いっさいのことを愛をもって行え! コリント第一16:1-24   主の2009.7.19礼拝



創造主である神様は七日間(一週間)で天地を創造されました。第一日目に光、第二日目に天、第三日目に陸と海、地上に植物、第四日目に太陽、月などの天体、第五日目に鳥、魚、第六日目に地上の生き物、人間の創造、第七日目は安息の日とされました(創世記1;1-2:7)。

人間は、生きるのに必要なすべての条件、環境が整えられた六日目の最後に、土で造られた体に、神様がご自分の生命(いのち)の息を人間の鼻から吹き入れ、人間は生きる者になりました。六日目が終わり、次の七日目は「神がこの日に、そのすべての創造の業(わざ)を終って休まれた」という安息の日でした(創世記2:3)。これは直訳すると、「神は、成長のために(ル・イシヨォト、口語訳ではこの原語が略されている)神が創造されたすべての神の業(わざ)を、この日に休まれた」との意です(佐藤陽二博士)。この聖句は、神様が創造の業(わざ)を終って休まれたという意味ではなく、人間のために神様が安息の日を備えて下さったことを意味しています。人間は一週間のうち六日間働き、七日目を安息の日として、生命(いのち)の源である神様を礼拝するように創造されたのです。私たちは礼拝を通して、神様の御言葉によって心を養われ、讃美と祈りを通して神様との交わりを深め、霊的に成長し、生きる力を与えられ、天国への希望を新たにします。神様は人間のために愛の配慮をもって安息日を定めてくださったのです。

本日はコリント第一16:1-24です。「一週の初めの日ごとに」(2節)とありますが、「一週の初めの日」とは日曜日のことです。旧約時代は土曜日が安息の日でしたが、キリストの復活を記念して、安息日が日曜日に移動しました。キリストの復活を記念する日なので、日曜日を主の日(主日)または聖日と呼んでいます(キリストを信じていないユダヤ教の人々は今でも土曜安息を守っています)。「一週の初めの日ごとに」と言うのは毎週々々日曜日ごとに、という意味です。私たちは一週の初めの日曜日ごとに、礼拝を捧げ、御子イエス・キリストの十字架と復活によって救われたことを感謝し、主を讃美します。聖書の御言葉によって心を養われ、聖霊の助けによって祈り、主に従う決断をして、一週間の旅路へと出発します。日曜礼拝を備えて下さった神様の愛に感謝します。



内容区分

1、クリスチャンは、主の御心を実践する者である。16:1-12

2、クリスチャンは、主の愛を表す者である。16:13-24

資料問題

16章は、1-4節、エルサレム教会援助の募金に関する指示、5-12節、パウロの伝道旅行計画及びテモテ、アポロの消息、13-24節、クリスチャンらしい生活の勧告、パウロの協力者の紹介、終わりの挨拶から成っている。1節「聖徒たちへの献金」、エルサレム教会のための援助金(ガラテヤ2:10、ロマ15:25-28、使徒24:17など)。2節「一週の初めの日」、日曜日のこと。初代教会は主の復活を記念して日曜を安息の日として礼拝を捧げ、それが現在に継承されている。8節「有力な働きの門が大きく開かれている」、伝道の好機が到来している(Ⅱコリント2:12、コロサイ4:3)。15節「ステパナの家はアカヤの初穂」、パウロがコリントで洗礼を授けた家族(1:16)。17節「ステパナとポルトナトとアカイコ」、コリント教会からの質問書をパウロに届けた人々であろう。質問の答は7章以下である。21節「ここでパウロが手ずからあいさつをしるす」、パウロはここから終わり24節までを書いた。「マラナ・タ」、マラン・アタ(主が来る)、マラナ・タ(主よ、来てください)と二つに解することができるが、マラナ・タが適切である(黙示録22:20)。




1、クリスチャンは、主の御心を実践する者である。16:1-12

一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めるこのとのないようにしなさい。(2節)

