キリストによる赦しと勝利  コリント第二2:1-17        主の2009.10.25礼拝

ドイツの宗教改革者マルティン・ルッター(1483-1546)は、イエス・キリストのことを三度も知らないと否んだペテロについて言っています、「私がもしペテロの肖像を描くとすれば、彼の頭の毛一本一本に“罪のゆるし”と書くだろう」。ペテロは、キリストの十字架の前に、「何があっても主に従います」と言い切りました。ところが、キリストが捕らえられ、「あなたもキリストの仲間だ」といわれた時、「いや、私はその人を知らない」と三度もキリストを裏切ってしまいました(ルカ22:47-62)。キリストは、裏切ったペテロを見捨てずに、復活後に彼に現れて裏切りを赦し、弟子として生きるように新しい出発の道を与えて下さいました(ヨハネ21:15-19)。ルッターはそのことを思って、ペテロの髪の毛一本一本に“罪のゆるし”と書くと言ったのです。それは、ペテロだけではなく、ルッター自身も、キリストによって数え切れない罪を赦してもらっているという思いを表しています。
本日はコリント第二2:1-17です。この手紙を記した使徒パウロは、2章の前半で、赦しの心をもち、赦しを実践することの尊さについて教えています。7節で「あなたがたはむしろ彼をゆるし、また慰めてやるべきである」、10節では「もしあなたがたが、何かのことについて人をゆるすなら、わたしもまたゆるそう。そして、もしわたしたちが何かのことについてゆるしたとすれば、それはあなたがたのためにキリストのみまえでゆるしたのである」と述べています。そして2章後半では、赦す者に与えられるキリストの勝利が語られています。

内容区分
1、クリスチャンは、キリストの愛を受け、赦す恵みを与えられている。2:1-11
2、クリスチャンは、いつもキリストの勝利を与えられている。2:12-17
資料問題
1節「あなたがたの所に再び悲しみをもって行くことはすまい」、本節と13:1-2は使徒行伝にある二つの訪問(18:1-18、20:2-3)以外に、パウロがエペソから、短期間コリントを訪れたかも知れないという推論の根拠になっていて、中間の訪問と呼ばれている。この訪問は不首尾に終ったらしく、そこで「涙の書簡」(2:4)をコリントに送ったようである。その結果はテトスにより(7:5以下)、良い結果をもたらしたことが分かった(7:9)。7節「あなたがたはむしろ彼を赦し、また慰めてやるべきである」、Ⅰコリント5:2以下に従い、罪を犯した者は教会より罰せられた。それは彼を悔改めに導くためであった。その目的を達したので、赦しの手を差し伸べよう。8節「愛を示そう」、教会全体で愛を公に宣告しよう。11節「サタンに欺かれることのないためである」、サタンはクリスチャンの義を愛する心を利用して、彼らの愛の心を働かないようにし、人を審くことに熱心になって、人を赦すことを忘れさせようとする。14節「神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き」、神様はいつでもすばらしい勝利を与えて下さる。15節「救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおり」、主を信じる人々の中でも、主を信じない人々の間でも、かぐわしいキリストの香りである。17節「神の言を売り物にせず」、神の言葉をごまかして、神の言葉に混ぜものをしないで、純粋に福音を伝えるのである。

1、クリスチャンは、キリストの愛を受け、赦す恵みを与えられている。2:1-11

わたしは大きな患難と心の憂いの中から、多くの涙をもってあなたがたに書き送った。それはあながたを悲しませるためではなく、あなたがたに対してあふれるばかりにいだいているわたしの愛を知ってもらうためであった(4節)。あなたがたはむしろ彼を赦し、また慰めてやるべきである。そうしないと、その人はますます深い悲しみに沈むかも知れない(7節)。

