神われらと共にいます(インマヌエル) マタイ1:18-25     主の2009.11.29アドベント第一礼拝

高校で同じクラスにN君がいました。彼に、「毎週日曜日、教会に行っているよ」と言うと、「俺も行くよ」ということで一緒に礼拝に行きました。私が誘うと礼拝に出席していましたが、卒業後はお互いの家が遠いので、今のように携帯電話もない時代でしたので、何となく行き来が途絶えた形になってしまいました。高校卒業後3年ぐらい経ってから、N君が自殺したという知らせを受け取り、ビックリしました。遺品は一冊のノートのみで、その中に、「淋しい」、「渡辺君と教会に行ったことがあり、楽しかった」というようなことが断片的に記されていたそうです。自殺の本当の原因は分かりませんが、友達に恵まれず、引きこもりがちになり、話し相手がいなかったようです。この痛ましい出来事から、人間は誰とも話をせず、交わりを絶たれたら、ひとりでは生きられないとうことを知らされました。私たちは救いを受け、毎週神様を礼拝し、兄弟姉妹との交わりがあります。私たちは孤独に陥ることなく、主の恵みを受け、互いに祈り合うことによって支えられていることを感謝します。
本日はマタイ1:18-25です。23節に「インマヌエル・神われらと共にいます」とあります。人は孤独では生きて行けませんが、愛の神様は私たちを独りぼっちにせず、私たちと共にいて下さいます。私たちの救主イエス・キリストは、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児とはしない」(ヨハネ14:18)と約束され、「世の終わりまで共にいて下さる」(マタイ28:20)生きている救主です。
教会暦では、きょうからアドベント(到来の意)に入ります。四週間後のクリスマスのために祈り、備えて行く大切な期間です。季節は寒くなって行きますが、世界の救主イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスを通して、全ての人の心がキリストの愛によって温められて行くように祈って行きましょう。今朝も、主のメッセージを聴き、祈って、アドベント第一週へと出発いたしましょう。


内容区分
1、イエス・キリストは、天の御国からからやって来られた救主である。1:18-21
2、イエス・キリストは、私たちと共にいて下さる救主である。1:22-25
資料問題
18節「聖霊によって身重になった」、神の子キリストが人間として誕生することは、空前絶後の事実であり、それ故に神の超自然的方法が取られた(ルカ1:26以下を見よ)。アダムの子孫は全てアダムの性質を受けて罪人である。罪人を救うために、アダムの子孫ではあるが、アダムの罪を受けない者が誕生しなければならないので、聖霊によって全く新しい人として生まれたのである。それ故にキリストは『女のすえ』(創世記3:15)であるが罪とは無縁である。しかし、人として生まれたので『我らの弱さを思い遣ることのできる人』(へブル4:5)なのである。19節「夫ヨセフは正しい人であったので・・・ひそかに離縁しようと決心した」、婚約は結婚と同じくらい重要なことで、およそ一年の婚約期間を経て結婚をし、結婚後に夫婦生活が営まれる。マリヤは婚約期間に妊娠したので、この事を公にすればマリヤは姦淫罪に問われ、石で打ち殺される(申命記22:20,21)。これを行わなかった寛容の態度と、このような女性をそのままに娶ることをしなかった点とがヨセフの正しさであった。21節「イエス」、へブル語のヨシュアに相当する名で「主は救いなり」の意。23節はイザヤ7:14よりの引用。

1、イエス・キリストは、天の御国からやって来られた救主である。1:18-21

彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使いが夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼(イエス)は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。(20-21節)

キリストがこの世においでになるためには、神様の大きな計画がありました。最初の人間アダムが神様の戒めを破ってから、人間は神様に背く罪人になってしまいました。人間が罪人になった時に、神様は人間を救うために救主を遣わすという約束をされました(創世記3:15を見よ)。何故なら神様は愛の神様であるからです。罪を犯した人間を見捨てないで、神様のほうから救主を送り、罪の赦しの道を開かれ、誰でも神の子になれるという救いの計画を押し進めて下さいました。まず神様はアブラハムを選び、その子孫がイスラエル民族になり、その中から救主が生まれるように歴史を導かれました。アバラハムから4000年の時代を経て、遂に全ての準備が整い、今から2009年前のクリスマスの日に、救主イエス・キリストがユダヤのベツレヘムの馬小屋に誕生されたのです。

