溢れる恵みと苦難からの救い コリント第二1:1-11      主の2009.10.4.礼拝

ベートーヴェンの「交響曲第五番」は、冒頭に「ダダダダーン」という力強い音が響いて始まります。この始まりについて、ベートーヴェンは「運命がこのように扉をたたくのだ」と説明したので、交響曲第五番は「運命」という名で知られています。彼の人生は運命との戦いのようでした。27歳ごろから作曲家として致命的な難聴に苦しみ、何度も自殺の危機があり、失恋や弟の死、養い育てた甥に反抗され、人間としての生きる苦悩をつぶさに体験しています。彼はカトリックの家庭に生まれ、洗礼を受けています。伝記作家は例外なく、彼が強い信仰心を持っていたことを認めていますが、彼はカトリック教会に不信感をもち、個人的に信仰を保ち続け、死ぬ前に聖体拝領(聖餐式)を受け、「悪魔め!出て行くがいい!神が共におられるのだ!」と言ったと伝えられています。

本日はコリント第二1:1-11です。4節に「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さる」、9節に「死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った」と言われています。ベートーヴェンは神の守りの中に、難聴などの試練と戦って、作曲家として活動しました。この手紙を記した使徒パウロは実に多くの試練、患難に出会い、幾たびも命の危険にさらされています(11:23-33)。しかし、彼は試練や苦難に負けることなく、全世界にキリストの福音を伝道して歩き、新約聖書に13通の手紙を残しています。ところで私たちの人生に苦難はつきものです。時には死を覚悟するような出来事に見舞われることもあります。パウロを支えたものは、「神はいかなる患難の中にいるときでもわたしたちを慰めて下さる。死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った」(4,9節)という信仰でした。私たちにも同じ信仰が与えられています。聖書を通して語りかけて下さる主の御言葉に耳を傾け、神様からの慰めを受け、神様に頼る信仰を強めていただき、祈って、新しい一週間の旅路へ出発して行きましょう。



内容区分

1、主からの恵みと平安が祈られている。1:1-2

2、主は苦難と共に豊かな慰めを下さる。1:3-11

資料問題

パウロはエペソからコリント教会にコリント第一の手紙を送っている。同地に迫害が起りトロアスに行き、コリントに遣わしたテトスに会うことになっていたが、帰って来ないので、前に送った手紙の結果を心配してマケドニヤに行き、そこでテトスに会って報告を得た。コリント教会の中に、パウロが送った手紙(Ⅰコリント書)の訓戒や譴責により悔改め、パウロを慕っている者がいること、その一方でユダヤ教主義者がいて福音の真理を拒み、パウロの使徒職を否定する者もいるということを知り、彼は悲喜こもごもの気持をもちながらⅡコリント書を送ったのである。そうした事が背景にあるので、この手紙には感謝の情が溢れているが、彼の使徒職についての弁明も記されている。第一の手紙を送った数ヶ月後、紀元57年ごろマケドニアの中のピリピで記されたと言われている。




1、主からの恵みと平安が祈られている。1:1-2

わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。(2節)

コリント教会宛ての手紙は2通あり、コリント第一の手紙、コリント第二の手紙と呼ばれています。コリントはギリシャにあり、港があり、各地と交易があって商業が盛んであり、多くの人々が住んでいました。この町の丘に異教の神殿があり、異教の神々に仕える千人の巫女がいましたが、彼女らは夜になると丘を下って町に入り、参詣に来た人々を相手にする売春婦でもあったのです。そうした事から、コリントは商売と風紀の乱れた町として知られていました。ここにパウロが導かれ、キリストを伝え、救われた人々が集まって設立されたのがコリント教会です。パウロは世界宣教のためにコリントを離れましたが、様々な人々が集まっている教会内部で問題が起きてきました。パウロはコリント第一の手紙によって、教会はキリスト中心であること、キリストにあって同じ心、同じ思いになって固く結び合って行くこと、最高の教えは愛であること、キリストの復活についての教えなどを伝えました。コリント教会の人々は信仰の原点に戻って、教会内にキリストにある一致が与えられて行きました。しかし、少数の人々がパウロに反対し、教会の一致を妨げていました。そうした報告を受けて記されたのがコリント第二の手紙です。