この世に今一番欲しいもの、或いは必要なものはなんでしょうか。その欲しいもの、必要なものとは世界中の全ての人が捜し求めているものです。この世が与える多くの幸せをもっていても、この一つを欠いているならば、本当に幸せであると決して言うことができません。それは「愛」です。神様から与えられる「聖なる愛」です。その愛はキリストを通して明らかにされた「特別な愛」です。
私たちは愛のない者であり、神様に背く罪人であり、地獄に向かいつつあった愚かな者でした。そんな私たちを神様は憐れんで、ご自分の独り子であるイエス・キリストをこの世に送り、私たちの罪の身代りとして十字架にかけて殺したのです。何故なら「罪の支払う報酬は死である」からです(ロマ6:23)。このキリストの十字架による特別な愛を受け、私たちは神の子になりました。そして、私たちは互いに愛し合う者、赦し合う者、祈り合う者に心が変えられていることを感謝します。
パウロはキリスト教会を迫害する者でしたが、神様の憐れみによってキリストを信じて心が生まれ変わりました。彼は言っています、「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受け入れるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである」(Ⅰテモテ1:15)。パウロは、神様からキリストの十字架による特別な愛を受けて救われ、伝道者に任命され、彼の伝道によって世界各地に信じる者の群れである教会が増えて行きましたが、その一つがコリント教会です。ところが、パウロが世界伝道のためにコリントを離れると、キリストの福音から外れて、キリスト中心から人間中心になる人々、自分の知識を誇る人々、派閥をつくる人々、復活はないという不信仰な人々、そしてコリント教会の大恩人であるパウロ先生の悪口を言い出す者までが現れ、教会内に混乱が生じていました。その間違いを正すために、パウロはコリント第一の手紙を送り、キリストを中心にして一致を保ち、聖書の中で最も大事なキリストの十字架と復活の信仰に堅く立って行くように、人々を指導しました。
そして、パウロは全ての間違いを正すために再びコリントに行こうとしていますが、行く前にコリント第二の手紙を書き、2:1-11で、「わたしは間違った人を審くために行くのではない。彼らを愛し、赦すために行くのである」という彼の真実な気持を伝えています。
パウロは、4節始めで、「多くの涙をもってあなたがたに書き送った」と言っていますが、これは涙の手紙と呼ばれていますが、現存していません。それが書かれた目的は、「わたしの愛を知ってもらうため」(4節)と述べられています。さらに5-8節には、かつて教会で問題を起した人に対して処罰が行われましたが(Ⅰコリント5:1-8)、それでもう充分である。その人を赦し、受け入れ、慰め、キリストの愛を示そう。その人を教会全体で公に受け入れて行こう、ということを教えています。
10-11節には、「赦そう、キリストの前で赦そう、赦し合って行こう」との強い勧めがあります。
11節に「サタンに欺かれることのないため」とあります。私たちは人の落ち度に対して、それはいけないという立場に立って、義を行おうとします。しかし義を行うことに熱中して、愛の心を忘れてしまい、相手を審くことばかりに関心が行ってしまうことがあります。そこにサタンのワナがあります。
姦淫を犯した女性に対し、人々は当然のごとく、「石を投げて、その女を殺せ」と叫びました。キリストが、「ではあなた方の中で罪のない人がまず石を投げなさい」と言われた時に、人々は自分の罪に気づいて去って行きました。キリストは「今後はもう罪を犯すな」と言われて、愛をもって彼女を赦し、再生の人生を歩むようにと送り出しています(ヨハネ8:1-11)。
赦す者は幸いであり、その結果はよいものとして残って行きます。

内村鑑三(1861-1930)は1884年(明治17年)11月、23歳の時アメリカへ行きました。翌年1月から、フィラデルフィア郊外にあるエルウインの知恵遅れの子どもたちの施設で、聖書の「隣人愛」の実践のために働きだしました。まだ人種差別が強くあり、このような施設に入っている子どもたちでさえ、彼の名前を呼ばず、「ジャップ、ジャップ(日本人に対する軽蔑の言葉)」という侮辱した呼び方をしていました。彼は嫌な顔をせず、彼らの下(しも)の世話に至るまで面倒をみていました。

ある日わがままで不従順なダビデが、彼の前でいつもにもない悪さをしでかしました。ダビデはとっさに懲罰を恐れて青くなったが、内村鑑三は叱ることをしないで、自分の至らなさと、ダビデのために祈りつつ断食に入ったのです。このことを知ったダビデは、それからというもの、素直な少年となり、彼にならって他の子ども達も内村鑑三に絶対の信頼をおくようになって行きましたた。もはや、だれも彼を「ジャップ」と呼ばなくなった。「カンゾー」は彼らの心に迎え入れられたのです。内村鑑三は半年余りで、惜しまれてそこを去らなければなりませんでした。

