すべてのことを適切にー集会の秩序 第一コリント14:26-40  主の2009.6.14礼拝

私は高校で野球部にいましたが、コーチによく言われたことは「チームワーク」ということでした。チームとは共同で物事、特にスポーツの試合をする一団のことです。チームワークとはチームのひとりひとりがそれぞれの役割を果たしつつ、心を一つにして勝利に向かって行くことです。「私は野球が上手である」と思っていても、一人では野球はできません。チームは9人で編成され、それぞれに役割があります。投げることをする投手がいて、これを受ける捕手がいます。打たれた球を捕り、アウトにする内野手、外野手がいます。それぞれが与えられたポジションで最善をつくし、他の選手と連携してプレーをすることが必要です。投手は目立つので、皆が投手をやっていてはチーム編成ができません。それぞれの得意を生かしてポジションを決め、統一されたチームをつくることが必要です。チームが力を発揮するためには、チームの全員がそれぞれの役割を果たしつつ、共に助け合ってチーム全体で力を発揮するチームワークが勝利の決め手になります。
本日の聖書はコリント第一14:26-40です。教会の集会は、「すべては徳を高める(教会を造り上げる)ためにすべきである」(26節後半)、「神は無秩序の神ではなく、平和の神である」(33節前半)、「すべてのことを適宜に(適切に)、かつ秩序を正して行うがよい」(40節)と教えられています。秩序ということですが、集会で自分が恵まれるならば、他の人はどうでもよいということはありません。コリントの教会では集会の時に異言で長く祈る人がいました。異言は霊の言葉ですので、他の人に内容が分かりません。そこで、パウロは集会の場で異言を解く者がいない時には静まり、個人の祈りの中で異言で神に祈ろうと教えています。預言は吟味しようと教えています。婦人の事も出ていますが、後ほど述べます。パウロは、神の教会の集まりにおいて、集まるひとりひとりが聖霊に導かれて賜物を生かし合い、キリストにあるチームワークをもって、すべてのことが適宜に(適切に)行われ、教会が恵まれて行くことが大切であるとの教えを述べています。
今朝も主のメッセージを聴き、共に祈って、新しい一週間の旅路へと出発いたしましょう。

内容区分
1、聖霊は、教会の集会に霊の秩序を与えて導く 14:26-33前半
2、聖霊は、教会の集会がすべて適切に行われるように導く 14:33後半―40
資料問題
26節「すべては徳を高めるためである」、さんび、教え、啓示、異言等は全て教会を造り上げるためである。
34節「婦人は教会で黙っていなければならない」、これは11:5と矛盾するように思われる。婦人たちの中に被り物をしないで(コリントでは被り物をしないと売春婦と誤解される)、髪を振り乱して熱狂的状態になっている婦人たちがいたようである。彼女たちは興奮してあれこれ質問したので、教会が祈りの場ではなく討議討論の場になってしまっては困るので、35節のような注意がなされている。当時ギリシャ、ローマ、ユダヤでは婦人が公の場に出ることが禁じられていた。教会は全てを受け入れるので婦人達もいた。ところが、コリントの教会に行きすぎた女性解放の考えが持ち込まれ、被り物をとり、自分たちの主張を述べる婦人達がいたので、このような見解が述べられたと言える。40節「適宜に」、美しい姿でという言葉で「麗しい」(12:23-24)こと。


1、聖霊は、教会の集会に霊の秩序を与えて導く 14:26-33前半
あなたがたが一緒に集まる時・・・すべては徳を高めるためにすべきである(26節)。神は無秩序の神ではなく、平和の神である(33節)。

集会についてですが、いろいろな形式があります。私たちは一定のプログラムに従って集会を進めています。まったく順序を決めないで、聖霊の導きをその時その時に求めながら、毎回違った形で集会をする人々もいます。式文を定めて、司祭の言葉、会衆の応答の言葉、祈りの言葉を決め、立つ時、坐る時を細かく定めている人々もいます。丸くなって坐り、静かに黙想し、順々に御言葉を言い、祈る人々もいます。集会は坐らないで、起立したままで行う人々もいます。初代教会から今日までの間に様々な形で集会が行われ、現在の私たちのようなスタイルで集会を行うところが大部分を占めているようです。大事なことは形式ではなく、集会に集まった人々が神様を礼拝するという目的を見失わないことです。
コリントの教会はキリストの直弟子である使徒パウロによって伝道が開始され、救われた人々が集まってコリント教会となり、パウロの伝道牧会による指導を受けていました。パウロが他の所に伝道に出かけた後は、伝道者がいないままで集会が続けられていたようです。ところが、「霊的にすぐれている」「知識がある」「自由だから何をしてもいい」などと言い出す人々が現れ、教会に混乱が生じていました。集会が神様を礼拝することよりも、自分の賜物を自慢するような形になっていたので、それを正すために手紙が記され、キリストを中心にして皆が一つ心になって行こうということが教えられています。

