『キリストを愛し、キリストを喜ぼう』ヨハネ21:15-17
熊谷福音キリスト教会伝道師 荻野倫夫 2009・5・24
導入
渡辺先生ご夫妻、ロンドン日本人教会でメッセージ。お祈りください。
皆様はキリスト教を、一言で言うと、何だと思うだろうか。友達に「あなた教会に言っているのだってね。キリスト教を一言で言うと何?」そう聞かれたら何と答えるだろうか。…私はキリスト教とは「イエス・キリスト」だと思う。私たちが信仰に入ったきっかけは何だろうか。イエス・キリストを救い主、主と信じだからである。ではクリスチャンのゴールは何だろうか。それはイエス・キリストのようになることである。つまりキリスト教は、キリストに始まり、キリストに終わる。そういう意味で、キリスト教は一言で言うならば、「イエス・キリスト」だと思う。
よって、今日の聖句は私たち信仰者にとって、基本にして総仕上げの聖句ということができる。「あなたはわたしを愛するか」キリストのこの質問ほど、クリスチャンにとって重要な問いはないと言えるかもしれない。
今日の聖書箇所で、キリストはペテロに、「わたしを愛するか」と三度質問している。ではこの質問は、ペテロだけに向けられたものだろうか。この質問は私たちに向けられている、と捉えたい。聖書はいつも、私の参加を必要としている。私自身が、この言葉は自分に語りかけられている、と捉えることによって、初めて聖書が聖書として完成する。皆様にぜひ、キリストの言葉に自分の名前を当てはめて読んでほしい。「荻野倫夫よ、わたしを愛するか」。
今日読んだ聖書箇所は、十字架にかかって一度死に、復活したキリストが、弟子のペテロに出会った場面。しかも、ペテロは弟子でありながら、十字架にかかる直前のイエスについて、「私はイエスと言う人のことなど知らない」と三度否定した。三度の否定の後、ペテロは男泣きに泣いたことを福音書は記す。このペテロの三度の裏切りに対応して、今日の聖書箇所でイエスは、三度ペテロに質問したのだろう。いわばこれはペテロが立ち直るためのカウンセリングである。キリストのことを激しく呪ってまで否定したペテロは、自分のことをキリストの弟子として失格と思っていたかもしれない。だがキリストはペテロが三度、「私はあなたを愛します」と心から誠実に告白するよう導き、三度の失敗を帳消しにしてやっている。ここで文面上は、ペテロのキリストに対する愛が語られているが、行間には、キリストのペテロに対する深い愛が、満ちている。
今日この箇所から私たちは、「キリストを愛し、キリストを喜ぼう」と題して、メッセージに耳を傾けていきたい。
I. キリストを感情、知性、意志で愛そう
第一に私たちは、感情、知性、意志、私の内なるすべてのものをもって、キリストを愛する、ということを学びたい。私たちの興味を引くのは、キリストが三度「わたしを愛するか」と尋ねたことである。三度尋ねることによって、この質問が限りない重みをもって伝わってくる。三度尋ねることによって、心の奥深くまで探る、貫通力のある質問となっている。よって私たちの心を感情、知性、意志という三要素に分けて考え、それぞれの領域におけるキリストへの愛をしばし考えてみたい。
分かりやすく理解するために、卑近な例だが、私のチャチャ先生への愛を取り上げたい。実際私のチャチャ先生への愛を考えると、感情、知性、意志決断の三段階を経ていると思う。まず感情。情から惹かれる段階。かわいいとか、美人とか、いわゆる心のドキドキ感である。私のチャチャ先生への愛は、感情から始まった。だがこれだけでは、伴侶への愛として完全ではない。次に知性の愛。熟慮の上、彼女を愛する段階である。彼女に感情的に惹かれていたとしても、もし彼女がクリスチャンでなかったら、付き合い始めていなかったかもしれない。彼女は私と同じく献身者だった。また弱い人への愛を、伝道牧会の中心に据えたい、という価値観も共有していた。これらのことは話し合い、理解しあい、良く考えた上での、いわば知性の愛と言える。だがこれだけではまだ、伴侶への愛とはいえない。そして、意志決断の愛である。結婚式の式文でどのようなことが言われるか。「あなたは彼女をフィーリングで愛するか」そうは言われない。あるいは「あなたは彼女との結婚があなたの将来に有利であるから、愛するか」そうとも聞かれない。むしろ「健やかな時も病む時も、死が二人を分かつまで愛すると誓うか」と聞かれ、「はい」と答えた。いわば、計算を度外視して、引き返す可能性のない意志決断として、愛を誓う。この段階に至って、チャチャ先生を伴侶として愛していると言える。
