信仰の保証として与えられる聖霊 コリント第二1:21-24 主の2009.10.18
私たちは契約をする時に、契約書に署名し、捺印します。日本では捺印する判子(印鑑)が重視されます。契約をする時には、役所に届けてある実印といわれる特別な判子を使います。実印を使うときに、「この判子は登録されている本人のものに間違いありません」という役所の印鑑証明書を添付します。それには、登録された判子がコピーされているので、使われている判子が本物であるかどうかを確かめることができます。判子がひとたび押されると、その契約は取り消しできないものになります。
本日はコリント第二1:21-24です。22節に、「神はまた、わたしたちに証印を押し、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜ったのである」と記されています。私たちは教会に集まり、クリスチャンとして礼拝を捧げています。私たちは特別な修業や学びをし、強い信仰心をもち、多くの献金をしたからクリスチャンになったのではありません。私たちは何もできない無力な者でしたが、ただ自分の罪を認め、悔改め、十字架に架られたイエス・キリストを信じるだけで、罪を赦されて心が生まれ変わり、永遠の命を与えられ、神の子になることができました。神様は、キリストを信じた私たちの心に証印を押して下さいました。証印とは、エペソ1:13で「あなたがたもまた、キリストにあって真理の言葉、すなわち、あなたがたの救いの福音を聞き、また、彼(イエス・キリスト)を信じた結果、約束された聖霊の証印を押されたのである」と言われているように聖霊の証印のことです。クリスチャンである私たちの心に聖霊の判子(印鑑)が押されているので、祈りの力を与えられ、神をほめ讃える讃美が心より湧き出てきます。聖書を日々に読んでキリストを慕い求める気持が深まって行き、天国への旅路を前進して行けるのです。
内容区分
1、神様は、私たちに聖霊の証印を押し、信仰を守って下さる。1:21-22
2、神様は、私たちが信仰に堅く立って行くように支えて下さる。1:23-24
資料問題
21節「わたしたちをキリストのうちに堅くささえ、油を注いで下さったのは、神である」、神様は私たちにもキリスト(油注がれし者の意)と共に聖霊の油を注いで下さる。ここに神様(御父)、御子、聖霊(御霊)の三位一体の神様が私たちと共にいまして、私たちを堅く支えて下さることを示している。22節「神はわたしたちに証印を押し、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜ったのである」、神様は私たちに聖霊の証印を押し(エペソ1:13,4:30)、神様の救いが確実であることを示された。「保証」とは手付金のことである。神様は救いの保証として聖霊を心に与えて下さって天国の命が確実であることを示された。23節「コリントに行かないでいるのは、あなたがたに対して寛大でありたいためである」、コリントにすぐ行けば、不信仰な人々を審くことになる。コリント行きを延ばして、彼らに悔改め機会を与えるためというパウロの寛大さが表されている。24節「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するものではなく」、パウロは専制君主のようにコリント教会の信徒を支配する者ではない。キリストの恵みを共に分かち合って行くのがパウロの願いである。
1、神様は、私たちに聖霊の証印を押し、信仰を守って下さる。1:21-22
あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ、油をそそいで下さったのは、神である。神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜ったのである。(21-22節)
多くの宗教は、人間の側から神を求めて行くということを強調します。神に到達するために難しい経典を学び、滝に打たれるなどの修行をし、要求されたお金を賽銭として差し出し、人を10人勧誘して入信させるということなど様々なことを要求します。これは人間の努力に対して、ご利益として救いを施そうという考えです。聖書の教えは全く違います。私たちはキリストを信じて救いを受け、神の子になっていますが、人間の努力や求めによって、キリストを信じることができたのではありません。
21節に「あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえたのは・・神である」、22節には「神はまた、わたしたちに証印をおした」と記されています。これらの御言葉から、私たちは天地万物を創造されたまことの神様によって、キリストを信じる信仰を与えられ、その信仰を神様が守って下さるということを知ることができます。
*21-22節を通して教えられることを見てまいりましょう。
❶神様が救いの源である。
パウロは、21節で私たちを救って下さったのは神様であることを伝えています。聖書朗読で、「地と、それに満ちるもの、世界と、その中に住む者とは主のものである」というダビデの歌が読まれました(詩篇24篇)。主とは神様のことで、天地を創造された唯一のまことの神様を表しています。日本には八百万の神々、インドのヒンズー教は3億の神々、ギリシャやロマの神話の中には多くの神々がいると言われています。世界には神々が氾濫していますが、聖書の神様は神々と言われる偶像ではなく、生きておられる唯一の、何でもお出来になる、私たちが「お父さん」と呼んで近づいて行ける親しい神様です。
