に永遠の命を与えるためです。まず11:35-40前半を通して、主の恵みを三つ見て行きましょう。

第一に、盲人はキリストに叫び求めています。これは信仰による祈りの原点です。

主を呼び求める力を、主が与えて下さいます。旧約の時代、エレミヤが監視の庭に閉じ込められていた時に、「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える」という主の励ましの声が響いてきました。主が私たちに主を呼び求める力を下さいます(エレミヤ33:1-3)。彼は主に呼び求めて、主の力によって預言者の働きを果たして行きます。新約の時代、パウロとシラスが迫害を受け、ピリピの牢屋に入れられた時、二人は祈りと讃美とをもって主に呼び求め、主の不思議な助けによって解放され、自由の身になっています(使徒16:19-35)。私たちは無力な者ですが、主に呼び求める恵みを与えられています。それは人知を越えた聖霊による助けです。人間は神様に背き、罪の奴隷になっていますが、しかし、「主よ!」と呼ぶ思いが残されています。十字架にかけられた犯罪人の一人は死ぬ間際に、「私は悪い人間でした、でもイエス様、私のことを忘れないで下さい」と主に祈りました。キリストは「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と言われて、彼の罪を赦し、永遠の命を与えて下さいました(ルカ23:40-43)。

エリコの盲人は、「ダビデの子孫として生まれた救主イエスよ」と呼び求めています。「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」ことができます。また、「主の御名を呼び求めるすべての人に恵みが与えられて行きます。それにはユダヤ人もギリシャ人も関係がありません。また信仰が強くても弱くても関係ありません」(ロマ10:12-13)。大事なことは主を求める思いです。

ある若い女性が、信仰に迷いながら必死になって聖書を読み、イギリスの神学校で学んでいました。ある晩、「主に祈って見なさい」という勧めを受けて、真夜中に庭に出て星空に向かって「主よ、イエス様!」と祈ってみました。すると心が熱くなり、主が生きていること、主が自分を愛して下さっていること、両親をはじめ多くの人々が自分のために祈っていることが瞬時に分かり、すべての疑いが消え、喜びに満たされました(諏訪で伝道している私たちの娘・敦子の証です)。

第二に、盲人は祈りをやめないで叫び続けています。これが祈りの基本姿勢です。

あまりにもしつこく大声で叫ぶ盲人に対して、周りの者はうるさいと思って黙らせようとしていますが、彼は叫び続けています。キリストは言われました、「求めよ、そうすれば与えられる。捜せ、そうすれば見出すことができる。門を叩け、そうすれば開けてもらえる」(マタイ7:7)。この御言葉の真意は、一回だけ求め、捜し、門を叩くというのではなく、「求め続けなさい、探し続けなさい、門を叩き続けなさい」ということを教えています。預言者エリシャの許に,スリヤと戦っているイスラエルの王ヨアシがやってきました。エリシャは窓を開けさせ、王に弓矢を持たせ、「射なさい」と命じ、彼が射ると、エリシャが言いました、「主の救いの矢、スリヤに対する救いの矢。あなたはスリヤ人を撃ち破り、彼らを滅ぼしつくであろう」。ところがヨアシは弓矢を射る事を三回でやめてしまいます。するとエリシャは怒って、「あなたは五度も六度も射るべきであった。そうすれば、あなたはスリヤを滅ぼすことができた。しかし今あなたはそうしなかったので、スリヤを撃ち破ることはできない。スリヤを撃ち破ることは三度だけであろう」と言います(列王下13:14-19)。これを私たちの祈りに当てはめて考えてみると、私たちの祈りはどうでしょうか。祈りは中途半端なものではなく、エリコの盲人のように激しく求め続けることが大事であるということを教えられます。

