神の創造の秩序―婦人のかぶりりものー コリント第一11:2-16      主の2009.4.19礼拝



現代は、男女同権の考えに基づいて社会生活が営まれています。男女の性の区別はありますが、男も女もすべての人が人間として尊重されることは大切なことです。ところが、男女同権という考えが極端になると、男も女も区別しないということで、例えば更衣室もトイレも男女一緒という所があります。それは男女同権を表面的に理解し、その真の意味を履き違えた結果です。男女同権とは、お互いの役割を理解し、お互いの立場、特性、特徴を認めあい、受け入れ合って行くということです。表面的な男女の平等ではなく、すべての人が人間として大事にされるという考え方が根底にあることを見失ってはならないのです(基本的人権)。男女同権ということは、男女の平等だけではなく、障害を負っている人、社会的に差別されている人(例:部落差別)など、全ての人が人間として尊重され、共に助け合って生きて行くものであるということが含まれています。

聖書は、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1:28)と告げています。私たちは、神の前に共に大事な存在として命を与えられ、それぞれに独自の役割、機能を与えられ、お互いに補いあって行くように創造されたものです。

本日はコリント第一11:2-16です。ここには男女のあり方、服装などについての教えを通して、聖書の示す男女同権のことが述べられています。聖書の告げる神様の創造の目的を知り、男も女も神様の御心を知って生きることが大事なことです。神様の御心を日々の生活に具体的に当てはめ、神様に従う日々を歩んで行くために、主のメッセージに耳を傾けて参りましょう。



内容区分

1、神様の創造の秩序を心に留めよう。11:3,7,10

2、神様に従うために、男女の特性を認め、支え合って行こう。11:9,11-12

資料問題

3節「男のかしらはキリスト、女のかしらは男、キリストのかしらは神である」、これが神の定められた秩序である。

4節「かしらに物をかぶる」、当時の風習として、婦人は外出時に頭にベールをかぶっていた。しかし婦人の中に自由を主張してベールをかぶらない者がいた。当時、外出時にベールをかぶらない婦人は売春婦であったと言われている。クリスチャン婦人は誤解を招くようなことをしないようにということを戒めているのである。9節「また男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである」、創世記2:18を見よ。10節「それは天使たちのためでもある」、神様が造られた創造の秩序を天使たちが守っているのに、人間がそれを壊すようなことをしてはならない。祈りや預言をする時に男女の区別の分からない服装やふるまいによって、人間だけでなく、天使たちまでも驚かすべきだはない。天使についてはⅠコリ4:9、詩篇1381、ルカ15:7,10,12:8,9参照。

11節「ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしに男はない」、男を男として造り、女を女として造られた。神様は男には男の使命、女には女の使命を与えている。16節「風習」、風習、社会的常識は時と所によって常に変わって行く。大事なことは聖書の示している神の御心を知ることである。




1、神様の創造の秩序を心に留めよう。

すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である(3節)・・・男は神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきではない。女は、また男の光栄である(7節)・・・・それだから、女は、かしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは天使たちのためでもある(10節)

使徒パウロは、コリントの教会の人々に対し、「あなたがたが・・・伝えたとおりに言い伝えを守っている」と言って感謝しています。新約聖書が完成するまで、人々はキリストの直弟子である使徒達の教えを信仰の拠り所にしていました。信仰の大事な事柄は、使徒を通して口伝で各教会に伝えられ、またパウロやペテロによって文書化され、各教会に手紙として回覧されていました。パウロはコリントの教会の人々が使徒達の教えに従っていることを喜んでいます。しかし、コリント教会員の中に、霊的に高ぶっている人、知的な誇りをもっている人、信仰さえあれば何でも自由であると言っている人などがいて、問題や混乱を起し、教会の一致を妨げていました。使徒パウロは、問題を引き起こしている人々に対し、愛をもって、正しい信仰に引き返すように教え、導いています。

ここでは婦人のかぶりものの問題を取り上げていますが、このことを通して、使徒パウロは神様の創造の秩序について教え、また男女のあり方を教えています。

第一に、神様の創造の秩序についての教えがあります。

かしらとは頭(あたま)のことですから、かしらとは偉い人、上の人という感じがします。例えば、日本では封建時代に、士農工商という身分制度があって、一番上に将軍がいて、皆を支配するかしらとして権勢を振るっていました。それに比べると、聖書的なかしらは、皆を支配するという人間的なかしらとは全く違います。聖書の示すかしらとは、人に奉仕し、人を愛し、人に仕えるものです。私たちのかしらであるキリストは、弟子達の足を洗い、教えています、「主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗いあうべきである」(ヨハネ13:14)。そして、キリストはきよい罪のないご自身を十字架の上に捧げて、私たちに対する愛を示して下さいました。私たちのかしらであるキリストは人に奉仕をし、愛をもって私たちの罪の身代りとなって十字架に命を捧げて下さいました。私たちのかしらであるキリストから、男性は愛と恵みと賜物を与えられて、神様に従って生きます。女性は、男性のあばら骨から、男性の助け手として創造され(創世記2:21-22)が、男性を助けて行きます。それは男女がお互いに足りないところを補い合って生きる者であることを教えています。

