主に向く時、主と同じ姿に変えられていく コリント第二3:1-18       主の2009.11.8礼拝


いろいろな所へ伝道のために出かけますが、時には全く初めての所に行きますが、日本でも外国でも、いつも「宜しくお願いします」という挨拶をして、受け入れてもらい、メッセージを語る時が与えられます。「よくお出で下さいました。ところで説教の前に、あなたが牧師であるという推薦状をお願いします」と言われことはありません。それは、私が牧師として伝道牧会という働きを継続し、その働きの実として救われる者が起こされ、熊谷の教会が形成され、主の祝福の中に教会が活動しているということが伝わっているからであり、それが最も確かな推薦状となっているからです。
本日はコリント第二3:1-18です。2節で、使徒パウロは「わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心に記されていて、すべての人に知られ、かつ読まれている」と言っています。その当時(今から約2000年ほど前)は教会が各地に生まれて行きましたが、偽教師が教会に入り込み、間違った教えを持ち込んで混乱を与えたり、信徒の財産を奪って行くような事が起きていました。そこで各地を巡回する伝道者たちは、身元確認のために派遣された教会からの「推薦状」が必要であったのです。しかし、コリント教会はパウロの伝道によって生まれた教会ですから、パウロは推薦状なしにいつでもコリントに行くことができました。「もし推薦状と言われれば、私の伝道によって救われたあなた方がその推薦状である」と言っています。16-18節は私たちの信仰のあり方について、大事なことが述べられています。主のメッセージを聴き、祈って、新しい決断を主に捧げ、今週の旅路へ共に出発いたしましょう。


内容区分
1、私たちは、神の聖霊によって生まれ変わり、各自はキリストの手紙である。3:1-15
2、私たちは、主に向く時、主と同じ姿に変えられていく。3:16-18
資料問題
3節「あなたがた自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたもの」、この手紙の著者はキリスト、パウロは手紙を筆写する役目を命ぜられ、その材料は墨ではなく生ける神の聖霊であり、その用紙はコリントの信者の心の肉碑である。即ちパウロの働きによって神の御旨がコリント人の心に入り、聖霊によってコリントの教会が誕生したので、コリント教会の存在がパウロの働きを証明している立派な推薦状である。6節「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす」、現代訳(尾山師)を記す⇒「神は私たちを新約の働き人とさせてくださった。それは、律法を守るようにと教える働きではなく、御霊の神によって人を生れ変らせる働きである。律法を守れない人間には、死があるだけだが、御霊の神は人に命を与えてくださる」。18節「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」、キリストの栄光が自分に反射してその栄光がますます加わり、キリスト(御霊として私たちの中に働きたもうキリスト)によって、私たちの心は次第にキリストと同じ姿に変えられて行く(Ⅰヨハネ3:2)。終局は復活の時における榮化である(Ⅰコリント15:52)。


1、私たちは、神の御霊によって生れ変わり、各自はキリストの手紙である。3:1-15

わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ、読

まれている。そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることをはっきりとあらわしている。(2-3節)

パウロは、クリスチャンになる前は、ユダヤ教の中で、律法を守り、良い行いをすれば救われると思い、一生懸命に律法を守ろうと努力しました。しかし、律法を守れずに悩んでいた時に、キリストを信じるという信仰によって、罪を赦され、永遠の命を受けて救われるという体験をしました。パウロは、ユダヤ教からクリスチャンになり、律法から自由になり、「人は信仰によって救われる」という恵みを伝える伝道者になりました。信仰によって救われるというのは、「自分の罪を認め、罪を悔改めてキリストの十字架を信じて、心の罪を赦していただくこと。心の中にキリストを迎えて神の子になり、天国へ行く永遠の命を与えられると言う恵みをいただくことです」。

パウロは、キリストの救いに感謝し、誰でもキリストの十字架を信じれば、罪を赦されて救われ、神の子になれるという福音の真理を伝えました。さらに、キリストを信じて信じてクリスチャンになった者は、キリストにつながり、きよい生活、良い行いをして生活すること大切であるということを伝えています。そのことがエペソの手紙2:8-10で教えられています。



あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。

それはあなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。

決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。

わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。

神はわたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。



パウロは言います、「ユダヤ教の律法を守るという行いによっては救われない。人は律法全体を完全に守れないからである。私たちは、ただキリストの十字架によって救われるのである。キリストを信じて救われた者は、いい加減な信仰生活ではいけない。キリストを信じて、生まれ変った者は、良い実を結ぶクリスチャン生活をするのである。私たちが伝えた福音を通して、あなたがたは救われている。教会につながっている。あなたがたは私から送られたキリストの手紙である。これこそが私が使徒であるということの証明である。あなたがた救われたクリスチャンこそが、私が使徒であるという神様からの推薦状である」。

