生ける水の源 ヨハネ福音書7:37-39 主の2009.8.16礼拝
テレビでアフリカの動物たちの番組を見たことがあります。動物たちにとって最も大切な問題は水です。乾季になると、川は干上がり、大地はカラカラに乾き切ってひび割れしてしまいます。動物たちは、渇きのために元気を無くして行きます。すると、ある日、動物達がそれぞれ群れをつくって移動を始めます。不思議なことに同じ方向を目指して進んで行きます。ある地点に達すると、空に雲が広がって突然に雨が降り出して池ができ、動物達は水を思い切り飲んで元気になります。なぜ動物たちが雨の時期を知って移動するのかは謎ですが、天地を創造された神様の力が働いていることは確かです。人間も水がなければ死にます。食べ物なしでもある期間は生き延びて行けますが、水がないと動物も人間も命を保つことができません。植物は枯れて、朽ちはてます。水は人間や動物のために、植物のために、なくてはならぬ命の源であることを思うことができます。
本日はヨハネ7:37-39です。この場面は、イスラエルの仮庵の祭りの時の出来事です(7:2)。祭りは七日間続きます。昔、イスラエル民族は荒野を40年間放浪した後に自分たちの故郷に帰ることができました。後代の人々は、先祖たちの荒野での苦難の日々を忘れないために、一年に一度、家の外に仮庵(仮小屋)をつくり、そこで一週間を過ごし、先祖の苦難をしのびました。キリストの時代は神殿があり、エルサレム近郊30キロ以内の成人男子はナツメヤシとはこやなぎの枝をもって神殿に行き、祭壇の周りを行進しました。祭りの間、大祭司はシロアムの池で毎日金の壷に水を汲んで祭壇に注ぎます。水が注がれると、「主に感謝せよ」(詩篇118:25)とレビ人の聖歌隊がうたい、人々は祭壇にむかってナツメヤシを振るという儀式が行われていました。それは、先祖達が荒野で水がなくなった時に、神様が岩から水を出してくれた奇蹟を、祭壇に水を注ぐことによって思い起し、神様への感謝を表したのです。仮庵で一週間を過ごした後に各自の家に帰り、八日目を祭りの最終日として盛大に祝いました。その祭りの最後の日に、キリストの声が響き渡りました、「だれでも渇く者は、わたしのところに来て飲むがよい」。これは「あなたがたは体の渇きを癒す水のことで神に感謝し、神をほめ讃えている。もしあなた方が心(霊魂)の渇きを癒す水が欲しいなら、わたしの所に来なさい」という意味です。
ご一緒に主のメッセージを聴き、祈って、新しい一週間の旅路へと出発いたしましょう。
内容区分
1、イエス・キリストは、私たちを救いに招いて下さる主である。7:37
2、イエス・キリストは、私たちの人生を豊かにして下さる主である。7:38-39
資料問題
この場面はイスラエル大祭の一つ、仮庵の祭りの時である(2節)。9月―10月に、8日間に渡って守られる収穫感謝祭。木の枝で覆った仮小屋をつくり、その中に住んでぶどう、いちじく、オリーブなどの果実の収穫を祝う。イスラエル民族が出エジプト後の40年間の荒野漂白時代をしのび、神の恵みを覚える厳粛で喜びに満ちた祭りであった。祭りの間、大祭司はシロアムの池で毎日金の壷に水を汲み、それを神殿の祭壇に注いだ。これは荒野で岩から水が流れ出た奇蹟を表す(出17:5-6、民20:7-13)。38節「聖書に書いてあるとおり」、旧約聖書の中に広範に記されている(例えばイザヤ12:3、ゼカリヤ13:1など)。「その腹から」、その人の心の中からの意。39節「御霊がまだ下っていなかった」、聖霊はキリストの十字架、復活の後に下った。カルバリーなくしてペンテコステはありえないのである。
1、イエス・キリストは私たちを救いに招いて下さる救主である。7:37
祭の終わりの大事な日に、イエスは立って叫んで言われた、「だれでも渇く者は、わたしのところにきて飲むがよい」(37節)
「イエスは立って」とありますが、当時のユダヤ教の指導者達は座ってお話をしました。しかし、「イエスは立って」、しかも「叫んで言われた」とありますから、よほど大事なことを人々に伝えようとしていたことが分かります。その内容は37-38節に記されています。
*まず37節の中から大切なことを教えられて行きたいと思います。