第二に、神様の創造の秩序を重んじ、周りの状況を理解し、生きて行く知恵が必要です。

コリントの町には偶像の神殿があり、各地から人々がお参りに来ましたが、その人々を狙っている売春婦がいました。当時の売春婦は長い髪をして、頭(あたま)にかぶりもの(ベール)をかぶっていませんでした。そこで、普通の女性は出かける時、頭(あたま)にかぶりものをするのが常識でした。それによって売春婦ではないことを表したからです。もし、ある女性が「私は何でも自由である。頭にベールをかぶる必要はない」と言い張って出かければ、「ああ、あの人はかぶりものをかぶっていない。売春婦だ」と周りの人々に間違いなく言われます。コリントの教会では、集会で男はかぶりものをしません。男性の頭の上にはキリストがいるからです。女性は頭にかぶりもの(ベール)をして謙りを表しました。10節に、女性のかぶりものは天使のためとも言われています。何でも自由であると言って、頭にかぶりものをせず、男女が区別できないような服装、立居振る舞いで天使驚かし、集会の流れを混乱させてはいけないと言われています。

私たちはクリスチャンです。キリストによって罪の赦しを与えられ、自由な者にされています(ガラテヤ5:1)。この自由を乱用して人を躓かせてはならないのです。ダビデは、「わが岩、わが贖い主なる主よ、どうかわたしのくちの言葉と心の思いが、あなたの前に喜ばれますように」(詩篇19:14)と祈っています。中国に「李下に冠を整(ただ)さず。瓜田に履(くつ)を納(い)れず」という言葉があります。スモモの木の下で、帽子をかぶりなおしていれば、スモモをとっているかのように見える。瓜畑でかがんで靴の紐を直していれば、瓜を盗んでいると疑われる。人に誤解を与える疑わしいことはやめましょうということです。熊谷に「諸宗教・平和の会」というのがあって、キリスト教、仏教、神道などの代表者が集まって、それぞれのやり方で祈りを捧げるという会があります。宗教関係者が一堂に会するということは良いことのようですが、しかし周りの人から見れば、「宗教はみな同じだ。何を信じてもいいのだ」ということになり、キリストの十字架の意味がかすんでしまうという危険性があります。

私たちがクリスチャンとして生きて行くことの拠り所は教会生活です。日々の生活の中にあって、教会生活を最優先して行くことが大事です。あるるご婦人は商売をしてものすごく忙しい毎日でしたが、礼拝、祈り会などあらゆる集会に出席して恵まれていました。日曜日にそのご婦人を訪ねても家にいないので、教会に訪ねてくる人もいました。それほど、このご婦人が教会に行っていることは大勢の人々に知られていたのです。どんなに緊急の用件であっても「礼拝が終るまで待って下さい」というふうにして、教会生活を大事にしていました。

第三に、私たちは神様によって、男、女として創造され、命を与えられています。

神様によって、命を与えられ、この世に生まれ、生かされていることを感謝しましょう。キリストを信じる信仰を与えられ、霊的に生まれ変わり、神の子にされていることを感謝しましょう(ヨハネ1:12)。私たちの人生の目的はなんでしょうか・・・。命を与えて下さった神様に感謝し、キリストを信じて生きることです。



2、神様に従うため、男女の特性を認め、支え合って行こう。

また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである(9節)・・・ただ、主にあっては、男なしに女はないし、女なしには男はない。それは、女が男から出たように、男もまた女から生まれたからである。そして、すべてのものは神から出たのである(11-12節)

きょうの箇所を読むと、聖書は男性優位を説いているかのように早合点する人がいるかも知れませんが、使徒パウロは創造の秩序の中にいる男女のことを述べています。決して、男女の上下、優劣、尊卑についての見解ではありません。そこで男女の特性を認め、互いに支え合って行くことが大切なことです

第一に、男性、女性の優劣について述べていないということです。

パウロの手紙の中に、「女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない」(Ⅰテモテ2:12)ということが記されています。ところが他の手紙では、「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない」(ガラテヤ3:28)ということが言われています。これだけを読めば、パウロの教えは矛盾しています。全く正反対のことが述べられていて、私たちは迷います。実はここに深い神様の知恵があります。神様は男を男として造り、女を女として造られました。神様は男女に上下、優劣、尊卑の区別をつけていません。男には男の使命、女には女の使命を与えて下さいました。