 ここにとても大切な真理があることを心に留めることが必要です。それは、すべての人はキリストの手紙であるということです。私たちすべてのクリスチャンは、キリストの広告塔です。キリストの名誉は、また教会の名誉は私たちにかかっているということです。私たちは店の主人を、彼が売る品物によって判断します。職人を、彼が作り出す品物によって判断します。教会の外の人は、私たちクリスチャンを見て、教会のことを判断し、キリストのことを判断するということが言えます。あるクリスチャンの方が言っています、「教会にとっていちばん大きな妨げになっているものは、クリスチャンと称する人々のだらしない生活である」。

実際問題として、コリントの教会には、キリストの十字架を信じて救われた恵みを軽く考える人々がいました。救われて自由になったのだから、何をしても構わないという間違った考えに捕らわれて、「あれでもクリスチャンか」と言われるような生活を送っている人々がいました。

私たち自身のことを考えてみましょう。自分はクリスチャンになって、こんな所が変わったという所があるはずです。私もいろいろな人がクリスチャンになって変化して行くのを見ていますが、例えば顔が変り、目つきが柔和になり、その人の全体が明るくなって行くのを見ると、イエス様は人を変える素晴しいお方であることを実感します。

ここにあるのは、日本聖書協会のカタログです。表紙に出ているのは久米小百合さんです(なんと我が家の孫・慧がその脇にいます)。この方は、かつて大ヒット曲を出した人ですが(異邦人・久保田早紀)、救われてから福音歌手になり、神様を讃える歌をうたい、聖書をPRする仕事をし、キリストを伝えています。

久米さんのように劇的に変る場合もあるでしょうし、少しずつ変わって行く場合もあるでしょう。私たちは、「あの人がクリスチャンになって良いほうに変わった、良かったね」といわれる者になっているはずです。私たちが、ひたすらキリストにつながり、教会につながっているならば、私たちは良いほうに必ず変えられて行きます。



2、私たちは、主に向くときに、主と同じ姿に変えられて行く。3:16-18

しかし、主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。(16-18節)

*16節、「しかし、主に向く時には、そのおおいは取り除かれる」と言われています。主とはイエス・キリストのことです。私たちは主を見ようとするのですが、おおいが邪魔をしているので、主を見られないということがあります。どんなおおいがあるでしょうか。

心の頑固さというおおいがあります。

聖書が開かれ、読まれ、メッセージが語られているのに、それを素直に聴こうとしない心の頑固さというおおいのことです。主に向く秘訣は謙って、主の御言葉を自分のものとして聴くことです。聖書の中心であるキリストのことを求めて行くことがおおいを取り除く秘訣です。

今週はファミリーの週です。ファミリーの中心はキリストです。人の話をしても恵まれません。キリストの恵みをたくさん分かち合って下さい。キリストを求め、キリストの恵みを分かち合うと、心が明るくなり、讃美と感謝が心の中から湧き出てきます。私の心からの願いは、皆さんひとりひとりが「キリストきちがいJesus Crazy」になることです。

次に不従順というおおいがあります。

キリストに従う者は恵まれます。従うということはキリストを一番にすることです。キリストを一番にすれば、集会を休まなくなります。キリストを一番にすれば奉仕が楽しくなります。キリストを一番にすれば、聖書を読み、祈るという生活のリズムができます。考えの中心、生活のトップにキリストをおく事が不従順というおおいを取り除く秘訣です。

さらに、一番やっかいな罪というおおいがあります。

主に向く時に罪というおおいは取り除かれます。主は罪という闇を打ち砕く光の神様です。どんなに闇が濃くても、光には勝てません。光はどんな闇の中にも浸透して行く力があります(penetration)。主の光に照らされて、罪に気づき、罪を悔改めて、罪から解放されて行きます。私たちに罪がある限り、神様の前に出ることはできません。私たちが清くならなければ、神様を見ることはできません。私たちは自分の力で清くなることはできません。キリストの十字架に心を向ける時に清くされます。

私が高校生の時に、東大に入った先輩がいて、夏休みに英語の本を読む会を開いてくれました。書名は、チャールズ・ディケンズの聖書物語であったと思います。その中に山上の説教の場面があり、私が英語で暗誦したのが、キリストが教えてくれた「心のきよい人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう」(マタイ5:8)という御言葉でした。それから教会に導かれ、高校2年の秋に罪を悔い改めてキリストを信じ、11月18日に洗礼を受けました。そして、清くされた心で、聖霊によって「天の神様」と祈ることができるようになり、神様を見上げる喜びを与えられて、今日まで信仰の道を歩ませていただいていることを感謝します。

