聖霊の賜物-聖霊の現れは全体の益になるため- コリント第一12:1-11    主の2009.5.3礼拝



伝道していると様々な人に出会います。山奥の田舎家で、仏壇を背にして坐っている80歳あまりの女性にキリストの福音を伝えました。その方は、生まれて初めて聴くキリストの話に、最初は気乗りのしない様子でしたが、段々と真剣に十字架と復活の福音に耳を傾けてくれました。お話の最後に、「今、祈って、イエス・キリストを信じ、心にお迎えしませんか」と勧めると、その方は「信じます、イエス様を心にお迎えします」と答え、私の後について信仰の決断の祈りを捧げました。都会に住んでいる方ですが、周りにクリスチャンがいる、教会も近くにある、聖書のこともある程度は知っている、ところが、その方は「キリストを信じる」という決断をしません。この二つの実際の例のように、まったく初めての人がキリストを信じることがあります。一方では聖書のことも聞いている、周りにクリスチャンの人がいて、信じやすい環境の中にいるのに、なかなかキリストを信じようとしない人がいます。なぜ信じる、信じないという差が生じるのかという事ですが、それは心に語りかける聖霊の導きに素直に従うか、聖霊の導きを拒むかというところにあると考えられます。

本日はコリント第一12:1-11です。3節後半に、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」とあります。聖霊はキリストを信じるように私たちを導きます。7節に「各自が御霊の現れを賜っているのは、全体の益になるためである」とあり、8-10節に御霊の現れである九つの聖霊の賜物が列挙されています。聖霊はキリストを信じる者の集まりである教会に一致をもたらすために、私たちの心に愛の実を結ばせて下さいます(ガラテヤ5:22)。また教会全体に神様の恵みが満ちあふれ、伝道の働きが推進されるために各自に聖霊の賜物を分け与えてくれます。(聖霊は聖霊、霊、御霊と表されている)。聖霊は常にキリストを指し示し(ヨハネ15:26)、私たちを真理の源であるキリストに導き(ヨハネ16:13)、キリストを伝える伝道の力を与えて下さいます(使徒1:8)。

詩篇の中で、ダビデは「あなたはわが神です。恵み深い、みたまをもってわたしを平らかな道に導いてください」(詩篇143:10後半)と祈っています。私たちも、クリスチャン生活に恵みと力をもたらす聖霊を求め、聖霊に満たされるように祈りましょう。教会がキリスト中心の愛と喜びと祈りに溢れ、キリストを伝える群れとして前進するように祈りましょう。



内容区分

1、聖霊は、「イエスは主である」と告白させる真理の霊である。12:1-3

2、聖霊は、教会全体に益をもたらすキリストの霊である。12:4-11

資料問題

1節「霊の賜物」、使徒パウロは、コリント教会から寄せられた聖霊に関する質問の答を12章―14章に記している。12:1-11霊の賜物の識別の基準、多様性、その源、12:12-31a霊の賜物は教会全体の益になるように用いられる、12:31b-14:1a霊の賜物に対する愛の優越性、14:1b-40預言、異言の賜物に関する教え。

2節「物の言えない偶像」、偽りの神は生命のないことを表す旧約的表現(詩篇115:5、ハバクク2:18-19)。

3節「イエスは主である」、聖霊の働きは常に「イエスは主である」と告白させる(ピリピ2:11、ロマ1:4)。

7節「御霊の現われ」、知恵、知識、信仰、いやし、力あるわざ、預言、霊を見分ける力、種々の異言、異言を解く力の九つの賜物が列挙されている((8-10節)。これらはすべて一つの同じ御霊による働きである(11節)。




1、聖霊は、「イエスは主である」と告白させる真理の霊である。12:1-3

そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。(3節)

