神のなされることは皆その時にかなって美しい 伝道の書3:1-11 主の2009.9.20 礼拝
1965年12月、アメリカから派遣されたクラー宣教師によって、熊谷伝道が始まりました。クラー宣教師は、本当は足利市で伝道を始めるために、家を借りる仮契約を結んでいたのですが、本契約の日に家主の都合により、家を借りることが取り消しになりました。少しガッカリしながら足利から東京への帰り道で熊谷に立ち寄った時に、空き家が見つかり、トントン拍子に契約が成立し、熊谷伝道が開始されることになりました。私は当時神学校2年生でしたが、神学校校長であり教団総理であった弓山先生に呼ばれ、「君の日曜派遣は熊谷に変更する」と言われたのを覚えています。熊谷の初礼拝は1965年12月第一日曜日、借りた家の八畳ほどの部屋に、クラー宣教師夫妻と子ども3人の一家5人、ペルー宣教に行かれた中沢師、私の計七名で捧げられました。私はクラー宣教師から、「次の週からあなたがメッセージを語って下さい」と言われてメッセージを語り、神学校卒業後に熊谷に任命され、今日までメッセージを語り続けています。ゼロからの開拓でしたが富田弘子さんと福島成子さんが最初に救われ、富田さんは現在荻野さん、福島さんは松下さんで現在は東京・小岩キリスト教会に所属しています。借家を三回替わり、1982年に現在地に皆で勤労奉仕をしながら、借金なしで建て上げたのがこの会堂です。多くの方々がキリストを信じて救いを受け、また献身者が起されて各地で伝道牧会にあたっていることを感謝します。
本日は伝道の書(伝道者の書、コヘレトの言葉)3:1-11です。「すべての業(わざ)には時がある」と繰り返し述べられています。天(あめ)が下(全世界)のすべての事には時がありますが、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(11節)と言われています。クラー宣教師が足利で家を借りることがダメになり、そのまま東京に帰っていれば熊谷の教会は存在していませんでした。途中で「熊谷を見てみよう」と思って立ち寄ったら、手ごろな借家が見つかり、伝道の拠点ができました。なぜ弓山先生が私を熊谷に派遣したのかは分かりませんが、私はすっかり熊谷の住人になっています。献堂式の時に「君たち夫婦が熊谷で伝道していることは喜びだ」と仰ってくくれたことを感謝しています。振り返って見る時、一つ一つの出来事に神様の時があり、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」ことを実感します。これからも「神は万事を益となるようにして下さること」(ロマ8:28)を信じ、常に主の導きに信頼して行こうという平安と希望が与えられていることを感謝します。
内容区分
1、私たちの人生は創造主である神様によって導かれている。3:1-10
2、私たちの人生のすべては皆そのときにかなって美しい。3:10
資料問題
本書の原名はコへーレスで、「会衆の指導者」または「会衆の中にあって語る者」という意味である。エクレシアステースという訳語をあてている七十人訳も同様の含みをもっている。1-8節に、一生の全活動を含む対立概念を示す一対の表現が14回出る。11節「神のなされることは皆その時にかなって美しい」、神のなされる業を見ると、そのひとつひとつが、皆その時にかなって美しいことは不思議な事実である。「永遠を思う思いを授けられた」、永遠(へブル語オーラム)には、世界、秘密、謎、不可解、無知などの意味がある。「人は神のなされる業を初めから終わりまで見きわめることはできない」、神が人間に与えた知恵は限られたものなので、生涯に起る事を、ある程度は知ることはできるが、それを完全に知ることはできない(6:12,7:14、8:7、11:5)。
1、私たちの人生は創造主である神様によって導かれている。3:1-10
天(あめ)が下のすべての事には季節があり、すべての業(わざ)には時がある。(1節)
3:1-10を読む時に、「天が下のすべての事には季節があり、すべての業には時がある」(1節)と言われているのは真実であるということを思います。
*では1-10節を通して教えられることを見てまいりましょう。
第一に、私たちすべては神様の支配と守りの中にあります。
この世界は不思議に満ちています。シベリヤから白鳥が何百キロも旅をして日本の地にやって来て冬を過ごし、また帰って行きます。渡り鳥がどのようにして、生まれた場所と越冬地を往復すのかは充分に解明されていませんが、太陽や星の位置を見ながら飛んで来るという説があります。鳥以上に、神様は私たちを守り、支えておられます。太陽の位置がもう少し近ければ、地球上のものは全部黒焦げになってしまい、太陽がもう少し遠ければ地球上のものは全部冷凍されてしまいます。神様は創造の力をもって、私たち人間を特別に守り、支えて下さっています。今、季節は秋ですが、お米などの収穫の季節を迎え、生きるに必要な物を刈り取るという恵みを与えられています。私たちすべては神様の守りの中にあることを感謝します。
第二に、神の支配の中にあって、2-8節には人生の様々な場面が14回出てきます。
