『神がおられるゆえに、われ回復す』

ヨブ42:7-17 2009712 於:熊谷福音キリスト教会
荻野倫夫伝道師

導入

 クリスチャンとは何か。クリスチャンとは、誰よりも深く自分の罪を自覚している人。しかしそれにもかかわらず、「キリストは罪人の私をお救い下さった、ハレルヤ」と言うのがクリスチャンである。

『「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。(1テモテ 1:15)

そういう訳で、自分のことを「罪人のかしら」と思っているのが、健全なクリスチャン信仰である。

 ところがである。このクリスチャンの「罪意識」は、ともすると間違った方向に働く。罪意識が高じて、自分を見舞った不幸なできごとは、自分の罪のせいではないか、と考えてしまう。実際ある人々は、自分の何かの過ちが、家族に不幸を呼んだと考えている。

 結論を先に申し上げると、自分を罪人のかしら、と呼ぶのはどこまでも正しいが、そのせいで不幸に会っている、あるいは人を不幸に会わせた、と考えるのは、どこまでも間違っている。

 今日読んだヨブ記は、実に私たちをこのような間違った罪意識から解放するための書と言っていい。私たちは、例えクリスチャンでなくても、「親の因果が子に報い」あるいは「因果応報」と、誰かの罪が今の不幸を呼んだ、とすることを、当然のことと考えている節がある。私たちの信じる神は、呪う神ではなく、祝福する神である。神は私たちを罰するのでなく、祝福する。聖書は、私たちの出会う不幸は、誰の罪の報いでもない、ということを強調する。

1.誤った罪意識からの解放

 7節を見てほしい。ここでヨブの三人の友人は、神について正しい事を語らなかった、と神に責められている。一方、ヨブは神について正しいことを語った、と言われている。実は、ヨブの三人の友人は「ヨブの不幸は彼の罪が招いた結果である」と主張したが、ヨブは「断じて否」とした。つまり神は、ヨブの言うことを認めて、人の出会う不幸は、誰の罪のせいでもない、とおっしゃっている。

ヨハネ9:13を読もう。

ここでも同様のテーマが繰り返されている。ある人が生まれつき盲人なのを、弟子は彼の両親か、彼自身の罪のせいである、と考えた。正にヨブの友人たちのような、まちがった因果応報の考えである。

これに対し、神なるキリストは、弟子の見解を完全否定して言った。「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネ9:3)

先日、全盲の辻井伸行さんが、ある国際ピアノコンクールで、日本人として初の優勝を果たして話題となった。この方に神はどのようなかかわり方をしておられるだろうか。弟子が言うような、誰かの罪を報いるかかわり方だろうか。違うのではないか。むしろキリストが仰るように、神のみわざが彼の上に現れているのではないだろうか。全盲の辻井さんを神は祝福し、ピアノコンクール優勝、という神のみわざが現れたのではないだろうか。

 ここで注意点を述べておきたいと思う。正しい罪意識もある。ある聖職者の元へ、妻子を捨てて、他の女性に走った人が相談に来たそうである。妻子を捨てたことで罪意識を感じる、その罪意識から解放されたい、と。彼の場合は、罪意識を感じるのは正しい。彼は自己の罪を認識し、責任を果たすべきである。

 正当な罪意識かどうかは、それが人を育てるか否かで判断できる。

「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。」(2コリント 7:10)

 誤った罪意識は、人を神に対して怒らせ、人に対して当たり散らさせ、自分に対して怒らせる。これはその人を育てるのではなく、病気にさせる。死を来らせる。

 一方、正しい罪意識は、自分のなした悪と直面し、それを悔い改め、正しい道へと引き戻す。この罪意識を除くことは、その人にとって却って悪である。正しい罪意識は、その人を成長させる良きものである。

だからすべての罪意識を幻想と言っているのではない。私がここで述べているのは、誤った罪意識から解放されよう、ということである。

 誤った罪意識とは、例えば以下のような例である。ある夫妻に大学生の娘がいた。その娘が突如、脳の血管が破れ、道端で倒れて死んでしまった。夫妻はこの突如降りかかってきた不幸に呆然としてしまった。この夫妻はユダヤ人だったのだが、このように言ったという。「私たちはこの間、断食を守らなかった。」夫妻は、この突然降りかかってきた不幸を、自分たちが断食を守らなかったために起こった、と考えたのだ。

