永遠の命の言(ことば) ヨハネ6:66-71    主の2009.8.9礼拝



「信徒の友6月号」に掲載された短歌です。「受洗より七十八年健やかに日々を感謝の九十四才」(東京都・加藤董子(ただこ)作)。この短歌によって、作者は1915年(大正4年)16歳の時にキリストを信じて洗礼を受け、天皇崇拝の時代、第二次世界大戦のキリスト教迫害時代を経て、78年の日々を信仰一筋に生きてきたことを証(あかし)をしています。この作者はどんな時もコツコツと信仰生活を続けて来られ、今も主の恵みの中を前進しておられると思います。私たちにとってキリストを信じ、教会につながって信仰を守り通して行くのは一生の事柄です。特に日本では異教による偶像礼拝がはびこっていますので、日々聖書を読み、祈りを継続し、教会の集会にしっかり出席して行くことが、信仰を保つために絶対に必要であることを、心に刻んでおくことが大切です。

本日はヨハネ6:66-71です。ペテロは、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのは、あなたです」(68節)とキリストへの信仰を告白しています。キリストの奇蹟を見に来た人々、パンを求めて来た人々などがキリストの許から去って行きました。去って行く人々を見ながら、ペテロは主に向かい、「永遠の命の言をもっているのはあなたです」という素晴しい信仰を言い表しています。けれども、彼は何回も信仰の失敗をしています。最後にはキリストを裏切るという大失敗をしてしまいました。しかし、彼はキリストにしがみついて、キリストから離れませんでした。キリストは何があっても必死になって縋って来るペテロを受け入れ、赦しと回復を与え、ペテロはキリストの愛によって、信仰を保ち続けて、天の御国に凱旋して行きました。

今朝も主のメッセージによって心を養われ、祈って、新しい一週間の旅路へと出発しましょう。



内容区分

1、主を信じ続けるために、主の十字架を仰いで行くことが重要である。6:66-69

2、主を信じ続けるために、主の救いの恵みを個人的に体験して行こう。6:70-71

資料問題

66節「それ以来、多くの弟子達は去って行き」、それ以来をこの故にという翻訳があるが、そのほうが意味が通る。キリストが「天から下ってきた命のパンである」と言われ、命のパンであるわたしを食さなければ永遠の命を得ることができないと告げた。この言葉をキリストの肉を食べると誤解した多くの人々が、この故にキリストの許を去って行った。本当の意味は、キリストは十字架にかかって、人間の罪の身代りになって、身を裂かれ、血を流して贖いになる。それを信じることが救いとなるといことである。去って行くとは退却する、キリストに従ったのに、また古い生活に戻ること。67節「あなたがたも去ろうとするのか」、いやいや、私たちは去りません、という打消しの返事が返ってくるような形の問いかけである。69節「わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」、聖者は神の仕事の成就のために選び聖別した者(10:36,17:19)。悪霊がイエス・キリストに対し「私はあなたが神の聖者であることを知っています」(マルコ1:24、ルカ4:34)と叫んでいるが、もうほとんど「メシヤ」という称号と同じ位の意味である。神の聖者は異本では活ける神の子とある。




1、主を信じ続けるために、主の十字架を仰いで行くことが重要である。6:66-69

シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょう。永遠の命の言(ことば)をもっているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。(68-69節)

明治から昭和にかけてキリストを伝えた内村鑑三は、「日本国においては、キリスト信仰を一生涯の事として行くことが大きな証になる」という意味のことを述べています。日本では、誕生は神道の神社に行く、結婚式はキリスト教会に行く、葬式は仏教で行うという人々がいます。自分にとって都合のよいものをその場その場で信心するという態度で、一つの真実なものを信じるというまことの信仰からは、ほど遠いものです。キリストのおられた当時、大勢の人々がキリストの許にやってきました。その中にはキリストの奇蹟が見たい、腹いっぱいパンをもらいという人々もいました。彼らは、「キリストを信じてまことの信仰の道を歩むように」というメッセージを聴くと、キリストから離れて行きます。去り行く人々を見ながら、67-69節にキリストと12弟子のやり取りが記されています。

*この個所から三つのことを教えられます。

第一に、キリストは私たちを信頼しておられるということです。

折角キリストの御許に来たのに、「多くの弟子達は去っていって、イエスと行動を共にしなかった」(66節)と言われています。去るというのは退却することで、キリストのいない古い罪の生活に戻るということです。自分の問題が解決したり、病気が直ったりすると、ご利益目当ての人々は、自分の問題を解決し、病を癒して下さったキリストの愛と恵みを忘れて、あとは自分の力でやって行けるという高ぶった思いになり、信仰から離れてしまいます。

去り行く人々を見ながら、キリストは「あなたがたも去ろうとするのか」(67節)と12弟子に問いかけます。これは、「あなたがたは去るということをしない、去らないであろう」ということです。もう少し意味を加えれば、「ご利益目当ての人々は去って行く。しかしあなたがたは去らないで、わたしに従い続ける」という肯定的な問いかけです。