*まず1:1-2を通して教えられることを見て参りましょう。

第一に、1節に「コリントにある神の教会」と言われています。

❶教会とはいったい何でしょうか・・・教会とは神様によって召し集められた者の集まりです。熊谷の教会も40年を越えて存続しています。その始まりはアメリカよりクラー宣教師夫妻が遣わされてキリストを伝道し、救われた者が毎週日曜日に礼拝を捧げるために集まり、教会がはじまって今日に至っています。キリストを信じる者、キリストを求める者の集まりが教会であり、国籍、民族、男女、年齢などの区別はありません。きょうも共に集まり、礼拝が捧げられていますが、様々な国籍の方々が集まっています。ゼロ歳から80歳代に至るまでの幅広い年齢層の方々が集まっています。ひとりひとりがキリストを通して神様によって召し集められていることを感謝します。

❷教会の集まりの土台は聖書です。聖書は私たちの信仰と生活の唯一の基準を示しています。聖書とは旧約聖書39巻(口語訳1326ページ)、新約聖書27巻(口語訳409ページ)より成り立っています。この分厚い「聖書の中心主題はイエス・キリスト」です(ヨハネ6:39参照)。キリストは私たちの罪の身代りになって十字架に命を捧げて下さった救主です。しかし死んで終わりではなく、十字架の死の三日後に甦って生きておられる生命(いのち)の主です。私たちはキリストを信じて罪を赦され、永遠の命を与えられて天国へ行くことができるのです。

❸教会ではいつも聖書が開かれ、聖書を通して神様は私たちに語りかけて下さいます。日本に8000ほどの教会がありますが、ほとんどの教会で、今この時間に礼拝が捧げられ、聖書が開かれ、メッセージが語られています。私はこの教会の牧師として御言葉を取り次いでいますが、私は自分に対するキリストの語りかけを聴きつつ、と同時に皆さん一人一人に神様が語りかけておられることを信じて、御言葉を伝えています。メッセージを聴いて、皆さんひとりひとりが自分に教えられた主からの教え、或いは悔改めること、また主に対する新しい決断などを主に祈って下さい。その祈りによって心が養われ、恵まれ、新しい出発の力が与えられ、信仰が成長して行きます。

第二に、2節で「恵みと平安があるように」との祈りがあります。

コリント教会の中には、コリントにキリストの福音をもたらし、経済的困難と迫害の中にあって、コリント教会を設立したパウロ先生の恩を忘れている人々がいました。それでもパウロは愛をもって、コリント教会の一人一人のために、私たちの父なる神様と主イエス・キリストから恵みと平安とがありますように、との祈りを捧げています。

恵みについて考えてみましょう。私たちはたくさんの恵みを神様から恵みを受けていますが、その最大のものはキリストによる十字架の恵みです。私たちが心を砕かれて、謙った時にキリストの救いを受けることができました。恵みを受ける秘訣は神様の前に謙ることです。

平安(平和)があります。神様に従うことによって、心の内側に落ち着きがあります。平安とは戦いがないことではなく、或いは悪との戦いがないということではなく、心の奥底に神様から来る落ち着きがあるという事です。平安とは平和のことです。敵がいないから平和であるというのではなく、例え敵がいても、相手を憎む事をやめて、敵を赦せるということによって得られる心の平和、それが平安です。キリストは十字架によって私たちの心に赦すという平和を与えて下さいました。

