愛を追い求めなさいー異言と預言― コリント第一14:1-25    主の2009.6.7礼拝

先週はオーストリヤ・ウイーン日本語キリスト教会(高木攻一・輝牧師夫妻)で午後2時半から礼拝を捧げました。午前の時間を利用して、ウイーンで最も高い塔を有するシュテファンドーム教会の礼拝ミサに少しの時間だけ行ってみました。教会専属のオーケストラの演奏で聖歌隊がうたい、司祭と会衆がドイツ語の祈祷文を交互に唱えつつミサが進んで行きました。説教の時間になり、説教者の司祭が最初のところだけ英語で「本日はペンテコステの日です。この日に聖霊が降り、教会が生まれ、世界に愛と希望が伝え続けられています」と短く語り、あとはドイツ語でメッセージが語られていました。会堂の後ろのほうは、絶えず観光客が出入りしていましたが、全体的に静かな中でパイプオルガンが響き渡り、礼拝ミサが続けられていました。途中で失礼し、ウイーン日本語教会に移動しました。そこではもちろん日本語で讃美がうたわれ、私は日本語で説教し、外国で日本語が通じることの喜びを感じ、主に感謝しました。礼拝後も主を中心とするあたたかい交わりがあり、キリストにある喜びを分ちあうことができて幸いでした。
本日はコリント第一14:1-25です。先ず「愛を追い求めなさい」との勧めがあり、続いて異言(聖霊に満たされて語る霊の言葉)と預言についての教えがあります。パウロは、異言は聖霊に満たされて神に向かって語るものであると教えています。異言は神様に向かっての祈りであり、讃美であり、異言の祈りは「自分の徳を高める」(4節)とあるように、個人的に心が恵まれ、霊的に満たされた思いになります。異言は人の理解を越えている言葉なので、「自分でそれを解くことができるように祈りなさい」(13節)と言われています。預言は語りだすということです。神の思い、心、意志を語るということで、神の言葉を宣べ伝える宣教ということを指しています。神の言葉が語られることによって、「人を励まし、教会の徳が高められる」(3,4節)と言われています。パウロは、異言と預言の優劣を論じているのではなく、それぞれの特徴を述べ、異言も預言も正しく用いられて行くことを教えています。
主の御言葉を聴いて、共に祈って、新しい一週間の出発をいたしましょう。

内容区分
1、異言は、神への個人的な語りかけであり、預言は教会への語りかけである。14:1-19
2、預言は、人の心の内を明らかにし、神を信じる信仰を与える。14:20-25
資料問題
異言は神への祈りで(2節)、個人の信仰に恵みをもたらす(4節前半)。ロマ8:26の「聖霊自身が言葉に表せないうめきをもって執り成す」とあるのも異言の祈りであろう。パウロ自身、異言の祈りを個人的に誰よりも多く祈っている(18-19節)。パウロは霊の奥義である異言を解くことができるように祈りなさいと勧めている(13節)。
預言は信仰共同体である教会への語りかけであり、教会の徳を高める(教会形成)」(3、4節後半)ものです。預言の役割は「人の徳を高め、励まし、慰める」(3節)。また、人の心にある罪を知らせ、悔い改めて神の前にひれ伏すようにさせる(25節)。


1、異言は、神への個人的な語りかけであり、預言は教会への語りかけである。14:1-19
愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求めなさい(1節)。しかし預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである(3節)。

