万事を益とする神  ロマ8:26-28      主の2009.7.26礼拝



テレビの長寿番組の中に「水戸黄門」、「遠山の金さん」、「暴れん坊将軍」などの時代劇があります。どれも、善人が必ず報いを受け、悪人が必ず罰を受けるという単純明快な物語になっています。善人を助け、悪を罰する主役は、最初は普通の人として事件の中にいます。家来が真相を探り、悪巧みの数々について証拠を手に入れると、主役は身分を明かし、その権威で事件の決着をつけます。例えば水戸黄門は、家来の一人が三つ葉葵の印籠をかざして、「この紋所が目に入らぬか」と叫び、そこにいるヒゲの老人が元副将軍水戸光圀であることを示し、元副将軍の権威で悪を罰し、善に報い、全てを解決するので、視聴者は安心して見ていられるのです。

本日はロマ8:26-28です。28節に「神は・・・万事を益となるようにして下さる」との約束があります。人生に様々な問題があり、問題が早く解決する時と、なかなか問題が解決しない時とがあります。どちらかと言うと、問題が長引く場合のほうが多くて、テレビの水戸黄門のように、僅か一時間の間に問題が解決し、めでたしめでたしという訳には行かないということを思います。しかし、御言葉は、「神は・・・万事を益となるようにして下さる」との約束です。約束を確かにするために、私たちに御言葉が与えられています。また、私たちに「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる」(26節)という聖霊による祈りが与えられています。それが、「神は・・・万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」という信仰の確信となって私たちを支えています。

神は愛です。神は善にして善を行われる主です。神は恵み深い御霊によって、私たちに平安の日々を歩ませて下さいます。「神は・・・万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」という信仰をもって祈り、新しい一週間の旅路へ出発いたしましょう。



内容区分

1、万事が益となるように、私たちに神への祈りが与えられている。8:26-27

2、万事が益となるように、私たちに神の愛が与えられている。8:28

資料問題

ロマ8章は、聖霊による肉の征服(5-13節)、聖霊は私たちが神の子であることをあかしする(4-17節)、聖霊は私たちが御国を継ぐことの保証である(18-25節)、聖霊は私たちの祈りを助ける(26-17節)と教えられている。26節「助けて下さる」、傍から手を貸して助けること。また、ある人を楽にしてやるために、その人と重荷を共にするとの意。重荷を担って私たちを真に助けて下さるのはイエス・キリストである(マタイ11:28)。「うめき」、聖霊は私たちの苦しみ、問題をご存知である。聖霊自らが神と私たちの仲に入って下さって、私たちのために哀願し、懇願し、私たちの心の深いところにある言葉に言い表しえない思いを、聖霊がうめいて神に訴えるのである。「とりなす」、傍から手を貸して助けること。27節「御旨」、前もって計画すること。28節「ご計画に従って召された者たち」、クリスチャンは神の選びの中にある者である。ヨハネ15:16を見よ。



1、万事が益となるように、私たちに神への祈りが与えられている。8:26-27

御霊もまた同じように、弱い私たちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。(26-27節)

本年度初めに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。」(Ⅰテサ5:16-18)という御言葉を与えられ、日々に喜び、祈り、感謝を表す生活をしながら、主に守られ、一年前半を終えて後半に入っていることを感謝します。

本日のロマ8:26-28の中で、先ず26-27節に、祈りについての教えがあります。

*ここから祈りについて三つの重要な点を見て行きましょう。

第一に、祈りは、祈り続けるものです

もし私たちが呼吸を止めれば、すぐに苦しくなり、そのままにしていれば脳が破壊され、心臓が止まって死に至ります。祈りは霊の呼吸と言われます。もし祈りを止めれば、心に恵みが無くなり、聖書を読まなくなり、教会に行かなくなり、生命の源である神様から離れ、霊的に死んで行きます。神様は人間が命を保つために、この世に誕生した瞬間から呼吸する力を与えてくれました。私たちがキリストを信じ、霊的に生まれ変わると、神の子になる身分を授けて下さる聖霊が与えられ、「アバ(おとうちゃん)、父よ」と、天の神様に祈る正しい祈りができるようになります(ロマ8:15)。

