イースター「キリストの勝利の行進」 コリント第二2:14-16     主の2009.4.12イースター礼拝



主の復活祭・イースターおめでとうございます!先週の木曜日の晩、キリストは地上で弟子達と過越の祭りの食事をされた後(最後の晩餐、聖餐式の原型)、ゲッセマネの園で世を徹して祈り、十字架にかかる備えをしました。金曜日の朝9時、十字架にかかり、昼の3時に息を引き取り、遺体は亜麻布に巻かれ、岩をくり抜いた墓に葬られ、扉は厳重に封印されました。三日後の日曜日の朝、女の弟子達が墓参りに行くと、墓の扉が開かれていて、墓の中は空っぽで、天使が現れて「キリストは甦った」と彼女達に告げ知らせます。キリストは十字架で人間の罪の身代りになって命を捧げましたが、その三日後に死を滅ぼして甦ったのです。私たちはキリストを信じて罪を赦され、キリストによって永遠の生命を与えられ、クリスチャンになりました。今朝ここに集まっている皆さんひとりひとりがキリストの救いを信じる者として主の復活を記念し、お祝いできることを感謝します。

ところで日本のプロ野球が始まっていますが、3月に世界野球選手権がアメリカで行なわれ、「侍ジャパン」と名乗る日本代表チームがアメリカ、キューバ、韓国の強豪チームを押さえて優勝しました。成田空港に、優勝トロフィーをもって日本チームが凱旋帰国した時に、大勢のファンが喜びの声をもって出迎えたことが、新聞、テレビのニュースで大々的に報道されました。

本日は第二コリント2:14-16です。この手紙を記した使徒パウロは、「神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き・・・」(14節)と言っています。凱旋とは、戦いに勝って帰るという意味です。戦いに勝った者は行列を組んで行進し、多くの人々の出迎えを受けます。ここに言われているキリストの凱旋とは、キリストの勝利の行進ということです(新改訳、新共同訳)。キリストは罪の力を十字架によって打ち砕き、十字架の死後三日目に死を滅ぼして甦り、永遠に生きている勝利の主です。キリストは罪と死に打ち勝った勝利の主です。私たちもキリストを信じる者として、罪と死に負けることなく、キリストの勝利の行進に加えられていることを感謝します。

復活された勝利のキリストを仰ぎ見つつ、今週も喜びと祈りと感謝の日々を前進しましょう。



内容区分

1、私たちは、いつもキリストの勝利の行進の中にいることを感謝しよう。2:14前半

2、私たちは、キリストの生命(いのち)の恵みを表す者として成長させていただこう。2:14後半―16

資料問題

14節「キリストの凱旋に伴い行き・・」、凱旋将軍が行進する時に、先頭に官吏と上院議員たちが進む。次にラッパ手と分捕り物と生贄の白い牡牛。その後に敵の捕虜たちが鎖につながれて歩いて行く(彼らは行進の後に投獄され或いは処刑された)。さらに鞭をもった囚人係り、竪琴の音楽士たち、かんばしい香りを放つ香炉をもつ祭司たちが続く。次に馬に引かせた戦車に凱旋将軍が紫の衣を着て乗り、手にはローマの鷲がついている象牙の笏を持ち、頭には奴隷が冠を捧げている。着飾った家族が馬に乗り、その後に軍隊が勝利の叫びをあげてついてくるという華々しい光景である。パウロはキリストは世界の王であり、凱旋将軍以上の勝利の行進をもって前進し、誰もそれを止められない、自分をはじめ全てのクリスチャンがその行進に入っていると確信している。かんばしい香りを放つ香炉が祭司によって振られたが、その香りは凱旋将軍にとっては勝利と生命の香りである。しかし捕虜たちには死刑の香りとなる、何故なら彼らは行進後に処刑が待っているからである。キリストは、キリストの福音を信じる者には生命の香りとなり、信じない者には滅びと死の香りになる。それは御子を信じる者は永遠の命をもち、信じない者は命に与ることがないばかりか、神の怒りがとどまるからである(ヨハネ3:36)。