*26-33節前半を通しての教えを見て行きましょう。
第一に、「あなたがたが一緒に集まる時」(26節)とあるよう、クリスチャンは集会をします。
キリストを信じた者は神の子となる特権を与えられ(ヨハネ1:12)、天の国籍(ピリピ3:20)に名前を登録されています。しかし、実際に天国に行くまではこの地上で暮します。この地上は「この世の君」といわれるサタンが活動をしています。サタンの目的は、人をキリストの救いから遠ざけること、クリスチャンになった者をキリストから、教会から引き離すことです。この世にあってクリスチャンが信仰を持続する秘訣はキリストにつながり、教会につながっていることです。
私たちは一週間の殆んどをこの世で過ごし、この世の影響を受けています。そこで霊的な命を新たにするために共に集まり、神の国の民であることを絶えず確認して行くことが必要になります。私たちクリスチャンは毎週日曜日に教会に集まり、「あなたがたはこの世と妥協してはならない(調子を合わせてはならない、倣ってはならない)」(ロマ12:2)という決意を新たにします。讃美の中に主を崇め、献金を通して主への感謝を表し、聖書の御言葉で心を養っていただき、祈りをもってキリストに従う決断をし、一週間の旅路へと出発します。体が弱いなどの事情があって教会に来られない方々にはメッセージが送られ、また教会ホームページでメッセージが聴けるようになっています。イギリスでメッセージを聞いている方に会いましたが、遠く離れたイギリスで、日本語で主が語りかけて下さることを感謝していました(録音、ホームページの奉仕に感謝します)。一回一回の集会を大事にして下さい。きょう礼拝に出席しましたが、来週は休むとします。一回休むだけと軽く思いがちですが、教会から離れる空白の日々が2週間続くことになります。そこで週の半ばの礼拝と言われる水曜日祈り会があります。一週間に一度は共に集まるように互いに励まし合って行きましょう。今週はファミリーの週です。共に集まり、主の御名によって祈り合って下さい。
第二に、集会では「すべては徳を高めるためにすべきである」(26節)ということが大切な点です。
「徳を高める」とは、教会全体の益になるように、そしてひとりひとりが教会を形づくる大切な一員となって行くということです。そのために、讃美の中に、教えや啓示の中に、異言を語り、その説き明かしを通して集会全体に恵みが行き渡るようにして行きなさいと言われています。集会で異言を語る時の心得(27-28節)、預言が与えられた時の心得(29-32節)が記されています。
きょうの個所では異言と預言とが取り上げられていますが、その他に「知恵、知識の言(ことば)、信仰、いやし、力ある業、霊を見分ける力」などがあります(Ⅰコリント12:8-10)。ロマ書には「奉仕、教えること、勧め、寄付をする(分け与える)、指導する、慈善」などの賜物が記されています(ロマ12:6-8)。御霊に満たされてうたう「さんびと霊のうた」(エペソ5:18)もあります。さんびということですが、集会に集まる私たちは必ずさんびを歌います。音痴もいれば音楽学校レベルの人もいます。声の良し悪しもあります。しかし、集会はのど自慢の場、カラオケの場ではなく、主をほめ讃える場ですので、皆が聖霊に導かれてうたいます。聖書朗読の詩篇148篇で「王、民、君たち、司(つかさ)たち、男子も女子も、老いた者も幼い者も主をほめ讃えよ」とうたわれている通りです。教会で主を讃えるさんびを力の限りに歌い続けて行きましょう。
第三に、集会を導く主は「平和の神」です。
集会に集って、私たちが主から与えられる恵みは心が平安になるということです。一週間の旅路を終え、教会に来て重荷を主の御許におろして心がホッとします。皆が主を求めて集会に集っている中にあって、自分だけが恵まれれば良いと考えて、コリントの教会では集会の中で全体の流れから外れて集会をかき回す人々がいたようです。それに対し、神は無秩序の神ではなく、ひとりひとりの心に安らぎをもたらす平和の神であるので、集会全体を通して、聖霊に導かれて主を讃えて行こうと教えられています。

2、聖霊は、教会の集会が適宜に(適切に)行われるように導く 14:33後半―40
しかし、すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい。(40節)