第三に、私たちも主に呼び求めましょう。

私たちができることは主に祈り、叫び続けることです。皆さんの祈りはなんでしょうか。家族の救いのことですか。友の救いのことですか、仕事のことですか、人間関係のことですか、経済のことですか、健康のことですか、将来のことですか、病気の癒しのことですか・・・。エリコの盲人は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と主に向かって祈り、求めています。「私は何もできません。目が見えず、人の情けに縋って生きている者です。私は無視され、誰も私のことをかまってくれません。私は皆さんのお荷物であり、邪魔者です。でもイエス様、私を憐れんで下さい」と叫び続けています。私たちも同じです。無力な、何もできない愚かな者です。でも「イエス様、私を憐れんで下さい」という祈りはできます。私事になりますが、牧師として皆さんから数々の祈りの課題、リクエストを受けます。個人的に自分のことも祈りたいし、教会の会堂のこともある。関東分校の奉仕がある。兄をはじめ親戚の者を訪れ、祈りをする時間を持ちたいとも思います。そうした中で私にできることは、「主よ、どうか私を憐れんで下さい」と主に訴えることです。主に訴えると主は言われます、「あなたは、わたしに何をしてほしいのか・・・」。すると私の心は落ち着き、主に求めることを申しあげ、特に託されている皆さんの祈りのリクエストを主に祈ることができます。ここでお願いしますが、私たち牧師夫婦のために、また荻野倫夫・チャチャ伝道のために祈って下さい。 

今朝も皆さんの求めることを主に祈りましょう。中途半端で祈りをやめずに、求め続け、捜し続け、門を叩き続ける信仰を持って、諦めないで主に祈って行きましょう。祈りは必ず神様に届き、すばらしい答が与えられます。



2、キリストは癒し、救い、永遠の命を与えて下さる生命(いのち)の主である。18:40後半―43

すると彼は、たちまち見えるようになった。そして神をあがめながらイエスに従って行った。これを見て、人々はみな神をさんびした。(43節)

キリストは盲人の叫びを聞き、彼を御許に招いています。主は近づいてきた彼に「わたしに何をしてほしいのか」と問いかけます。キリストは誰にでも答えられるような問いかけをし、盲人は自分の思うところを主に申しあげています。18:40後半から43節を通して三つのことを教えられます。

第一に、ありのままキリストに祈ることです。

祈りには自分を飾ること、見栄、プライドはいりません。キリストは盲人に、「わたしに何をしてほしいのか」と問いかけています。この質問のポイントは「わたしに」という点にあります。キリストは「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)と約束されました。キリストこそが祈りを叶えて下さる主です。十字架にかかり、復活されて天に帰られたキリストは、父なる神様の右の座にいて、日夜私たちのために執り成しの祈りを捧げています(ロマ8:34)。キリストの御名によって祈りましょう。祈りは聴かれて行きます。

しかし、私たちはどう祈ったらよいのか分からない場合があります。祈る言葉が口から出ないことがあります。祈ることのできない弱い私たちのために聖霊の助けが与えられます。どう祈ったらよいか分からずにいる私たちのために、聖霊自ら、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、私たちのために執り成しの祈りを捧げて下さいます。聖霊は私たちの思いを神様に届けて下さって、私たちの心に平安を与えてくれます(ロマ8:26-27)。子供が親に頼むときには、願っていることを伝えます。また子供が親に話をする時に、順序が整わないまま話しをすることがよくあります。ありがたい事に、子供の言うことを親は理解し、汲み取ってくれます。それが親の愛です。

私の個人的経験ですが、祈る時に神様に文句を言う場合があります。泣いて祈る時もあります。言葉にならないでうめくように祈る時もあります。あれやこれやと雑多なことを祈っているうちに、自分が祈ろうとした主題が分からなくなる場合もあります。でもキリストの御名によって祈ったことは聖霊の助けによって神様の所に届いていて、神様は私の願っていることをちゃんと汲み取って下さって、祈りの答が表されていることに感謝します。

