まことの教会の姿―互いにいたわり合いつつー 第一コリント12:12-31前半   主の2009.5.10礼拝



私の右目の一部は血管が切れています。血が余分な所に流れて視力障害を起こさないように、その部分をレーザー治療で焼いて、血液の流れが正常になるように処置してもらいました。だいぶ良くなっていますが、しかし右目だけで見ると文字の一部がぼやけてしまい、読むことは困難です。さいわい左目が大丈夫ですので、右と左の両眼で見ると文字を読むことができます。(聖書を読めなくなったら大変ですので、主に癒しを祈っています) 右目の機能が低下したことを通して知ったことは、体の器官は互いに助け合い、いたわり合っているということです。また、目は見ること、耳は聞くことというように、それぞれの各器官に固有の働きがあり、それが有機的につながり、一致を保ちながら、体全体が活動していることが分かります。

本日はコリント第一12:12-31前半です。パウロは、この個所で教会を私たちのからだに例えています。「からだは一つの肢体(器官、部分)だけではなく、多くのものからできている」(14節)、「神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである」(18節)と言われています。体は一つですが、肢体すなわち体の各器官、各部分はたくさんあり、体の各器官はそれぞれの役割に応じて働きます。それは「からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体がいたわり合うためなのである」(25節)と言われているように互いに助け合うためです。私の右目は一部血管が切れていて、右目だけでは読むことが困難ですが、しかし左目の助けによって、文字を読むことができます。まさに、「それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体がいたわり合うためなのである」(26節)という御言葉のとおりです。

私たちはキリストの救いを受け、キリストの体である教会の一員になって信仰生活をしています。頭(かしら)はキリストであり、私たちは頭につながっている各器官、各部分です。頭であるキリストから恵みをいただいて、互いに祈り合い、助け合い、キリスト中心の教会として成長して行くように祈りましょう。頭であるキリストから愛をいただいて、互いにいたわり合う教会として成長して行くように祈りましょう。今朝も主の御言葉に耳を傾け、祈って、新しい一週間の出発をいたしましょう。



内容区分

1、教会はキリストの体であり、多くの器官が調和を保ち、互いにいたわり合うことが大切である。12:12-26

2、教会はキリストの体であり、多種多様な霊の賜物を互いに生かし合って行く所である。12:27-31前半

資料問題

12-26節は種々異なる器官が集まって全体をつくりあげている人体の例を用いて(ロマ12:4,5、エペソ4:16,5:30、コロサイ2:19)、キリストの教会では種々の霊の賜物が相互依存の関係にあることを教えている。全てのクリスチャンは唯一のキリストの各器官(部分)であり(12節)、聖霊はクリスチャンをキリストの体である教会に組み入れ、キリストと一致する者の生命の源となっている(13節を見よ)。13節「一つの御霊を飲んだ」、ヨハネ7:37-39を見よ。19節「肢体は多くあるが、からだは一つなのである」、クリスチャンが相互に優越感や劣等感をもつことについて14-20節でとりあげ、そのようなことは全く理由がないことを示している。21-26節では他人に対する優越感の無意味であることを教えている。24節「神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになった」、自分の頭のてっぺんから足の爪先まで見るならば、素晴しい調和があることがわかる。25-26節、頭なるキリストに結びついて、互いにいたわり合い、また悩みを共有して、支え合って行くのである。28節、教会における種々の賜物による役割(本文中2、の区分で説明する)。



1、教会はキリストの体であり、多くの器官が調和を保ち、互いにいたわり合うことが大切である。12:12-26

からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である(12節)、神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになった。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互いにいたわり合うためなのである(24-25節)。

私たちは聖霊によって「イエスは主である」(3節)という告白を与えられ、教会に属して信仰生活を継続しています。聖霊は信仰告白を与えると同時に、クリスチャンに霊的賜物を与えて教会の働きを祝福して下さいます。一人一人が異なった聖霊の賜物を受けますが、それは「全体の益になるためである」(7節)と言われています。12:12-26までを通して、次の事柄を心に留めて下さい。

