「イースターに向かってーイエス自ら十字架を背負ってー」 ヨハネ19:16-27 2009.4.5受難週礼拝
教会歴では本日より受難週に入ります。受難週とは、キリストの地上における最後の一週間のことで、キリストが十字架にかけられた週のことを言います。キリストは日曜日、「ホサナ、ホサナ!」という群衆の歓呼の声に迎えられ、ロバの子に乗ってエルサレムの都に入りました(マタイ21:1-11)。木曜日の晩、12弟子と過越の食事をされ(最後の晩餐、マタイ26:20-29)、ゲッセマネで徹夜の祈りをささげ(マタイ26:36-46)、金曜日明け方に捕らえられて裁判を受け(マタイ27:11-26)、金曜日の朝9時頃十字架に架けられ(受難日または受苦日、マルコ15:25)、昼の3時ごろに息を引き取り(マタイ27:45-30)、遺体に亜麻布を巻かれ、岩をくり抜いた墓に葬られました(マタイ27:57-60)。しかし、キリストは死んで終わりではありませでした。キリストは金曜日夕方から、土曜日、日曜日の早朝にわたって三日間墓にいましたが、日曜日の朝に死を滅ぼして復活されました(マタイ27:1-10)。復活後、40日間地上にいて弟子達に神の国について教え、エルサレム・オリーブ山から雲に迎えられて天に帰って行かれました(使徒1:1-10)。キリストは、今は天国で私たちのために場所を用意され(ヨハネ14:2-3)、また父なる神の右の座で私たちのために執り成しの祈りを捧げておられます(ロマ8:34)。やがて間もなく世の終わりがやって来て、キリストはもう一度この地上にやって来て(再臨)、信じる者を永遠の天国に招き入れて下さいます(Ⅰテサロニケ1:34-18)。
本日はヨハネ福音書19:16-27です。「イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(へブル語ではゴルゴタ)という場所に出て行かれた」(17節)と記されています。私たちが罪の罰として背負わなければならなかった重い荒削りの十字架を、神の子キリストがみずから背負って、エルサレム郊外にあるゴルゴタの死刑場に向かって行かれ、罪の身代りになって死んで下さったのです。
私たちはキリストの十字架によって罪より救われ、神の子にされています。メッセージの後に、キリストの死を記念する聖餐式を行ないますが、「キリストの十字架は私のためでした。主よ、感謝します」という祈りをもって聖餐式に与り、来週の復活祭(イースター)に向かって進んで参りましょう。
内容区分
1、イエス・キリストは、私たちのために自ら十字架を背負って下さった救主である。19:16-18
2、イエス・キリストは、十字架によって人を救う世界の救主である。19:19-24
3、イエス・キリストは、どんな時でも人のことを配慮される愛の救主である。19:25-27
資料問題
16節「引き渡した」、聖書は「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され」(ロマ4:25)、「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡された」(ロマ8:32)と告げている。17節「イエスはみずから十字架を背負って」、キリストの代わりに十字架を担ったクレネ人シモン(マルコ15:21)や主に同情して泣く女性たち(ルカ23:27-31)のことを記さず、キリストみずからが十字架を担ったことが強調されている。19節「罪状書き」、当時の三つの言語で記されているが、万民のためのキリストの死と共にキリストの王位の普遍性を示している。罪状書きは一度告示されると、書いた総督自身でさえ内容を変更できなかった。24節「彼らは互にわたしの上着を・・・」、詩篇22:18の引用。26節「愛弟子」、ヨハネ福音書を記したヨハネのこと。
1、イエス・キリストは、私たちのために自ら十字架を背負って下さった救主である。19:16-18
彼らはイエを引き取った。イエスはみずから十字架背負って、されこうべ(へブル語ではゴルゴタ)という場所に出て行かれた。彼らはそこで、イエスを十字架につけた。(16後半―18節前半)
「イエスはみずから十字架を背負って・・・出て行かれた」と記されていますが、キリストは十字架を背負って、されこうべ(へブル語ではゴルゴタ)に向かっています。「されこうべ」という言葉はラテン語でカルヴァリアと訳され、そこから英語のカルヴァリーになっています(聖歌399番はカルヴァリーの十字架となっている)。ゴルゴタはエルサレム市外にあります。それは、民数記に、呪われた囚人は「宿営の外で、彼を石で撃ち殺さなければならない」(民数記15:35)と決められているので、死刑場は町の外に設けられていたからです。
当時はローマ帝国がユダヤの国を支配し、ローマ総督ピラトがキリストの裁判をしていました。ピラトは、キリストに何の罪もないことを知りながら、「その男を殺せ」というユダヤ人たちの要求をいれて、「イエスを彼ら(ユダヤ人達)に引き渡した」のです(16節前半)。このことを、聖書は「主は、わたしたちの罪過のために死(十字架の死)に渡された」(ロマ4:25)のであると告げています。神様は、キリストが人間の罪を背負って十字架で死ぬことによって、人間を罪から救い、永遠の命を与えるという救いの道を開かれたのです。キリストご自身も徹夜で祈り、人間の罪のために身代りになって十字架にかかることをハッキリと決意して、十字架に向かっています(マタイ26:36-46)。それで、「イエスはみずから十字架を背負って・・」と言われているのです。十字架を背負ったということですが、十字架刑を宣告された犯罪者は、自分が釘付けになる十字架を運ぶように強制されました。主は、みずから十字架を背負うことによって、最低の重罪犯人であるという辱めを受けて、私たちの全ての罪をご自分の身に負って下さったことを示しています。