祈りで大事なことは、祈り続けること、祈りを止めない、ということです。私たちはこの世に生活して行くために働かなければなりません。キリストを信じ、生まれ変った者は、魂を養うために祈りに労苦しなければなりません。私たちの主イエス・キリストは、地上におられた時、常に祈っていました。朝ごとに祈り(マルコ1:35)、病人のために祈り(マルコ1:41)、祈りによって悪霊を追い出し(マルコ5:8)、12弟子を選ぶ時には徹夜で祈り(ルカ6:12)、十字架の前の晩、ゲッセマネで血の汗を流して祈り(ルカ22:44)、十字架にかけられた時に、「父よ、彼らを赦したまえ」(ルカ23:34)と祈りました。今は天において私たちのために執り成しの祈りを捧げておられます(ロマ8:34)。私たちも主に倣って祈り続ける時に、魂が恵まれ、祈りの力が与えられ、どんな時でも祈れるようになります。

祈りは祈り続けるものです。もし祈りを怠り、やめたらどうなるのか・・・神様を真剣に求めない者は神様から取り残されます。祈らないと、「祈りたくない」という罪を呼び覚まし、だんだん祈れなくなってきます。祈らないことの罰は祈れなくなることです。ですから最悪の罪は祈らないことです。

第二に、祈りにおいて、聖霊が弱い私たちを助けて下さいます。

祈りの大切さを知りながら、私たちは自分の弱さによって、なかなか祈れないということを思います。自分のこと、家族のこと、教会のこと、広くは日本のこと、世界のことを祈りたいのに、充分に祈れないというもどかしさを感じます。しかし、神は愛です。祈れない私たちのために聖霊を遣わして、祈りを助けて下さいます。

26節前半に、「聖霊は、弱いわたしたちを助けて下さる」と言われています。助けるとは、手を貸してやる、傍から手を貸して助けるという意味です。また、ある人を楽にしてやるために重荷を担うということです。私たちの全ての重荷は主イエス・キリストが背負って、私たちと軛(くびき)を共にして、私たちを支えて下さっています(マタイ11:28を見よ)。祈る時に、「天の神様、何事でも主イエス様の御名によって祈れば、祈りが聴かれることを信じます。弱い私に聖霊の助けを与えて下さい。聖霊さま、私に手を貸して下さい。充分に祈ることが出来るように導いて下さい」と聖霊の助けと導きを求めるならば、祈りは恵まれ、祈りをやめないで祈ることができます。

聖霊は私たちの祈りを導きます。しかし、実際問題として、26節後半で言われているように、「わたしたちはどう祈ったらよいかわからない」ということを実感します。しかし神は愛です。祈れない私たちを助けるために、聖霊が私たちと神様の仲に入って、神様に懇願し、哀願し、そして言葉に表せない切なるうめきをもって祈って下さいます。聖霊が、言葉には表せないような深い溜息をつきながら、私たちと神様の間にあって、とりなしの祈りをして下さいます。私たちも聖霊に助けられてうめきながら祈ります。言葉に表せないうめきのような祈りであっても、27節に記されているように確実に神の御許に届いているのです。私たちは時々、どう祈ってよいかわからずに思案にくれる時があるかも知れません。私事ですが、教会に多くの人々が集えば、それぞれの事情、立場、問題があり、さらに家族の事柄があります。祈りの要請も多岐にわたります。しばしば、どう祈ってよいか分からないような問題に直面します。祈りのノートを開きながら、本当に溜息が出るようなことがあります。その時に、この個所が思い出されます。「ああ、今、神の聖霊が私を助けて下さる。聖霊がうめいて祈っておられる。聖霊は私の心の中にある全ての思いを受け止め、共にうめいて下さっている。神様は人の心の奥底まで知っておられ、聖霊のうめきを通して、私が言葉に表すことのできないような深い問題を理解して下さっている」ということを実感します。すると心が軽くなり、問題解決に光が与えられ、心が平安になることを体験しています。