キリストへの愛にも、このような感情、知性、意志の要素があるのではないだろうか。まず感情。私たちは神を礼拝するとき、思わず涙することがある。キリストの愛に触れられ、感激の涙に目が曇る、そのような体験をしたことがあるだろう。感情の伴わない愛はない。だから感情は、愛の大事な一要素と言える。もし私たちが、キリストに対して心があまり動かない、そのような状態になっていたら、やや危険である。もしかしたら、私たちの方で心を閉ざしているのが原因かもしれない。キリストに心を開いて、心と心における交流をもつようにすることをお勧めする。
次に、知性の愛。キリストを愛しているが、聖書を知らない、聖書を読まない、ということはあり得ない。キリストを愛しているなら、キリストをもっと知ろう、聖書を読もう。「私は私のボーイフレンドのことが大好きですが、彼がどういう人か全く知りたいと思いません。」このようなことはあり得ない。愛すれば愛するほど、その人のことをもっと知りたくなるものである。私たちが聖書を読まないのは何故だろう。私たちは聖書を読むのは面倒くさくて、読まないのが楽と考えているのだろうか。だが聖書を読まないのは楽なのでない。聖書を読まない、キリストについて知ろうとしないという事は、愛を面倒くさがっている事である。結果、私自身の心が渇く。私たちの心はなぜ乾いているのだろうか。私たち自身が、面倒くさいと思って、聖書を読まず、祈らないことによって、自分自身の心に飢え渇き、満たされない思いをもたらしているのではないか。聖書を読んで、キリストについて学ぼう。祈りを通して、キリストを人格的に知ろう。キリストを知ることを切に求めよう。
そして、意志決断の愛。気が向いた時だけ、自分に都合の良い時だけ愛する、これは意志決断の愛とは言えない。気が向いても向かなくても、また自分にとって損でも得でも、キリストへの愛を貫く。これが意志決断の愛である。別の表現で言うと、付き合っているだけのカップルと結婚したカップルの違いである。ガールフレンドの時は、気が向かないから今日は会いたくない、ということがあるかも知れない。まだ結婚の永遠の愛を誓ったわけではないので、責任がない。だから許される。だが結婚してしまったらそうはいかない。いやでもひとつ屋根の下に一緒に住むことになる。つまり気が向こうと向くまいと、自分に損であっても得であっても常に愛するのが結婚したカップルである。「昨日は気が向いたので夫だったが、今日は気が向かないので夫をやめる」ということはあり得ない。意志決断の愛とは、引き返すことをしない愛である。私たちはどれほど、キリストへの愛に忠実だろうか。私たちはどれだけ、キリストへの愛を断固たる決意の下に貫いているだろうか。私たちはどれだけキリストの礼拝出席に命をかけているだろうか。どれだけ私たちは、礼拝出席のために祈り、涙し、出席できなかったことを限りない損失と考え、悔いているだろうか。私たちは余りに簡単に、「前回は都合が悪いので礼拝に行けません。」「今回は都合がついたので行きます。」となってはいないだろうか。これが意志決断の愛といえるだろうか。私の内には、キリストへの忠実な愛が確固たるものとして根付いているだろうか。そのことが問われる今日の聖句である。
I
I. 他の誰でもない「この私」の愛で、キリストを愛そう
第二に、私たちは他の誰でもなく、「この私の」愛でキリストを愛したい。