1、私たちは、いつもキリストの勝利の行進の中にいることを感謝しよう。2:14前半

しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋(勝利の行進、行列―新共同訳、新改訳)に伴い行き・・・(14節前半)

キリストはパトモスの島で使徒ヨハネに現れ、「恐れるな。わたしは初めであり、終わりである。わ

たしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉(よみ)とのかぎを持っている」(黙示録1:17-18)と告げています。キリストは十字架によって罪の赦しの道を開き、罪の罰である死を滅ぼして復活され、永遠に生きておられる救主です。

*2:14前半から三つの恵みを知ることができます。

第一に、神への感謝です。

今年の御言葉を思いだして下さい。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに求めておられることである」(Ⅰテサロニケ5:16-18)。

個人的なことですが、今年もイースターを迎えることができて主に感謝しています。高校生の時に洗礼を受けましたが、初めのころはキリストの復活ということがよく分からず、どっちかと言うとクリスマス中心の信仰でした。高三の時、ある雑誌に、ニューヨークの街を男性が正装し、婦人方は華やかに装い、イースターハットと呼ばれる帽子をかぶり、皆でイースターを祝うために行進している写真が大きく掲載されていました。その後で、英語の受験雑誌を読んでいましたら、イースター特集記事があり、「キリストの復活がなければ、あなたがたの信仰は虚しい」という、まるで信仰雑誌のようなメッセージが述べられていました。その二つの事を通して、キリストが復活したという信仰がハッキリしました。聖書を通して、また二つの雑誌を通して、キリストの復活は信仰の中心であり、信仰の土台であることを知り、信じることができたことを感謝しています。そして、独り子イエス・キリストを賜うほどの神様の深い愛を信じて、信仰を中心にして人生を進んで行こうという決意が与えられました。神様は、恵み深い聖霊をもって私を導き、信仰の道を歩むように守られて来ていることを感謝します。

第二に、キリストは人を罪から救い、永遠の命を与える救主です。

メッセージ前に、聖歌隊によってイースターにふさわしい二曲の讃美がささげられました。まず「丘の上に立てる荒削りの十字架にかかりて、救主イエスは人のために棄てませり命を、十字架にイエスきみ、我をあがないたもう、十字架の悩みは我が罪のためなり」(聖歌402)という十字架の恵みがうたわれました。続いて「生ける主は明日も我を罪より守られ、墓よりよみがえられし、命を与え生きたもう」(聖歌296)という生きておられるキリストを讃える聖歌がうたわれ、感謝でした(午後のイースター祝会ではゴスペル讃美があります)。

ある婦人の証です。彼女の弟が高校生の時に、人間関係のトラブルで引きこもりにになってしまいました(鬱状態)。人間的に弟を助ける術がなく、弟のためにカトリック教会に通い、修道院に行き、聖書と祈りの生活に身を置くようになりました。そのことによって心に平安が与えられ、弟のために祈ることができるようになり、祈っていました。2年後に洗礼を受け、弟のために何かをしてあげられると思って家に帰りました。しかし、弟の具合は悪くなっていて、量を間違えてか多量の睡眠薬を飲んで死んでしまったのです。家族は深い悲しみに沈み、彼女自身も「神様を信じても何も現実は変わらない」という諦めの感情に心が閉ざされてしまいました。

弟を失った悲しみを忘れるために、姉の美容院を手伝い、美容師になる勉強をしました。やがて結婚をし、子育てをしながら、夢中で働き続けました。無理が祟り、心も体もボロボロになり、40度の高熱が続き、腫瘍ができて手術を受けるようになりました。体力、気力がなくなり、ある日ようやく布団から起き上がった時に、キリスト教の雑誌が目に入りました。それは知り合いの人が届けてくれたものでした。パラパラとページをめくっていると、「人生に行き詰まっている者は神に祈れ」と記されていました。以前に学んだ聖書のことを思い起し、「神様、私の心は涸れ果てています。私の心は冬のようです。私を助けてください」と言って祈りました。すると、涸れ果てていた心が突然に熱くなって、涙が溢れ出てきました