第一に、肢体(各器官、部分)が体につながって生きるように、私たちはキリストにつながって生かされています。

パウロは、クリスチャン達の集まりである教会を、私たちの体に例えています。目、耳、手、足と、それぞれの器官は別々のものです。別々のものですが、それらは自分だけで独立して存在する事は出来ません。例えば、目が体から離れて、「自分は何でも見えるぞ」と大見得を切っていくら目を大きく見開いても、何にも見ることができません。耳が、「私たち両耳は独立します」と宣言して体を離れれば、その瞬間から聞くことが出来なくなります。各器官は体につながっていることによって、体全体にある生命の力を受け、頭から来る指令によって、目は物を見ることができ、耳は音や話し声を聞き分けることができます。

私たちはキリストの救いを受けて霊的に生まれ変わり、教会につながり、信仰生活をしています。キリストの救いを受けましたが、「自分は家で聖書を読んで一人で礼拝をする、時々テレビ礼拝をすれば良い」という人がいれば、その信仰は間違いなく衰え、霊的に涸れ果てて、生命が無くなります。

*キリストは言われました、

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」。(ヨハネ15:5)。

信仰生活の秘訣は一生涯を通じてキリストにつながること、具体的にはキリストの教会につながって行くことです。皆さん、信仰歴は何年でしょうか・・・。実際の信仰歴は集会歴です。きょうが今年19回目の聖日礼拝です。水曜祈り会もあります。早天祈祷会もあります。ファミリーもあります。その他いろいろな集まりがあります。礼拝を中心にして、一回一回の集会を大切にして、互いに祈り合って、集会歴を積み重ねて、キリストにしっかりとつながる教会生活をして行くように祈って下さい。

第二に、体に種々の肢体(器官)があるように、キリストの教会には様々な人々が集まっています。

教会には様々な人々が集っています。性別、国籍、職業、年齢などの違う人々が、キリストを信じる信仰によって結ばれている所が教会です。キリストに導く働きは聖霊の尊い働きです。一つの御霊によって、多種多様な人々が、「イエスは主である」という信仰告白を与えられました。「イエスは主である、キリストである」と告白した者は、「一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受ける」(13節)とあるように、「洗礼式」という礼典を通して教会に加えられています。

イギリスのメソジスト教会に出席した時に、そこはイギリス人が大部分の教会でしたが、私たちを快く礼拝に受け入れてくれ、家内が「救主イエスと共に行く身は」の讃美を日本語、英語で歌った時に、イギリス人の聴衆が身を乗り出して耳を傾けて聞いてくれました。国籍、言葉は違ってもキリストを讃える心は一つであるということを実感しました。ノルウエーでは日曜日の午後、ノルウエー人が「そばの会があります」と日本人に宣伝して、オスロにいる日本人を自分の家に招いて集会をしました。ノルウエー人がそばを打ち、日本人がそれを食べるという和やかな集まりでした。そこで私がメッセージを伝えましたが、それぞれが真剣に聞いていました。

キリストを信じ、キリストを求め、様々な人が集まる所が教会です。自分に与えられた霊的な賜物、またタラントを用いて、キリストを伝え、また全てのことが教会全体の益になるようにして行くことが大切です。

第三に、体の中で、弱く見える肢体(器官)が必要であり、大事なのです。

ご自分の体を頭のてっぺんから足の爪先までご覧になり、よく確かめて下さい。体の全器官が必要であり、全てが有機的につながっています。体の器官でいらないものは何一つありません。「弱肉強食」という言葉があり、この世は弱い者が疎外され、捨てられて行きます。例えば、多くの人が仕事を失い、家を失い、気の毒な状態に追い込まれています。一方では経済の仕組みを破綻させた人々が巨額の報酬を独り占めにして、大きな社会問題になりました。パウロは、訴えています、「そうではなく、むしろ、からだのうちで、他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする」(22-23節)。なぜでしょうか・・・それは「からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互いにいたわり合うためなのである」(25節)という一句に言い表されています。ここに100名以上の方々がいます。もし悩みがあれば、皆が重荷を担い合ってくれるので、それは百分の一になります。喜びがあれば、皆で喜んでくれるので百倍の喜びになります(26節参照)。