何故キリストの十字架によって人間が罪から救われのでしょうか・・・。バプテスマのヨハネは、キリストのことを、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)と人々に紹介しています。ユダヤ民族(イスラエル民族)がエジプトの地で奴隷であった時、モーセはパロ王に対し、「ユダヤ人を故郷の地に帰すように」と9回も交渉しますが、パロ王は言う事を聞きません。そこで神様はパロ王の頑固な心を打ち砕くために、エジプト中の長男を死の使いによって殺す、と告げます。ただしユダヤ人は、傷のない子羊の血を家の門に塗っておけば、神様の死の使いがそれを見て過ぎ越すであろう、と言われました。その晩、パロ王の長男をはじめエジプト中の長男が死に、最初に生まれた家畜の子どもも死にました。しかしユダヤ人の家々には子羊の血が塗られていたので、誰も死ぬことなく、安全でした。(出エジプト12:7,13)
キリストは罪のない神の独り子です。罪のないキリストが十字架で血を流して、私たちの罪の身代りになって死んで下さいました。私たちがキリストを信じると、キリストが十字架で流して下さった血の力で罪が赦され、心に聖霊の証印(エペソ1:13)が押されます。死の使いが、子羊の血が塗られている家を過ぎ越したように、私たちがキリストを信じると、私たちの心がキリストの血によってきよめられ、聖霊の証印が押されて、私たちは滅びることなく守られ、天国へ導かれて行きます。きょうは聖餐式を行ないます。聖餐式のパンは十字架上で裂かれたキリストの体を表し、ブドウの杯は十字架上で流されたキリストの血を表しています。「イエス様、罪がないのに、みずから十字架を背負ってゴルゴタに行き、朝の九時から昼の三時まで苦しみを受け、命を捧げて私の罪の身代りになって下さったことを感謝します。私はイエス様の救いを信じます。イエス様、感謝します」という祈りをもって聖餐式に与って下さい。
聖霊の証印を押されている私たちは天国の民になっています。それを公にするために私たちは洗礼を受けて教会の一員になって信仰生活を続けて行きます。先週、洗礼志望者が起され、洗礼を受けるための学びに入っています(E.くん、高一年)。キリストを信じている方々は一日も早く洗礼を受けて、教会にしっかりとつながり、クリスチャンとして歩んで行く決断をするようにお勧めします。
聖霊の証印を押されている私たちは神様に向かって、「アバ(お父ちゃん)、父よ」と祈る力が与えられています(ロマ8:15)。皆さんの願いはなんでしょうか・・・。どんなことでも祈りましょう。
私たちに罪の赦しを与えるために、みずから十字架を背負って行かれたキリストの愛に感謝します。キリストの十字架の血によって罪が赦され天国へ行く希望を与えられ、心に聖霊の証印が押され、祈りを与えられていることを感謝します。
2、イエス・キリストは、十字架によって人を救う世界の救主である。19:19-24
ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには、「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてあった。・・・それはヘブル、ローマ、ギリシャの国語で書いてあった。(19節)
キリストが十字架につけられた時、その両脇に二人の犯罪人が十字架にかけられていました。ピラトはキリストの十字架に三つの言葉で書いた罪状書きを掲げさせています。この罪状書きが
あることによって、十字架刑を見ている人や通行人に、キリストが十字架の上で本当に苦しまれていることが分かり、少し離れて見ている人にもキリストのことがハッキリと分かったはずです。罪状書きは三つの言葉で記されていました。ギリシャは世界に芸術と思想(哲学)をもたらしています。ローマは世界に法律と政治の力をもたらしています。へブル(ユダヤ)は世界に宗教とまことの神礼拝をもたらしています。罪状書きは当時の世界を代表する言葉で記され、キリストは「ユダヤ人の王」であることが全世界に伝えられてことを示しています。
ところで、「ユダヤ人の王」にはどんな意味があるのでしょうか。ピラトは深い考えもなく、キリストがユダヤ人であるので「ユダヤ人の王」という罪状書きを書かせたようです。ユダヤ人が、ピラトにそれを取り消すように言ったのですが、当時の決まりで、一度書いた罪状書きは取り消すことが出来ないので、ユダヤ人の王ということが全世界に言い広められることになったのです。
「ユダヤ人の王」ということですが、キリストが生まれる前に、天使ガブリエルはマリアに対し、「主なる神は彼(キリスト)に父ダビデの王座をお与えになり、彼(キリスト)はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」と告げています(ルカ1:32-33)。キリストが誕生した時に、東から来た博士達は「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか」(マタイ2:2)と言っています。きょうの日曜日にキリストはエルサレムに入ったのですが、人々は「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」(ヨハネ12:13)と叫んでいます。キリストはユダヤ人として生まれましたから、ユダヤ人の王と呼ばれました。しかし、神の国の福音を伝え、最後には十字架にかかって人の罪の贖いを成し遂げ、全世界の人々の救主になり、すべての人々の王となるために来られたお方です。聖書は告げています、「しかし、彼(キリスト)を受け入れた者、すなわち、その名(キリストの御名)を信じた人々には、彼(キリスト)は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネ1:12)。ですから「ユダヤ人の王」とは、「ユダヤ人として生まれ、十字架によって全世界の人々に救いをもたらした救主であり、私たちの王である」という意味に受け取ることができます。