第三に、聖霊は常に私たちを助けて下さる、ということです。

聖句をご覧になってください。「弱い私たちを助けて下さる」(26節)、「私たちのためにとりなして下さるからである」(26節)、「御霊は聖徒のために神の御旨にかなうとりなしをして下さることを、わたしたちは知っている」(27節)とありますが、これらは常に現在です。過去において助けて下さったが、今はもう助けることは終わってしまった。あるいは未来に何か起きたら多分助けて下さるであろう、という不確かなものではありません。今、この瞬間に助けて下さるということです。キリストは約束して下さいました、「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である」(ヨハネ14:16-17前半)。

聖霊が私たちに祈りの力を与え、この瞬間に助けを下さいます。今日も共にいて下さる聖霊の導きによって祈り、主の愛と力とに満たされて行きましょう。



2、万事が益となるように、私たちに神の愛が与えられている。8:28

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。(28節)

*この聖句は、私たちが、神様の大きな愛によって守られていることを告げています。

第一に、私たちは、神様の愛のご計画の中にあって救われた者です。

神様は大きな愛のご計画をもって、私たちを救いの中に導いて下さいました。それは人知を越えたご計画であって、その時には神様の御心を知ることができず、救われてから時を経て、神様の大きな愛のご計画があったことを知ることが出来るものです。私事ですが、分かり易いので、話します。高校受験の時に、行きたいと思った高校に願書を出したら、区域外ということで受け付けてもらえませんでした。やむなく違う高校へ願書を出しましたが、そこを落ちてしまし、全然知らない高校で、以前は女子校であったところにようやく入れました。全く行く気がしませんでしたが、親が月謝を出しているので、やめる訳には行きません。規則のきびしい学校で、遅刻厳禁、通学は靴以外はだめなどいろいろな決まりがありました。私は毎日2時間目ぐらいに、高下駄を履いてカランコロンという足音を響かせながら登校するので、体育の先生が待ち伏せしていて、「お前は靴がないのか」と言うので「ありません」と答えると、そこで長々と説教をされるという日々が続きました。ところが私の担任がクリスチャンでした。間もなく運動部で知りあった仲間に2名のクリスチャンがいました。担任の祈りがあり(後から知りました)、またクリスチャンの友達から聖書を借りて読んだりして、だんだん私も真面目になり、遂に2年生の夏に教会に導かれ、秋に洗礼を受けました。振り返って見ると、そこに大きな神様の愛とご計画があったことを知ります。あの時には希望しない高校に行ったことが不満でしたが、神様はクリスチャンの担任を備え、クリスチャンの友達を与えて下さって、私は救われたのです。(私が伝道者になっことを、担任はすごく喜んでくれて、年金の中からしばしば献金を送って下さいました。天国で会えるのを楽しみにしています)。

皆さんも、自分の救いを考えてみると、そこに大きな神の愛のご計画があったことを思い、感謝が湧いてくると思います。

第二に、神様は万事(すべての事柄)を益となるようにして下さいます。

人生には、良いことも悪いことも起きてきます。私たちは躓いたり、失敗したり、時には罪を犯すことがあるかも知れません。神様はどんな場合でも、私たちを見捨てず、また私たちの過ちをキリストの十字架によって赦し、きよめて下さいます。私たちが何があろうとも神様に縋っているならば、万事を益となるように導いて下さいます。

昨日、上野公園ホームレス伝道に8名で奉仕に行くことが出来て幸いでした。2時から礼拝が始まります。公園の中ですから、博物館、美術館へ行く人々が大勢歩いています。そこに300名のホームレスの人々が地べたに坐り、比留間牧師夫妻をはじめトポスキリスト教会のメンバー、熊谷のメンバーなどが集まります。オルガンが響き、その中で自分の罪を悔い改め、礼拝に備えます。大勢の人々が行き交っているのに、集会はキリストの臨在と聖霊の守りに包まれます。私はわが身を顧みてキリストの恵みを思い、集っている300名の方々の過去の人生はどうであれ、万事を益として下さるキリストの十字架による救いの恵みがひとりひとりの心に届くように祈ります。そして、神様は万事を益として下さることを信じることが出来ます。事実、比留間師夫妻の10年間のホームレス伝道を通して多くの方々が救われていて、確かに神様は万事を益として下さる愛の神様であることを感謝することができます。