第一に、「だれでも」とあるように、キリストは全ての人々に語りかけています。
世界には60億以上の人間がいます。肌の色、言葉、宗教、食べ物、文化、習慣などが異なる人々が暮しています。教会には、信仰の面で言えばキリストを信じて洗礼を受けている方々、これからキリストを信じようと思っている方々がいます、年齢的には日本の年号で言えば大正生まれから平成生まれまでの方々がいます、男性もいれば女性もいます。国籍の面では日本、韓国、中国、ミャンマー、アメリカ、フィリピン、トリニダードトバゴ、タイ、ブラジル、ペルーなどの方々がいます。それら全てをひっくるめて、キリストは「だれでも」と言われ、キリストの招きにもれる人はいないということを示しています。ヤクザの世界で小指を詰めた(親分へのお詫びのために小指の半分を切断する)人がキリストによって救われ、刑務所伝道をしています。お寺の僧侶であった人がキリストを信じ、袈裟衣を脱ぎ捨て、牧師になっています。イスラム教の国でキリストを信じ、洗礼を受けた人もいます。キリストは「だれでも」救いに導き入れて下さるまことの救主です。
第二に、キリストは「渇いているなら」と呼びかけています。
人間は喉が渇けば水が飲みたくなります。飲めば喉が潤されます。しかし、ここでキリストが言われている「渇いている」とは、心の渇きのことです。肉体の渇きは水を飲めば癒されますが、心の渇きはどのようにすれば癒されるでしょうか。
キリストの言葉は、自分の心に平安がない人、人生に行き詰まりを感じている人、自分の罪を自覚し、何とかして罪を赦されて心の安らぎを得たいと切望している人など、心に渇きを覚えている人々に向かって語りかけられています。しかし、中には「自分は今のところ特別に心の渇きを覚えない」という人がいるかもしれません。ではお尋ねします、三つの問いです、「私たちは一体どこから来たのでしょうか。何のために生きているのでしょうか。最終的にどこへ向かって行くのでしょうか」。このことが明確にならない限り、何のために生きているのかという人生の真の目的が分からず、また死んでどこへ行くのか分からないままです。この三つの問いに対する明確な回答がない限り、私たちの心は満たされないままです。
私たちは天地を創造されたまことの神様によって命を与えられた者です。ところが、私たちはまことの神様から離れています。まことの神様から離れていることが罪です。まことの神様は愛と喜びと正しさを与えて下さる神様です。この神様を見上げて生きていれば、人生は祝福されます。残念なことに、まことの神様を見失い、偶像礼拝をし、自分勝手に生きているのが人間です。その結果、人間の心は罪に支配され、心の中から悪い思いが出て来ます。悪い思いとは、「不品行(性的な罪)、盗み、人殺し、姦淫(不倫、援助交際、出会い系サイトなど)、貪欲、悪意、欺き、好色(ワイセツビデオ、盗撮など)、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさ」です(マルコ7:21-23)。罪に汚された心のままでいるなら、私たちの内からは何の良いことも出て来ません。善いことをしたいが悪いことをしてしまう。悪いことをやめようと思うが断ち切れないで悪をしてしまうという状態に追い込まれます。最近、麻薬の件で、タレントの酒井法子容疑者が逮捕され、大きな社会問題になりました。アイドルとしてどんなに人気があっても、お金があっても、うわべは綺麗そうに見えても、心が神様から離れていれば、有名無名に関わり無く、人間は罪を犯し、滅びの中に沈んで行きます。
第三に、キリストは「わたしのところに来て飲むがよい」と私たちを招いています。
キリストの招きの言葉は至って単純です。心に渇きを覚えている人はわたし(キリスト)のもとに来なさいと言われます。人生には様々な心の渇きがあります
・・・・罪に悩んでいる人、人生の目的を知りたいと願う人、病気の恐れから解放されたい人、人間関係の改善を求める人、結婚を通して明るい家庭を築きたいと望んでいる人、家族の救いを求める人、仕事の祝福を願う人、経済の安定を求める人、将来の進路について導きを求めている人、仕事を求めている人・・・・