ある人は、キリストは「わたしを愛するか」と尋ねるが、自分には愛はない、果たして愛せるかどうか、愛を貫くことができるかどうか自信がない、というかも知れない。確かに、自分を誠実に見詰めた場合、そのように言わざるを得ないかもしれない。だが私たちはこの聖句を次のように捉えるべきではないだろうか。「他の誰でもない、あなた自身の愛で愛せよ」と。つまりペテロにとっては、ヨハネがどのようにキリストを愛するかはさしあたって関係ない。ペテロはペテロらしくキリストを愛する、そのことを求められている、と。このことを私にあてはめるなら、私は私のもっている愛でキリストを愛する。他の人からの借り物でなく、この私の内なるものをもってキリストを愛する、そう迫られているのではないだろうか。
例えば、私はあるいは、チャチャ先生ほど情感豊かにキリストを愛することはできないかもしれない。ちょっと冷め気味かもしれない。だが私にも感情は確かにある。全くないと言うことはない。だから私の持っている感情で良い。私の思い、私の持つ情熱でキリストを愛する。私はあるいは、私の叔父さんほど秩序立った良く考え抜かれたキリストへの愛をもつことはできないかもしれない。だが私にも確かに考える力はある。全くないと言うことはない。だから私なりによく考え、キリストへの愛を実行に移したい。私はあるいは、渡辺先生のようにドンと構えて、不動の精神でキリストを愛することはできないかもしれない。迷ったり逡巡したりすることがあるかも知れない。だがそれで良い。それが「私の」意志である、というところに、強さ弱さを越えて、無限の重み、意義があるのだ。私は私の決断でキリストを愛する。
今日聖書朗読でお読みしたマタイ22:34-40では、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」とあった。もしユダヤ人が、この日本語聖書を読んだら、あれ、ちょっと抜けている言葉があるな、と思うだろう。へブル語では、「あなたの心をつくし、あなたの精神をつくし、あなたの思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」と、心、精神、思いの全てに「あなたの」という言葉がついているからだ。つまりここでも、神なるキリストを愛する愛は、他の人の借り物でなく、私の心、私の精神、私の思い、ということがハッキリと述べられている。
再び結婚の例に戻ろう。私は夫として、「私が」チャチャ先生を愛することが重要なのだ。例えば私の父は、チャチャを喜ばすことができるような表現が比較的上手である。チャチャ先生が日本に来た時、ミャンマー語で「チャチャ、日本へようこそ」と書いた紙を用意した。チャチャ先生がとろけたのは言うまでもない。それに比べると、私は愛の表現がやや不器用だなと思う。では、私は愛を表現するのが不得手だから、チャチャ先生への愛を表現しなくて良い、と言うべきだろうか。断じて否。私の愛の表現が上手いか下手かはこの際問題ではない。私が、「私の」愛を、妻であるチャチャ先生に表すことが重要なのだ。あまりロマンティックでなくてもいい。やや不器用でも良い。映画や小説のような、かっこ良い愛でなくても良い。私自身の弱さも含めて、とにかく私の愛を、彼女に表すこと、それがチャチャ先生が待っていることだと思う。
私たちのキリストに対する愛も同じではないだろうか。差しあたって、他の誰かがキリストをどのように愛しているかは、私達には関係ない。人が私よりも忠実で、愛に満ちているかはこの際私には関係ない。大事なのは、「私」が、クリスチャンとして、私のもてる内なるもので、キリストを愛すること。誰かさんのように立派じゃなくていい。それが私の心から出た愛であるところに、無限に大きなアクセントがある。この私を除いて、他の誰も私の代わりに決断することはできないのだから。キリストが求めるのは、たとえ立派な愛ではなくても、他の誰でもない、「この私の」愛を表わすことではないだろうか。
III. 神なるキリストを全心全霊全力で愛そう
第三に、神なるキリストを、他の全てに優って愛していきたい。