本日の聖書個所はキリストが誕生する直前の出来事です。まず1:18-21を通して、主の恵みをみてまいりましょう。

第一に、神様が人間の救いを計画し、その計画を導いておられます。

最初の人間であるアダムの子孫が地上に増えて行きましたが、神様に背いている罪のために、ノアの洪水、バベルの塔の大事件がありました(創世記3-11章)。聖書の示すまことの神様は愛の神様です。どんなことがあっても、罪深い人間を見捨てないで、今から6000年ほど前に、アブラハムを選び、その子孫の中より、救主を遣わすということを計画され、それを実現なさったのです。

本日の個所の直前、マタイ1:1-17にはアブラハムからキリストに至る4000年の歴史が要約されています。キリストは突然に現れたのではなく、旧約聖書の中で繰り返しキリストの来られることが預言されています。例えば、キリストが女のすえ(子孫)として誕生されること(創世記3:15、キリストの誕生の何千年も前の預言)、ユダヤのベツレヘムで誕生すること(ミカ5:2キリスト誕生の700年以上前の預言)、キリストは罪のないお方として処女マリヤから生まれること(イザヤ7:14、キリスト誕生の700年以上前の預言)、そしてキリストが十字架にかかることが預言されています(イザヤ53章)。

第二に、神様はキリスト誕生のために、御言葉に従うふつうの人を用いています。

ヨセフは由緒あるダビデの家系につながる者ですが、彼は貧しい大工であり、マリヤはふつうの若い娘さんです。この名もなき二人がキリスト誕生という大役を担うことになったのです。何故か理由は分かりませんが、神様は彼らの信仰に目を留めていたと思われます。ヨセフとマリヤのことを考えて見ると、二人とも常に神様の御言葉に従っています。マリヤはルカ福音書1:26以下で、天使ガブリエルを通して、自分が聖霊によって神の子を宿し、出産するという大切な務めを告げられた時に、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1:38)と答えています。婚約中の女性が妊娠ということになれば、石打の刑によって殺されるという戒めがあるのに、自分の命の危険をも顧みずに、マリヤは神様の御言葉に従い、神の子キリストの誕生のために自分を捧げています。ヨセフは、婚約者マリヤの妊娠を知り、思い悩んでいましたが、夢の中で主の使いの知らせを聴いて、すぐにマリヤを妻として迎え入れています。ヨセフの言葉は記されていませんが、24節を見ると、主の使いが命じたとおりに、マリヤを妻として迎え、神様の御言葉どおりに行動しています。二人の人生の基準は神様の御言葉に従うということでした。彼らは小さい時から、親から口伝えに御言葉を聴き、それを暗誦して心に刻み、その御言葉に従って人生を歩んでいました。

関東分校の生徒が証しをしました。父親が急死し、いろいろな面でお金が必要になった。母も自分もお金がない。困ってしまった。親戚に相談したら、何人かの者がお金を工面しようと言ってくれた。助かったと思ったが、自分の心に平安がない。その時に、あまりにも切羽詰って、慌ててしまい、主にお祈りをしていなかったことに気づいた。お祈りをした。すると「あなたの神、主なるわたしはあなたの右の手をとってあなたに言う、『恐れてはならない、わたしはあなたを助ける』」(イザヤ41:13)という御言葉が心に思い浮かんだ。そして平安が与えられ、やがてお金の問題は人に迷惑をかけずに解決したということです。詩人はうたっています、「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」(詩篇119:105)。