渇きを癒され、問題の解決を願い求める人は「キリストのところに来て飲みなさい」と言われています。飲むとはキリストを信じることです。キリストは私たちのために最善をして下さるということを
信じることです。キリストが最善をして下さることの証拠は十字架です。キリストは人間の心の渇きが神様から離れている罪のためであることを知っていました。人間は罪をもったままでいるならば、良いと思うことが出来ず、悪いと思うことに引きずられて悪いことをし、死んで神様に審かれて永遠の滅びの中へ投げ込まれてしまいます。そこで神の御子であるキリストが、罪のない清い身を十字架にささげて、私たちの罪の身代りになって下さったのです。キリストを信じれば、心に命の水が注がれ、罪の赦しと永遠の命を与えられ、罪の力から解放され、天国を目指して歩むという人生の目標を与えられて生きるようになります。
「だれでも渇いているものは、わたしのところに来て飲むがよい」というキリストのところに私たちが行き、人生の渇きを癒されて行くように、主の助けを求めて祈るようにお勧めします。
2、イエス・キリストは、私たちの人生を豊かにして下さる主である。7:38-39
「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これはイエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊が下っていなかったのである。(38-39節)
*38-39節を通して大事な点を見てまいりましょう。
第一に、キリストは聖書に基づく信仰を教えています。
キリストは、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」と言われています。「聖書に書いてあるとおり」というのは信仰の大切な基準を指し示しています。私たちの信仰と生活に関する基準は聖書です。キリストの時代は旧約聖書が一つのまとまった書物になっていました。キリストが天に帰られた後に、聖霊に導かれて、私たちが現在もっている新約聖書がひとつのまとまった書物になり、旧約聖書・新約聖書が合わさって聖書となり、それが現在の聖書です。この聖書は2000年間にわたって、その内容は一字一句、最初に書かれたままで伝えられていて、現在2,500以上の言葉に翻訳されています。
私たちの信仰の基準はは聖書です。信仰と共に私たちの生活の基準です。聖書以外に私たちの信仰と生活の基準はありません。礼拝のはじめに使徒信条を告白しますが、聖書の中で信仰の最も重要な部分をまとめたものです。
もし、「私たちはキリスト教です」と言いながら、聖書以外のものを信仰の基準として持っているなら、それはキリスト教ではなく、偽キリストの教えであり、異端です。キリスト教の異端としては、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、統一協会(世界神霊統一キリスト協会)、ものみの塔(エホバの証人)があります。モルモン教はモルモン経典、統一協会は原理講論、ものみの塔は新世界訳というものみの塔専用の間違った聖書をもっています(例えば十字架を杭と訳している)。また異端はキリストの十字架による救いを否定し、キリストを救主として信じていません。
皆さんにお勧めします。キリストは常に聖書を引用して、教えています。キリストに倣って、私たちも聖書を読みましょう。人の言葉ではなく、神の言葉である聖書に親しんで行けば、信仰が恵まれ、キリストに頼る思いが深められて行きます。人に相談し、頼ることも必要でしょう。しかし人の気持は変り、人はいなくなります。キリストは、きのうも、きょうも、永遠までも変ることなく、私たちと共にいて下さる救主です(へブル13:8)。聖書を読んでキリストの恵みに満たされて行きましょう。
第二に、キリストを信じると、心の中身が変えられます。
「その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」とあります。腹とは私たちの心のことです。心の中から生けるきよい水が流れ出ると言われています。キリストを信じる前の私たちの心は悪い思いで満ちていました。心から悪い思いが出てきて、自分を傷つけ、人を傷つけていました。キリストを信じた時に、キリストの霊である聖霊が生ける水として心に注がれ、私たちの心の中から悪い思いを流し去り、心の中からきよい思い、愛の思いが溢れ出てくるように変えられました。
