神のアーメン  コリント第二1:12-20        主の2009.10.11礼拝


「嘘つきは泥坊のはじまり」と言われています。世界一の嘘つきは、「自分は生まれてから一度も嘘をついたことがない」と言った人です。仏教では人を教えに導くために「嘘も方便」ということで、嘘を利用することもあると言っています。日本では政権が変りました。選挙前にマニフェストという実行すべき政策を約束していますので、政権をとった民主党は様々な政策を実現するように努めています。もし約束した政策は実行不可能であると言えば、国民に嘘をついたことになり、責任を追及されることになります。ひるがえって、キリストを信じる私たちは、日々の言動において、真実を貫き、嘘のない、良心に恥じない生活をして行くようにということを強く思います。
本日はコリント第二1:12-20です。この手紙を記した使徒パウロは、キリストの救いを受け、世界
各地を巡回しながら伝道していました。彼は信者を増やすために「嘘も方便」というようなことはせず、純粋にキリストを伝道する日々を送り、12節で、「神の神聖と真実とによって行動してきた」と言っています。19節では、「なぜなら、わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは『然り(しかり)』となると同時に『否』となったのではない。そうではなく、『然り(しかり)』がイエスにおいて実現されたのである」と述べています。これは、キリストが、時には良いことをする、時には悪いことをもたらすというような気まぐれなお方ではないこと。キリストに従って行く時に、すべてが神様の祝福に変えられること。神様は常に良い事をして下さることを確信しているということです。
本日のメッセージの題は「神のアーメン」です。「アーメン」とは「真実です、本当です、然り(しかり)」という意味です。神様が人間を愛し、罪を赦すということは、キリストの十字架において本当のこと、然り(しかり)、アーメンになりました。神様の恵みを現して下さった主イエス・キリストを見上げつつメッセージを聴き、祈って、新しい一週間へ出発して行きましょう。


内容区分

1、1:12-14 クリスチャンは、神の恵みを受けて、神の神聖と真実とによって行動する。
2、1:15―20 クリスチャンは、神の約束はキリストによって「然り」となったことを信じる。
資料問題
パウロはコリント訪問を計画していたが、やむなく変更したことを1:12-2:4で述べている。12節「人間の知恵によってではなく神の恵みによって、神の神聖と真実とによって行動してきた」、パウロはいつも神様を中心にして行動している。神聖(ハギオーテス)とは聖潔、潔白。またハプローテスという読み方もあり、それは単純性、単一性で心の単一性をさす。(きよさと神からくる誠実―新改訳、神から受けた純真と誠実―新共同訳)。14節「わたしたちの主イエスの日」、キリスト再臨の日。20節「アーメン」、「確かな、真実な、忠実な」などの意味をもっていたが、「そうあるように」という願望を表すようにもなった。黙示録3:14ではキリストのことを「アーメンである方」と呼んでいる。キリストの御名による祈りにおいて、最後に「アーメン」と唱えることにより、祈り全体が心からのものであり、神様に捧げられたものであることを表す。

1、1:12-14、クリスチャンは神の恵みを受けて、神の神聖と真実とによって行動する。

さて、わたしたちがこの世で、ことにあなたがたに対し、人間の知恵によってではなく神の恵みによって、神の神聖と真実とによって行動してきたことは、実にわたしちの誇りであって、良心のあかしするところである。(12節)

使徒パウロのよく使う言葉に「誇り、誇る」という言葉があります。この言葉は新約聖書の中に61個あり、そのうち59個はパウロが使っています。コリント第二の手紙の中では29個使われています。パウロが誇る誇りとは、パウロが主イエス・キリストによって救われてクリスチャンになり、世界伝道のために使徒に選ばれたことです。パウロはキリストによって使徒に選ばれたことを誇りとして、すべてを献げて、「神の神聖と真実」とによって自分の生涯を貫いて来たことを感謝しています。
*1:12-14の中より私たちに対する語りかけを聴いて参りましょう。