十字架にかかっているキリストの姿は悲惨な姿です。十字架は一本の荒削りの角材で、それに犯罪者の両手を釘付けにする横木が直角に固定されるようになっています。十字架は地面に置かれ、犯罪者は裸にされ、十字架の上に仰向けに寝かされ、両手を開いて横木に釘付けにし、両足は十字架の縦の木に揃えて釘付けにされます。それから十字架を引き起こし、用意してあった穴に固定します。十字架が立てられると体がずり下がり、釘付けされた両手両足の筋肉が裂けて激痛が走り、照りつける太陽の下で血が流れ出て行き、喉は渇き、徐々に死に至ると言われています。私たちは、キリストが私たちの身代りとなり、裸にされ、両手両足に釘を打たれ、頭にイバラの冠をかぶせられて苦しんだ姿を忘れてはならないのです。聖書朗読のイザヤ書53章でした。そこに「彼(キリスト)は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと」と記されていました(53:4の最後のところ)。しかし、キリストの十字架の苦しみは、「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(53:5)という救いのためであり、キリストが受けた苦しみは私たちのためであったことが分かります。
キリストが十字架で私たちのために苦しんで、血を流して死んで下さったことを信じる時に、私たちは罪より救われ、罪の力から解放され、苦しみから自由になります。いくらキリストの十字架のことを話しても信じない女性がいました。ところが彼女は信頼していた男性に裏切られ、心が苦しくなりました。その時、始めてキリストの十字架のことを思い出しました。そして、ただ単純に「キリストが私の苦しみを十字架の上で背負っていて下さる」と考えたら、少し気持が楽になりました。やがて彼女はキリストの十字架を信じて、罪の赦しと心の解放を与えられ、30年以上をクリスチャンとして歩んでいます。キリストの十字架を信じる時に救いが与えられ、人生が新しくなります。
3、イエス・キリストは、どんな時でも人のことを配慮される愛の救主である。19:25-27
イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母に言われた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。(26-27節)
キリストは肉体的に十字架の苦しみの中にいます。それに加えて、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」(マルコ15:31後半―32節)と罵る律法学者、祭司たちの悪口が聞こえてきています。さらにキリストの十字架の下で、ロマの兵隊達がキリストの衣を手に入れるために、賭博で争いあっている醜い様子が記されています(23-24節)。そうした酷い状況の中にあって、キリストはご自分を産んでくれたマリアのことを忘れずに優しい配慮を表しています。十字架に最後まで付き添っているマリアを、愛する弟子ヨハネに託しています。カトリックでは、マリアが神聖であり、罪人の友、保護者であるので、マリアに祈りをささげ、礼拝すべきであるというマリア崇拝をします。しかし、ここを読むとマリア崇拝が間違いであることに気がつきます。マリアはこれからヨハネの世話を受けて生活をして行く立場にいます。他人の世話や保護を必要とする婦人が、男女の人々を天国へ導く手助けをするとは考えられないことです。また人の助けによって生きるマリアが神と人の仲介者になるということは有り得ないことです。
キリストのマリアに対する態度の中から、キリストは私たちに対し、優しさ、同情をもって、また私たちの立場に対して愛の思いやりをもって支えて下さる救主であることを知ることができます。キリストは、「神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(マルコ3:35)と言われました。私たちはキリストを信じて神の家族の中に加えられていることを感謝します。
まとめ
1、19:16-18、キリストは、私たちのために自ら十字架を背負ってゴルゴタの死刑場に進んで行かれた救主です。
2、19:19-24、キリストは、十字架によって人を救う世界の救主です。
3、19:25-27、キリストはどんな時でも人のことを配慮される愛の救主です。
祈 り
創造主である神様、独り子イエス・キリストの受難の週を、十字架の救いの恵みに感謝しつつ祈りながら、来週の復活祭・イースターに向かって進んで行くように導いて下さい。私たちのためにキリストト自らが十字架を背負って下さったことを感謝します。キリストの十字架の犠牲によって罪が赦され、救われていることを感謝します。キリストの愛の配慮によって日々生かされていることを感謝します。キリストが十字架によって罪を赦し、病を癒す救主であることを感謝します。キリストを信じ、洗礼を決意したEくんを祝福して下さい。これから聖餐式を行ないます。キリストの十字架は「私のためでした」という信仰の告白と感謝とをもって聖餐式に与る者にして下さい。私たちのために自ら十字架を背負って下さったイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献:ヨハネ注解―ライル、バークレー、榊原、黒崎、米田、フランシスコ会、文語略註。