キリストが38節で聖霊について教えているこの時には、聖霊はまだ来ていませんでした。キリストが十字架にかかり、甦った後に天に帰られました。弟子達がエルサレムの二階座敷で祈っている時に聖霊が降り、聖霊の時代が始まり、今日に及んでいます。キリストの十字架による犠牲なしには聖霊は来なかったのです。私たちはキリストの十字架と復活の恵みによって救われ、聖霊に満たされています。十字架を通して、私たちに聖霊を与えて下さったキリストに感謝しましょう。
第三に、キリストの恵みを分け与えて生きるようになります。
水なしに人は生きることができなません。同様にキリストなしに人は霊的に生きることができないものです。キリストを信じて、命を潤し、心を癒すきよい聖霊の恵みに満たされて行くように祈って行くことが大切です。そして、「その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」と言われていますが、私たちはキリストを信じる恵みを周りに及ぼして行くようになります。
Mさんは、高校生の時、キリスト教主義の学校に通っていたので聖書を読み、礼拝に出席していました。しかし聖書の教えと自分がかみ合わない、どうして自分は聖書の教えるように、心がきよい思いでいっぱいにならないのだろうかと考え、落ち込んで行きました。部活での無理が祟ってリューマチを患ってしまった。それでも心の渇きを癒すために教会に通っていたが、どうしても「イエス・キリストが神の子であり救主である」ということが分からず、心は満たされず、渇いたままであった。そうした状態が続いていたが、それでも教会に通い、家では祈りを続けていた。ある日、家で祈っている時に、自分のことしか考えていないことに気づき、それを悔改めた時に、上から激しい熱いものを感じ、キリストを信じ、聖霊が心に注がれたことを体験した。心が明るくなり、祈りの力が与えられ、やがて健康を取り戻すことができたのです。それから、日本の農業の危機を感じ、農村に飛び込んで、生活改善のために取り組んでいます。
キリストを信じると、心に聖霊が満たされ、水が流れて周囲を潤して行くように、私たちを通して、キリストを信じる恵みが周りに及んで行きます。私たちもキリストの霊である聖霊に満たされ、キリストの救いの恵みを、家族に、周りの方々に分かち合い、救いの恵みを伝道して行くように祈って行きましょう。
まとめ
ヨハネ7:37-39を読みます。
1、イエス・キリストは私たちを救いに招いて下さる主です。キリストの御許に、だれでも行くことができます。渇いた心のままで行けば、キリストは心の渇きを癒し、私たちを十字架の救いの中に入れて下さいます。キリストを信じている方々は救いに感謝しましょう。キリストのことがよく分からなくても、「私も救いに入れて下さい」と祈れば、きょうから新しい人生に入ることができます。
2、キリストは、私たちの人生を豊かにして下さる主です。信仰は聖書の中に正しく教えられています。キリストを信じると、心の中身が変えられ、聖霊が注がれ、きよい思い、愛の思いが心に溢れてきます。キリストの恵みを分ち与えて生きる者に変えられます。私たちも聖霊に満たされ、キリストを信じる恵みを周りに及ぼして行くように祈りましょう。
祈 り
天地の主である神様、独り子イエス・キリストの救いに感謝します。
私たちの心をきよい命の水である聖霊によって満たし、潤して下さい。多くの方々が心の平安を失い、心が渇き、霊的に渇いて助けを求めています。私たちに聖霊を満たし、周りの方々にキリストの救いを伝えて行くように用いて下さい。今週も日々聖霊によって祈り、キリストに従う道を歩ませて下さい。病の人に平安を与え、助けを求める人に答えて下さることを信じます。私たちに聖霊を送り、私たちを助けて下さる主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります、アーメン。
参考文献:ヨハネ注解―バークレー、榊原、フランシスコ会、米田、黒崎、ライル、LABN、文語略註。 「新約聖書小辞典・新教出版社」