第一に、パウロは「神の恵みによって」(12節)生きています。
私たちは、以前はまことの神様を信じていない愚かな者でしたが、聖書を通して、この世界を創造されたまことの神様がおられることを知りました。聖書の初めに、「初めに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)という雄大な御言葉が記されています。神様はご自分に似せて人間を創造され、人間に命を与えて下さいました。神様に似せて造られた明確な印として、人間には言葉があります。世界に何千種類という生き物がいますが、言葉をしゃべる生き物はいません。言葉をもって考えを伝え、心の交流をするのは人間だけです。また、人間には物事を考え、決める力があります。動物は本能のままに、食べ、子孫を残して死んで行くだけです。さらに、人間にだけ神様を礼拝する恵みが与えられています。この礼拝の後、午後1時から人間に近いと言われているチンパンジーの礼拝があります、ということは絶対にありません。
ところでチンパンジーが人間に近いというのは進化論の考えです。神様を否定する人々は、神様が世界を創造したのではなく、世界は小さなものから大きなものに、単純なものから複雑なものに進化しているという進化論を主張します。進化論が事実であり、人間が猿から進化したとするならば、なぜ人間にだけ言葉があり、考える力があり、神様を礼拝する霊的な心があるのかということを説明しなければなりません(進化論では説明不能です)。私たちは聖書を通してまことの神様を信じるように導かれ、神様によって命を与えられ、生かされている者であることを感謝しましょう。
第二に、パウロは「神の神聖と真実」とによって生きています。

人は正しい人生を歩みたいと願っています。そのためには、謙ってまことの神様を畏れる心が必要です。神様を畏れることを忘れて、人間の知恵によって進んで行くと、いつの間にか自分が得になればいい、人のことはどうでもいいというような悪い生き方に陥ってしまいます。関西で数年前に大きな鉄道事故があり、多くの方々が命を失いました。鉄道当局は自分たちに責任が及ばないように言い訳をしていました。一方では多数の方々が亡くなっているので、遺族の方々には誠意を尽くします、と言っていました。ところが、事故調査委員会に密かに働きかけ、事前に事故調査書を手に入れて、自分たちの都合のよいようにしようとしていたことがニュースで報じられていました。大会社ですから、経営陣は頭の良い大学出のエリートと言われる人々であると思いますが、平気で遺族を裏切り、会社の利益だけを考えるという点では心が腐っています。

聖書朗読の御言葉をもう一度読んでみます、「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。彼らは腐れはて、憎むべきことをなし、善を行う者はない」(詩篇14:1)。

パウロは、「神の神聖と真実とによって行動してきたことは、実にわたしたちの誇りであって、良心のあかしするところである」(12節)と言っています。神聖と真実とは、直訳すれば「聖と純粋さ」です。裏も表もなく、建前と本音を使い分けることをせず、真っ正直に、ひたすらに伝道の働きを続けています、ということを述べています。

第三に、パウロは「主イエスの日」(14節)に全てが明らかになることを信じて生きています。

「主イエスの日」とはキリストがもう一度この世界にやってくる「再臨の日」のことです。パウロは言います、「自分はひたすらキリストの救いを伝道してきた。人生の全てを賭けてキリスト一筋に生きてきた。その結果、あなたがたが救われている。それはわたしとわたしと伝道を共にした者の誇りである。私は人の金や銀や衣服を欲しがったことはない。自分の生まれや学歴を自慢せず、地位、名誉を欲しがることなく、ひとりひとりが救われて行くことを喜びとして生きている。私はキリストから伝道の命令を受け、伝道し、コリントの教会で救われた人々がいる。私に託された伝道の働きが実を結んでいる。私はこれを誇りにします」と言っています。

私たちも、神の恵みを信じ、神の神聖と真実を信じ、やがて自分の人生の総決算をするキリストの再臨の日に、主の前に恐れなく出られるように、祈って信仰の道を進んで行きましょう。