私たちは神様について使徒信条で、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白します。この短い信仰告白を通して、聖書の示す神様は、永遠に生きておられる唯一のまことの神様であることが言い表されています。神様を英語でGODと言い、大文字で書きます。手元にある英語辞書を見ると、大文字でGODと書いてキリスト教の神であると説明されていて、神という日本語が大きな赤い字で印刷されています。それに加えて、まことの神様は、創造主であり、全能の神であるということも記されています。
❷神様はキリストによって私たちを救われる。
聖書の中でも最も大事なことはなんでしょうか・・・。それは、「キリストが聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」です(Ⅰコリント15:3-4)。「あなたがたと共にわたしちをも、キリストのうちに堅くささえ、油を注いで下さった」(21節)とあるように、神様は全ての人がキリストの十字架によって救われるようにされたのです。私たちがクリスチャンになって救われたのは、キリストの十字架によることです。これが信仰の根本です。
ルッターは若い時に雷に会って恐怖を感じ、「雷から守られたら修道士になります」という誓いを立て、やがて修道院に入り、カトリック教会の司祭になります。学識ある司祭でしたが、罪の赦しの確信がないままでした。心の平安を求めて、カトリックの戒律を守り、正しい者になろうと努力をしますが、平安が得られませんでした。そして新約聖書を読んで行くうちに、「信仰による義人は生きる」(ロマ1:17、ハバク2:4からの引用)という御言葉に接し、罪を悔改めてキリストの十字架を信じ、生まれ変わり、求めていた心の平安を得ることができました。彼は、儀式、律法を守ることによってではなく、キリストを信じる信仰によって救われるということを伝え、私たちの教会もその流れを汲んで、キリストによる救いを伝え、キリスト中心の教会として成長して行くように、主に導かれていることを感謝します。
❸神様は私たちに聖霊の証印を押し、救いの保証(アラボーン)とされる
キリストを信じると、神様は私たちの心に聖霊の証印を押して下さいます。キリストを信じた皆さんひとりひとりにも証印が押されています。聖霊の証印の目的は「天国に入れる」という保証のためです。聖霊によって、例えば祈りができるようになり、神を讃美することができるのです。
「保証アラボーン」という言葉に注目してみましょう。保証と訳されている言葉は分割支払いの第一回分のことで、残りの分も必ず支払うという保証として渡されるもので、手付金のことです。ギリシャの法律関係の文書によく出てくる言葉で、例えば、牝牛を10万円で売った女性が、残りの金額もあとで支払ってもらうという保証として1万円受け取るということです。また、踊り子たちが村の祭りに雇われて、なにがしかの保証を受け取る。それは謝礼金全体の一部であると共に、その契約が尊重され、残りのお金が必ず支払われることを前もって保証するものです。
エペソ1:14には、「この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者がまったくあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである」と言われています。救いを受けて、聖霊を神さまから保証としていただいていることを感謝しましょう。
2、神様は、私たちが信仰に堅く立って行くように支えて下さる。1:23-24
わたしは自分の魂をかけ、神を証人に呼び求めて言うが、わたしがコリンに行かないでいるのは、あなたがたに対して寛大でありたいためである。わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するものではなく、あなたがたの喜びのために共に働いている者にすぎない。あなたがたは信仰に堅く立っているからである。(23-24節)
23節で、パウロがすぐにコリントに行かないでいるのは、信仰から逸れている人々が悔改めて、正しい道に立ち返ることを願って、少し時間の余裕を与えるためでした。24節にはパウロの謙遜な気持が表されています。
*23―24節を見て行きます。教えられることを見て参りましょう。
❶パウロの寛大な気持が表されている
パウロは、ひとりのクリスチャンもいなかったコリントで伝道を始めました。迫害を受けながらも、キリストから、「この町には、わたしの民が大勢いる」(使徒18:10)という励ましを受け、一年六ヶ月の間、腰をすえて伝道し、コリント教会が誕生し、活発な教会として成長して行きました。パウロはコリントを離れ、世界各地を巡って伝道している時に、コリント教会の中に信仰から外れて混乱を起こしている人々がいることを知らされ、すぐにでもコリントに駆けつけ、悪をこらすという気持があったようです。しかし彼はコリント行きを延ばしています。その理由は、コリント教会の間違った人々に悔改める時間を与えるためでした。それが「あなたがたに対して寛大でありたいためである」(23節)という言葉に表されています。キリストが失われた者を捜し歩いたように、パウロも一人も失われないようにという気持をもって、コリント教会の人々に接していることを知ることができます。
❷パウロの謙遜な気持が表されている