コリントの教会は活発な教会でしたが、霊的な混乱、派閥があり、偶像に捧げた肉を食べることの可否、聖餐式の混乱などの問題がありました。パウロはそれらの問題に対してどのように対処すべきかを適切に示しています。パウロの祈りと願いは、手紙の冒頭にありますが、「みな語ることを一つにし、お互いの間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい」(1:10)ということです。そして、そのことを実現するために、13章で最大の賜物である愛についての教えを述べています。この14章でも「愛を追い求めなさい」ということを訴え、異言と預言についての教えを述べています。
異言は、不思議な言葉とも言われています。聖霊が語らせるままに自分の知らない言葉で、神様に祈る霊の奥義と言われている言葉のことです。コリントの教会の中に、異言だけを求めて自分だけが特別な賜物を持っていると自慢したがる人がいたようです。それに対して、霊の賜物は全体の益になるためにであるので(12:7)、異言で祈って個人的に恵まれると同時に、教会全体に祝福が及ぶことを願って、異言を解くことができるように祈りなさいとの勧めがあります(13節)。
預言は神の言葉を語り出すこと、神の言葉を宣べ伝えるということです。私たちは教会において語られる神の言葉を聴くことによって、神様の祝福を受けることことができます。教会では、神の召しを受けた者による説教を通して、神の言葉が宣べ伝えられています。
3節に、預言における三つの大切な目的が記されています。
一つは、人の徳を高めるという目的です。
人の徳を高めるのはキリストです。キリストのすばらしさが語られ、キリストに従う生活をするという教えが常に伝えられるということが大切です。キリストに倣うことによって、私たちの心は恵まれ、喜びの力を受けて霊的に成長して行きます。
二つは、励ますという目的です。
人生には苦難があり、試練があります。人生の重荷を負って下さるキリストを伝えることによって(マタイ11:28)、人は生きる力と希望を受け、前に進んで行くことができるようになります。
三つには、慰めるという目的です。キリストは人の苦しみのためには涙を流して下さる主です(ヨハネ11:35)。キリストの御許に行けば涙は拭われます。ダビデは「夜はよもすがら泣き悲しんでも、朝と共に喜びが来る」(詩篇30:5後半)とうたいましたが、キリストを信じる時に、全ての暗さは追い払われて、主の愛によって心に喜びが与えられて行きます。
異言は、霊的に満たされて、自分の知らない言葉で神に向かって祈ることです。それは霊の奥義です。異言を語る本人は恵まれ、神に近づき霊的に高められ、成長して行くようになります。
預言は、皆が集まる所で、皆に分かるように神の言葉を語ることによって、皆が神の言葉を通してキリストを知り、キリストに従うように祈り、皆が霊的に成長して行くようになります。
異言は個人的です(18節でパウロは誰よりも異言を多く語れることを感謝しています。彼は個人的な祈りの中で異言の祈りをしていたようです)。
預言は教会のためです。預言ということは神の言葉を宣べ伝えることです。神の言葉として完成された聖書を説き明かす説教を通して、礼拝を中心にして、教会の祈り会、様々な集会を通して伝えられて行くというように理解できます。聖書の中心はキリストですから、礼拝をはじめ諸集会はキリスト中心であるということです。礼拝ではキリストを中心にして、キリストを遣わした父なる神が崇められ、私たちの心に信仰を与えて下さった聖霊が讃えられて行きます。
ウイーンのシュテファンドーム教会の正面祭壇に殉教の死を遂げたステパノの絵が描かれ、その絵の一番上の部分に、天におられるキリストがステパノのために立ち上がっている様子が描かれています。すばらしい絵ですが、絵の中心はステパノで、彼の信仰を讃えて建てられた会堂であるということが分かります。
殉教者第一号のステパノの信仰は立派なものです。しかし、次のことが全てにまさって大切ことです。ステパノを罪から救い、彼の信仰を最後まで導き、天国に迎えて下さったのはキリストです。礼拝を通して私たちが讃えるべきお方はキリストだけです。なぜなら、私たちの罪のために十字架に命を捧げ、陰府にまで行かれたのはキリストだけだからです。私たちの罪のために一度は死にましたが、十字架の三日後に死を打ち破って甦り、世の終わりまで、常に私たちと共にいて下さるのはキリストだけです。これが信仰の最も大事な中心です。
今週もキリストの救いに感謝し、生きておられるキリストに祈り、キリストに信頼して、信仰の日々を進んで行くように、新しい決断をもって祈って下さい。

2、預言は、人の心の内を明らかにし、神を信じる信仰を与える。14:20-25
その心の秘密があばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝み、「まことに、神があなたがたのうちにいます」と告白するに至るであろう。(25節)

