日ごとに新しく  コリント第二4:7-18               主の2009.11.22礼拝

先日、ある俳優が96歳で天寿を全うして世を去ったと新聞に報じられていました。天寿の天というのは人間の力を越えた何か大きな存在のことで、寿は寿命を表しています。命ということですが、誕生と死を人間が決めることはできません。それで一般的に、命は人間の力を越えた天の定めによるものであると考えられています。天寿を全うしたというのは、長く生きて亡くなった場合のことで、短い人生で世を去った場合は、天寿を全うしたとは言わないようです。ポリュカルポスのように、90歳を越えてキリストを信じる信仰の故に、火あぶりになって天に召されるという迫害による死があり、誕生後にすぐ亡くなる場合もありますし、働き盛りの人が突然に亡くなる突然死ということもあります。人生の終わりを迎える時期、また終り方は様々な形があるようです。

本日はコリント第二4;7-18です。7節に、私たちは「土の器」であると言われています。土の器はやがて壊れてしまいます。私たちはこのままでいれば、脆くも、壊れて死んで滅んで行く者でした。しかし、16節に、「わたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされて行く」という御言葉があります。私たちがキリストを信じるならば、罪の赦しと共に永遠の命を受けます。土の器である私たちの外なる肉体は日々古び、衰えて行きますが、内なる人、すなわちキリストの救いによって生まれ変わった私たちの霊魂は日ごとに新しくされ、希望にあふれ、若やいで生きることが出来ます。

ダビデは「わたしの生きている限りは、必ず恵みといつくみとが伴うでしょう。わたしは永遠(とこしえ)に主の宮に住むでしょう」(詩篇23:6)と歌っています。キリストを信じる私たちは日ごとに主の祝福をいただき、永遠の御国を目指して進んでいます。私たちが天国に行く日、すなわち地上を去る日は誰にも分かりません。キリストは、十字架と復活の後に天に帰って行かれる前に、「わたしが天に帰るのは、あなたがたのために場所を用意にしに行くのです。わたしが行って場所の用意ができたら、また来て、あながたをわたしのもとに迎えましょう」(ヨハネ14:2-3)と約束されました。これはキリストが一番良いと思うときに、私たちを天国に迎え入れて下さるということを示しています。この地上で長く生きても、また短い人生であったとしても、キリストによって召される時が天寿を全うした時なのです。

今朝も、共に主のメッセージを聴き、祈って、新しい一週間の旅路へ出発いたしましょう。



内容区分

1、私たちは、土の器であるが、主の命を豊かに与えられている。4:7-15

2、私たちの内なる人は日ごとに新しくされて行く。4:16-18

資料問題

7節「土の器」、パウロはダマスコ途上でキリストに出会い、生命の光であるキリストを心に迎えた。パウロは、苦しみと迫害に悩まされている自分は土の器であるが、心の内にはキリストの生命が溢れている。またパウロは、創世記2:7「主は土のちりで人を形造り・・・」を思い浮かべていたのであろう。8―9節の表現は、闘技場における闘技士の競技や、試合の模様からの描写を思わせる。10節「イエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである」、パウロは自分が使徒としてキリストの苦しみに神秘的に与っていて、古い自分は死んでキリストが心に生きている(ガラテヤ2:20)。16節「外なる人、内なる人」、外なる人は人間の肉体、内なる人は霊魂のことであり、キリストを信じて霊魂は生まれ変わり、永遠の生命を受けている。



1、私たちは土の器であるが、主の命を豊かに与えられている。4:7-15

しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。(7節)

私たち人間は、誰もが例外なく死を迎えます。世界で最大の権力を持つと言われるアメリカの大統領も、全ての権威、権力、お金、人間関係から切り離されているホームレスの人も、等しく死んで行きます。この人間の姿を使徒パウロは「土の器」と呼んでいます。

土の器について聖書の教えをまとめてみましょう。神様は人間を土のちりで造られ、鼻から神様の命の息を吹き込んで人間を生きる者にして下さいました(人間は肉体と霊魂をもつ。厳密には霊と心とからだをもつーⅠテサ5:23)。ところが、人間は神様に背いて罪人となり、神様から切り離されてしまいました。その結果、人間は、土のちりで造られた肉体も、神様の命を受けて生きるものになった霊魂も、死んで滅びるという悲惨な審きを自らに招いてしまったのです。しかし、愛である神様は人間を救うために、ご自分の独り子であるイエス・キリストをこの世界に送って下さいました。キリストは私たちの罪の身代りになって十字架にかかり、命を捧げて罪の赦しの道を開かれた救主です。私たちは神様から遠く離れていたものですが、神様の聖霊によって心を照らされて、罪を悔い改め、キリストを信じて神の子にされ、クリスチャンとして信仰の道を歩ませていただいています。