2、1:15-20 クリスチャンは、神の約束はキリストにおいて「然(しか)り、アーメン」となったことを信じる。

なぜなら、神の約束はことごとく、彼において「然り」となったからである。だから、わたしたちは、彼によって「アーメン」と唱えて、神に栄光を帰するのである。(20節)

パウロがコリント行きの計画を変更したことについて、何かとパウロに反発する人々がいました。それを取り上げながら、パウロは神様が真実なお方であり、キリストによって神様の恵みが余す所なく表されたことを語っています。



*1:15-20を通して教えられることを見て行きましょう。



第一に、パウロの行動の動機は全て、それによって人々が神の恵みを受けるためであるということです。

15-18節によれば、パウロはコリント行きの計画を立てていたのですが、それを変更しました。それはコリント教会の中で内部争いをしている人々がいて、もしパウロがすぐにコリントに行けば、当然それらの人々に対して厳しい処置をしなければなりません。そこで、パウロは、別れ争っている人々が悔改めてからコリントを訪問しようと計画を変えたのです。計画を変えたのは、パウロが分かれ争う人々に時間的な猶予を与えるための寛大な心から出たことでした(23節参照)。ところが、パウロに反対し、分裂騒ぎを起こしている人々は、パウロが計画を変更したことについて、「パウロは行くと言って来ない。『然り』と同時に『否』という、全くいい加減な人物である」と言ってパウロを非難したのです。彼らは自分たちのことを棚にあげてパウロに対する悪口を言っています。「パウロは浮ついた気持で簡単に約束をする男だ。『然り』か『否』か、そこのところがはっきりしていない」と、とんでもないことを言っています。そして、「パウロのふだんの約束が当てにならず、やると言ったことを果たしてやるかどうか分からないとしたら、パウロが神について語っていることを我々は信じることができない。パウロが神の約束について語ったキリストの福音が本当に真実であるかどうか分からない、信じることができない」と言っていたのです。パウロを通して伝えられたキリストの十字架を信じて、救われたはずであるのに、いつの間にか信仰から逸れてしまっていたのです。それはキリストを忘れて、人間中心の人々になったからです。

*ここで信仰を保って行く秘訣を考えてみましょう。

秘訣は単純明快です。キリスト中心の信仰を保つことです。聖書66巻の中心はキリストです。どんなに聖書の知識があっても、聖書の歴史に詳しくても、キリストから眼を離せば信仰が失われます。私たちのために、罪を背負って十字架に死んで下さったのはキリストだけです。キリストだけが私たちのそばにやって来て救いを与えて下さった救主です。キリストに固く結びつき、キリストの教会につながって行くことが大切です。

ひとりの人が罪と悩みとの深い穴の中に落ち込んでしまい、苦しんでいた。「助けてくれ」と叫んでいると、釈迦が通りかかった。「やれ、うれしや、助かった」と思った。ところが、「お前がそこに落ちたのは運命であり、前世の因果である。そこで悟りを開くか、或いは諦めが肝心じゃ」と言っていなくなってしまった。次に孔子が通りかかった、「人間という者は、うかうかしていると、こんな穴に落ち込むのだ。よく学んで二度と落ちることのないようにせよ」と教えて立ち去ってしまった。次に来たのがキリストです。穴の底にいる人を見ると、すぐに梯子を穴に降ろし、自分から穴の底に降りてきて、その人を背中に担いで外に出て、すぐに傷を治療したので、その人は元気を回復した。それから彼の間違いを教え、これからの進むべき道を教え、天国の約束を与えて下さったのです。

信仰を保ち続ける秘訣はキリストに縋る、キリストの教会から離れないことです。今週はファミリーの週です。この世のこと、また人について語っても恵みはありません。キリストの恵みをたくさん分ち合って、互いに祈り合って下さい。心が満たされ、明るくなります。しわが伸び、顔がつやつや輝いてきます。喜びが心の底より溢れ出てきます。