 このようなことを、誤った罪意識、と呼びたい。私たちは小さな間違いや、取り返しのつかない失敗をする生き物である。罪を犯してよい、と言っているのではない。私たちは血を流すほどの抵抗をして、罪と闘わねばならない。だが神は、警察犬のように、その罪の大小すべてを暴きだし、それにふさわしい報いを与える、そのような神ではない。むしろ神は、私たちの罪を忘れる神である。

「主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられない。」(詩篇 103:10

 ここではっきり言われている。神は、私たちの罪に対する正当な報いをなさらない

「東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。」(詩篇 103:121

 それどころか、その罪を私たちから遠ざけられる。東が西に追いつくことがあるだろうか。決してない。そのように、神は私たちの罪を、決して追いつけないほど遠くへと引き離す。

私たちが天国で主にお会いした時、私たちは気になっている私の罪について「主よ、あの罪を赦しで下さっているのでしょうか」と尋ねるかもしれない。すると主はきっと「どの罪のことか。」とおっしゃるのではないか。主は私たちの罪をゆるし、忘れ、深く海の底に沈め給う神である。

 皆さんは、宗教とは、何かを信じさせるもの、と思っているだろうか。もちろんその面はある。キリスト教は死人の復活を主張する。だが社会学者のマックス・ウェーバー(Max Weber)は、ユダヤ教からキリスト教の流れを分析し、「呪術からの解放(/die Entzauberung der Welt, The Enchantment of the World)と呼んだ。

 すなわち、真の宗教は、何かを信じさせるだけでなく、人を迷信から解放する。例えば真の宗教は、「人の運命は星の運行によって決まらない。」と主張し、星占いを迷信として斥ける。あるいは真の宗教は、「人の幸/不幸は、家が建てられた方角によって決まらない。」と主張して、風水を迷信として斥ける。真の宗教は、「人の出会う悲しみは、罪の報いではない。」と主張して、因果応報の考え方を迷信として斥ける。

 重ねて言おう。私たちの礼拝する神は因果応報の神ではなく、ゆるしの神、あわれみの神である。金輪際、私の不幸、家族の不幸を、私の罪のせいと思うのは止めよう。この幻想を振り切って、私たちを罰するためでなく、私たちを祝福する神の御顔を求めていこう。

2.泣く者と共に泣く神

 さて、私たちの不幸に際し、神が報いを与えているのではない、ということが分かった。では神は、私たちが悲しむ時、どのようなかかわり方をしておられるのだろうか。

 神は、混乱し悲しむあなたと共にいる。神はあなたが泣きたいだけ泣くことを赦す。いやむしろあなたと共に泣いている。

 ヨハネ11章には、私たちが悲しんでいるときの、「神の心」が描かれている。ヨハネ11章では、ラザロという人物が死に、家族は悲しみに暮れる。さあ、その時神なるキリストは、どのように振る舞っただろうか。

「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、」(ヨハネ11:33/新改訳)

「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)

 神なるキリストは、「ラザロの死」という理不尽な不幸に怒り、動揺し、涙を流された。

 これが「神の心」である。私たちの不幸は、神の報いでないどころか、私たちの出会う悲しみに、神も一緒になって泣いている。私たちの礼拝している神は、そのような神である。

キリスト教の初期の時代、「神の不受苦性」(羅/impassibilitas Dei, /Apathy of God)が主張された。すなわち全知全能の完全な神は、苦しむことはない、という神学である。だがこれはキリスト教というより、ギリシャ哲学である。哲学者アリストテレスは、神を「不動の動者」(/to prwton kinoun akinhton, /unmoved mover)と呼んだ。哲学的に完全な神は、苦しまない、悲しみを知らない神であろう。

これに対し日本の神学者、北森家蔵は「神は苦しみ給う」という「神の痛みの神学」で西欧に大きな影響を与えた。事実、キリスト教の神は、天地万物を創造した全知全能の神でありつつ、痛みを感じる神である。キリストは恐れ多き天地の主におわす方である。その全知全能の神が、私のために涙を流す、これが私たちの信じる神である。