ところで、どんな教会を目指すのか・・・一つの姿として、ホッとする教会でありたいと願っています。誰もが「この教会に来てホッとする。気持が安らぐ」という教会として成長して行くように祈って下さい。また、「この教会に来て心が燃える、温かくなる」という聖霊の恵みによって心がホットに燃えて、キリストを讃える教会として成長し続けて行くように祈って下さい。



2、教会はキリストの体であり、多種多様な霊の賜物を互いに生かし合って行く所である。12:27-31前半

あなたがたはキリストのからだであり、ひとりひとりはその肢体である(27節)、だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい(31節前半)

12-27-31前半を通して教えられることを心に留めて下さい。

第一に、霊の賜物は人間に優劣をつけません。

パウロは、27節で、クリスチャンはキリストのからだの一部を構成する者であることを述べています。そして、28節に、霊の賜物を受けて、キリストの教会の中に様々な働きがあることを述べています。この霊の賜物は地位、身分ではなく、キリストの体を動かして行く機能的な働きのことです。霊の賜物には預言、癒し、奇蹟のように超自然的なものがあります。また、もともと人に備わっている能力が、信仰によってきよめられ、能力が拡大されたものもあります(例えば補助者と言われる、助ける者・援助する者)。

私たちそれぞれに何らかの霊の賜物が与えられていますが、それによって人間の優劣が決まることはありません。癒しのように人目につくものもあります。私たちは癒しの賜物を与えられている人を尊敬しますが、しかし崇めてはならないのです。癒す人は聖霊によって用いられている器であり、真の癒し主は十字架にかかって下さったキリストです。癒しの業が常にキリストを表すものであることが大切です。

私が通っていた教会の牧師は謙遜な方でした。「Sさんには癒しの賜物があるようだ」と言い、祈祷会の時に、癒しを求める人がいると、Sさんに祈ってもらっていました。Sさんという人も謙虚な人で、自分の祈りを通して癒された人がいても、「ただ主に感謝します。主の十字架の恵みです」と全ての栄光を主に帰していました。人間が崇められたら、そこで終わりです。霊の賜物は恵みとして与えられ、それはいつもキリストを崇め、教会全体の益になるためなのです。

第二に、霊の賜物、霊の働きが述べられています。

28節に具体的な霊の賜物、働きについての教えがあります。主なる神様は教会の中に様々な職務を与えています。



使徒   復活のキリストに出会い、キリストの教えを忠実に伝えている人々。復活のキリストに出会ったことが使徒の条件になっているので、現代には使徒はいません。しかし、使徒達の教えは新約聖書にまとめられ、キリスト教会の土台になっています。

預言者   祈りを通して、神様の思い、御心などを深く知り、それを人々に伝える者です。現代では聖書を通して神様の御心が完全に啓示されていることを感謝します。預言が行きすぎると、人の個人的な将来を教えるという占いのようなものになり、それは聖書の教えから外れています。

教師   使徒たちの宣教によって回心した人々を、信仰的に養い育てて行く人々のことです。現在は聖書があるので、聖書を充分に学び、聖書の教えを人々に伝える役目をする人です。エペソの手紙では「ある人を牧師、教師としてお立てになった」(エペソ4:11)と牧師、教師を区別していないので、現代の牧師の働きをする人と考えても良いと思います。