それから39年後、内村鑑三を通して信仰に導かれた大賀一郎博士(古代蓮を咲かせ、ハス博士として世界的に有名)が、エルウインの施設を訪ねた。ちょうど12月でクリスマスの祝賀会が開かれていた。プログラムが進むうちに出てきた劇は、なんと「カンゾー」だった。内村鑑三が一生懸命になって床を拭いたり、人の嫌がる陰の仕事をやっている場面であった。わずか半年足らずの内村の奉仕が40年の間に渡って語り続けられているのを見て、大賀博士は深い感激を味わった。

今朝、罪のないキリストが私たちの罪の身代りになって十字架にかかり、「父よ、彼らを赦したまえ」(ルカ23:34)と祈り、全ての人のために救いの道を開かれたことによって、ひとりひとりが神の子にされていることを感謝しましょう。キリストの愛を受けてコリント教会を混乱に陥れている人々を赦しているパウロのように、また自分を「ジャップ」と侮蔑する者のお世話をし、断食をして祈った内村鑑三のように、私たちもキリストの愛を表す者になるように祈って行きましょう。



2、クリスチャンは、いつもキリストの勝利を与えられている。2:12-17

しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである(13節)。

12-13節にパウロの個人的な気持が記されています。パウロは恐らくテトスとアジヤのトロアスで待ち合わせ、コリント教会からの返事や教会の現況を聞く事にしていたようです。しかし、テトスに会えなかったので、気が気でなく海を渡ってヨーロッパのマケドニアに行ったとあります。パウロがいかにコリント教会を思っていたかが分かります。この個所ではテトスに会ったとは記されていませんが7:5以下によると、テトスが遂に戻って来て、コリント教会についての良い知らせをもたらしてくれたことが分かります。それが、14節の「しかるに、神は感謝すべきかな」という言葉の中に現れています。

クリスチャンの特徴は「すべての事について感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:18)という御言葉に従って生きていることです。きょうも礼拝に導かれたことを感謝します。大勢の兄弟姉妹と一緒に礼拝を捧げる恵みを与えられていることを感謝します。感謝をたくさん数えましょう。

感謝に関連して、昨日上野公園ホームレス伝道に行って来ました。皆様のお祈りに感謝します。この働きは11年目に入っています。比留間アケミ師によると、昨日で上野における私のメッセージは112回目でした。月一回ですが、私はキリストの十字架と復活をダイレクトに語る恵みを与えられていることを感謝しています。奉仕に継続して参加して下さる方々に感謝します。昨日の最年少奉仕者は小学5年生の須田智裕くんで、ホームレスの方々におにぎりを心を込めて配ってくれて感謝でした。毎回毎回おにぎりを握って下さる方々に感謝します。衣類を献げて下さる方々、食料品、お米、生活用品を献げて下さる方々に感謝します。ホームレス伝道のために献金して下さる方々に感謝します。車の運転をして下さる方々に感謝します。

教会が内側だけに目を向けて、自分たちだけが恵まれていればいいというのではいけないと思います。日本では教会の囲いの外にいる人々は全人口の99%もいます。何とかして接点を見つけて、できるだけ多くの人々に福音を伝えることが私たちの使命です。ホームレス伝道は社会に向かって開かれた伝道の門です。家も仕事もなく、家族から切り離され、食べる物に飢えている人々がたくさんいます。上野ではキリストを求めて野外の礼拝に出席する人々が毎週300人います(食事の関係で人数を限定しています)。ところで、熊谷では現在の100人礼拝から200人―300人礼拝を目指して、広い会堂を与えて下さいと祈っていますが、私は毎月上野に行くたびに300人の会衆の様子を心に刻んでいます。