 ところで、私たちは「キリストの心を心」とする者である。だとするならば、私たちも、「泣く者と共に泣く」べきではないだろうか(ローマ 12:15)。

 私たちは、悲しんでいる人に接するとき、ヨブの友人たちのように、慰めるつもりが、その傷に塩を塗りこむようなこととならないようにしたい。

 ある本の中で、悲しみにくれる人にどのように接するべきか、あるいはどんなことをしてはいけないかが適切に語られている。少し抜粋させていただく。

 

 …ほとんどの宗教が悲嘆にくれている人々に対し、彼らの痛みを和らげようとするよりも、多くの思いと時を、神を正当化し弁護することに向け、「悲劇も本当は良いことであるし、不幸に思えるこの状況も本当のところは神の偉大なご計画の中にあるのだ」と説得しているように思います。たとえば、「長い目で見れば、この経験がいつかあなたをより良い人間にしてくれるのですよ」……といった慰めの言葉は、どんなに善意のつもりであったとしても、傷つき痛みに耐えている人々にとっては、……たしなめているように感じるのです。悲しみのただ中にある人にとっていちばん必要なことは、説教の言葉などではなく慰めを与えてくれる人なのです。温かく抱きしめてもらえたり、ほんの少しの間でもだまって聞いてもらえたなら、どんなに学識豊かな神学的説明を聞かされるより勇気を感じるものなのです。(H.S.クシュナー著『なぜ私だけが苦しむのか:現代のヨブ記』岩波現代文庫,2008年「第二版によせて」viii)

 ヨブの友人たちは当初、真の友人として、泣く者と共に泣く素晴らしい神の御心を行っていた。

「時に、ヨブの三人の友がこのすべての災のヨブに臨んだのを聞いて、めいめい自分の所から尋ねて来た。……彼らはヨブをいたわり、慰めようとして、たがいに約束してきたのである。彼らは目をあげて遠方から見たが、彼のヨブであることを認めがたいほどであったので、声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。」(ヨブ 2:11-13

 ここでヨブの友人たちは、悲しむヨブと共に悲しみ、ただ黙って彼と共にいた。私たちも、悲しむ人のために、このようにしたい。私たちクリスチャンは、泣く者と共に泣くべきである。

 万のアドバイスの言葉よりも、一筋の涙の方が、遥かに悲しむ人にとって助けとなる。私たちが悔い改めるべきことがあるとしたら、苦しんでいる人のために流す涙が足りなかった、ということではないか。

3. 神がおられるゆえに、われ回復す

 ある方はこうおっしゃるかも知れない。「私はもはや家族のために涙を流しつくしました。もう涙も枯れるかと思うほど泣きました。」私たちに必要なものがもう一つある。それは、神がおられる故に、人は悲しみから回復する、という確信である。

 あるユダヤ教のラビは、大きな悲しみを体験した。彼の息子が若くして死ぬという奇病にかかってしまった。病のいやしという意味では、息子は14歳で死んで、奇跡は起きなかった。

 だが彼によれば、確かに神がおられ、それによって信じられないような奇跡が起こったという。それは、あれほど心が痛んでいた自分たちが、後に信じがたいほどの回復力を見せたということである。彼は神がおられる、ということを深く深く実感できたという。神は泣く私たちと共に泣き、そして回復しがたいほどに壊れた心に、奇跡的な回復を与えて下さる、そのことで神の深い臨在を実感した、という。

 この人はユダヤ教のラビとして、多くの、信じられないような悲劇に見舞われた人と出会って、相談を受けてきた。だがこれらの人々の後の回復はそのラビも本人も信じがたいほどであり、回復の神の確かな存在を実感したという。

 ある神学生が病院を訪問した時のことである。ひとりの患者に出会った。警察官として街の平和を守り、忠実な夫、良き父親であった彼は、急に出てきた車をよけようとして、バイクで転倒してしまった。結果、瞬きと言葉を喋る以外は、彼の体は麻痺してしまっていた。彼の妻は、彼の娘を連れて、彼の元から去ってしまった。その彼が、言ったことは、「たとえ手元にピストルがあったとしても、私にはそれを持ち上げて自分で死ぬこともできない。今、いちばん欲しいのはピストルと、その引き金を引くことのきでる力だ。それだけでいいから欲しい。」このように彼は絶望し切っていた。だがそんな彼も、後に信じがたいほどに、奇跡的にその魂が回復を遂げたという。後の彼の言葉である。「今は考えが変わって、ピストルを欲しいと思わなくなった。このままでも生きていて楽しいと思えることがあるのがわかったよ」そう言って、笑顔で語るようになったという。