それから3ヶ月後、イースターの日に教会に出席しました。カトリックのような壮麗な会堂ではなく、普通の民家で何の飾りもありませんでした。しかし、初めて出席した彼女を実にあたたかく迎え入れてくれました。礼拝で、「イエス・キリストは十字架にかけられたままではなく、死を滅ぼして復活され、今も生きておられる」というメッセージが語られ、自分のうちにキリストの復活の生命が注がれ、救われたという体験をすることができました。また亡くなった弟のことは神様に委ねようということで平安が与えられました。「キリストは生きておられる。私はキリストの救いによって喜びに満ちあふれている。弟のことは神様に委ねたので平安である」ということを家族に伝えました。すると日蓮宗信者であった父が救われ、母、姉、妹が救われたのです。キリストは生きておられます。生きているキリストは彼女を救い、家族を救いに導いて下さった愛の救主です。

第三に、自分で点検して下さい。

神様に感謝していますか。もちろん感謝しているはずです。キリストの勝利の行進の中にいることを信じていますか。もちろん信じているはずです。信じているから、教会の礼拝に加わっています。祈って、今週も祝福の道を歩む決意をして祈って下さい。



2、私たちは、キリストの生命(いのち)の恵みを表す者として成長させていただこう。2:14後半―16

わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至るところに放って下さるのである。わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。(14後半―15節)

パウロは「キリストの凱旋、キリストの勝利の行進」という言葉を使っていますが、彼にはロマの将軍の華やかな凱旋行進のイメージがあったと思われます。当時、敵地で勝利をおさめた将軍はロマ市民によって盛大な歓迎を受けました。行進の先頭を、ロマ上院議員たちと官吏たちが進みます。ラッパ手がラッパを吹き鳴らして続き、敵地から分捕ってきた戦利品が運ばれ、生贄にする白い馬が引かれて行きます。その後ろに敵地で捕虜になった者たちが鎖につながれて歩いています(彼らは行進後、投獄または処刑されます)。捕虜を叩く鞭の係り、堅琴を演奏する音楽士たち、かんばしい香りを放つ香炉をもった祭司が続きます。凱旋将軍は戦車を馬で引かせて乗り、紫の衣を身にまとい、手にはロマのシンボルである鷲の飾り物のついた笏(しゃく)が手に持ち、奴隷が頭上に冠をささげています。すぐ後ろに着飾った家族が馬に乗っています。そして将軍の率いた軍隊が勝利の叫びをもって行進しています。かんばしい香りの入った香炉を祭司がいると言いました。祭司が香炉を振り回すと、その香りが凱旋将軍に届き、それは彼にとっては勝利と生命を表すものとして心地よく感じられたと思います。その香りは捕虜たちにも届いたと思いますが、それは彼らにとっては行進後に待っている処刑を意味する死の香りに感じられたと思います。

私たちは神に対するキリストの香りであり、滅びる者にとっては死から死に至らせる香りでであると言われています。私たちはキリストを信じて罪が赦され、新しい者、きよい者になり、神様は私たちを受け入れて下さいます。キリストを信じない者は、私たちクリスチャンの存在を邪魔にします。しかし、それは私たちを救ってくれたキリストの恵みを退けることになり、彼らは滅んで行くと言われています。

ここで大事なことは、キリストが私たちの救いと滅びを分けるということです。聖書は、キリストを信じれば救われることができる、キリストを信じなければ救われないと教えています。そう言いますと、「世の中には様々な宗教がある、どれを信じても同じではないか」という人がいます。「わけ登る麓の道は多けれど、同じ高嶺に眺める月かな」という古歌を引用して、行き着く先は同じだという人がいます。しかし違うのです。私は分校で「比較宗教」を教えていますので、仏教、イスラム教、ヒンズー教、神道、道教、孔子の教え、呪い、占いなどたくさんの宗教を学びましたが、人間の罪の問題と罪に対する解決を示す教えは一つもありませんでした。たった一つキリストの教えだけが人には罪があることを的確に示しています。聖書は、人間が万物を創造された神様に背き、罪を犯し、全ての人は滅びに向かっていることを明らかに告げています。罪の支払う報酬は死であり、地獄の滅びです。しかし、神の賜物はわたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠の命です(ロマ6:23)。そこで、罪ある人間の罪の身代りになって、罪のない神の独り子であるキリストが私たちのために十字架に命をささげて下さったのです。キリストの十字架を信じる時に罪の赦しを受けます。そしてキリストが死を滅ぼして復活されたので、私たちに永遠の命が与えられます。