本題に戻ります。パウロは断言しています、「神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである」(14節)。パウロはひたすらキリストに従い、聖霊に導かれて伝道の務めに励んでいます。ところが迫害があり、偽兄弟による裏切りがあり、様々な困難に出会い、一時的には失望し、負け犬のような境地に追い込まれるように思える時があります。しかし、最後には栄光ある神様の勝利へと導かれるということを言っているのです。キリストが十字架で死んだ時、弟子達はキリストの伝道は失敗であると思い、彼らは自分達も捕らわれ、殺されるかもしれないと思って戸を閉じた部屋の中で息をひそめて隠れていました。ところがキリストは死んで終わりではありませんでした。神様はキリストを復活させ、主の主、王の王とされました。復活されたキリストは、戸を開けずに弟子達の部屋に入り、ご自分が復活したことを知らせ、弟子達は喜びに満たされたのです(ヨハネ20:19-20)。生きているキリストが私たちを導きます。15節の御言葉を見て下さい。クリスチャンは、救われる者にとっては永遠の命に至らせる香りとなります。滅びる者には、永遠の滅びという死に至らせる香りであると言われています。キリストの福音を信じて救われる者、その反対にキリストを拒否して滅びる人もいるという厳粛な事実があります。私たちは全ての人が救われることが神様の御心であることを信じ、祈りを込めて、愛を込めて、力を尽くして、キリストを伝えて行く使命があります。パウロは17節で、神の言を売り物にせず、神の言に人間的な混ぜものをせずに、純粋にキリストを伝えて行く決意を述べています。

もう一度14節を読みます、「しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識の香りを至る所に放って下さるのである」。

ある方が、ろくに仕事をしないので、奥さんと子どもに捨てられてしまいました。「神も仏もない。いるなら助けてほしい」とうめいていました。何とかして生きるために、鍼灸を学び、それで生活を立てて行くことになりました。生活はできても、生きる意味を知りたいと願い、招かれてキリスト教の家庭集会に出席してみました。皆が温かく歓迎してくれ、初対面の自分のために祈ってくれる愛に心を打たれました。「ここにまことの神様がいる」ということを実感し、キリストの十字架の血潮によって罪を赦されたことを信じ、救われ、信仰という人生の土台が与えられたのです。もう家庭は持てないと思っていたのですが、不思議な神様の導きで再婚することができました。毎朝毎朝、奥さんと祈り合い、それが生きる力の源になっています。若い頃の不節制で喀血してしまいましたが、必死に神様を見上げ、祈りを通して、キリストの愛と力とに支えられ、鍼灸の仕事をしています。

だめになったような人生であっても、神様に縋れば、キリストの十字架によって救われます。一度は人生を台無しにした人が、キリストの恵みによって救われ、伴侶を与えられ、鍼灸治療を通して神様の愛を伝えています。キリストの勝利の力によて日々を支えられ、接する人々にキリストの香りを分け与えています。



まとめ

1、2:1-11、クリスチャンは、キリストの愛を受け、赦す恵みを与えられています。キリストによって赦されていることを感謝し、私たちも赦す者になって行きましょう。

2:12-17、クリスチャンは、いつもキリストの勝利が与えられています。神様の恵みに感謝し、キリストにあって守られ、勝利の日々が与えられて行くことを信じ、祈りましょう。



祈 り

天地の主である神様、私たちをキリストの十字架によって救っていただき感謝します。キリストによって勝利の日々を歩ませていただけることを感謝します。キリストの愛で心を満たされ、人を審くのではなく、人を愛し、赦して行く者であるように導いて下さい。生きて行く上で様々な戦いがありますが、神様はいつもキリストによって勝利を与えて下さることを信じ、祈りの中に信仰をもって今週も歩ませて下さい。

病気の方々に平安を与え、十字架の贖いの力を通して病気の癒しを与えて下さい。試練、困難、闘い、仕事を求めている方々に具体的に答えを与えて下さるようにお願いをします。昨日は上野公園ホームレス伝道の時が与えられ、教会の働きとして奉仕ができましたことを感謝します。

私たちを救い、導いて下さる主イエス・キリストの尊い御名によって祈ります、アーメン。





参考文献:コリント注解―福田、フランシスコ会、米田、黒崎、バークレー、文語新約略註、藤田、現代訳新約聖書。   「キリスト教例話事典・藤井康夫・教会新報社」、「信仰誌あかし」