第三に、1節に「聖徒」という言葉があります。

コリント教会の中には、パウロ先生の恩を忘れている者、自分が何でも知っているという高ぶった者、人間中心の派閥を組んでいる者などがいました。そういう人々に対して聖徒という呼び名がふさわしいのであろうかと思ってしまいます。聖徒と言うと、高潔な立派な人を想像するからです。しかし新約聖書で言われている聖徒とは、神に属する者という意味です。キリストの救いを信じてクリスチャンとなり、教会に加わり、神様に従っている者が聖徒です。立派な人格やきよい品性を持つことを追い求めながら、キリストを信じ、キリストを求めて、神様の御言葉に従って行く決意をしていることが大切です。私たち一人一人が聖徒という呼び名にふさわしい者になるように、聖書を読み、祈り、キリストに従う日々を送るように祈って行きましょう。



2、主は苦難と共に豊かな慰めを下さる。1:3-11

兄弟たちよ。わたしたちがアジアで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ、失ってしまい、心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。(8-9節)

人生には悩みが絶えません。多くの人々が自分の力の限界を越えた困難や苦しみに遭遇する時に、自殺に走っています。日本では車社会となり、交通事故死を減らそうということで、年間の交通事故死が約一万人になったということです。ところが年間自殺者は年間三万人を越えて、増えています。平和で豊かだと言われていますが、多くの人々が心に重荷を持ち、或いは心の病を背負っています。そして限界を感じて、自ら命を断っています。多くの人々は自殺者が増えていると思うだけで、仕方がないと考えています。このような悲惨な状況に対して、私たちは聖書に目を向け、聖書を通してキリストの救いによる助けがあることを伝えて行く務めがあります。私たちはクリスチャンになっても、すべての悩みや心配から解き放たれることはないでしょうが、悩みや心配の質が変わってきます。使徒パウロはキリストを信じる信仰が増せば増すほど、多く苦しみ、悩み、心配しています。それは自分の事ではなく、他人に対する悩みや心配でした。私たちは、パウロが苦しみや患難を通して、どのようにして勝利を得て行ったのかを教えられ、私たちも苦難を乗り越え、苦難の中にいる方々のために祈り、手を差し伸べて行くことをして行きましょう。

*1:3-11を通して教えられることに注目してまいりましょう。

第一に、パウロは3節で「ほむべきかな」と主を讃美しています。

パウロは世界各地を回って伝道し、キリストの名の故に迫害を受けています。また多くの教会を指導し、13通の手紙を通してキリストの教えを伝えています。コリント教会にあった問題に対して、パウロはコリント第一の手紙を通して適切な教えを伝え、信仰の道から逸れていた一部の人々が、キリストに従うという信仰の本筋に戻って行き、教会に愛の一致が与えられて行きました。しかし、まだ少数ですが、コリントの教会にはパウロ先生を罵る悪意の人々がいました。そうしたことを念頭に置きながら、コリント第二の手紙が記されています。パウロは間違いを犯している人々を責め、訓戒する前に、3節で「ほむべきかな」と主イエス・キリストの父なる神を讃美しています。

私たちの主イエス・キリストは地上で33年半を暮しましたが、その生活は祈りによって貫かれていました。キリストは祈りにおいて父なる神様をほめ讃えています。大勢の人々を前にして、声をあげて「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます」と祈っています(マタイ11:25)。72人の弟子達が伝道から帰ってきた時に、「イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた『天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます』」と祈っています(ルカ10:21)。キリストは祈りを通して苦難に立ち向かっています。ゲッセマネで徹夜の祈りの後、「立て、さあ行こう」と十字架に向かって前進しています(マルコ14:42)。