パウロは直接復活のキリストに出会い、キリストから使徒として世界伝道に派遣された神の器です(使徒9:1-26)。そのパウロに対し、自分勝手なことを言っている人々がいて、コリント教会に混乱を起こしていました。それに対して、パウロは彼らの間違いを正し、間違った方向に行かないように指導する権威を持っていました。ところが、「わたしはあなたがたの信仰を支配するものでなく、あなたがたの喜びのために共に働いている者にすぎない」(24節前半)という謙遜な気持を表しています。パウロは自分の権威を振りかざすことをしないで、ひとりひとりが神の言葉に従うことを望んでいます。神の言葉、聖書ですがパウロの時代には、現在のような新約聖書はまだありませんでしたが、パウロの手紙、ペテロの手紙、ヤコブの手紙、マルコ、マタイ、ルカの福音書が順繰りに各教会に送られ、やがて今日のような新約聖書となり、旧約聖書と一緒になり、聖書となりました。ですから、私たちの信仰を支配するものは聖書です。聖書に従うということは神様に従うということです。
さらに、パウロは「あなたがたの喜びのために共に働いている者にすぎない」(24節前半)と言っています。ここで言われている喜びは、人間の自然感情ではなく、上よりの喜びを表しています。キリストを信じると、私たちは心が新しくなります。自分を救って下さったキリストのことを思うと喜びが心に湧いてくる。キリストが自分を愛して下さっている、その印とて十字架があり、復活があるということを思うと感謝が溢れてきて、心に喜びが満ちてきます。キリストを信じている私たちも、辛いことや、病気や、トラブルに直面します。信仰がなければ、心が落ち着きを失い、平安がなくなります。しかし私たちの心の中にはキリストがおられます。どんな時でも、「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」(イザヤ41:13)と言われ、心の内から、中から助けて下さいます。心におられるキリストの助けによって、状況は大変であっても心の奥底に揺るぎない平安がある、キリストが最善をして下さるという信頼があるので、喜ぶができるのです。
❸パウロは、信仰に堅く立つことを願っています。
「あなたがたは信仰に堅く立っているからである」(24節後半)と言われていますが、私たちも信仰に堅く立って行けるように祈って行きましょう。
*信仰に堅く立つために必要なことがあります。
A,聖書は常に自分への語りかけであることを忘れないことです。
早天祈祷会で、土曜日は聖書を読んで、それぞれに教えられ、励まされたことなどを分かち合います。同じ個所を読んでも皆の受け取り方は様々で、多くのことを教えられます。確かに神様は聖書を通して個人的に語りかけておられるという事実を知ることができます。
B,信仰は個人個人のものです。人を見たら恵みが失せます。
私が東京の教会にいた頃、同じ年の青年がいました。彼は信仰熱心で、私は多くのことを彼から教えてもらいました。互いに気が合って教会生活を共にしていましたが、たった一つ彼と合わない点がありました。それは彼が他の人のことを気にするからです。「あの人はこの頃どうも休みが多い。あの人はもう少し信仰的になるべきだ」などと言うのです。そういう話になると、私は「人のことはいいよ、自分の信仰をしっかりして行こう」と答えて終るのが常でした。私がそう言えたのは主の恵みによるのです。それは、私は高校2年の夏に教会に導かれ、秋に洗礼を受けましたが、その時に教会の信仰第一のおばちゃんたちにしっかりと言われたことがあります、「洗礼を受けたら、キリストにすがって前へ進むのよ。離れたらダメ。周りの人を見ない、自分と比べない、人の信仰のことをあれこれ言わない」ということでした。ある時、ヨハネ福音書21章の中で、ペテロが「主よ、従います」と言いましたが、そばにいたヨハネのことが気になって「主よ、この人はどうなのですか」と聞いている場面があります。主イエス・キリストはペテロに対し、「わたしはヨハネにではなく、あなたに話している。あなたは、わたしに従ってきなさい。You
must follow me.」とキッパリと答えています。あの頃、私に信仰の基本を教えてくれたおばちゃんたちは、60年以上の信仰の道を歩み、80の坂を越えてなお主に従う道を忠実に歩んでいます。私も高校2年の時から、50年を越えて信仰が守られていることを感謝しています。私と仲のよかった青年は、キリストよりも人を見るようになってしまい、音信不通になってしまい、私の心の痛みになっています。
私たちひとりひとりが、今週も主を見上げ、恵み深い聖霊によって祈りつつ信仰の道を歩んで行くように、新しい決断をもって祈って行きましょう。
まとめ
1、1:21-22、信仰を与えて下さったのは神様です。神様は、私たちがキリストを信じるように導き、生まれ変わったことを確かにするために、私たちに聖霊の証印を押して下さいました。聖霊は、私たちの信仰を守り、導き、私たちを天国に入れるという保証であり、手付金です。
2、1:23-24、神様は、私たちが信仰に堅く立って行けるように支えて下さいます。信仰を堅く保つために、聖書を自分への語りかけとして謙虚に受けとめ、人や周りを見ないでキリストを見上げて行くことを実践して行くことが大切です。
祈 り
創造主である神様、私たちをキリストの救いに導き、天国に行く保証として聖霊の証印を押していただき感謝します。今週も聖霊によって祈りの日々を進んで行けるように助けて下さい。ひとりひとりが、人を見ないで、回りを見ないで、ただキリストを見上げて行くように助けて下さい。病気の方々に平安と癒しを与えて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
参考文献:コリント注解―黒崎、バークレー、藤田、佐藤、フランシスコ会、米田、文語新約略註。