パウロは、この個所(20-25節)で異言のことを述べつつ、特に預言について教えています。パウロは、21節にイザヤ書28:9-12からの引用を入れて、異言は未信者のためのしるしであることを伝えています。もし全教会で異言を語っているところに未信者が入ってきたら、その意味が理解できなくて、信仰の躓きになるということを注意しています。
しかし、24-25節にあるように、もし預言である神の言葉の説教がなされている所へ未信者が来たならば、その語られている聖書の言葉によって、その人は救われて行くということが記されています。聖霊は神の言葉が宣べ伝えられる宣教(神の言葉の説き明かし)を通して、人の心の内を明らかし、神様を信じる信仰へと導いて行きます。
*神の真理が皆に分かる言葉で説き明かされる時に、どんな結果が起るのでしょうか・・・。
第一に、私たちに罪を悟らせ、神のさばきがあることを自覚させます。
私が罪を自覚したのは聖書を読んでからです。私の心の内にある罪の思いが、表面に表れて悪い行いになって行くということを知らされました。神様は私の心の奥底まで知っておられるということを知り、怖くなりました。その頃、私の友達が二人亡くなり、自分も死んで神様の審判を受けて罰せられるという恐れを持つようになり、心は不安でいっぱいでした。その時に「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」(ロマ10:10)という御言葉に接し、罪を悔い改めてキリストを信じることが出来ました。
第二に、私たちの心の秘密をあばき出します。
人はなかなか自分自身のことを正直に見ようとしません。自分を見ることを避けているので自分の正しい姿を知らないままでいます。しかし、聖書を読むと自分の姿が見えて来ます。聖書は心の鏡のようなものです。聖書を読み、聖書のメッセージを聴くと、ちょうど鏡に映るように自分の心の中の様子が分かって来ます。礼拝の後で、「先生はどうして私のことを知っているんですか。今日のメッセージは全部自分のことを言われたように思いました」と言われることがあります。牧師は特定の人のことを取り上げて語ることはありません。神の言葉がそれぞれの方々の心の中に響き渡り、浸透し、自分の真の姿に気づかせるのです。
第三に、私たちを神の御前にひれ伏させます。
キリストは「狭い門から入れ、命に至る門は狭い」(マタイ7:13、14)と言われました。狭いということは小さな低い門です。ふんぞり返っていては入れない門です。長血の女はキリストの前にひれ伏して祈り、霊の救い、心の平安、体の癒しを受けています(マルコ5:25-34)。富める青年は「私は戒めをみな守っています」という傲慢な態度の故に、キリストの救いの中に入ることができませんでした(マルコ10:17-22)。神の国への門を入るためには膝まずき、頭を垂れて、「罪人の私を憐れんで下さい」と祈ることです。そのように心砕かれた者のみが、救いの門を潜り抜け、神の子になる恵みを得ることができるのです。
*ここで、1節の「愛を追い求めなさい」に戻ります。
愛の源はキリストです。愛の印はキリストの十字架です。愛の力はキリストの復活です。異言も預言も教会全体の益になるためのものであり、キリストの十字架と復活のために用いられて行くものです。キリストの十字架と復活を伝えることが愛を表して行くことが最大の奉仕です。
5月21日から6月3日まで、イギリス・ロンドン、オーストリヤ・ウイーンへ伝道旅行に行って来ましたが、皆様のお祈りに感謝します。長期間にわたって行くことができたのは、ロンドンの馬場さん夫妻が愛をもって自分の家を開放し、私たちをあたたかく迎え入れて下さったからです。また車を運転して現地での足になって、ロンドンJCF教会へ、ロンドンJCFハウスへ、近隣の家庭集会へ連れて行ってくれました。さらに馬場さん夫妻はウイーンへ行くための航空チケットの手配等を全部行い、私たちと一緒に(私たちが迷子にならないように)ウイーンに行ってくれました。馬場さんはこのために仕事をやりくりして休みをとってくれました。馬場さん夫妻の愛の労苦に心から感謝します。
馬場晶子さんの妹で、芦屋にTさん夫婦がおられます。ご主人は大学の先生ですが、食道ガンになり、休職中です。妹さんは教会で洗礼の学びをしていて、ご主人も教会に行き始めたということでした、ところがロンドン滞在中に睦さんから晶子さんに、「主人の食道ガンの治療が終って、転移がないか検査を受けたら肝臓に転移しているということが判明した」という電話連絡があり、二人とも大変に気落ちしているとのことでした。この知らせを受けて、皆で祈り、馬場夫妻の長女恵ちゃんが、おばちゃん、おじちゃんにキリストの十字架による救いをハッキリ伝えるということで、日本に出かけることになりました。恵ちゃんは前に個人伝道の学びをしていますが、しかし、もう一度学びを新たにするということで、小児科医として多忙な勤務の中で、ロンドンの個人伝道研修会に出席し、飛行機出発時間ギリギリまで学びをして日本に飛び立ちました。キリストは生きておられる愛の主です。恵ちゃんから次のようなメールが送られてきました(晶子さんから私への転送)。
「ハレルヤ!おじちゃんも、おばちゃんも、昨晩イエス様を救主として受け入れることができました。悔改めと聖霊を受けるお祈りを一緒にした後の二人の顔は輝いていました。二人とも確信をもって、イエス様は心の中におられると言いました。天国行きの切符をしっかり握り、希望をもって、平安のうちに、次の治療に挑みます。神様が私たち家族や教会のいろいろな人を通して、ここまで二人を導いてくださったことを感謝します・・・(後略)、6月3日(水)」。そして、次の木曜日にキリスを信じる信仰を告白した二人を教会に連れて行き、教会の牧師に今後のフォローアップをお願い、祈ってもらいまいた。睦さんのご主人亨(とおる)さんは抗癌治療のため金曜日に入院しています。皆さんのお祈りに加えて日々にお祈り下さい。

まとめ
1、14:1、3、異言は神への語りかけです。預言は教会への語りかけであり、宣教を意味しています。異言を通して個人的に恵まれます。預言という神の言葉の語りかけを通して、教会全体の徳が高められ、キリスト中心の教会形成がなされて行きます。
2、14:25、預言は人の心の内を明らかにし、神を信じる信仰を与えます。特にキリストは愛の源であり、キリストの愛の印は十字架、キリストの愛の力は復活によって表されています。キリストを伝え、救いに与る人が起こされて行くように祈りましょう。

祈 り
天地の主である神様、独り子イエス・キリストの十字架によって救われ、神の教会に加えられていることを感謝します。教会に聖霊の賜物が注がれていることを感謝します。異言をもって神に祈り、心に霊的満たしを受けて行くように導いて下さい。神の言葉を語り出す預言によって、教会が成長し、神の御言葉によってひとりひとりが霊的に豊かに成長して行くように導いて下さい。
特に愛を追い求め、愛の源であるキリストの十字架と復活を宣べ伝えて行くために聖霊の力を与えて下さい。病気、仕事、問題などの求めに癒しと解決が与えられて行くように導いて下さい。私たちに愛を与えて下さっているイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献:コリント注解―フランシスコ会、佐藤、福田、榊原、黒崎、LAB、バークレー、Morris、竹森。