私たちはキリストを信じても、肉体は生まれながらの罪の故に一度は朽ち果てます(肉体の死)。しかし、キリストを信じると、キリストの命が私たちの魂に宿るために、魂は永遠に死ぬことがありません。自分の罪の故に肉体は一回だけ滅びますが、魂は滅びません。やがて世の終わりに肉体が復活し、魂と体とが一つになって永遠に生きる者になって、涙、死、悲しみ、別れ、叫び、痛みはすべて過ぎ去り、キリストと共に永遠の天国に住むのです。

私たちはキリストを信じて、生まれ変わって、永遠の命を与えられています。私たちに救いを与え、永遠の命を与えるために、キリストの十字架があり、きょうのイースターがあることを感謝します。キリストの永遠の命をいただいて生まれ変わっている私たちは、キリストの香りを放つ者になって行くように祈りましょう。世の中は99%異教世界です。それに対抗して生きるのがクリスチャンです。毎週、礼拝の度ごとに「あなた方はこの世と妥協してはならない(調子を合わせてはいけない)」(ロマ12:2)という聖句が読まれます。そのために次のことが大事です。

*神様は安息日を守れといわれ、現代ではキリストの復活を記念して日曜日を礼拝の日としています。これを大事にして下さい。勤務の関係などで日曜日が守れない方々は、礼拝を守れるように祈りましょう。そういう方々のために祈りの応援をしましょう。また週の半ば、水曜・祈り会に出席して聖書を学び、執り成しの祈りを捧げることは霊的成長に不可欠です。

*聖書を今朝読みましたか。聖書は神様の御言葉であえい、私たちの心のご飯です。

*祈りましょう。世の中には金銭の力、政治の力、知識の力がありますが、いまだに祈りの力に勝るものはありません。祈りは山を動かし、人の心を変え、病に打ち勝ち、何よりも心に神様よりの平安が与えられます。祈りは心の呼吸です。

*神様に献金をすることです。献金を忠実にしている者は霊的祝福、健康、そして仕事が守られます。私は高校生の時に十一献金を教えられて、それをずっと続けて祝福をいただいていることを感謝します。

「以上のことは信仰の初歩でしょう」と言う人がいます。問題はこれらを実践して行くように祈ることです。プロ野球で最年長42歳の工藤投手が言っていました。「練習をする。それは必ずプレーの中に帰ってくる」。信仰の基本をしっかり続けるならば、それは信仰生活の祝福となって帰ってきます。最後に復活のキリストへの献身をうたった決意の短歌を紹介して祈ります。



十五代続きし寺との縁を切り吾は天国目指さんと言ふ  (信徒の友より・辻中昭一)



親代々に渡って住んでいる町で、寺との縁を切るのは大きな大きな決断を要することす。しかし、それを実践し、クリスチャンとして生きている方がいることは大きな励ましです。



まとめ

コリント第二2:14-16を読みます。

1、私たちは、キリストの勝利の行進の中に入れられていることを感謝します。神様に感謝をたくさん捧げましょう。キリストだけが罪を赦し、永遠の命を与えて下さるまことの救主であることを感謝します。

2、私たちは、キリストにあって霊的に成長させて下さいと祈りましょう。キリストの香りを放つ者になりましょう。まことのクリスチャンとして、この世と妥協することなく信仰の道を進みましょう。時には十五代続いた寺との縁を切るような決断をする時があるかも知れませんが、常にキリストに従う道を前進するように祈りましょう。



祈 り 天の神様、クリスチャンとしてイエス・キリストの復活を喜ぶことができて感謝します。いつもキリストの勝利の行進に加えられていることを感謝します。今週も生ける主イエス・キリストを見上げて信仰の道を前進します。午後からのイースター祝会、夜のイースター礼拝を祝福して下さい。死を滅ぼした勝利の主、生きておられる救主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。