*33節後半―40節までに、「すべてのことを適宜に(適切に)、秩序を正して行いなさい」と言われています。この個所から教えられることを見て行きましょう。
第一に、婦人のことが出てきます。
いきなり、「婦人は教会(集会)では黙っていなさい」(34節)と言われ、「学びたいことがあれば、家で夫に尋ねなさい」(35節)などと言われています。(旧約・新約に女性預言者がいます。11:5参照)。当時ギリシャやロマでは婦人は人前では話をしないという習慣がありました。しかし教会は自由な所です。「キリストの前にはユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない」(ガラテヤ3:28)と言われています。すべての人がキリストの前では平等です。そこで、一部の婦人たちが、男も女もないと言って、自分達は男の人よりも賢いということで、集会の中でいろいろな質問をして、教会が礼拝の場ではなく、議論の場になり、キリストの恵みが語られなくなってしまったのです。パウロはそれを戒めて、おしゃべりな婦人たちに、「教会では黙っていなさい」と戒めています。婦人に限らず、男性も女性も集会の秩序を重んじて、キリストに集中して行くことが恵みを受ける秘訣です。キリストを知れば知るほど感謝が溢れて、心に喜びが生まれてきます。
神学校分校で説教学を担当しています。現在は良い説教者になるための基礎訓練として、生徒に実際に話をしてもらって話し方の訓練をしています。先日「私の救い」というテーマを3分間にまとめて話をしてもらいました。一人の女子生徒が「自分はしばらく教会を離れていたが、教会に戻り、自分の罪のために死んでくれたイエス様の愛はすばらしい」ということを話した時に、涙を流して声を詰まらせながら、自分に救いを与えて下さったイエス様に感謝していました。生徒のひとりひとりが深く頷きながら聞いていて、私も感動しました。
先ほども言いましたが、ファミリーの集まりでは出来るだけ多くイエス様の恵みを分かち合って下さい。イエス様の恵みが語られないならば、それは単なる茶飲み話の集まりであって、心に何も残りません。
第二に、自分を霊の人であると思って高ぶらないことです。
37節に自分を誇らないで、パウロの教えていることに従いなさいと言われています。これはコリントの教会で自分が霊的であると高ぶっている人への警告です。パウロは、「もしあなた方が自分を霊的に高いと思うなら、わたしの書き送った集会に関する秩序を主イエス・キリストの命令として受け入れなさい」と言っています。真に霊的な人は謙る人ですから、主から出たパウロの教えを受け入れるはずです。もし、受け入れない人がいたら、「わたしの命令を無視する者は放っておけ」と、強い言葉で言っています。キリストの使徒であるパウロが聖霊に満たされて記した文書を受け入れないということは、主に従わないというということになるのです。
第三に「すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい」と言われています。
39節でパウロは預言も異言も妨げていません。40節で「すべてのことを適宜に(適切に)、かつ秩序を正して行うがよい」と勧めています。
「すべて」とは集会のあらゆる事柄です。「適宜に」とは適切にということで、美しい姿でということです。「秩序に従って」とは順番に従ってということで、今のような集会のプログラムがあったということを示唆しているようです。
教会の集会が適切に行われて行くためには、集会の中心がキリストであることを意識して行くことです。コリントの教会は、キリストを忘れて、自分の霊的高さを誇る人がいたり、知識をひけらかす人がいたり、間違った自由を振りかざして男性と集会中に議論をする女性がいたりして混乱がありましたが、パウロは聖霊に導かれて正しい集会をして行こうと教えています。「聖霊は、キリストについてあかしをします」(ヨハネ15:26)「聖霊はあらゆる真理に私たちを導きますが、真理とはイエス・キリストです」(ヨハネ16:13)。「聖霊はキリストに栄光を得させます」(ヨハネ15:14)。キリストの体と言われる教会に聖霊の賜物が与えられます。聖霊はキリストを表す偉大な働きをします。私たちの教会が、聖霊に導かれてキリストを讃えて行く教会として成長して行くように祈って下さい。恵みの座での祈りがありますが、私はひたすら聖霊の導きを求め、「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)とのキリストの御言葉に縋って父なる神様に祈ります。きょうも祈りの勝利が与えられるように、恵みの座に出るひとりひとりに聖霊を通して、キリストの愛、勝利、癒し、恵み、力、救い、喜び、希望、永遠の命が豊かに与えられて行くように祈って下さい。

まとめ
1、14:2、33前半、聖霊は、教会の集会を霊の秩序を与えて導いて下さいます。クリスチャンは集まる民で集会をします。集会でのあらゆる事柄は教会の徳を高めること、すなわちひとりひとりが恵まれて行くことが大切です。主は平和の神です。集会に集う私たちに平安を満たして下さいます。
2、14:40、聖霊は、すべてのことを適宜に(適切に)、秩序を正して行われるように導いて下さいます。

祈 り
天地の主である神様、独り子であるイエス・キリストの十字架によって救いの道が開かれ、私たちはただ信じるだけで神の子になることができ、教会の一員にさせていただいていることを感謝します。私たちは信仰を養われ、この世と妥協しない生活をおくるために教会生活をしています。教会の集会の中心にイエス様がいて下さることを感謝します。聖霊に導かれ、キリストを讃へる集会を捧げて行くように、一回一回の集会を祝福して導いて下さい。集会に出ることによって信仰が強められ、キリストに従う思いを強められ、天国への道を前進して行けるように守って下さい。病気の方々の上に、病気の家族を抱えている方々の上に、主の癒しの御手が差し伸べられ、主の御業が現れることを信じます。困難の中にある方々の上に、仕事が順調に行くことを願っている方々の上に、仕事を求めている方々の上に、主よ、あなたの助けの御手をもって全ての方々に祝福が与えられ、主によって生活の糧になる仕事が得られることを信じます。今週も恵み深い御霊をもって、私たちに平らかな道を歩ませて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献:コリント注解―バークレー、フランシスコ会、黒崎、榊原、佐藤、Morris、竹森、福田、LABN。