第二に、神様の恵み、特に救いの恵みはキリストによって全て実現しています。

19-20節を見て参りましょう。キリストは神様の恵みを全て実現して下さったお方です。キリストの恵みの中で、最大の賜物は、罪の赦しと共に私たちを神の子にして下さったということです。

キリストは私たち人間を、「あなたがたには罪があるから」という理由をつけて、「否」と言って拒むことをしません。キリストはこうお考えになったのです。「あなたがたには罪がある。罪がある限りあなたがたは神の御許に行くことは出来ないで、永遠の滅びに向かって行く者である。しかし、神は愛である(Ⅰヨハネ4:8)。神様は、すべての人を価値ある尊いものとして見ていて下さる。しかし罪がある限り、人間は神の子になることができない。すべての人に罪の赦しが与えられ、神の子になれるように、罪のないわたしが人間の罪の身代わりになって十字架で命を捧げよう」。私たちが自分の罪を悔改めて、キリストの十字架を信じると、私たちは神の子になり、神の家族に加えられ、教会の一員になり、天国に導いて下さるのです。

20節の御言葉を読みます、「なぜなら、神の約束はことごとく、彼(キリスト)において『然り』となったからである。だから、わたしたちは、彼(キリスト)によって『アーメン』と唱えて、神に栄光を帰するのである」。

第三に、私たちは、キリストの恵みによって、「アーメン」と神に栄光を帰するように導かれます。

ある男性が病のために失明を宣告されました。病が進み、それが会社に知れ、ある日出勤すると机はなく、退職届に記入させられ職を失ってしまいました。心が苦しくなり、会社時代の友人に電話をしても誰も相手にしてくれない。生きる意味を失ったように思い、ビルから飛び降り自殺を図るが、空腹に気づき、食べているうちに死ぬ気がなくなっていました。「苦しい時の神頼み」でお寺回りをするが、どの僧侶も彼の話を聞かずに、一方的に長々と説法をするだけ。ある日教会が目につき入ってみた。牧師さんが個人的にじっくりと悩みや苦しみを聴いてくれた。毎週一回話を聴いてもらっているうちに、自分で聖書を買い読み始めた。すると自分に罪があることに気がついた。ある日、キリストの足を涙で濡らし、自分の髪の毛で拭った女性の箇所を読んでいて涙があふれてきた。キリストの、「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」(ルカ748、50)という御言葉によって、救いを得たのです(この記事はルカ7:36-50)。 

会社の人も、僧侶も自分を「否」と言って受け入れなかった。最初に「然り、アーメン」と受け入れてくれたのが牧師であり、そして聖書を通してキリストに出会い、救いを受けたのです。その方は失明しましたが、牧師になり、苦しみや悲しみの中におられる方のために、人の話をじっくりと聴いて、よき働きをしています。



まとめ

1、1:12-14、クリスチャンは神の恵みを受け、神の神聖と真実とによって行動する者です。

2、1:15-20、クリスチャンは神の約束はキリストにより「然り、アーメン」となったことを信じます。



祈 り  天地の主である神様、独り子イエス・キリストによる救いの恵みに感謝を捧げます。私たちは神の恵みによって生かされていることを感謝し、いつでも神の神聖と真実とをもって行動し、全てが明らかになるキリストの再臨の日に備えて行くように導いて下さい。神様の恵みの全てはキリストによって実現していますが、特に十字架によって救われ、神の子にされている恵みに感謝を捧げます。苦しみや戦いの中にあっても、病の中にあっても、キリストによって実現した勝利により、進むべき道を示され、病に打ち勝ち、心が平安であるように日々を導いて下さい。ファミリーがキリストを喜び、キリストの恵みを分ち合う集まりであるように導いて下さい。

神様の恵みを全て表して下さった主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:Ⅱコリント注解―黒崎、藤田、バークレー、佐藤、フランシスコ会、LABN、山谷、文語新約略註、福田。 「平民の福音・山室軍平・救世軍出版部」、「信徒の友、日基教団」