コリント教会の人々は、聖霊についての正しい教えを使徒パウロに質問して来ました。その背景には、コリント教会の中に、「自分は霊的に優れている」と自慢する人々がいたからです。彼らは自分の霊的体験を誇り、霊的現象や知識を強調し、いつの間にかキリストから離れ、教会の一致を妨げるようになっていました。そこで、パウロは、12:1-3で聖霊の識別基準を示しています。

4-11節に、聖霊は特定の個人にだけ与えられるものではなく、教会全体の益のために与えられる事を教えています。12-31節で、体の譬をもって、聖霊に満たされ、互いに支え合う教会の姿を示しています。そして13章で、全てに優る愛の優越性についての教えが述べられています。

本日の個所に入る前に、聖霊についてのキリストの御言葉を読んでみます。キリストが十字架にかかる前の晩、12弟子と最後の晩餐の席で語られた聖霊に関する大事な教えです。

「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである」。(ヨハネ14:16-17)

*パウロは使徒として、キリストの教えを受け継ぎ、聖霊についての教えを述べています。

第一に、聖霊とイエス・キリストとの密接なつながりです。

この個所に直接述べられていませんが、キリストは聖霊によってマリヤの胎内に宿り、地上に誕

生されました(マタイ1:18-25)。年およそ30歳の時から、聖霊に満たされて伝道を開始しました(ルカ3:23)。「神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また、悪魔に押さえつけられている人々をことごとく癒しながら、巡回されました」(使徒10:28)と言われているように、キリストは神の国の福音を宣べ伝え、病人を癒し、悪霊につかれている者に解放を与え、最後に十字架によって救いの道を開いて下さいました。復活されたキリストは天に帰って行かれましたが、ご自分の代わりに聖霊を送って下さいました(使徒2章)。キリスト昇天後、エルサレムの二階座敷で120名ほどの弟子達が祈っている時、ペンテコステの日に聖霊が注がれ、3000人の人々が救われて洗礼を受け、教会が誕生し、今や教会は全世界に拡大しています。私たちも聖霊によって「イエスは主である」と告白し、洗礼を受けて教会につながり、聖霊が私たちを助け、導き、祈りを与え、信仰の道を歩も者であることを感謝します。

第二に、私たちは、聖霊を知らず、偶像に迷って、滅びに向かっていた者でした。(12:2)

キリストを知る前、私たちはまことの神様から遠く離れていた者でした。迷信を信じ、偶像を拝んでいました。「物の言えない偶像」と言われているように、偶像には生命がありませんから、私たちが呼んでも答えず、心に平安を受けることはできず、私たちはサタンの支配の下にあって罪に縛られていました。私たちは自分の罪を背負ったまま、肉の欲に支配され、死んで神様の審(さば)きを受け、永遠の滅びに向かっている哀れな者でした(エペソ2:1-3参照)。心の迷いを取り去る聖霊が来るまで、私たちは深い闇の中にいた罪人であったのです。

第三に、私たちは、聖霊によって「イエスは主である」という信仰告白をし、救われました。(12:3)

ノンクリスチャンは、十字架を表面的に見て、「キリストは十字架にかけられ、神様から見捨てられた者であり、呪われた者である」と言います。私たちが聖書を通して知ることは、キリストの十字架の死の意味です。「罪の支払う報酬は死である」(ロマ6:23前半)と言われているように、神様に背いている罪人である人間は、人生の終わりに罪という借金を死で支払いますが、それでは足りず、神様から切り離されて永遠の滅びである地獄へ落とされてしまうのです。ところが、驚くべきことに、「神の賜物はキリスト・イエスにおける永遠の命である」(ロマ6:23後半)という神様の愛が告げられています。罪のない神の独り子イエス・キリストが私たちの罪の身代りになって十字架で死んで、陰府(よみ)にまで降り、神様から切り離されるということを体験され、罪の救いを成し遂げて下さったのです。キリストは、十字架で死にましたが、三日後に死を打ち破って復活され、今も、そして永遠に生きている救主です(Ⅰコリント15:3-4)。私たちは聖霊に導かれ、「イエスは主である」という信仰の告白をし、救われて神の子になっています。キリストを告白させる霊が聖霊です。キリストを告白しない霊は悪霊であり、反キリストの霊です。これが聖霊の識別基準です。(Ⅰヨハネ4:1-3参照)