最初のクリスチャンはユダヤ人でしたが、彼らは先祖達が守ってきた土曜安息をやめて、キリストが復活された日曜日を安息の日にしました。初代教会のクリスチャン達は、日曜早朝から共に集まって礼拝を捧げ、「我らの主イエス・キリストはよみがえり、今も生きている主である」ことを告白し、信仰の道を歩んで行きました。キリストの昇天後、約33年ほどを経てコリントの手紙が書かれていますが、「一週の初めの日ごとに」(2節)とごく当たり前のように記されていることによって、日曜礼拝が定着していたことが分かります。

*16:1-12を通して、クリスチャンは主の御心を実践する者であることを二つの面からみましょう。

第一に、クリスチャンは献金を通して主の御心を実践する恵みを与えられています。

この献金は、直接にはエルサレムの貧しいクリスチャン達に対する献金の勧めですが、この勧めを通して私たちに献金することの恵みを伝えられています。実際問題として、金銭の問題ほどデリケートなものはないでしょう。ニュースを賑わせているのは、金銭にまつわるトラブルです。私たち人間は、1円でも多く手に入れたいと願い、出す時には1円でも少ないことを望んでいます。

出すことが好きでない私たちが献金できるのは、キリストの愛を知ったからです。聖書に二つの実例があります。かつて罪を犯していた女性がキリストの赦しを受けたことを表すために、キリストの足を涙でぬらし、自分の髪の毛で拭い、数百万円もする香油をキリストの足に注いでキリストへの愛を表しています(ルカ7:36-50)。僅かレプタ2枚という献金をした無名の貧しい女性がいました。キリストは彼女の献金をご覧になって、「皆のものは残ったものを献金しているが、彼女は生活費全部を献げている」と言われ、彼女の信仰を賞賛しています(マルコ12:41-44)。この二つの実例から、献金の動機はキリストへの愛であることが分かります。

献金について、パウロの勧めは具体的です。献金はその場で、一時的にするものではなく、「収入に応じて手もとにたくわえておき」(2節)と、日曜日に献金するために備えるようにと言っています。キリストが十字架に命を捧げ、私たちを罪から救って下さった恵みに感謝し、聖書の教えに従ってキチンと献金しましょう、との意です。

献金についてのあるクリスチャンの証しです。

「礼拝と献金こそは信仰の奥義と言えましょう。私は主の十字架の愛を思えば思うほど感謝の献金をすることが喜びになっています。献金をするようになると、不要なもの、買わなくてもよいものは買わなくなる、無駄使いをしなくなる」と言っています。

私事ですが、ゼロの開拓伝道から、大勢の人々が集まる教会を牧会している牧師の証しを聴きました。「自分はキリストの愛を受けて、伝道者になった。あらゆる面において主に従い、献金の面では十分の一献金を献げることによって神様の豊かな恵みを、この身をもって体験し、表して行こう」ということを実践し、祝福を受けたことを述べていました。私事ですが、私もあらゆる面で主に従って行けるように日々祈り、献金においては十分の一献金を実践し、41年間の伝道者生活を主によって支えられ、祝福を与えられていることを感謝します。

第二に、主に倣い、人々のことを思い遣る事を実践する恵みを与えられています。

パウロは自分の伝道旅行について述べると共に、テモテのこと、アポロや兄弟たちのために配慮するようにとコリント教会の人々にお願いしています。パウロは「おのおの自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」(ピリピ2:5)と言っていますが、この言葉の通りに、テモテ、アポロについての気配りをしています。主イエス・キリストは、常に周りの人々のことを考えていました。例えば十字架につけられた時に、キリストが先ずなさったことは、「父よ、彼らをゆるしたまえ」(ルカ23:34)という、自分を十字架につけた者のために、赦しを願う祈りでした。死刑判決を受けて十字架につけられた犯罪人が、「イエス様、私は悪い人間でした。私を赦し、天国に行く時に、私を思い出して下さい」と叫び求めた時に、「よく言っておくが、あなたは、きょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」と言われ、彼の罪を赦し、神に回復させ、彼に天国行きの恵みを与えています(ルカ23:40-43)。