第二に、苦難の中で主の慰めを受け、他の人を慰める愛が与えられます。

3節から7節までの間に慰め、慰めるという言葉が9回も出てきます。慰めるとは苦しむ者を力づけ、勇気を与えるという意味です。5節に「キリストの苦難」という言葉があります。キリストは私たちの人生のあらゆる苦しみを体験されたお方です。キリストは天の栄光の位を捨てて地上にやって来られ、クリスマスの日にベツレヘムの馬小屋で誕生し、貧しさという苦しみを担って下さいました。キリストは健康なお方でしたが、「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」(マタイ8:17)という御言葉の通りに、人々の病を身代りに引き受け、癒しを与えて下さいました。キリストは弟子に裏切られ、孤独の苦しみを味わっておられます。罪がないのに私たちの罪の身代りになって十字架に命を捧げ、死という苦しみを負って、私たちに罪の赦しを与えて下さいました(Ⅱコリント5:21)。キリストは私たちの苦難を担って十字架にかかって下さいました。それは私たちへの愛の故であり、キリストの十字架によって私たちは救われ、私たちも苦難に耐えると同時に、苦難を通して与えられた心に慰めを受け、他の人々を励ますことができるようになれたのです。一人の婦人が最愛の息子を失うという試練に出会いました。しかし、その時以来、彼女の眼は柔和そのものになり、子どもを失った世の母親が、彼女のもとへ飛んでくるようになったとのことです。

第三に、主は私たちを守り支えて下さいます。

8-9節を読みます。信仰の勇者であるパウロが生きる望みを失い、死を覚悟したということを告白しています。そして、やっぱり頼るのは神様しかいないということで神様に必死になって縋ったことを隠さずに告げています。私たちも神様に幼子のように縋って行きたいと思います。それが10節の確信につながって行きます。私事で前にも話しましたが、孫の丈が私を見ると、全速力でハイハイをしてきて、ひざまずいて両手を差し伸べ、「ああ、ああ」と抱っこをせがみます。それを裏切ることはできません。抱き上げると、満足げに私に全身を委ねます。私たちも幼子のように神様に縋りつきましょう。神様は私たちを抱き上げ、恵みと平安と共に、問題解決の道を与えて下さいます。

あるお母さんに30歳の娘さんがいます。娘が誕生し、喜んでいましたが、3歳の時に、「お子さんには知的障害があります」と診断された。小学校でも勉強や学校生活について行けなかった。必死になって、娘に勉強を教え、大人になっても一人で生きて行けるようにと願った。教会にずっと出席をした。養護学校を卒業して、奇跡的に老人ホームに就職できました。人の嫌がる下働きをしていますが、休むことなく喜んで仕事を続けています。毎日家庭礼拝を捧げているが、娘さんは特に病気の方々や悩んでいる方々のことを祈ります。知的障害という辛い診断を受けたのですが、母親の愛と信仰によって、神様の恵みを受けて自立の道を歩んでいます。まことに死人をもよみがえらせて下さる神の力をほめ讃えます。

最後に11節にパウロの祈りの要請があります。パウロほどのすぐれたクリスチャンが、祈りを求めています。祈りはクリスチャンに与えられた祝福です。私たち夫婦も皆様の祈りなしには一日たりとも、伝道者として立って行くことは出来ません。改めて皆様のお祈りをお願いします。私たち夫婦も皆様のために祈って行きます。



まとめ

1、1:1-2、主からの恵みと平安とが祈られています。恵みと平安とを与えて下さる父なる神様と主イエス・キリストに感謝を捧げて行きましょう。

2、1:3-11、主は苦難と共に豊かな慰めを下さいます。主をほめ讃え、主からの慰めを受けて、他の人に慰めを届ける者になりましょう。主はあらゆる状況の中にあって私たちを守り、支えて下さいます。



祈 り  

天地の主である神様、礼拝に導かれたことを感謝します。ここにおられる全ての方々にキリストの救いが与えられ、心に愛が注がれるように祈ります。キリストを通して恵みと平安とが与えられることを信じ、感謝します。人生には様々な問題がありますが、神様によって溢れる恵みと苦難からの救いがあることを信じて、神様により縋って歩んで行きますので、私たちを導き、助けて下さい。病気の方々に平安と癒しを与え、問題を抱えている方々に勝利の道を示して下さい。献児式を祝福して下さい。恵みと平安とを与えて下さる主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:コリント注解―藤田、バークレー、黒崎、米田、フランシスコ会、佐藤、福田、LABN、文語新約略註、口語新約略解。  「大作曲家の信仰と音楽・カヴァーノ・教文館」