*16節、「主に向く時」ということを考えてみましょう。

へブル12:2に「信仰の導き手、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ(目を離さないで)、走ろうではないか」という勧めの御言葉があります。信仰生活の極意はキリストを仰ぎ見ること、キリストから目を離さないことです。そんなことは当たり前のことですが、私たちは脇見をすることがあります。

ペテロが、主に「湖の上を歩かせて下さい」と願った時、主は「おいでなさい」と言われ、ペテロはキリストを目当てにして水の上を歩いて行きました。ところが、風の音、波の音に気を奪われて恐ろしくなり、キリストから目を離した瞬間に溺れかけたのですが、キリストによって引き上げられ助けられました(マタイ14:22-34)。

キリストから目を離せば、人のことが気になります。人のことが気になって、審く言葉や批判する心になります。心は恵まれず、不信仰の中に沈んで行きます。

キリストから目を離せば、愚痴、不平不満ばかりで心が恵まれません。

キリストから目を離せば、問題にばっかり目が行って不安、恐れに捕らわれてしまいます。

キリストは私たちのために十字架にかかって下さった愛の主です。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」(ヨハネ14:18)と言われ、私たちをトコトン助け、守って下さいます。

今朝、あなたの祈りの課題はなんでしょうか・・・。病気のこと、仕事のこと、経済のこと、人間関係のこと、家族のこと、結婚のこと、将来のことでしょうか。キリストに顔を向けて祈りましょう。祈りは届いて答えがあります。祈りましょう。

私たちが主に向いて行く時に、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」とあります。おおいなしにキリストを見つめる時に、私たちはキリストの栄光を反映して、キリストに似た者になって行くという恵みが約束されています。

多くの人々はスターの衣装と同じものを着て、身振りを真似て、憧れのスターと同じになろうとします。私が小学生低学年の頃、鞍馬天狗のチャンバラ映画を見て、さっそく風呂敷で覆面をし、洋服屋でしたので、竹の物指しがたくさんありましたので、それを刀に見立てて腰に差し、近所中を暴れまわって、方々の家から怒鳴り込まれたようです。私は鞍馬天狗になりきっていますから、父親が叱りにくると、逃げるのも大切な戦法として夜まで家に帰らないということがあったことを思い出します。

私の場合は幼稚な物真似でしたが、私たちクリスチャンがキリストに向かい、キリストを見つめるならば、私たちの人生は変わって行きます。なぜならキリストは私たちの心の中に入って来て、内から、中から私たちを助け、私たちの心を造り変え、新しくして下さるからです(ガラテヤ2:20)。

今朝、皆さんの目と心は、キリストに向いていますか・・・。私たちの目と心がキリストに向く時、主の御手の中で、全ては恵みに変わって行きます。私たちは栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられて行くことを信じて、キリストの霊である聖霊の助けを信じて祈りましょう。



まとめ

1、3:1-15、私たちは、神の聖霊によって、生まれ変わりました。各自は主の救いの恵みを表すキリストの手紙です。私たちを通して、主の恵みを表して行くように祈りましょう。

2、3:16-18、私たちは、主に向く時に、主と同じ姿に変えられて行きます。頑固さ、不従順、罪というおおいを取り除かれて、常に主を見上げ、主から目を離さないで祝福の道を歩き、キリストに似る者となるように祈りましょう。



*「み手の中ですべてはかわる」を讃美し、お祈りを捧げます。



祈 り

天地の主である神様、独り子であるイエス・キリストの十字架によって救いをいただき、神の子にされて、信仰の道を歩ませていただいていることを感謝します。キリストの十字架によって救われたことを感謝し、私たち一人一人がキリストの手紙となって、キリストの恵みを表す者となって行くように導いて下さい。主に目を向け、心を向け、キリストの栄光の姿に変えられて行くように、信仰の道を歩ませて下さい。各ファミリーを祝福し、聖霊の助けによって、キリストの恵みをたくさん分かち合って行くように導いて下さい。病気の方々に平安と共に癒しの恵みを表して下さい。様々な祈りの求めに主が適切な導きと答えを与えて下さることを信じます。

私たちの主であるイエス・キリストの尊いお名前によって、お祈りを捧げます、アーメン。



参考文献:コリント注解―福田、藤田、フランシスコ会、佐藤、米田、榎本、バークレー、文語新約略註、LABN、黒崎、Tasker、尾山訳新約コリント。