毎月第三土曜日にネームレス伝道の集まりがあります。ネームレスとは自分をキリストに献げて、キリストを伝える者になるということです。キリストの再臨が来る前に、家族、友達が救われて行くことを願って、祈り、伝道すすることが大切です。キリストが十字架にかかりながら、自分の敵のために祈り、極悪人の祈りを聴いて救いを与えています。キリストを信じることなしには天国行きはありません。私たちの家族や周りの人々の救いのために祈り、伝道することが緊急の課題です。家族の救い、友人知人の救いを心から願う方々はネームレスの集まりに、きょうから参加して下さい。



2、クリスチャンは、主の愛を表す者である。16:13-24

目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい。いっさいのことを、愛をもって行いなさい。(13-14節)、もし主を愛さない者があれば、呪われよ。(マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)。(22節)

*まもなくコリント第一の手紙が終ろうとしていますが、13-24節を通して、二つのことを見て行きましょう。

第一に、クリスチャン信仰は愛が根本であることが教えられています。

13節―14節を見てみます。

①「目をさましていなさい」との勧めがあります。

キリストは十字架を前にしてゲッセマネの園で徹夜の祈りを捧げましたが、ペテロ、ヤコブ、ヨハネに「誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい」(マルコ14:34)と命じています。しかし弟子達は眠り込んでしまい、3回もキリストによって起こされています。お祈りの時に、私たちはつい眠ってしまうという弱さがあることを経験しています。ここで言われている「目をさましていなさい」とは、聖霊に満たされて祈り、誘惑に負けない力を与えられて行くことです。

②「信仰に立ちなさい」との勧めがあります。

パウロは、別の個所で「すべて信仰によらないことは、罪である」(ロマ14:23後半)と言っています。私たちの信仰はどこから来るのか・・・聖書の御言葉からきます。神様は全ての人に聖書を通して語りかけています。聖書を読み続けることが信仰を強くし、成長させます。信仰的でないことが、教会の中に侵入しようとしています。キリストを信じれば、全ての過去が清められ、今を喜びと感謝をもって生きる力が与えられ、主は私たちに将来を与え、希望を与え、やがて時が来れば天の御国に私たちを入れて下さいます。ところがこの世の占いは、先祖が悪い、家系が悪いなどと根拠のない恐れを与え、そのためにお金を払って因縁を断ち切りなさいと言います。キリストを信じれば、「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント5:17)というキリストの救いと永遠の命の祝福に包まれます。信仰に立つ秘訣は聖書を読み、祈り、教会につながり、互いに祈り合い、励まし合い、愛し合って行くことです。

③「男らしく、強くあってほしい」との勧めがあります。

これは「雄々しく強く生きなさい」という訳のほうが分かり易いと思います。「雄々しく」とは皆に合わせて行けばいいという漫然とした信仰ではなく、聖書にしっかり立って行くことです。

*そして「いっさいのことを、愛をもって行いなさい」という勧めがあります。「愛がなければ、いっさいは無益である」と言われています。愛がなければ、なぜ一切は無益なのでしょうか。それは神は愛であり、神は永遠だからです。例えば自分の全財産を人に施しても、もし愛がなければ一切は無益です(13:3)。愛がないまま、自分の名前を残すために財産を施しても、それは自分が崇められるためであり、人間のすることは一時的に持て囃(はや)されても、すぐに忘れ去られて行きます。今、うちわ祭りのシーズンですが、祭りの控え所に、寄付をした人の名前が、金額の多い順に書き出されています。それは純粋な気持をもって寄付したのではなく、自分の名誉のために寄付していることを表しています。聖書の神様は愛であり、神様は永遠です。自分の名誉のためではなく、神様の栄光になるように施せば、神様は永遠ですから、神様の恵みだけが残ります。全財産を施した人は、天国で永遠の報いを受けることができます。教会に集う皆様が、キリストへの愛をもって献げている尊い献金が主の働きのために用いられていることを感謝します。

