神の恵みによって生かされている-十字架と復活- 第一コリント15:1-11  主の2009.6.21礼拝

現在の日本は政治や経済に多くのひずみや、混乱がありますが、しかし1945年の敗戦以来、戦争に巻き込まれることなく全体的に平和と自由のうちに進んでくることができました。ところが平和に慣れ、経済的に恵まれることによって、地上の生活だけを楽しみ、人間中心、自己中心になっています。日本人は神を拝みますが、その目的は自分の幸せのためです。例えば、成田山や川崎大師で交通安全のお守りを求めるという程度の偶像礼拝です。日本人は地上の生活の楽しみ、経済の豊かさを求めるだけで、最も大事な(大切な)天地万物の創造主であるまことの神様を求めず、霊的に目が開かれないままに生きていますが、その末路は滅びです。聖書の示す創造主なる神様は愛の神様です。神様は、聖霊によって私たちの霊的な目を開いて、ご自分の尊い独り子であるイエス・キリストを通して私たちの罪を赦し、永遠の命を与えて下さる愛の神様です。聖書朗読のイザヤ書を通して、神様は私たちに、「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛する(わたしの目にあなたは価高く、尊く、わたしはあなを愛すー新共同訳、わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛しているー新改訳)」と呼びかけておられます(イザヤ43:4)。
本日はコリント第一15:1-11です。使徒パウロは、「わたしが最も大事な(大切な)こととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった」(3節)と告げています。「最も大事なこと」とは他に比べるものがない唯一無二の絶対的なものです。それは創造主である神様がイエス・キリストの十字架と復活を通して私たちを神の子にするという愛の救いのことです。この最も大事な救いを知ることが人生の目的であり、喜びある日々をおくる原動力になります。パウロはキリストの救いを受け、「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである」(10節)と感謝しています。
ご一緒に主のメッセージを聴き、祈って、キリストに従う一週間の旅路へ出発いたしましょう。

内容区分
1、聖書の中で、最も大事なことはキリストの十字架と復活である。15:1-4
2、復活のキリストは裏切った者にも、多くの人々にも、迫害した者にも現れて下さった。15:5-11
資料問題
15章は①キリストの復活(1-11節)、②キリスト者の復活(12-34節)、③復活体について(35-58節)記されている。3節「わたし自身も受けたこと」、パウロが最も大事な事実として伝えたことはキリストの十字架の死、埋葬、復活であり、これが信仰の中心である。彼はこの事を他の使徒より受けたので勝手な個人的見解ではない。
3-4節はケリュグマ(基本的宣教内容)の定式であったと思われる。「聖書に書いてあるとおり(聖書に従って)」、聖書は旧約聖書のこと。5節「12人」、キリストの弟子団。6節「五百人以上」、マタイ28:16-17のガリラヤ山上での出来事参照。7節「ヤコブ」、主の兄弟ヤコブ(ガラテヤ1:19)でヤコブ書の記者。10節「わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである」、わたしではない、神の恵みがわたしと共に働いたのである


1、聖書の中で、最も大事なことはキリストの十字架と復活である。15:1-4

わたしが最も大事な(大切な)こととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり三日目によみがえったこと・・・(3―4節)

聖書は、キリスト以前の旧約聖書39巻、キリスト以後の新約聖書27冊、全体で66巻あります。聖書には天地の創造から、天地の終わりまでが余す所なく記されていますが、では聖書の中心主題はなんでしょうか。ある人は創世記から黙示録に至るまで一本の赤い線が貫かれている、それが聖書の主題であり、最も大事なことであると解説しています。赤い線とはキリストが十字架で流された血を表しているので、聖書の主題はキリストの十字架であり、それに続く復活であるという意味です。使徒パウロは1-2節で福音という言葉を3回繰り返しています。福音とは喜びの音信(おとずれ)、Good Newsという意味で、3-4節に福音の内容が要約されています。
*15:1-4を通して、最も大事なこととして教えられていることを見て行きましょう。

第一に、最も大事なことは、キリストの十字架、埋葬、復活の事実です(3-4節)。

「聖書に書いてあるとおり」にとは、「旧約聖書に書いてあるとおりに」という意味です。旧約聖書4000年間の歴史を通して、神様から救主イエス・キリストが遣わされ、人の罪の身代りになって死ぬことが預言されていました(創世記3:15、イザヤ53章など)。今から2000年ほど前に、神様は独り子であるイエス・キリストをこの世界に遣わされました。キリストは罪のない清いお方でしたが、エルサレム・ゴルゴタの丘に立てられた十字架の上で、人の罪の身代りになって死んで下さいました。その遺体は布に包まれ、岩をくり抜いた墓に葬られました。葬られたということは完全に死んだことを表しています。しかし、旧約聖書に書いてあるとおりにキリストは復活されたのです(詩篇16:10)。キリストは金曜日の午後3時に息を引き取り、日曜日の朝に死を滅ぼして甦り、今も生きておられる永遠の救主です。キリストの十字架と復活を信じる時に、罪の赦しを与えられ、死の恐れがなくなり、心に喜びが湧きあがります。聖霊によって祈れるようになり、人を愛する気持が強くなり、敵をも愛するようになります。
ひとりの若い女性が顔を輝かせて言いました。「私はイエス様を信じました。すると罪が赦されたという思いと同時に、心の中から喜びが湧いてきました。それ以来、いつでもイエス様が一緒にいてくださるので毎日が楽しいのです」。