信仰の道を歩むということに関連して、うれしいニュースです。12月20日(日)クリスマス礼拝で、3名の方がが洗礼を受けます。主の祝福をお祈り下さい。



ところで、キリストを信じて救われても、私たちの肉体は罪の故に死んで土のちりに帰って行きます。では、肉体は土のちりになって終りでしょうか・・・。私たちがキリストを信じると、キリストは信じる者の霊魂に(心の中に)入って下さいます。霊魂はキリストの恵みによって永遠に生きるものになりますが、罪の故に肉体は一度は死にます。しかしキリストによる永遠の命は霊魂から肉体に及んで行きます。キリストが一度は十字架の上に死なれたように、私たちの体も一度は死にますが、キリストが肉体をもって復活されたように、私たちの体も終わりの日に復活し、傷もしみも、障害のあともない、輝く栄光の体に変えられ、霊魂と体とが一つになって永遠の天国に入って行くのです。

私はハンセン病の施設に行ったことがあります(今はハンセン病は治る病気で施設は全廃されています)。病気のために目が見えなくなり、点字聖書を読んでいましたが、病気の進行により手の指が溶けてしまい、舌で点字聖書を読む人、また病気のために顔の形が変わってしまった方々に出会いました。見た目には悲惨な状況なのですが、彼らが復活の日に体の全てが癒され、栄光に変えられることを心から信じて希望をもって信仰生活に励んでいる姿を見て、自分自身の復活を信じる信仰を強められたことを思い出します。パウロは眼病などで苦しみ、肉体にとげを持っていたのですが、聖霊に導かれて言っています、「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから救主イエス・キリストの来られるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」(ピリピ3:20-21)。

パウロは言います、「わたしたちは土の器のような脆いものである。だが私たちの心にはキリストが住んでおられる。これは神様の測り知れない力を表している」。私たちは、本来は土のちりであって、誇れるものは何一つとしてありません。私たちは土の器にしか過ぎないのですが、クリスチャンとなった今は中身が素晴しいのです。その中身とはキリストです。キリストは天地を創造された神の独り子であり、私たちを愛し、救い、守り、支えて下さる、今もそして永遠に生きておられる救主です。キリストは、私たちの心の扉をノックして、「わたしを中にいれて下さい」と親しく呼びかけて下さいました(黙示録3:20)。キリストの呼びかけに応じて、心の扉を開いてキリストを迎えた時から、キリストは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と言われ、遠く離れた神ではなく、心の中から、内側から私たちを導き、支えて下さっています(マタイ28:20)。

8-15節はキリストを信じる者の力強さを表しています。「患難を受ける。途方にくれる。迫害に会う。倒される」(8-9節)という言葉が並んでいます。これは私たちの人生の現実を示しています。伝道牧会していると、この8-9節のような突発的な、思わぬ出来事があります。その時に励まされるのは「患難のあとには窮しない(押しつぶされない)」、「途方にくれるのあとには行き詰まらない(絶望してしまうことはない)」、「迫害のあとには見捨てられない(神様が助けて下さる)」、「倒されるのあとに滅びない(伸びてしまわないで、また立ち上がる)」という約束がついていることです。

13節に「わたしは信じた。それゆえに語った」という詩篇116:10からの引用があります。パウロの引用はギリシャ語70人訳聖書なので、少し表現が違っています。詩篇116篇の作者は死ぬほどの苦しみの中にあっても信仰を棄てず、信仰を守っています。パウロも復活の主を信じて、苦難の中にあってもキリストを伝え、キリストの復活を知らせ、そのことによって、16節にあるように「感謝が満ちあふれ、神の栄光となるのである」と言っています。

皆さんの直面している問題はなんでしょうか・・・。「患難があり、途方にくれることがあり、迫害があり、倒される」ような問題かも知れません。しかし、どんなことがあっても「窮しない、行き詰まらない、見捨てられない、滅びない」という約束があることを信じて祈りましょう。

また神様は言われます、「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしを崇めるであろう」(詩篇50:15)。キリストの御名によって祈って行きましょう。多くの方々が携帯電話をもっています。すぐ通じて便利ですが、時々圏外があって通じなくなる、相手が携帯をもっていなくて通じない、非通知拒否、電池切れがある、携帯を見ないままでいる、うっかりして水に落としたら壊れてしまったなどのトラブルがあります。私たちが神様に電話する時は「イエス様」という名前を呼べば、神様には話中がなく、圏外もなく、いつでも聴いて下さいます。



2、私たちの内なる人は日ごとに新しくされて行く。7:16-18

だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされて行く。このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである。(16-18節)

私たちの外なる人は滅びて行き、衰えて行きます。私は神学校を卒業して、27歳で伝道者としてスタートしました。その頃、戦争中の苦しい時代を通り抜けてきた多くの先生方が伝道の第一線に立っていました。50代から70代位の年代の先生から見れば、伝道者になりたての私などはひよこのように小さく、力なく見えたことと思います。一方、私のほうから見れば、年配の先生方は筋金入りの信仰をもっているように見えて、いろいろな先生方に教えを請うたことを思い出します。しかし、それらの先生方の多くは天国に帰って行きました。私の直接知っていた先生方のことを思い出して見ましたら、すぐに20名ほどの顔が思い浮かびました。たしかに土の器である私たちの外なる人が滅びて行くのは本当のことです。私も年を重ねています。神学校分校で教えていますが、生徒から見れば、相当の年齢の牧師だと思われているはずです。たしかに体力は衰え、物忘れが多くなり、外なる人の衰えを感じます。そういう私にとって、「内なる人は日ごとに新しくされて行く」というのは希望の言葉です。