S牧師の証です。S師の恩師は人間的に才能が豊かであり魅力ある紳士でした。大学時代に、恩師がS師に「君は牧師になりたいそうだが、違う分野に進みなさい。君は毎週、人々の前で、『聖書はこう述べている。主はこう言われている』という牧師の仕事ではなく、もっと世界平和の役に立つような仕事をしたほうがいい」。そして、「キリストは神から見捨てられて死んだではないか」と言いました。それは「イエスは呪われよ」と言っているのと同じ意味です。恩師は亡くなりましたが、信仰のない恩師の奥さんは「主人はいない」というばかりで、悲しみのどん底にいます。キリストを信じていないので、「主人は死んだが、天国に移された」という希望がありません。あの人は理性的で、立派な人だと評価されても、「イエスは主である」ということを退け、「イエスは呪われよ」というようなことを口にするならば、深い悲しみを抱えたままで希望のない者になってしまうのです。

私たちは聖霊によって「イエスは主である」という告白を与えられていることを感謝します。感謝と共に、私たちの周りの全ての方々が、聖霊の導きを素直に受け入れて「イエスは主である」という告白に導かれるように、キリストの十字架を伝えて行きましょう。祈って行きましょう。



2、聖霊は、教会全体に益をもたらすキリストの霊である。12:4-11

各自が御霊の現われを賜っているのは、全体の益になるためである(7節)、すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである(11節)。

私たちは聖霊によって「イエスは主である」という信仰告白に導かれ、教会の一員になって信仰生活をしています。4-6節に、教会には様々な霊的な賜物、また務め、働きがありますが、それらを与え、働きをなさるのは、すべて同じ神様であると教えられています。教会に様々な御霊の現れがあるのは、全体の益になるためであると言われています。教会全体に益をもたらす聖霊について見て参ります。

第一に、聖霊は教会全体を祝福します。12:7

今日の社会は競争社会です。学校では同じ教科書を使い、中間テスト、期末テストがあり、得点によって頭がいい、悪いと判断されます。ペーパーのみで人間を測る知育偏重になって、人間を全体的に見て、優れたところを認めて行くということが欠けています。教会には様々な人が集まります。教会で必要なことはキリストを信じることです。キリストによって救われているならば、私たちはキリストのために何かをすることができます。それは全体の益になるためであると言われています。そこで、12節以下には教会を体に譬えて、体全体の全ての部分が必要であることが教えられています(来週とり上げます)。

7節で「全体の益になるため」と言われています。多くの人が年老いてから淋しい人生であると嘆くのは、社会全体のために生きるという視点がなかったからです。家族のためだけに生きても、家族である子ども達は独立して行きます。趣味に生きても、それは自分のためだけです。人は分け与える人生を生きなければ、日々が虚しいのです。クリスチャンは聖霊を受けて、教会の中で全体の益になるように用いられて行くので、喜びを感じます。また人のために祈り、心を配って仕えて行くことによって、愛を分かち合える喜びを体験し、それが生きる力になって行きます。世の中で、多くの人が年老いてからボランティヤ活動を始めるのは、分け与える喜びを得たいと思うからです。クリスチャンは、聖霊を受けて、全体の益に役立つ者とされ、分け与える恵みを得ていることを感謝します。

第二に、聖霊の賜物について見て参りましょう。12:8-10

このコリント書では九つの聖霊の賜物が記されています。

知恵の言葉・・・神の御心を知る、特に神の御心と救いの恵みを人々に伝えて行くこと。

知識の言葉・・・神の御心(知恵)を生活の中に実践し、信仰を向上させて行く知識。

信仰・・・困難に打ち勝ち、病気や貧しさの中にあっても、神様に信頼して行く信仰。獅子の穴に投げ込まれが神様を信頼したダニエルの信仰(ダニエル6:17,23、へブル11:33)。