第二に、最も大事なことは、キリストの福音にはすべての人を救う力があるということです。

キリストは死を滅ぼしてよみがえり、今も、そして永遠に生きておられる救主です。キリストの福音はユダヤの国で起きたキリストの十字架と復活に由来しています。キリストの復活後、ペンテコステの日に聖霊に満たされた使徒達が「イエス・キリストは生きている主である」ということを宣べ伝えた時に、3000人という多くの人々がキリストを信じ、最初の教会がエルサレムに誕生しました。やがてキリストの福音はユダヤの国から小アジア地方(現代のトルコ地方)を経てギリシャ地方に伝えられて行きました。どの民族、人種であろうと、言葉が違っても、風俗文化習慣が異なっていても、キリストの十字架と復活が伝えられることによって、「イエスは主である」と信じ、救われる者が起こされ、全世界に教会が誕生して行きました。キリストの十字架と復活を伝える時に人は救われます。そこで、出来るだけ早くイエス・キリストについて、特にキリストの十字架と復活について伝えることが必要です。相手がどんな宗教であっても、無宗教であっても構いません。私たちはキリスト教という宗教ではなく、生きているイエス・キリストを伝えるのです。
馬場さんのお父さんは自分の力を信じて76年間に渡って無宗教、無信心を貫き、懸命に働いて、一代で一つの会社を築き上げた人です。宗教嫌いの方でしたが、クリスチャンになった馬場さんの祈りを通して、人生の最晩年に、「キリスト教という宗教の話ではなく、イエス・キリストのことを聴きたい」という思いが与えられ、病院のベッドでキリストの福音を聴きました。聖霊が豊かに働いて下さって、罪を悔い改めてキリストの十字架を信じて罪の赦しと共に永遠の命を受け、その場で洗礼を受け、葬式はキリスト教式でと言い残し、天に召されて行きました。その葬式には一千人ほどの人々が集まり、全員に新約聖書が配られ、まるで伝道集会のようでした。

第三に、最も大事なことはキリストの福音を信じ続けることです。

「いたずらに信じないで」(2節)とありますが、何となく信じているのではなく、ハッキリと信じて行くことが大切です。「宣べ伝えられたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである」(2節)とも言われています。キリストの福音を信じ、教会の集会に出席し続けることが大事です。信仰の年月は大事です。来月初めに洗礼式がありますが、洗礼何周年という恵みを数えて感謝を捧げて下さい。これから洗礼を受ける方々は先に延ばさないで、今この日に洗礼を受ける決意をすることが最も大事なことです。信仰の年月と共に、信仰は集会歴であることを心に留めて下さい。一日一日の祈りがあって、礼拝に来ます。一回一回の礼拝を52回数えて一年です。そうして数えてみると、私事ですが、きょうが2676回目の礼拝出席であると思います。皆さんに勧めます・・・今日も礼拝に出席できたことを感謝して、来週礼拝に出席できるように、そして水曜の祈り会に出席できるように祈って下さい。

2、復活のキリストは、裏切った者にも、多くの人々にも、迫害した者にも現れて下さった。15:5-11

実際わたしは神の教会を迫害したのであるから、使徒たちのなかでいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値打ちのない者である。しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜った神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかし、それはわたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。(9-10節)

*15:5-11には復活のキリストがいろいろな人々に現れて下さったことが記されています。

第一に、ペテロに現れています。

マルコ福音書では、キリストの復活を告げた天使は次のように言っています。「今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい」(マルコ16:7)。ルカ福音書には、「主はほんとうによみがえってシモン(ペテロ)に現れなさった」(ルカ24:24)という弟子達の言葉が記されています。
ペテロはキリストの十字架の時に、「わたしはこの人を知らない」と三度もイエス・キリストを裏切った者です。十字架という一番大事な時に裏切った弟子に対し、キリストはご自分のよみがえりのことを伝えています。とうてい赦せないようなペテロの裏切り、しかも3回もの裏切りだったのですが、キリストはペテロを赦し、彼を再生させようという願いをもって、彼に接しています。ペテロは、キリストを裏切った時に泣いています。はらわたを絞り出すような深い悲しみに満ちた涙でした。(マル14:72)。ペテロは後にペテロの手紙の中で、「なによりもまず、互いの愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである」(Ⅰペテロ4:8)と述べています。ペテロは自分がよみがえったキリストの愛を受け、立ち直ることが出来たことを思い起し、聖霊に導かれて、この御言葉を記したように考えられます。キリストは自分が受けた心の傷よりも、自分を傷つけ、苦しんでいるペテロの気持を思いやり、大きな愛をもってペテロを包んで下さっているのです。