キリストによれば、聖書の中で最も大事なのは神への愛と人への愛(マタイ22:37-39)。だが神への愛には「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして」という特別な副詞がついている。すなわち神に対する愛は、非常に大きな強調がなされている。つまり人間同士の愛は、私が私自身を愛する愛、あるいはそれと同程度の愛で、隣り人を愛する、に留まるが、神を愛する愛は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」愛する愛である。これをある人は「全心全霊全力の愛」と表現した。神への愛は、他の愛に優ってはるかに大きな愛であるべきである。私たちは神なるキリストを、人間を愛する愛に優って愛さなければならない。私たちは神なるキリストを、全心全霊全力で愛するべきである。
人間同士の愛には限界がある。いかに私がチャチャ先生を愛そうとしても、もし私が有限な人間同士の間に、無限を求めるならば、その愛は無理難題を要求してしまっているのだろう。先日、荒井孝喜先生が、私にとって妻はいまだに謎、とおっしゃっていた。私などより遥かに長く連れ添っても、伴侶は謎であり、分かり合えないところが残る。あるいは睦子先生の表現によると、神様以外は伴侶と言えども、どこかで突き放したところがないとダメ。このように私にとって伝道者として大先輩に当たる人たちが、たとえ伴侶同士と言えども、分かり合えないところが残り、またどこか突き放したところがないとダメ、と言っている。人間同士の愛の限界が語られる。
ここで改めて、キリストが三度同じ質問をした、という点に注目が行く。もし人間への愛だったら、三度念を押される必要はなかったろう。結婚式の誓いで、牧師が三度念を押すことはない。「あなたは愛するか」と一度聞き、一度「はい」と答える。人間としては最も尊い夫婦の愛ですら、神と人との前で、牧師が一度尋ねるだけである。だがキリストへの愛については三度念を押される必要がある。なぜか。キリストは神だからである。神なるキリストは、人とは異なり、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして愛するにふさわしい方なのだ。無限の神キリストだけが、弱いペテロを、キリストへの愛の殉教者とすることができる。私たちも同様である。キリストだけが、弱い私たちを、キリストの愛に貫かれた生涯を送る者とさせてくださる。だからすべてに優って、神なるキリストを愛そう。キリストを一番としよう。
1ヨハネ3:16。「塩狩峠」における伝道者のメッセージ。「愛とは一番大事なものをあげてしまうこと。一番大事なものとは、命ではないだろうか。キリストは私たちを愛し、命を与えて下さったのです。」善人のために死ぬ者もあるいはいるかも知れない。正しい人のために死ぬ者はほとんどいないだろう。だがキリストは、私たちがまだ罪人であった時に、私たちのために命を捨てて下さった。キリストは私を愛し命を捨てて下さった。いわば最高の愛で私たちを愛して下さった。私たちはこのキリストを、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして愛していこう。
まとめ―キリストを愛し、キリストを喜ぼう―
この中で現在、試練にあっている方もおられるだろう。試練はそれ自体では辛く悲しいものである。ところが神様の目を通してみると、父が愛する子を凝らすように、その辛い試練でさえも良い目的で与えられているのだと気づく。試練は、実は後の日に平安な義の実を結ばせるための良きものなのである。
私がどれだけ主を愛し、主の目を通して物事を見るかどうかで、人生は全く変わってくることを実感している。
私自身、同じ人、同じ物事を、自分だけのちっぽけな視点で見るとき、不平不満や、批判となってしまっていた。ところが主を見上げるとき、主を知れば知るほど、主を愛すれば愛するほど、同じ物事、同じ人々が、恵みと感謝に変わっていった。
主を喜ぶことは私たちの力。主を愛し、主の目で一切を見るとき、私たちの人生は灰色から、バラ色へと変わっていく。
主を愛そう。主をますます愛していこう。