第三に、誕生されるキリストの使命が明確に伝えられています。

20-21節に、誕生されるキリストについて神様のメッセージがあります。「聖霊によってマリヤを通して誕生する子供は男である。名前はイエス(神は救い)である。誕生する子供は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となる」と言われています。現代は出産前に男女の性別を判断することはできますが、男女を産み分けることはできません。男の子が産まれるというのは、マリヤが聖霊によって身重になった印です。キリストの生まれる目的は「おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」と告げられています。昔、人は罪を犯すと、自分の罪の身代りに動物を殺して捧げ、神様の赦しを受けていました。そのことを、聖書は「血を流すことなしには、罪の赦しはあり得ない」(ヘブル9:22)と述べています。キリストは私たちをもろもろの罪から救うために、ご自分が罪の身代りになって十字架にかかるために、この世に来られたのです。キリストは十字架で血を流して、私たちの救いの道を開かれたのです。クリスマスは華やかな、楽しい時ですが、キリストが十字架にかかるために、この世に誕生されたことを忘れないようにしなければなりません。

使徒パウロはキリストがこの世に来られた目的を次のように的確に述べています。



「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受け入れるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである」(Ⅰテモテ1:15)。



先週は聖餐式が行われました。裂かれたパンを食し、ブドウの杯を飲んだ時に、「イエス様は私のために十字架で死んで下さった」という実感が心に込み上げてきました。まもなくクリスマスがやって来ますが、クリスマスこそイエス様の十字架の救いを伝える絶好の機会であるということを思いました。クリスマス祝会には150名ほどの申し込みがあり、これからもっともっと人数が増えると思います。集まる全ての方々が、クリマスメッセージを通してキリストがまことの救主であることを知り、信じて救われる時となるように、皆で祈って備えて参りましょう。



2、イエス・キリストは、私たちと共にいて下さる救主である。1:22-25

すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。(22-23節)

この個所に「インマヌエル」という言葉があり、それは「神われらと共にいます」という意味であると言われています。この御言葉から教えられる恵みを見て行きましょう。

第一に、キリストは私たちの所に近づいてきて下さった救主です。

聖書の示す神様は遠く離れた、近づき難い所にいる神様ではありません。どこにいても神様に会うことができて、私たちに救いを下さる愛の神様です。世の宗教は、そこに行かなければ神々に会えないという特定の場所などの決まりがあります。例えば、インドのヒンズー教ではガンジス河に行き、そこで身を洗うということを通して神々に会い、輪廻転生を信じ、来世にはもっと良いものに生まれ変わりたいという事を祈願します。広いインドの各地から人々はガンジス河に向かいます。イスラム教徒の願いは、一生に一度はメッカにあるカーバ神殿に行き、その祭壇の東側に取り付けてある黒石に触れ、口ずけすることです。彼らはメッカに向かって1日5回祈りを捧げています。日本の仏教では高野山、比叡山などがあります。神道では伊勢神宮に詣でます。新興宗教は富士山、天理市などにお参りに行きます。この近辺では北本に解脱会があります。様々な宗教はそこに行かなければ、本当のご利益はないということを主張しています。

聖書の神様は違います。ご自分から人間のほうに近づいて来られます。旧約聖書の時代には預言者を通して、神様の御心が伝えられました。この終わりの時代には、キリストが天からこの地上にやって来て下さいました。そして私たちに人間の救いについて、全てを明らかに語って下さいました。キリストは教えを語ってくださったばかりではなく、人間の罪の救いときよめのために十字架にかかり、私たちに救いを与えて下さったのです(ヘブル1:1-4)。