いやし・・・病気を癒す力。霊、心、体の全体がバランスを保って行くこと。

力あるわざ・・・偉大な神の力が表されること。パウロとエルマとの対決(使徒13:11-12)。

預言・・・将来のことではなく、神の思い、心、意志、意図を語ること。

霊を見分ける力・・・霊的に正しいものと偽物とを見分けること。本物の霊は常にキリストを表し、キリスト中心である。

異言・・・超自然的に神様に語ること。目的は神様を崇めること。コルネリオの家で「異言を語って神をさんびしているのを聞いたからである」と言われている(使徒10:46)。

異言を解く力・・・異言を解釈する力。異言を別の人が通訳すること。

ここに記されている賜物について確かめることが大切です。それが神の聖霊の賜物であるならば、次のことが分かります。

聖霊に満たされた人は、キリストに対してますます忠実になります(ヨハネ16:14)。

聖霊に満たされた人は、常に教会中心で、教会の一致に心を用います(Ⅰコリント3:16-17)。

聖霊に満たされた人は、謙り、人の悪口を言わないで、平和をもたらします(エペソ4:25-32)。

第三に、聖霊は思いのままに働かれ、キリストの教会を導かれます。12:11

聖霊は、教会がキリスト中心の群れになるように導いて下さいます。聖霊は常にキリストに対する信仰へと私たちを導きます。教会が力強く進んで行くために、コリント書には九つの聖霊の賜物が記されていました。聖霊を求めて祈り、賜物を与えられたならば、それを常に全体の益になるために用いられて行くように祈って下さい。

なぜ聖霊のことが記されているのでしょうか。それはコリント教会に人間中心の人がいて、「私は霊に満たされている特別な者である」と高ぶっていたからです。例えば病気を癒すことが出来たとしたら、それは聖霊の働きであり、キリストの十字架による救いと癒しがあったからです。いつでも人間の名前は消えて、癒し主であるキリストの名前のみが崇められて行くことが大切です。聖霊が豊かに働いている教会では常にキリストの恵みがほめ讃えられて行きます。聖霊に導かれて、私たちの教会が「キリストを喜び、キリストを伝える教会」となるように祈って行きましょう。迎えた5月の月、聖霊の助けによってキリストを信じる者が多く起こされて行くように祈って行きましょう。



まとめ

1、3節、聖霊は、「イエスは主である」と告白させます。聖霊は真理の霊だからです。聖霊は、私たちにイエス・キリストを救主、主として告白させ、救いに導いて下さいます。聖霊の働きによって家族、友人など多くの人々が救われるように祈って下さい。

2、7節、11節、聖霊は、教会全体に益をもたらすキリストの霊です。聖霊は常に全体の益になるように働かれ、キリストの栄光を表します。



祈 り

創造主である神様、真理の霊である聖霊を送って下さって、イエス・キリストを信じるように導いて下さったことを感謝します。私たちに「イエスは主である」という告白を与え、神の子にして下さった聖霊の恵みをほめ讃えます。今週も聖霊に導かれて、常にキリストに従う信仰の道を歩ませて下さい。私たちに様々な霊の賜物を与えて下さっていることを感謝し、いつも全体の益となるために用いられて行くように謙りを与えて下さい。休みの続く一週間になりますが、日々聖書を読み、祈って行くように導いて下さい。4日から6日まで東京で行なわれる教団創立60周年記念宣教大会を祝福し、参加する方々の霊を恵んで下さい。来週は礼拝後に野外親睦会がありますが主にある交わりが祝福されるように導いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:コリント注解―黒崎、佐藤、フランシスコ会、福田、米田、モリス、榊原、文語略解、LAB。「聖霊論・弓山喜代馬・AG出版部」