ところが、神様の言葉が充分に知られなかった時は、歴史は男性優位で動いてきました。しかし神様の言葉である聖書を通して、神様の創造の秩序が理解され、男女は神様の前に人間として平等であることが分かってきました。男女お互いの特性を認め合って、受け入れ合って行こうというのが聖書の教えです。女性が頭にベールをかぶらないと、売春婦と間違えられるとするならば、頭にベールをかぶります。かぶったからと言って、その女性の価値が下がるわけではありません。男ばかりが教えている、女にもさせなさいと言って無理やりに割り込んで、きちんと教えられないとするならば、教会の益になりません(当時、女性の学ぶ機会はほとんどありませんでしたので、教える能力が養われなかったのです)。しかし、聖書の大原則は、全ての人がキリストにあって同じであり、皆が大切であり、人種、身分、階級、男女の区別なく、キリストを信じて神の子になっているという恵みです。

第二に、男女は互に助け合って行くものです。

9節を読んでみます。どのように女性が造られたかということは創世記2:18-22に詳しく記されています。神様は女性を男性のあばら骨から造ったのですが、その目的は女性を男性の助け手として造られたと言われています。それだけを読むと、女性が男性より下に造られたような印象を受けます。しかし、創世記にある「助け手」は、へブル語では神様について述べる時に使われるのと同じ語が使われています。これは助ける者は、助けられる人以上に力をもっていなければ出来ないということを表しています。女性が男性の助け手として造られたということは、女性は偉大な神様の力によって男性を助けるということです。

女性についてですが、読売新聞に「長寿革命」という特集記事が掲載され、「暮らしの流儀1-おばあさんは自由人―」という題がついていました(4月15日号)。その中で「現在、70-80歳代を先頭に、高齢女性が自由さと自分で生活を選ぶ力をもち始めた」という老年社会学の大学教授の話が出ていました。もう一人の大学教授は「女性は体力が落ちないよう維持する能力に優れ、コミニュケーシヨン能力も高い。働き、動くことで、日本女性は本来の強さを取り戻した」と言っています。そうした記事を読みながら、助け手という聖書の言葉を思い出したのです。男性は女性の助け手としての力によって支えられているということを考えました。

私の先輩牧師は「牧師であるあなたが先に天国に行きなさい。そして奥さんが後任牧師になると教会が大いに栄えます」と言います。他の先輩牧師は「お宅の主任牧師は元気ですか。主任牧師を大切にしなさい。そういう教会は伸びます」と言います。その牧師の持論では、教会の主任牧師は奥さんであるというのです。そうした言葉を噛み締めながら、私は牧会伝道にあたっていますが、先輩牧師の言うことは真実であることを思います。ある歌手が歌っているものの中に、夫が結婚した妻に向かって「俺より早く死んではならない」という歌詞があったのを聞いたことがあります。男性は女性の助けを必要としています。また女性も男性の助けを必要としています。

第三に、変らないものと変るものがあるということです。

当時の風習としての婦人のかぶりものですが、現代では教会で婦人がかぶりものをかぶっていることは殆んど見受けられません。風習は時と場所によって変わって行きます。ここで大切なことは風習ではありません。大切なことは聖書が教えている神様の御心を知るということです。

この個所から、男性も女性も神様の愛を受けて、信仰生活に励むことを教えられました。具体的には男性がキリストにしっかり従い、愛をもって女性を支えることです。女性は男性を支え、助け手として協力して行くことです。家庭で言えば、夫がキリストに率先して仕え、妻を愛し、子どもを愛して行くことです。妻も夫を愛し、良き助け手として夫を支えて行くということが大切です。

最後に若い皆さんに勧めます。結婚相手は神様を求める人であり、クリスチャンであることを祈って下さい。お金があっても、顔がよくても、クリスチャンでなければダメです。何故ならお金はすぐになくなり、顔はすぐに変ります。ノンクリスチャンの人とつきあうようになったら、自分がクリスチャンであることをすぐに言って下さい。それに対し無関心な人、拒否する人とは別れることです。主はあなたにもっとふさわしい人を備えて下さいます。誰かと一対一でつきあうようになったら、知らせて下さい(秘密厳守)。お祈りします。



まとめ

1、3,7,10節、神様の創造の秩序を心に留めましょう。

2、9,11-12節、神様に従うため、男女の特性を認め、支え合って行こう。



祈 り  天地の主である神様、十字架にのぼり、甦って下さったイエス・キリストによって救われ、神の家族である教会の一員であることを感謝します。私たちは男性として、女性として神様に愛されていることを感謝します。お互いの特性を認め、助け合って信仰の日々を前進させて下さい。ひとりひとりの祈りに最善の答を表して下さい。病気の方を癒し、仕事を求め、仕事の安定を求めている方々を支え、経済を祝福して下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:コリント注解―佐藤、福田、バークレー、榊原、モリス、黒崎、山谷、文語略註、米田。