例えば、「生まれるに時があり、死ぬるに時がある」(2節)と言われていますが、誰も誕生の時を知ることはできず、また誰も地上を去る日のことは分かりません、神様が全てのことを定め、導いて下さって誕生があり、また死があることを思います。「悲しむに時があり、踊るに時がある」(4節)と言われています。「悲しむに時がある」という事ですが、私の義理の妹公子は57歳で先日(9月5日)この世を去って行きました。この世を去る9日前にキリストをハッキリと心に迎え入れるという救いの恵みをいただきました。葬式の日に弟さんが話してくれました。「9月1日が姉・公子の誕生日で、公子の姉ふたりと自分が誕生ケーキをもって見舞いに行き、誕生日を祝いました。その時に姉の公子が、何回も神様、神様と言っていましたが、葬式のメッセージの中で姉・公子が信仰を持ったことを知り、神様と言っていた意味がわかったような気がします」。さらに「踊るに時がある」ということですが、この踊りとは婚礼の行列におけるお祝いの踊りを指しています。明日午前10時から私の姪と婚約者の第二回結婚講座を行います。こちらは人生の喜びの時を迎えようとしています。まことにすべての事に神様の定めた時があることを実感します。
第三に、神様の守りの中にあることを感謝し、神様に従って行くことが大切です。
私たちが、すべてを支配しておられる神様の守りの中にあることを信じる時に、信仰の力が与えられ、神様に従って行くことができるようになります。
Ohさんの証しです。「家は熱心な神道の家で朝夕は家族そろって神棚に向かうのが日課でした。近所で教会の土曜学校が開かれ、両親はそこに行くことに賛同してくれた。教会に行くようになったが、中高生時代は、礼拝を欠席した時は、その週の間に必ず教会に行くことにしていた。大学生のころ洗礼を決心した。母親に相談すると、『洗礼はかまわないが我が家の神様も忘れるな』と言われた。洗礼とは唯一のまことの神様を信じることだと話したが全く通じませんでした。母の了解を得て洗礼を受けたいと思い、礼拝の中で必死になって祈り、家に帰ると、『洗礼を受けてもいいよ』という静かな母の言葉がまっていた。祈りは聴かれるという確かさを覚えた始まりである。
洗礼の月のクリスマス礼拝には母の顔があった。その後、就職して3月に大阪に出て、半年後のクリスマスに大阪の教会に転籍し、教会学校の手伝いを勧められた。勤務の関係で教会を2回かわったが、教会学校の奉仕は40年続いています。キリスト教とはまったく関係のない家で育ったのですが、家のすぐ近くに教会があり、小さい頃から自分で教会に通えたこと、そして教会学校教師の奉仕が40年にわたって継続されていることを感謝します。これからも子どもたちと共にイエス様の御言葉を聴きつつ、伝え続けて行きたい」。
人生の様々な局面を乗り越えながら、キリストに従い、子供たちにキリストを伝える奉仕を継続している信仰の姿勢に教えられます。
2、私たちの人生のすべては皆その時にかなって美しい。3:12
神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それもなお、人は神のなされる業(わざ)を初めから終わりまで見きわめることはできない。(11節)
11節の「神のなされることは皆その時にかなって美しい」という御言葉は神様への信頼を言い表しています。詩篇の記者は神様に向かって、「あなたは善にして善を行われます」(詩篇119:68)と告白しています。使徒パウロは、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、私たちは知っている」(ロマ8:28)という主への信頼と感謝を言い表しています。
*では11節から教えられることを見てまいりましょう。
第一に、私たちの人生を導くのは神様です。
11節の始めで、「神のなされることは」と言われています。
この世界は、神様の「光あれ」(創世記1:3)という御言葉によって始まりました。
人間は土のちりで形造られましたが、神様の息がその鼻より吹き込まれて、人は生きる者になりました(創世記2:7)。
神様が、ハランにいたアブラハムに「わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1)と声をかけ、カナンの地に導き、イスラエル民族、また信仰の先祖になるように導いて下さいました。
神様が、エジプトで奴隷の境遇に苦しむイスラエルの民を救い出すために、モーセを遣わし、出エジプトを成功させました。
新約時代になって、神様は、罪に苦しみ、滅びに向かっている人間を救うために、「神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)というキリストによる救いの道を開いて下さいました。
すべての事において神様が主導権をとり、私たちを守り、導き、祝福して下さいます。
第二に、神様は私たちの心に永遠を思う思いを授けて下さいました。
11節後半をご覧下さい。「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」とあります。人間の心ほど不思議なものはありません。私たちは限られた存在でありながら思いを無限の世界に馳せることができ、永遠を思うことが出来ます。永遠とは世界、秘密、謎、不可解、無知などの意味があります。私たちはこの世界のことを考え、また壮大な宇宙について考え、宇宙の秘密の一端を解き明かすことさえできます。