第二に、ヤコブに現れています。

復活のキリストは、使徒たちに現れ、500人以上の人々に現れ、そしてヤコブに現れています。ヤコブとは主の兄弟ヤコブのことで、ヤコブの手紙を書いています。キリストは聖霊によって処女マリヤの中に宿り、人としてこの地上に生まれてきて下さいました。マリヤはキリストの誕生後にふつうの結婚生活に入り、夫ヨセフとの間に子どもをもうけています。その兄弟のひとりがヤコブです。キリストが伝道活動に入った時に、キリストの身内はキリストの使命を理解せず、最初の頃はキリストは気の狂っているとして、伝道しているキリストを取り押さえに来ています(マルコ3:21)。復活されたキリストはヤコブに現れています。ヤコブはキリストの弟子となり、エルサレム教会の指導者として用いられて行きます。最初はキリストを信じることができず、キリストの伝道の働きを妨害したヤコブでしたが、十字架の後に復活されたキリストに出会い、自分の全てを捧げてキリストに仕える者となり、主の恵みを表す者として生かされて行くことができたのです。

第三にパウロに現れています。

パウロは、「自分はペテロ達のように3年半も主に従って訓練を受けた者ではない。自分は復活したキリストに出会い、使徒の一員にさせてもらった。ペテロ達と比べれば、弟子としては『月足らずに生まれたような者です』」という謙った思いを言い表しています。パウロは、「迫害者の私を救いに導き、使徒の中に加えていただいたことを感謝します、すべての点で私は神の恵みによって生かされている者です。私は主の恵みによって一生懸命に伝道の働きをして来ました」ということを述べています。
では、私たちはどうでしょうか。私たちは復活のキリストに直接に出会ってはいませんが、キリストを信じ、神の子になっています。それを言い表すのが次の御言葉です。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉に尽くせない、輝きに満ちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救いを得ているからである」(Ⅰペテロ1:8-9)

ある女性の証です。クリスチャンホームに育ったが、高校生の時に友に裏切られ、人間不信になり、東京へ飛び出して行った。人は裏切るが、お金は裏切らないと考えて、年を偽り、水商売の店で働いた。お金がジャンジャン手に入る。それを遊びに、酒に、洋服に使うが、心は満たされないままであった。皆からは20歳前に酒で死ぬと言われていた。高校はお情けで卒業させてもらったが、今度は働く気力を失い、キャベツをかじってようやく生きている日々が続いた。ある日、出掛けて行った時に、雑踏の中で教会の先生に出会った。先生は、「待っているよ、教会に帰っておいで」と言われた。その時に、「主は生きておられる。大都会の中にまぎれ込んでいる私を教会の先生に会えるように導き、私を愛してくれていることを示して下さった」と気づき、泣きながら家に帰った。自分の存在を憎み、どう生きて良いか分からずに堕落した生活を送っていたが、そんな自分を見捨てずに、キリストの十字架と復活によって神様は愛を表し、自分を見つけてくれたのだ。そこから新しい信仰の生涯が始まり、結婚し、家を建て、キリストの福音を表す場にしています。

まとめ
1、15:3-4、聖書の中で、最も大事なことはキリストの十字架、葬られたこと、復活です。キリストの十字架によって罪が赦され、キリストの復活によって永遠の命が与えられていることを感謝します。キリストの福音にはすべての人を救う力があります。
2、15:9-10、復活されたキリストは、ペテロにも、ヤコブにも、パウロにも現れて下さいました。私たちも現れ、私たちは救いの恵みを与えられ、神の子にされていることを感謝します。

祈 り
天地の主である神様、最も大事なイエス・キリストの十字架と復活によって救われ、神の子にされ、教会に加えられていることを感謝します。キリストの福音によって人は救いを受けます。家族に、友に、周りの方々にイエス・キリストを伝える愛と力とを下さい。私たちを人の救いのために用いて下さい。ひとりでも多くの方々がキリストを信じて救われるように祈ります。
病気の方々を速やかに癒して下さい。様々な困難を抱えている方々に助けを与えて下さい。仕事、学びを祝福して下さい。経済の安定を与えて下さい。ひとりひとりの祈りに答を与え、導きを与えて下さい。
今週も日々聖書を読み、日々祈りをもってキリストに従う信仰の一週間を歩ませて下さい。十字架と復活によって救いを与えて下さった主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

参考文献:コリント書注解―フランシスコ会、佐藤、バークレー、榊原、黒崎、米田、Morris、文語略註、竹森、米国AG教団日曜学校テキスト。 「信仰雑誌より」