私たちは、全てのことを愛をもって行うように努めています。愛をもって行うように、キリストが私たちを助け、導いて下さっていることを感謝します。現代は生きる基準が見失われている時代です。クリスチャンの生きる基準はキリストの愛です。聖書は告げます、「愛する者たちよ。わたしたちは互いに愛し合おうではなくいか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている(Ⅰヨハネ4:7)。

第二に、クリスチャンの愛の交わりが教えられています。

15節にステパナの家のことが出ています。パウロがコリントで洗礼を授けた家族で、「彼らは身をもって聖徒に奉仕してくれた」と言われています。伝道者パウロを助け、また自分の家を開放して集まりを開いていたようです。17節にステパナ、ポルトナト、アカイコという名前が出てきますが、彼ら3人がエペソにいるパウロを訪ね、コリント教会の現状を伝え、信仰の質問を記した手紙を渡して、パウロの指示を仰いだのです。パウロは、「自分の教会を愛し、教会がキリストにあって成長して行くようにと祈り願っている人々を重んじなさい」と彼らの働きを喜んでいます(18節)。19節にはアクラとプリスキラの夫婦の名前が出ています。彼らはパウロのために、自分たちの首を差し出すほど、パウロを命がけで支えてくれた信仰の夫婦です(ロマ16:3-4)。彼らはあちこちに移動していますが、行く先々で自分の家を家の教会として開放し、キリストを伝える働きを展開しています。パウロは、その他に大勢の人々に感謝を表しています。

パウロは多くの人の名前をあげていますが、この事からクリスチャンの交わりは、愛をもって相手を受け入れ、相手に感謝の気持を伝えることが大切であるということを教えられます。私たちは人からよくしてもらったことはすぐに忘れる、ところが人にした小さなことを長く覚えているという傾向があります。パウロは、彼のために祈り、支え、捧げている多くの人々のことを忘れないで、名前をあげて感謝の気持を表しています。私が今朝この講壇に立つために多くの祈り、励ましがあることを覚え、感謝あるのみです。

最後に21-24節はパウロが自らペンをとって記した箇所です(彼の手紙は口述筆記というスタイル)。22節の御言葉に注目しましょう。「主を愛さない者があれば、呪われよ」という激しい言葉があります。キリストを真剣に求めない者は、やがてキリストから遠ざかり、祝福ではなく呪いを自分自身に招くということになります。「マラナ・タ、われらの主よ、きたりませ」、主の再臨は迫っています。私たちが主を愛しているのであれば、先ず自分自身が真剣にキリストに従って行こうという覚悟が求められています。キリストに従う決断の祈りを捧げて、キリストに従う日々を前進して行きましょう。



まとめ

1、16:2、クリスチャンは、主の御心を行う者です。毎週日曜日には礼拝を捧げます。献金を献げ、人のことを思い遣り、特にキリストの救いを伝えて行くことが大切です。

2、16:13-14、22、クリスチャンは、信仰の根本が愛であることを信じます。クリスチャンの交わりは愛の交わりであることを感謝します。主を愛さない者は呪われます。私たちは主を愛し、人を愛する者であるように祈って行きましょう。



祈 り  天地の主である神様、神様の独り子であるイエス・キリストの十字架と復活によって救われていることを感謝します。キリストの復活を記念し祝う礼拝に出席するように導いて下さった主の愛に感謝します。一週の初めの日である日曜礼拝を最優先して、休むことなく礼拝に出席できるように力を与えて下さい。礼拝を簡単に休み、軽んじる者は恵みから取り残されます。キリストを愛し、キリストが一番である信仰生活をおくり、一切のことを愛をもって行うように導いて下さい。病気の方を癒して下さい。戦いの中にある方を支え、勝利を与えて下さい。仕事の祝福を願う方の祈りに答えて下さい。仕事を求める方にふさわしい仕事を備えて下さい。今週25日のホームレス伝道を祝福して下さい。私たちの愛する主イエス・キリストのお名前によってお祈りします、アーメン。



参考文献:コリント書注解―フランシスコ会、佐藤順、福田秀雄、バークレー、榊原康夫、LABN、文語略註、黒崎幸吉。 「正典的聖書研究と創世記研究・佐藤陽二・聖文舎」