力あるわざを行う者(奇蹟を行う者)   奇蹟を行う力を与えられている者のこと。目に見える力ある業である奇蹟以上に素晴しいことは、キリストによって救われるという霊の生まれ変わりです。ここに多くの人々がいますが、牧師として私は多くの人々の救いの瞬間に立ち会ってきました。聖書の話を何となく聞いていた人が、突然に真剣となり、「今、キリストを信じたいのです」と告白し、キリストを受け入れた人もいます。小さい時からの罪を一つ一つ告白して、素直にイエス様を信じ、故郷で信仰生活を続けている人もいます。オイオイ泣きながら、心からイエス様を受け入れた人います。それは聖霊の働きによる心の生まれ変わりの尊い瞬間です。

癒しの賜物を持つ者   病気を癒す力のこと。使徒ヨハネの祈りは、霊の祝福、生活全般の祝福、そして健康であるということです(ヨハネ第三の手紙2節)。

補助者、管理者   補助とは、人に代わって荷を負うことを表す言葉で、弱い人を助ける務めを表します(使徒20:35、ロマ8:26)。この事から、補助者とは、人を助ける者で、金銭的な献げ物である献金をもって教会を支える人々のことを指していて、ロマ12:8では「慈善をする者」と言われています。

*ところで、一生涯経済的に恵まれる秘訣は十分の一献金です。私は16歳の時にアルバイトの十分の一献金として、当時のお金で450円を献げて以来、十分の一献金を続けてこられたことを感謝しています。今度、国の政策で定額給付金が夫婦二人に4万円出るということで振込み通知をもらったので、昨日4000円を献金としてさっそく感謝して献金袋に入れました。

管理者   船のかじ取り、船長役のこと(使徒27:11、黙示録18:17)です。ここでは、管理者とは様々な教会のものを保全管理する人のことです。

種々の異言を語る者   異言は聖霊が語らせる祈りの言葉であり、神を讃美する言葉です。



第三に、パウロは31節前半で、もっと大きな賜物を得るようにと勧めています。

パウロは霊の賜物、働きについて述べつつ、最大の賜物があるということを人々に示しています。来週になりますが、パウロは、31節後半によれば、「最もすぐれた道をあなたがたに示そう」という前置きの下に、「愛」についての教えを声高らかに伝えています。



まとめ

1、12:12,24-25、教会はキリストの体であり、その器官である私たちが調和を保ち、互いにいたわり合うことが大切です。キリストの教会につながること、様々な人が集まっていることを受け入れて調和を保ち、弱い者に愛の目を注ぎ、愛の手を差し伸べて行くことが大切です。

2、12:27、31前半、教会はキリストの体であり、多種多様な霊の賜物を互いに生かし合って行く所です。パウロは最大の賜物を示そうと言っています(来週に取り上げます)。

 

祈 り

天地の主である神様、私たちがキリストの救いに与るように、聖霊が導いて下さったことを感謝します。私たちは教会に属して信仰生活をしています。教会につながり続けて、天国に入るまで信仰の道を歩ませて下さい。私たちに聖霊を満たし、聖霊の賜物を豊かに与えて下さい。知恵、知識の言葉、信仰、癒し、力ある奇跡のわざ、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解く力を求めます。慈善のために喜んで献金をして、教会の働きを推進し、ホームレスの人々などを助けることができるように導いてください、また管理する力を与えて下さい。

5月の間にキリストを伝道する機会を与えて下さい。救われて教会に加わる者を次々に起して下さい。病気の方々を速やかに癒して下さい。仕事を求めている全ての方々に平安を与え、ふさわしい仕事へと導いて下さることを信じます。午後からの野外親睦会、ゴスペル、夜の礼拝に至るまで、全てを力強い聖霊によって導いて下さい。

今週も恵み深い御霊に導かれて、日々聖書を読み、祈りに励み、喜び、祈り、感謝に溢れ、キリストに従って行くように導いて下さい。

私たちの愛する主イエス・キリストの尊い御名によってお祈りします、アーメン。





参考文献

コリント注解―佐藤、福田、榊原、黒崎、フランシスコ会、モリス、LAB、塚本、山谷、文語略註。