キリストは、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。それを聞いた年配のニコデモは「人は年をとってから生まれることがどうしてできますか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか」と問い返しています。するとキリストは、「よくよくあなたに言っておく。だれでも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」と答えています(ヨハネ3:1-6)。キリストが言われたのは、罪を悔改めて、キリストを信じ、罪を赦していただき、心の生まれ変わりを体験することであり、それは聖霊の働きによるものです。私たちの心はキリストを信じて生まれ変わり、永遠の命を与えられています。私たちはキリストを信じて、もう滅びることがなく、日々キリストの命によって生かされている者であることを感謝します。

キリストを宿す内なる人は、昨日も今日もいつまでも変わらないキリストの命を受けて日ごとに新しくされ、生きる力を与えられ続けて行きます。キリストの命を宿しているので、患難に遭遇しても、それに耐えて行く力が与えられます。また見えるものは果敢なく消えて行くことを知ることができるようになります。もちろん見えるものの全てが無価値ということではありません。ただ私たちは見えるものに、あまりにも心が向きすぎてしまって(例・お金、土地、家、自分を飾るものなど)、目には見えないけれど大切なものに目が向かなくなってしまっています。クリスチャンは神様、キリスト、天国、復活、永遠の命などに目を注ぎます。「目を注ぐ」というのは、「じっと見る」ことです。あれもこれも欲しいと言ってこの世のものに目を向けたり、神様のほうに目を向けたりというのではないのです。この世のものに心を奪われることなく、見えないものにじっと心の目を注ぐことです。

Aさんという娘さんの証しです。両親が熱心なクリスチャンで、遠いブラジルに伝道者として出かけて行きました。Aさんは両親に反発し、家を出て自分のやりたいことをやりたいとアメリカに渡り、音楽の学びをしていました。でもこのままではいけないと思い、帰国の準備をしていました。するとブラジルで伝道旅行に出かけた両親の乗っていたバスが正面衝突の事故を起こし、一瞬のうちに両親は天に召されたという知らせが飛び込んで来ました。頭が真っ白になりながら、アメリカからブラジルに直行し、両親の顔をみた時、「私たちの信仰を生きてほしい」という声が心に響いてきました。現地の人々から、両親がポルトガル語を習い、一生懸命に伝道していたことを聞かされました。しかし、ショックで眠れない夜が続き、不眠の原因は遺体の損傷が激しかった母の顔が思い出されてならなかったからです。ある日、両親の夢を見たのですが、ふたりとも天国で輝いていました。Aさんは思います・・・「私の両親は伝道旅行の中で事故に会い、天に召されて行った。人間的に考えれば不条理であり、神様の愛を疑いたくなるようなことであった。だが、何かいいことがあれば、神様は愛であるというのでは単なるご利益信仰である。神様は愛だから愛である。私はそう信じる」。Aさんは土の器の中にキリストを信じるという宝を宿し、試練に打ち勝って、両親の歩んだ伝道の道へ献身して、良き配偶者を与えられて伝道者として生きています。Aさんの目がキリストに向いた時に、両親の事故死という患難を乗り越えることができて、目には見えませんが、キリストと両親がいる永遠の天国を仰ぎ見て、日々を新しく生きています。



まとめ

1、4:7-15、私たちは土の器のような、脆く弱い者ですが、キリストを心に迎えて、永遠の命を豊かに与えられ、生かされている者であることを感謝します。キリストが心にいて下さるので、患難が襲ってくるような時、途方にくれるような問題の時、迫害があっても、倒されるようなことがあったとしても、それに負けないで行く力が与えられます。今、この時に、主イエス・キリストの御名によって祈り、勝利と解決の道へと進んで行きましょう。

2、4:16-18、私たちの外なる人は滅びますが、内なる人はキリストを宿して日々に新しくされて生きることができます。肉の目では見えませんが、しかし確実に実在するキリストのおられる、また先に天に召された方々がいる天国を、私たちはじっと見ているでしょうか。



*聖歌584番(旧聖歌560番)「心にあるこの安きを」を讃美し、お祈りを捧げます



祈 り  天地の主である神様、独り子であるイエス・キリストの救いに感謝します。私たちは脆い土の器ですが、神様の測り知れない力によって、キリストを心に宿す恵みを受けていることを感謝します。困難、試練が襲ってきても、それらに打ち勝つ力を与えられ、感謝を捧げる者として守られ、導かれて行くことを信じます。この世のものに目を注ぐのではなく、生けるキリストに目を向け、天国に望みをおいて、日々新しく生きる者として下さい。水曜日の朝・夜の祈り会に出席するように導いて下さい。土曜日の上野公園ホームレス伝道を祝福して下さい。12月20日クリスマス礼拝で3名の受洗者がいることを感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:コリント注解―黒崎、福田、バークレー、フランシスコ会、文語略註、藤田、佐藤、現代訳コリント、口語略解、LABN。  「信仰誌より」