 最近いのちのことば社から、「うつになった聖徒たち」という題名の書が発売された。

第一にこの題名が、「うつ」と「聖徒」は共存し得る、と語っている。そうなのだ。うつになったということは、その人が敬虔なクリスチャンであることと矛盾しない。以下はあるクリスチャン精神科医の言葉である。「人は風邪をひく。風邪をひくことは罪ではない。うつは、心が風邪をひいたようなもの。うつは不信仰の表れではない。」

第二にこの題名は、神の回復が期待される。かつてヨブはあまりの苦しさに死を求めて「なにゆえ、わたしは胎から出て、死ななかったのか」(ヨブ3:11)と叫んだ。だが後にそのずたずたに傷付いた魂が、神との出会いを通して、癒され、回復した。

かつて大預言者エリヤは、燃え尽き症候群のような状態に陥り「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。」(列王記上19:4)と嘆いた。だが後に神の懇切丁寧な語りかけを通して、再び燃やされて主の働きに戻って行き、聖徒として天に凱旋していった。

イエス・キリストご自身、十字架の試錬を前に「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。」(マルコ14:34)と弟子に本音を打ち明けている。ところが汗が血の滴りのように落ちる祈りを通して勝利を得、「わたしはすでに世に勝っている」。(ヨハネ福 16:33)「立て、さあ行こう。」(マタイ26:46)と言って十字架に向かっていき、勇ましく高尚な生涯を全うした。

これらのかつて悲しみに暮れた人物たちは、その悲しみのただ中でなお、まごうかたなき聖徒だった。そして神は彼らにお会いし、彼らはその祈りの格闘の中で、その悲しみから回復した

 今ご自分が悲しみの中にいる方、あるいはご家族、友人が悲しみの中にいる方は、以下のことを心から信じて欲しい。

神がおられる故に、人は悲しみから回復する

神は、苦しむ者に出会って下さる。心の最も深いところにおいて。神は苦しむ者に出会い、その人を立ち直らせて下さる。泣く者と共に泣くだけでなく、回復を与えるのが神である。最高のカウンセラー、いやし主なる神は、私たちに出会い、私たちを回復させて下さる。だから今悲しみにくれる人は、神の回復を信じて欲しい。今悲しみの中にある家族、友人をもつ人は、神が必ずその人を立ち上がらせて下さることを確信して欲しい。

意識よりも、無意識よりも深い魂の領域で、神なるキリストは私に出会ってくださる。そのとき、人は信じがたいほどの回復を見せるだろう。

既にクリスチャンである方にも、神は改めてお会い下さる。神の恵みは日々新たである。ヨブは既に神を信じていた。だが神は改めて、ヨブに出会ってくださった。「この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた」(ヨブ 38:1)。そうして、ヨブは回復した。私たち既にクリスチャンであっても、改めて神と出会うことができ、神は私たちを回復させ給うことだろう。神の御顔を求めていこう。

  

 神はおられる。どうやって分かるか。深く落ち込んでいた人が、信じがたい回復を見せることによって分かる。

 神を信じよう。人は回復し得る。なぜか。神が、その人の魂に出会ってくださるからである。なにはなくとも、まず信仰を持ち続けよう。ヨブはあきらめなかった。神の御顔を求め、神に向かって叫び続けた。人は必ず回復する。なぜなら神がおられ、神は私たちに出会ってくださるからである。だからヨブの如く神を求め、神に祈り続けよう。そうするならば、私たちにもヨブのような回復が与えられるだろう。

また私たちの信仰は、私たちの愛する人々、しかも苦しんでいる人々への、神の存在を知らす電波である。目には見えないが、その人々は私たちからの電波をキャッチしている。私たちは信仰の電波を発信し続けよう。信仰を持ち続け、神はおられる、神はあなたに出会ってくださる、神はあなたを信じがたいほどの回復に導いて下さる、ということを、私の存在を通して語り続けよう。そして事実、大きな悲しみにくれている私たちの愛する人を、神は必ず回復せしめ給うだろう。