フランスのパスカル(1623-62)は、「人間は風にそよぐ葦のような存在である。しかし、人間は考える葦である」と言っています。私たちは何か強いものによってすぐ滅ぼされるような弱い小さな存在ですが、神様より与えられた心の働きによって、神様の存在を知り、その恵みを知ることができます。しかし、私たちは「それでもなお、人は神のなされる業を初めから終わりまで見きわめることはできない」のです。人間の知恵は限られたものであり、この世界に対する神様の計画を完全に洞察することは出来ません。例えば病気のこと、信仰の迫害があるなど、私たちの小さな知恵では、奥深い神様の思いをことごとく測り尽くすことは到底不可能なことです。しかし答は必ず与えられます。
第三に、神のなされる最も美しいことは人の救いであり、私たちは救いを伝える者である。
神様のなされるすべてのことは皆美しいのですが、私たちになされた最も美しい業(わざ)はキリストによる罪からの救いと永遠の命の恵みです。
人間は神様に背き、自分勝手な道を歩んで滅びに向かっていた者でした。神様は、滅び行く人間のために独り子イエス・キリストをこの世に遣わされました。キリストは人として33年半の人生を歩み、最後に罪がないのに、私たちの罪を背負って十字架に上り、罪の身代りになって死んで下さいました。素晴しいことに、キリストは死んで終わりではなく、十字架の3日後に復活され、永遠の命の確かさを示して下さいました。自分の罪を悔い改めてキリストの十字架を信じれば罪は赦され、心が新しくなります。心に新しい永遠の命が宿ります。キリストを信じて新しく生まれ変わることができるのです。
*皆さんはもう新しく生まれ変わっていますか。
*皆さんは永遠の命を与えられて天国への希望をもっていますか。
*そして、どうかこの素晴しい救いをいただいていることを感謝して、このうれしいニュースを家族や周りの方々に伝えて行くことを忘れないで下さい。
ある牧師の体験です。「大学3年生の時、ロックを奏で、ライブハウスに立つことで心を満たしていた。神様はそんな私に声をかけてくれた。私の妹はダウン症で、生まれつき重い心臓病を患い、医師からは『長くは生きられない』と言われていた。クリスマスの時期、妹が急に具合が悪くなった。医師に見てもらったが、回復せず、どんどん悪くなっていった『何かがおかしい』と思い、救急車を呼んだ。二階の妹の部屋に行くと、目を開けたまま床に倒れていた。そのまま、妹を背中に背負い階段をゆっくりと降りた。その時、意識のなかった妹が『お兄ちゃん、やさしいね、ありがとう』と言うので、胸が張り裂けそうになった。(中略) 病院の集中治療室に入り、診断は『急性糖尿病で通常の血糖値90-150が2000もあり、1000を越えたら非常に危険で、あと二、三日の命』と言うことであった。私はその場で泣き叫び『神がいるんなら何でこんなことを起こすのか』と神を呪った。集中治療室で、全身管につながれ、苦しそうな妹を見るのは辛かった。妹はすぐには死ななかった。外はクリスマスであったが心は灰色であった。そんな時、何人かの牧師が病院に来てくれた。ある牧師は新幹線に乗って駆けつけてくれ、集中治療室で妹のベッドの前でひざまずいて祈ってくれた。牧師達は苦しむ妹と私に寄り添ってくれた。そして奇蹟が起った。『もうだめです、覚悟しておいて下さい』と言われた妹が回復に向かい出した。その時、妹のベッドがキリストの十字架に重なって見えた。点滴や管の跡が十字架の傷と重なって見え、最愛の独り子を十字架に送った父なる神の痛みを感じた。そして、妹を救急車に乗せるために背負っていた時に『お兄ちゃん、やさしいね、ありがとう』と言われた言葉が心の中に響いてきた。また妹と私に寄り添ってくれた牧師達のことを思い、今度は私が牧師となって、苦しむ人に寄り添いたいと思った。(中略) だれもが今日、大きな悲しみと向き合って生きている。そして私は悲しみのあるところにキリストを届けたいと願うのだ。はっきり言って世の牧師のように難しい神学の知識や言葉は持ち合わせてはいない。ただただ悲しむ人と共に悲しみ、キリストが与えて下さる奇蹟をいただきたい」。
神様はこの方に信仰と同時に献身の思いを与え、今は牧師としての務めに励んでいます。神のなされることは皆その時にかなって美しいことを知ることができます。
まとめ
1、3:1-10、私たちの人生は創造主である神様によって導かれています。神様の支配と守りの中にあることを感謝して、神様に従う日々を進んでまいりましょう。
2、3:11、私たちの人生は、神の恵みによって皆その時にかなって美しいのです。特に最も美しいことは私たちがキリストの十字架によって救われていることです。救いの恵みに感謝しましょう。そして、キリストの救いを家族や周りの方々に伝えて行くことが大切です。
祈 り 天地の主である神様、神のなされることは皆その時にかなって美しいことを感謝します。特に最も美しい出来事であるキリストの十字架の救いをいただいていることを感謝します。キリストの救いを私たちの周りで苦しんでいる方々に届ける愛と力と祈りを与えて下さい。今週も神の最善を信じて日々を祈りの中に導いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献:伝道の書注解―山内、米田、フランシスコ会、旧約口語略解、LAB、舊約聖書略註(中)。 「信徒の友10月・日キ教団出版局」