私たちが信仰を持つようになったのは神様の選びによります。キリストは6:44で、「わたしをつかわされた父が引き寄せて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない」と言われています。私たちは神様の選びを受けて信仰をもつように導かれたのです。キリストは私たちに対し、「神の選びによって来た者は決してわたしの許を去らない」という信頼をもっておられます。私たちは主の信頼に応えて、キリストから離れないで、信仰生活をして行く決意を新たにしましょう。

第二に、キリストへの信仰を新たにして私たちは主に従って行きます。

68節で、ペテロは、主の問い掛けに対して、弟子を代表して答えています。

❶イエス・キリストに向かって、「主よ」と呼びかけています。

「主よ」というのは単なる敬語でありません。これは旧約聖書以来イスラエルの人々を導いてこられた主なる神様ということです。ペテロはユダヤ人です。ユダヤ人は偶像礼拝をせず、また人間を神様扱いすることはありません。ペテロはキリストの御言葉を聴き、なされた御業の素晴しさに、目の前にいるキリストが神であることを認め、「主よ」と呼んでいるのです。

❷イエス・キリストは「永遠の命の言をもって」おられます。

罪を赦し、永遠の命を与えて下さるのはイエス・キリストです。

❸イエス・キリストを「神の聖者である」と呼んでいます。

旧約聖書では、神の聖者」とは神様のものとされた聖なる人物を表しています。新約聖書では、悪霊達がキリストに向かって、「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしと何の係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしに来られたのですが。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」(ルカ4:34)と叫んでいます。キリストは神の聖者、救い主であるということを表しています。

第三に、キリストは十字架によって救いを表された救主です。

ペテロがキリストに向かって、「キリストが主であり、永遠の命の言をもち、神の聖者である」ことを告白しましたが、この時にはキリストの十字架はまだ実現していませんでした。十字架はまだでしたが、実はヨハネ6章の中で、キリストは自らの十字架について語っています。

6:53-54をご覧ください。この御言葉の真意を理解できなかった多くの人々が、キリストを離れて行ったのです。これを分かり易く翻訳すると次のようになります。

イエスは彼らに言われた、「よく言っておきますが。確かに、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、あなたがたのうちに永遠の命はありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むというのは、世の人々を罪から救うために、十字架上で体を裂き血を流す、そのわたしを信じることです。そういう人々には永遠の命が与えられ、わたしはその人々を、終わりの日に復活させます」。

ペテロは、この時はまだ意味はよくわからなかったでしょうが、キリストが命を投げ出して人間を救うということを理解したので、「主よ、わたしたちは、あなたから離れません」と告白したのです。

昨日、教会でOさんの召天一周年記念式を行いました。家族・親族の方々が25名ほど出席し、教会の方々も大勢出席して、主の臨在の中に神を礼拝し、故人を偲び、ご家族のために祈る時が与えられ感謝でした。Oさんは厳しい試練の中で、聖書を読み、キリストの十字架を信じる信仰に導かれ、心の生まれ変わりを与えられ、クリスチャンになりました。罪を赦し、永遠の命を与えて下さったキリストの救いの恵みに感謝し、キリストを知るためにキリストを食べて味わうために(キリストを深く知るために)日々に聖書を読んでいました。6:54のように表現すれば、キリストを食べて味うために(キリストを知って、深く信じるために)、聖書注解書を購入して聖書に取り組み、「聖書の学びは楽しい」と言っておられたのを思い出します。Oさんは病との闘いの中にあって、キリストを見上げることによって信仰を恵まれ、信仰を全うして天の御国に凱旋して行かれたのです。



2、主を信じ続けるために、主の救いの恵みを個人的に体験して行こう。6:70-71

「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましよう」(67節)、イエスは彼らに答えて言われた、「あなたがた十二人を選んだのは、わたしではなかったか。それだのに、あなたがたのうちのひとりは悪魔である。これは、イスカリオテのシモンの子ユダをさして言われたのである(70-71節)。

*70-71節から教えられることに注目して行きましょう。

第一に、キリストを離れたら、私たちの行くところはありません。

多くの人々がキリストから離れて行きました。しかし12弟子はキリストのところに踏み止まっています。12弟子の信仰がすぐれていたから踏み止まったのでしょうか。踏み止まった理由は「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう」というペテロの言葉に示されています。

キリストだけが罪を赦すために十字架で命を捧げて下さったお方です。キリストだけが死を滅ぼして復活され、私たちの心に中に住んで下さる、活きている主です。私たちが躓き、失敗しても、キリストは、「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル13:5後半)と優しく言われ、私たちを受け入れ、支えて下さいます。教会にはキリストの臨在があり、あたたかい交わりがあります。常に私たちの霊を養う命の御言葉が語られています。聖霊によって祈りが与えられ、どんなことでも祈ることができます。キリストの御許には恵みが満ち溢れています。