第二に、主は祈った以上のことを恵みとして与えて下さいます。

盲人は「見えるようになることです」とキリストに訴えています。キリストは彼の訴えに答え、目を見えるようにして下さいました。それに加えて、彼がキリストを信じて激しく呼び求めた信仰を祝福して下さって、彼の心が救われ、神の子になるという恵みを与えています。「もと盲人」が、目を開けてもらい、救いを受けたことは「神をあがめながらイエスに従って行った」という御言葉によって表されています。

Kさんは奥さんがクリスチャンでした。一週間六日間はまじめに働き、日曜日は自分の趣味のために一日を過ごしたいと思うのですが、奥さんは「神様が一番大事です」と言って日曜礼拝に出かけて行きます。そんな奥さんに腹が立って、「家のことを放り出して何をしているか」と言って、奥さんの聖書が入っているバッグを川に投げ捨ててしまったことがありました。ところが40歳の時に、悪性リンパ腫との診断を受け、余命半年と宣告され、目の前が真っ暗になってしまったのです。その時に、奥さんの通っている教会のことが思い浮かびました。とにかく教会に行って、神様に祈ってみようという気持になり出席しました。祈ったことのない者でしたが、ただ「神様、私を助けて下さい」と祈り、やがて無我夢中で祈り続けました。その時に大きな力を体験し、心の中から喜びが湧きあがってきて、死ぬという恐怖から解放されたのです。生きているキリストの救いの恵みを受けて、皆が喜んでくれました。病気の治療を受けて元気になり、それから15年の月日が過ぎています。奥さんの聖書を捨ててしまうような愚かな者でしたが、神様に祈り求めた時に、その祈りは聞かれたのです。今では、家庭集会を開き、問題や悩みを抱えた人々が訪れるようになり、そのために祈る奉仕をするために生かされていることを感謝して日々を過ごしています。

第三に、人々が神様を讃美しています。

キリストを信じた「もと盲人」の姿を見て、大勢の人々が「主はすばらしい」とさんびしています。私たちもキリストを信じました。クリスチャンになりました。そのことを感謝しましょう。そして、キリストを信じる恵みを自分の身をもって表して行きましょう。

本年元旦に与えられた御言葉を思い出して下さい。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:16-18)。皆さん、喜んでいますか。祈っていますか。感謝していますか。喜びにくい状況の中にいるかもしれません。祈りがなかなか聞かれないというもどかしさを感じているかもしれません。心に詰まっていることがあって素直に感謝できないという思いをもっているかもしれません。主は言われます、「わたしに何をしてほしいのか」。主を求め、自分の思いを主にぶつけて行きましょう。主は言われます、「あなたの信仰に答えて、あなたの問題すべてが解決するようにしてあげよう」。主の恵みによって、必ず心に喜びが湧きあがり、祈る信仰の力が与えられ、主の平安によって感謝の思いに満たされるようになります。



まとめ

1、18:35-40前半、39節を読みます。キリストはご自分に向かって叫び、求める者の声を聞き逃さない愛の主です。キリストに向かって祈りましょう。祈りをやめないで祈りましょう。日々祈り続けて行きましょう。

2、18:40後半―43、43節を読みます。キリストは癒し、救い、永遠の命を与えて下さる生命(いのち)の主です。ありのままキリストに祈り、求めましょう。主は恵みを加えて祝福して下さいます。私たちを見て人々が神様を讃美するような、喜びと祈りと感謝に溢れた生活をして行きましょう。



祈 り

父なる神様、独り子であるイエス・キリストの十字架によって救われていることを感謝します。どんなことでも主に祈り求めて行くように導いて下さい。今週も日々喜びと祈りと感謝に溢れて前進できるように、恵み深い聖霊によって導いて下さい。病気の方に平安を満たし、速やかな癒しを与えて下さい。仕事を求めている方、困難の中にある方に仕事と解決を備えて下さい。私たちの家族を救いに導いて下さい。祈りを聴いて下さる主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:ルカ注解―黒崎、フランシスコ会、LABN、文語訳注解、口語訳注解、モリス、ライル。