第三に、万事を益として下さることを、私たちは知っています。

キリストの救いの恵みは現実のことです。私たちは主の恵みに感謝し、主を讃美します。

一人のエリート社員がいました。10年ほどヨーロッパで業績をあげ、息子も順調に育ち、帰国しました。帰国して息子が中学に行き始めました。ところが、数ヶ月後のある朝、突然、息子が歩けなくなってしまったのです。身体的には原因がなく、子ども精神科に2年間入院しました。退院はしましたが、息子の心は病んだままで、「自分がこんなになったのは、親のせいだ」と家で金属バットをもって暴れ、包丁をもって親の部屋に入り、「何故ぼくをヨーロッパに連れて行って、10年間も苦しめたのか」と親を責めた。苦しんでいる母親に、クリスチャンの兄から、「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に救いを得させる神の力である」(ロマ1:17)という聖句が示され、それからキリストを求めて、救われることができました。息子に話をし、教会の集会へ共に行き、息子もキリストの救いを受けました。息子は救われたのですが、しかし、父親に対する憎しみが消えないままでした。父親は自分の努力で、企業で立派な業績をあげた。だが自分の息子と断絶してしまった。そこで初めて父親は自分の無力を感じ、神様に祈るようになった。ある時、復活したキリストがペテロに、「あなたはわたしを愛するか」と三度も尋ねている場面のメッセージを聴き、「自分は企業で自分の力で企業戦士と言われた。だが本当の人生はキリストの御心に従って生きることだ」というように心を変えられ、キリストを受け入れた。父親が信仰をもった時に、息子の心から父親に対する憎しみが消えてしまった。息子は結婚して子どもを与えられ、今はキリストを通して表された神様の愛に感謝し、父母の愛に感謝し、信仰の日々を送っています。



まとめ

1、8:26-27、万事が益となるように、私たちに神様への祈りが与えられています。聖霊の助けによって祈りましょう。うめきのような祈りでも、祈りは聴かれます。聖霊による助けは、今、この時、この瞬間に与えられます。祈りましょう。

2、8:28、万事が益となるように、私たちに神の愛が与えられています。神様の愛のご計画の中にあって救われていることを感謝しましょう。現在、苦しんでいる方、病気の方、家族の悩みがある方、仕事のことで戦っている方など課題がたくさんあるかも知れません。素晴しいことに神様は愛です。神様が万事を益として下さることを信じて、祈りましょう。人知をはるかに越えた神様の答えが与えられます。聖霊の助けを受けて、イエス・キリストの御名によって祈りましょう。



祈 り

天地の主である神様、独り子であるイエス・キリストの十字架の恵みによる救いに感謝します。今週も祈りを続けて行くように日々聖霊によって導いて下さい。聖霊よ、弱い私たちを助けて下さい。うめきのような祈りでも聴いて下さることを信じ、聖霊によって心の奥底にある私たちの思いが神様に届いていることを信じ、感謝します。神様は愛です。万事が益となるように導かれることを信じます。特に困難の中にある方、病気の方、家族のことで助けを必要とする方などに、神様の愛の答が与えられることを信じます。今週も聖霊に導かれて、キリストに従う祈りの日々を送って行くように助け、導いて下さい。私たちの愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:ロマ書注解―尾山令仁、フランシスコ会、黒崎幸吉、バーネット、山本泰次郎、木村文太郎、口語略解、文語略註、LABN、佐藤陽二、バークレー。 「祈りの精神・フォーサイス・ヨルダン社」、「信仰証し誌」