もし、私たちがキリストの御許を去れば、これら全ての恵みを失ってしまいます。もう一度ペテロの言葉を読みます、「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょう」・・・罪の赦し、天国の命、平安と望みと確かな慰めを与えて下さるのはキリストだけです。昔はクリスチャンであったという人々に会うことがあります。元クリスチャンであるという人の共通点は何かといえば、平安がないということです。顔に喜びがないということです。その原因は、平安と喜びの与え主であるキリストから離れてしまったからです。キリストに結びついている私たちには深い、何があっても揺らぐことのない心の平安があります。苦しいことや困難があったとしても、主は万事を益として下さるという信仰の故に喜びを失わないでいることができます。

第二に、キリストに対する素直な信仰を持つことが大切です。

キリストは12弟子を選ばれ、彼らを御側において3年半の間、寝食を共にし、聖書を教え、信仰の訓練をされました。ところが、その12弟子のひとりであるユダがキリストを裏切ったのです。

なぜキリストは裏切り者を選んだのかということで議論をしている人々もいます。中にはユダはキリストを十字架にかけるという重要な役割を果たしたという神学者までいます。

議論よりも聖書の教えるところに注目して行きましょう。聖書はユダが最終的に銀貨30枚でキリストを敵に売り渡した事、彼がそれを後悔して銀貨を神殿に投げ込み、彼自身は裏切りの金で買った土地に真っ逆さまに落ちて、はらわたが流れ出て死んだということです。最も身近にキリストの側にいたのに、彼はキリストから目を逸らし、彼の関心はこの世の栄光を求め、彼は12弟子団の会計でしたが、自分の欲望のためにお金をごまかして使っていたのです(ヨハネ12:6)。そんな彼をキリストは最後の最後まで見捨てずに、ユダが兵隊を連れてキリストを捕らえに来た時に、「悪魔よ」ではなく、「友よ」と呼びかけています(マタイ26:50)。

私たちはキリストの救いを受けています。キリストをしっかり見つめて、この世の君である悪魔に惑わされないように祈って行きましょう。

第三に、6:69の最後のところ、「信じ、知っています」という御言葉を心に留めましょう。

信じるということは、単なる頭の問題ではなく、頭も心も含めて全身全霊をもって信じるということです。信じるということは、キリストに身を任せ、キリストだけを信じ、キリストとキリストの教会から離れないで信仰生活をするということです。

信じるということはキリストに縋りつくことです。10ヶ月になる孫の丈がいます。ハイハイをすることが上手です。まだしゃべれないので「ウ~」という声を発しながら自分の意志を表します。私がハイハイをしている丈を眺めていると、ものすごいスピードのハイハイで私に近づき、私の足をつかんで立ち上がり、私が抱き上げるまで「ウ~ウ~」と言っています。抱きあげると満足して喜びます。幼子は疑うことを知らず、自分の身を預けてきます。信じるということは幼子のようにキリストに縋ることです。キリストは私たちを受け入れ、抱き上げ、傷を癒し、御言葉をもって励まして下さいます。

知るということは人格的に結びつくことです。アダムは「その妻エバを知った」。すると「彼女は身ごもり」ます(創世記4:1)。それほどに、本当に肌と肌で知り合う結びつきが知るということです。私たちは、キリストのことを表面的に知るだけではなく、キリストとの深い心の結びつきを体験して行くように、さらに聖書に親しみ、キリストを求めて続けて行きましょう。



まとめ

6:66-71を読みます。

1、キリストは私たちを信頼して、信仰の道を歩むように導いて下さいます。キリストの十字架の救いを信じて、キリストに従う日々を歩んで行きましょう。」

2、キリストの救いの恵みを信じ、キリストを個人的に知り、体験し、主に縋って、信仰の日々を前進して行きましょう。



祈 り

天地の主である神様を讃えます、

私たちの救いのために独り子イエス・キリストを遣わして下さって、十字架と復活によって救いの道を開いて下さったことを感謝します。私たちはキリストを信じる信仰を与えられて、神の子にされていることを感謝します。十字架を仰ぎ見ながら信仰の日々を歩ませて下さい。もっともっとキリストを信じ、キリストを知り、キリストに従う者として導いて下さい。ひとりひとりにキリストの恵みが与えられ、聖霊によって祈りが与えられ、今週もキリスト中心の日々を前進させて下さい。各ファミリーを祝福して下さい。ゴスペル、夜の礼拝を祝福して下さい。

私たちの祈りが聴かれることを信じ、イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。





参考文献:ヨハネ注解―フランシスコ会、佐藤、ライル、黒崎、バークレー、榊原、米田、文語略註、LABN。  「内村鑑三信仰著作全集・教文館」