私たちに近づいて来られたキリストを信じれば、誰でも救われます。私は誰もいない部屋の隅で、罪を悔改めて祈り、キリストを心にお迎えしました。ある方は、刑務所の独房の中でキリストを心に迎えて、クリスチャンになる恵みを与えられました。昨日上野公園ホームレス伝道に行って来ました。皆さんのお祈りと共におにぎりなどの愛の捧げ物に感謝します。集会の中で比留間牧師が証ししていましたが、2週間ほど前にひとりの男性がトポス教会にやって来ました。信仰の導きを受け、教会に寝泊りさせてもらい、三度の食事をいただき、救われたクリスチャンの生活を見て、この男性はキリストを信じる信仰の表れとして、昨晩洗礼を受けると言っていました。私は病床でキリストを信じ、心に迎える人を何人も見てきました。私が北海道に行った時、ある社長さんは社長室でキリストを心に迎え、社長室がキリストの恵みに満ちあふれ、感謝したことがあります。キリストは私たちの心に住み、いつまでも私たちと共にいて下さる救主です。

第二に、キリストは共にいて、私たちを見捨てない救主です。

Aさんは小学生の時に、長崎で被爆し、父は行方不明、母は被爆して1年の後に亡くなって行きました。親戚に引き取られ、キリスト教主義の高校に入った時に、被爆症状が表れ、高熱、髪は抜け落ち、下痢、口内出血が続きました。もう死ぬかと思いましたが、行方不明になった父が「しっかり生きろ」と言っているような気がして、助かります。その時に、キリストが父の声を通して語りかけ、助けてくれたのであると信じて、教会に導かれ、キリストを心に迎えて洗礼を受けます。結婚し、子供を与えられたのですが、子供の目に異常が見つかった。子供を抱えて、開かれていた集会に行った時に、講師の先生が息子を抱き上げ、目に手を置いて祈ってくれた。そしたら息子の目の異常が癒されたのです。Aさんは、「講師の先生を通して、キリストが私たち親子に近づいて下さったのだ。キリストはインマヌエル、神われらと共にいます神である」ことを体験し、今も日々キリストを慕う信仰生活に励んでいます。

第三に、キリストはあなたを助ける救主です。

神様は愛の神様です。キリストは神様を表すために来られて、私たちの罪の赦しのために十字架に命を捧げましたが、三日後に復活されて、私たちと共にいて下さるインマヌエルの救主です。

*今朝、あなたの問題はなんでしょうか。神様は無から有を生じる力ある神様です。キリストを心に迎えている方々は感謝を捧げましょう。救いを得たい方はキリストを心にお迎えしましょう。キリストを信じている方々は一日も早く洗礼を受けて信仰の旗印をハッキリすることが大切です。中途半端でいては、祈りにも確信が伴いません。病気のこと、経済のこと、家族の救いのこと、仕事のことなどがあるかも知れません。キリストは「インマヌエル・神われらと共にいます」という救いの神様です。キリストが私たちを助けて下さることを信じて祈りましょう。



まとめ

1、1:18-21、キリストは、天から来られた私たちの救主です。人を罪から救い出すために、ご自分の命を十字架に捧げるために、この世に来られた救主です。クリスマスのお祝いの中で、キリストが天から来られた救主であることを感謝し、キリストを伝えて行きましょう。

2、1:22-25、キリストは、私たちと共にいて下さる救主です。遠く離れた所にいる神ではなく、私たちに近づき、私たちの心の中に住んで下さる、生きて救主です。あなたの祈りは届いて行きます。キリストの御名によって祈りましょう。



祈 り

創造主である神様、独り子イエス・キリストの救いの恵みに感謝します。間もなくクリスマスですが、私たちの家族、友人、知り合いにキリストの救いが与えられて行くように心からお祈りします。キリストは「インマヌエル・神われらと共にいます」という恵みの救主であることを感謝します。イエス・キリストの御名によって祈る時に、私たちが願う救い・癒し・経済・仕事など全ての事柄に適切な答えと導きとがあることを信じます。12月20日クリスマス礼拝・洗礼式、親子クリスマス、クリスマス夕拝、23日クリスマス祝会を豊かな恵みを持って導いて下さい。主よ、特に病気と戦っている方々に平安と癒しを与えて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。



参考文献:マタイ注解―フランシスコ会、黒崎、米田、バークレー、文語新約略註、口語新約略解、LABN、織田、尾山。 「世界宗教事典・教文館」、「信仰誌より」。